第2話 ふたつの顔の先に ― 私だけの決断
見た目は癒し系、性格は控えめ。
オフィスでは「地味で優しいお嬢様」と呼ばれることもある。
――でも、通帳には“億”の数字が並んでいる。
朝の通勤電車。
肩が触れ合うほどの混雑の中、南野結衣は静かに吊革を握っていた。
都内の企業に勤める、どこにでもいるような若手社員。
地味なスーツに控えめな化粧、小ぶりなバッグ――誰の目にも平凡に映る。
けれど、彼女には誰にも言えない“もう一つの顔”があった。
(家族の資産、運用、将来設計……そんなことを考えてる若手社員なんて、あまりいないよね)
大学卒業の春、祖父母の死と遺産の分割。
駅前再開発の波に乗った土地売却で、思いがけず巨額の資金が家族に舞い込んだ。
相続人の一人としての責任。
若き資産管理者としての覚悟。
――それらを、彼女は今もひとり静かに抱えている。
都心の駅に着くと、波のような人の流れに押されながら改札を抜ける。
オフィスビルへと急ぐ人々の中に、結衣の姿は自然と溶け込んでいった。
“普通の社員”として、今日もまた、誰にも気づかれないまま一日が始まる。
***
東都リアルティ営業企画部。
結衣が配属されて一年が経つ。
最初は右も左も分からなかったが、最近はデータの傾向も読めるようになり、仕事にもリズムが出てきた。
「南野さん、明日までに追加のグラフもお願いできる?」
小松原課長の声に、結衣はすぐ顔を上げた。
「はい、ちょうど作り直そうと思っていたところです」
控えめながらも手際よく対応する結衣の姿は、社内でも一目置かれている。
だがそれは、“優秀”というより“丁寧で安心感がある”という評価だ。
そこへ、後輩の芽衣が資料の束を抱えてやってきた。
「南野さん、会議室のセッティング、一緒にお願いできますか?」
「もちろん。資料の印刷は私がやるから、ホワイトボードの準備お願いね」
自然に分担しながら準備を進める二人の様子は、社内でも微笑ましいと評判だ。
「南野ー!さっきの見積もり、条件通ったから確認だけお願い!」
慌てて飛び込んできたのは同期の野間。
「わかった、すぐ見るね。修正はもう済んでる?」
「ばっちり!でもダブルチェック頼む!」
笑顔で返す結衣。その背中に、野間は一瞬だけ首をかしげる。
(やっぱり南野って、ただ者じゃない気がするんだよな……)
けれど、そうした感覚は言葉にされることなく、日常に溶けていく。
***
昼休み。社内カフェテリア。
美月が隣に腰を下ろすと、開口一番こう言った。
「ねえ結衣、いまうちがやってる再開発の件ってどうなってるの?」
「現場はかなり動いてるみたい。資料まとまったら社内チャットで回すね」
「ほんと表では控えめだけど、根回しとかスムーズだよね。
そういうとこ、育ちの良さが出てるんだろうなー」
冗談めかして笑う美月に、結衣は少し困ったような笑みを浮かべた。
(“育ち”……そう見えるのか)
確かに実家は土地を持っていた。
けれどそれが「自分の力」ではないことを、結衣は誰よりも自覚している。
午後の会議。
外部クライアントとのWebミーティングでは、結衣は発言のタイミングをうかがいながら、チャットで資料を提示する。
相手の求める資料を先回りして提示する。
話が逸れそうになったら、関連データで引き戻す。
――目立たないが、確実に成果につながる動きだ。
それでも、“主役”にはなれない。
いや、あえてなっていないのかもしれない。
夕方。部長が全体会議で言う。
「来期の戦略には、若手の声も積極的に取り入れたいと思っています」
周囲の若手社員がちらほらと発言する中、結衣は手元のメモを指でなぞった。
(本当は言いたいこともあるけれど……目立つと、何かがズレてしまう気がする)
けっきょく、黙ったまま会議は終了した。
***
夜。実家のリビング。
家族の会話は、次のステップへと進んでいた。
「司法書士さん、来週には案出してくれるって」
父が資料をテーブルに広げ、兄の拓真がうなずく。
「このまとまった資金をどう管理するかは考えないとな」
その言葉に、結衣は静かに頷き、テーブルの端に置いていたノートPCを手に取った。
父と兄の議論が続く横で、結衣は無言のままキーボードを叩き始める。
開いているのは行政書士のページ、法務局の手引き、銀行口座開設ガイド。
さらに税制比較、資産保全スキーム、法人格による相続評価の変化――
“マイクロ法人 設立方法”
“資産法人 メリット デメリット”
“特定資産 法人化 管理コスト 節税効果”
立て続けに開かれるタブは、瞬く間に数十を超えた。
情報は脳内で並び替えられ、表形式で要点が再構成されていく。
Excel、会計ソフト、地図アプリ、比較サイト――ページ間の移動は一切迷いがない。
(なるほど……登録免許税は課税標準×0.7%。けど相続税評価額との兼ね合いがあるから……)
家族には、その指が何をしているか分からない。
ただひとり、沈黙の中で異質な“何か”が動いていた。
「私は、“未来の自分たちが後悔しない方”を選びたい。どっちにしても、“なんとなく現状維持”だけはやめようって思う」
口ではそう語りながらも――
頭の中では、すでに「法人化による資産管理の優位性」を証明するためのパワポ草案が半分出来上がっていた。
その思考は、冷静で精緻。
まるで経験豊富な事業承継コンサルのようで、けれど彼女はまだ二十代のOLだ。
(本当は昔から得意だった。情報を集めて、構造を見抜いて、判断すること――でも、これまでの人生じゃ“必要とされなかった”だけ)
今――その力を必要とする現実が目の前に現れた。
巨額の資産という“火種”が灯り、
眠っていた怪物が目を覚ます。
その夜、結衣は初めて確信した。
これは、偶然なんかじゃない。
「これが、私に与えられた問いなんだと思う」
PCの画面に表示された“法人設立freee”のバナーが、まるで誘うように瞬いた。
***
翌日。職場での昼休み。
野間が言った。
「南野、最近ちょっと雰囲気変わったよな。なんかこう、決意してる感じ?」
「家のことで考えることが増えただけだよ」
「噂になってるぞ?癒し系のくせに、やたら頼りになるって」
その言葉に、結衣は小さく笑った。
その夜ついに、PC画面に「ライトブルーファンド合同会社 設立フォーム」の文字が表示される。
結衣の指先が、わずかに震える。
でも、もう迷いはなかった。
「この小さな一歩が、未来を変えるかもしれない」
会社員・南野結衣としての顔の奥に、資産運用の責任者、そして“何かを始める者”としての覚悟が芽生えていた。
夜の静寂の中で、クリック音が響く。
“ライトブルーファンド合同会社”――
その名前が、未来に向けて静かに歩き始めた瞬間だった。