二
防衛省地下三階の廊下は、深夜でも人の気配が絶えることはなかった。
佐々木課長は防音処理された会議室に入ると、既に五人の男女が待機していることに気付いた。海上自衛隊の制服組が二名、技術研究本部から二名、そして内局から一名。全員が、通常の報告ルートとは異なる形で召集された精鋭たちだ。
「田村君の発見した異常信号について、詳細な分析結果が出ました」
スクリーンに最新のデータが映し出される。
「信号の発信位置は、この海域」光点が示す場所を、海自の一佐が凝視する。「水深120メートルから、72時間周期で発信されています」
「通信内容は?」情報本部の分析官が身を乗り出す。
「暗号化されています。しかし...」佐々木は一瞬言葉を切った。「パターンから判断して、周辺海域の音響データと、艦船の動静情報を含んでいる可能性が高い」
室内の空気が凍り付く。
「既に三ヶ月以上、発信が継続している」技術研究本部の上席研究官が眉をひそめる。「なぜ今まで気付かなかった?」
「暗号化の手法が巧妙でした」佐々木は資料をめくる。「通常のノイズと区別がつかない。田村君が新しい解析アルゴリズムを試していなければ、発見は更に遅れていた可能性があります」
「回収は?」
「危険です」海自の一佐が即座に反応する。「相手も監視しているはずです。我々の動きが探知されれば、更なる事態の悪化を招く」
「では、このまま放置するのか?」
「いいえ」佐々木は静かに答えた。「既に、対抗策を準備しています」
***
同じ頃、那覇海上保安部の巡視船「はまゆき」は、日常的な警戒監視業務を続けていた。
「水温18.2度、風速3メートル、波高0.5メートル」
当直の古賀航海士が、淡々とデータを記録していく。夜間の海域は静かだった。時折、漁船のエンジン音が遠くに聞こえる程度。
「レーダー上、特に異常なし」
しかし、古賀は何か引っかかるものを感じていた。二十年の経験が、普段と違う何かを告げている。それが何なのか、まだ特定はできない。
「古賀さん」
後ろから声をかけられ、振り返る。当直司令の山本だった。
「はい」
「気になることは?」
さすが山本だ。古賀の違和感に気付いていた。
「はい...」古賀は言葉を選ぶ。「漁船の数が、いつもより少ない気がします」
山本は黙ってレーダースコープを覗き込む。確かに、この時期としては漁船の数が少なかった。
「彼らの方が、敏感なのかもしれませんね」
山本の言葉に、古賀は何も答えなかった。ベテラン漁師たちは、時として海上保安官よりも優れたセンスを持っている。彼らが漁場を避けているとすれば、それなりの理由があるはずだ。
「監視を強化します」
古賀は双眼鏡を手に取った。夜目が利く彼の目は、わずかな異常も見逃さない。
その時、通信機が小さな音を立てた。
「はまゆき、はまゆき。那覇海上保安部です」
山本が受信機を手に取る。
「はまゆき、こちら」
「現在位置で、特別警戒態勢を発令。詳細は暗号チャンネルで送信します」
山本と古賀は顔を見合わせた。特別警戒態勢。それは、普段は発令されない命令だった。
「了解、那覇海上保安部」
山本が通信を切ると、暗号解読機が静かに作動を始めた。
「古賀さん」
「はい」
「私たちの勘は、当たっていたようですね」
古賀は黙って頷いた。夜明けまでまだ時間がある。その間に、何が起こるのか。あるいは、何も起こらないのか。
巡視船「はまゆき」は、静かな海域で警戒を続けていた。
(続く)