プロローグ
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意識の覚醒は、いつも突然だ。
いくら気持ちよく惰眠をむさぼっていようと、素晴らしい夢を見ていようと、覚醒はいつだって唐突に訪れる。そう、そしてそれは今この時も例外ではなく____。
「あ...」
その起床は非常に目ざめの悪いものだった。例えるなら、自分の居場所がどこにもなくなったかのような、そんな最悪な気分。だが、直前まで見ていたであろう夢さえまともに思い出せない俺は、額に手を当てて呻くことしかできなかった。
「俺、は」
重い瞼をこじ開けると、まず最初に視界を覆ったのは爽やかな緑色。それが何らかの植物の葉であると気づくのにそれほど時間はかからなかった。俺は、木の幹にもたれかかるようにして寝ていたのだ。なぜこんなところで寝ていたのか、その理由は思い出せないが...。
状況を把握するために体を起こす。
「なんだ、これ...」
今の状況を知るための手がかりを求めて辺りを見回すが、目に入ってくるのはやはり緑色。そこには、見渡す限りの草原が広がっていた。無論、見覚えなどあるはずがない。なぜなら俺は____。
俺、は...?
「俺は、なんだ...?」
思考が混乱し、思わず勢い良く立ち上がった俺は、しかしながらバランスを崩して木の幹に手をついた。だだっ広い草原の中に一本だけたたずむこの樹木は、まさに今の俺を表しているようだった。
何も思い出せない。
脳内を支配するのはこの言葉だけ。ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか、そもそも自分は何者なのかさえ思い出せない。俺の記憶は理不尽に真っ白だった。
余りの混乱に、俺はいっそのこと二度寝をしてしまおうかと樹木の根元に座り込むが、理不尽な現実はそれすら許さなかった。
「あ...?」
視界をよぎる違和感。目の前の草原が不気味に揺れているのは決して気のせいではないだろう。俺は徐々に早くなる心臓の音を押さえつけ、必死に息を殺した。どのくらいそうしていただろうか。永遠にも思えるその静寂は、突如として破られた。
ヒュン、という何かが空気を切り裂くような音。それが聞こえたときにはもう遅かった。
「いッ」
下半身に違和感。そしてその違和感の正体は明白だった。俺の右足に、『何か』が突き刺さっていた。それは、槍でもなく矢でもなく____少なくとも既知の物体ではない。
「_____ッあ!!!!」
その『何か』が右足に刺さっているのを認識した直後、凄まじい痛みが思い出したかのように脳内を蹂躙し、俺は声にならない悲鳴をあげた。
痛い。痛い。痛い。
誰がやったのか。なぜこんなことをするのか。そんな思考はすべて痛みと恐怖に塗りつぶされる。俺は木の幹にへたり込みながら、ただただ理不尽な現実に耐えることしかできなかった。
「おい、どこにいる!」
「中央の木のとこだ! さっさとやっちまえ!」
「世界の破壊者に天罰を!!!」
「「「おお!!!!」」」
知らない声が脳を震わす。何を言っているのかまったくわからない。伝わってくるのは明確な殺意だけだ。まったく知らない人々から殺意を向けられているという事実に俺の思考は完全に恐怖で埋め尽くされる。痛覚に恐怖が勝ったのは幸か不幸か、ともかく俺は必死に身体を動かして逃走を図った。
「死にたく...ない...」
その気持ちだけを糧に足を動かす。草原を駆けずり、より木々が生い茂る方へと身を運ぶ。『何か』が刺さった足は酷く痛んだが、恐怖が俺の身体を無理やり動かした。
後ろを振り返っている余裕はない。木々を潜り抜け、ただひたすらに前へと進む。
どれくらいそうしていたのかもはや自分でもわからない。数時間走っていた気もするが、逆に数分程度の疾走だったとも思える。とにかく、気付いた時には俺は真っ暗な洞窟の中にいた。
「助かった...のか...?」
呟き、思わずその場にへたり込む。洞窟の中は暗く寒かったが、殺されるよりかは遥かにマシだ。
「ッ痛ぅ!」
安堵した途端、右足の痛みが俺を襲う。思えばここに逃げてくるまでにずいぶんと血を流した。
「くそ、本格的にやばいぞ...」
頭がくらくらする。右足が熱を帯びているのと反対に身体は酷い寒気を感じていた。そして次の瞬間、俺はとてつもない眠気に襲われ、瞼が重くなる。
血痕を辿って追手が来るのではないかとか、右足に刺さった『何か』はこのままでいいのかとか、そもそもここはどこで、自分は何者なのかとか。そんな面倒臭い疑問の数々を投げ出して、俺は無責任な深い眠りにつく。次に目覚めたとき、すべてが夢であったらどれだけ幸せだろうと、そんな儚い期待を胸に秘めながら。
「まったく___君はいつも___だな」
「まぁまぁ_____だったんだし___」
朦朧とする意識の中、頭に誰かの話し声が響く。
「何を___いるんだ、ロック」
「まさか。僕は至って___だよ」
話し声は徐々に鮮明になっていく。それはまるで覚醒を拒む子供を許さない目覚まし時計のアラームのようだった。起きたくないのに、反して意識がはっきりしてくるのを感じる。
「どうするつもりなんだ、この男?」
「なに。しばらくは僕の家で快適に過ごしてもらうさ」
話し声が完全に聞き取れるようになったのを感じ、俺は二度寝を諦めて重い瞼をこじ開けた。そしてそのまま上体を起こす。せめて、あの理不尽なできごとが夢であったなら____。
身体を起こしてまず視界に入ったのは二人の男だった。
一人は黒い装束に身を包み、背中に大剣を背負った男。フードのようなもので顔を覆っているため表情はよく見えない。
そしてもう一人は明らかに高貴な身分で金髪碧眼の男だった。白色ベースの礼服にはところどころ金色の刺繍が入っており、これが貴族でなければ何なのかとさえ言えるいでだちだ。
二人の男は向かい合う形で腰掛けに座っている。俺は今になって身体に伝わる揺れに気付いた。どうやらここは何らかの乗り物の中らしい。
彼らは俺が身を起こしたのを見て会話を止める。刹那の沈黙の後、貴族らしき男が話しかけてきた。
「やぁ、気が付いたかい。気分はどうかな」
「え____」
彼の言葉にどう返していいかわからず口ごもる。そして次の瞬間、俺の心中を抑えきれない警戒心が渦巻いた。記憶をなくして、見知らぬ人々に迫害されて、世界の理不尽に打ちのめされて、それでどうして目の前の男を信じられようか。
俺は思わず後ずさってしまった。この空間に逃げ道などないことはわかりきっているのに。
そんな俺の様子を見て、目の前の男は苦笑しながら言った。
「ずいぶんと嫌われちまったみたいだな、僕も」
「無理もないだろう」
大剣を背負った男が口を挟む。
「あれだけのことがあったのだ。疑り深くなることを誰が責められようか」
そう言って、男はフードを深く被り直した。相変わらず表情は見えない。
彼の言葉を受けた貴族の男はそれもそうか、と呟いて俺の方へと再び向き直る。
「まだ寝ていたまえ。馬車が僕の家に着くまでもう少し時間がかかる。自己紹介は、それからでも遅くないだろう」
俺を気遣う男の言葉は優しかった。記憶をなくしてからのできごとが散々だった分、その優しさはとても暖かく感じられ、少しだけ目が潤む。
いい年して_____いや、自分が何歳かはもちろん思い出せないのだが_____何を泣いているのか。俺は途端に恥ずかしくなり、二人の男から体ごと顔を背けた。
(...ん?)
俺はその時、今更ながらあることに気づいた。
「痛みが、ない」
先ほどまで俺を苦しめていた足の痛みがなくなっていた。体を動かしてもあの痛みは襲ってこない。慌てて右足を確認すると、やはり刺さっていた『何か』とともに傷が綺麗さっぱり消えていた。『何か』は右足に深く突き刺さっていたはずだが、なぜもう傷が完治しているのか_____。
そんな俺の心中を察したのか、貴族の男が再び口を開いた。
「あぁ、だいぶ苦しんでいたのでね。彼に頼んで治療してもらったよ」
男はそう言って、大剣を背負った男の方を顎でしゃくる。
「彼は見ての通り剣士なのだがね。意外にも治療魔法が得意なのだよ、諸君」
「お世辞はよしてくれ、ロック」
照れたようにフードを深くかぶる男だったが、一方の俺はそれどころではなかった。
(魔法...?)
魔法というと、あれか。ファンタジー世界特有のやつだ。逆に言えば、もちろん現実世界には存在しない。そのはずの魔法が、なぜさもあるかのように話されている...?
確かに右足の傷が完治しているのは本当に魔法のようではある。それに結局のところ、実際に俺はこの二人の男に助けられているではないか。
となれば、今真っ先にすべきは_____。
「ありがとう...ございます」
俺は二人に向き直って頭を下げた。完全に信用した、とはまだ流石に言えないけれど、二人に命を救われたのは事実。ならばまず伝えるべきは感謝だ。
二人の男は俺の感謝の言葉を聞いてしばらく黙っていた。が、それも一瞬。誰かが肩に触れるのを感じて、俺は顔を上げる。
「どうやら、自己紹介しても大丈夫そうだ」
目の前の貴族の男は、そう言うと俺に向かって手を差し出した。
「僕はロック・アーノルド。こっちの黒い彼はダルラ・タンブラーだ。よろしく頼むよ」
記憶を失って、散々な目に遭って、それでも何の因果か俺はまだ生きている。生きているのなら決して停滞は許されない。生きるとはそういうことなのだろうと俺は思う。
自分が何者なのかさえわからない。そもそも、ここが俺のいるべき世界かどうかもわからない。だからこそ、俺は何としてでも記憶を取り戻す。記憶を失ったまま自分がいていいのかさえわからない世界に甘んじるなんて、そんなのは停滞だ。
自己紹介すらまともにできない『正体不明』。俺はそんな自分を許せないから、戒めにこの名前を名乗ろうと思う。
「_____アンノです。よろしく」
名前は無いと困るだろう。記憶喪失の冒険譚は、まだ始まったばかりなのだから。