一
潜航深度百二十メートル。海中を進む物体は、ほとんど音を立てていなかった。
夏の深夜、波静かな東シナ海の海底で、一隻の小型潜航艇が慎重に進路を取っていた。艇体の表面には特殊な音波吸収材が施され、通常のソナーでは探知が困難な設計となっている。
艇内では二名の作業員が無言で作業を続けていた。モニターには数字だけが淡々と表示される。目標地点までの距離。水深。海流の状況。全ての情報が、数値として二人の間で共有されていた。
操縦担当の男性が三本の指を立てる。300メートル。相手は黙って頷き、装置の最終確認を開始した。
装置は直径45センチ、全長120センチ。チタン合金製の耐圧容器の中に、最新の観測機器が詰め込まれている。電源は特殊なリチウムイオン電池で、一年以上の稼働が可能だ。
モニター上の数字が減少していく。200メートル。100メートル。50メートル。
この海域は、日本の離島から程近い場所にある。平時には漁船が行き交い、時折、海上保安庁の巡視船が見回りを行う。しかし、百メートルを超える深度では、別の世界が広がっている。
助手が親指を立てる。全システム、準備完了のサイン。
計器が示す位置は、離島の港から真東に4キロ。水深122メートルの海底は、緩やかな傾斜を持つ砂地だった。艇は完全な低速で移動を続ける。
ロボットアームが静かに動き出す。装置は慎重に海底に降ろされ、自動的にアンカーを展開。砂地にしっかりと固定された。助手がモニターで各種センサーの起動を確認する。音響センサー、電磁波センサー、水質分析装置、そして最も重要な通信装置。全てが正常に機能していることを示す緑のランプが次々と点灯する。
青い光が一瞬、装置の表面で点滅する。起動シーケンスの完了を示すシグナル。
二人は無言で視線を交わす。任務完了。
潜航艇は慎重に方向を変え、来た道を引き返し始めた。彼らの背後で、装置は静かに稼働を開始する。それは、この海域で起こる全ての音響的、電磁的な変化を記録し、分析し、そして定期的に特定の周波数で情報を送信し始めるだろう。
その日から三ヶ月後。この装置の存在が、日本の安全保障体制に大きな影響を与えることになる。しかし、その時はまだ誰も知る由もなかった。
***
防衛省技術研究本部の一室で、田村美咲は画面に映し出されたデータを凝視していた。
「これは...」
彼女は思わず声を漏らす。表示されているのは、日本近海の音響解析データだ。通常、このような解析は潜水艦や不審船の動きを監視するために行われる。しかし、今彼女が見ているのは、それとは全く異なるパターンだった。
「田村さん」
声をかけられて振り返ると、上司の佐々木課長が立っていた。
「はい」
「例の件、どうですか?」
「課長、これを見てください」
田村は画面を指さす。そこには、過去一ヶ月の音響データが時系列で表示されている。
「この周波数帯、明らかに人工的なパターンを示しています」
佐々木は眉をひそめた。
「自然現象ではない?」
「はい。さらに、このパターンは特定の時間間隔で繰り返されています。まるで...」
「まるで?」
「まるで、誰かに向けて信号を送っているようです」
室内の空気が、一瞬凍りついたように感じられた。
「場所は?」
「離島の沖合です。水深120メートル付近からの信号です」
佐々木は黙って画面を見つめた。その表情からは、何かを決意したような色が浮かんでいた。
「田村さん」
「はい」
「このデータ、誰にも話していませんね?」
「はい、まだ誰にも」
「よし」佐々木は深くため息をつく。「上に報告します。あなたは引き続き解析を続けてください。特に、信号の送信先について」
「了解しました」
田村が再び画面に向き直ったとき、彼女の背後で佐々木が電話を取る音が聞こえた。静かな声で、ある番号を告げる。それは、通常の報告ルートとは異なる番号だった。
(続く)