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紡ぐ客

作者: 物書きの端くれ


「昨日の話は、無かったことにして頂きたい」 

 彼は席に着くと、開口一番にそう言った。

「──はい、わかりました」 私は彼を真似てか、静かに返答した。


 店の中はいつものジャズが流れ、夜の店の雰囲気を保っている。私が地方都市の繁華街の片隅に自分の店を持ってからもう、八年が経とうとしていた。最初は経営が上手くいかず、店を畳んで実家に帰ろうと思ったことも一度や二度ではない。

 その都度自分を奮い立たせ、ローン返済の資料を見つめ、これを返すまではと思ったものだ。だけど、この場所に留まったのはそれだけが理由ではない。

 徐々に増えていった常連のお客様、彼らがいてくれたからだ。毎週決まった曜日に来てくれるお客様、毎月一度は来てくれるお客様、中にはこの地方都市に出張で訪れた際にだけ来てくれるお客様もいた。

 誰しもが私にとって大事な常連のお客様だった……。

 そんな彼らとの交流の中でも私にとって、店を続けられたことに感謝してもし切れないお客様がいる。

 彼が初めて私の店を訪れたのは店を開業して、1カ月が経った頃だった。


 店を開業した最初の一週間は物珍しさから寄ってくれるお客様と私の知人たちが祝いに訪れてくれていたことで、店は常に満席だった。

 一週間が過ぎ、知人たちが徐々に訪れなくなる。二週間が過ぎ、知人たちはもう来なくなる。三週間が過ぎる頃には、もう物珍しさも無くなってきたのか、興味本位で訪れるお客も少なくなっていた。そして、1カ月が経つ頃には閑古鳥が鳴く日が増えてきた。店の扉が全く開かない、その事実が何より怖かった。扉は店の顔、そう思い無理して購入したアンティーク調の黒い木製の扉を睨み続ける日々だった。


 何とかしなければ……、私は焦りを募らせていた。何に対する怒りなのか、意味もなく拳を握りしめる。

 そんな時、店の扉が開き、黒の細身のスーツに身を纏った背の高い男性が入店してきた。

「──い、いらっしゃいませ……」 私は慌てて拳を解き、笑顔を作る。ぎこちない挨拶だったと、我ながら情けなく思う。きっと人目からしてもおかしな行動だったに違いない。


 そんな私の奇行などどうでも良さげで、男性は表情一つ変えず真っすぐにカウンターへと歩いてくる。私が立っている目の前の席に座った。

「こちら、メニューです」 私の差し出したメニューを男性は黙って受け取り、静かに開いた。一通り眺めた後メニューを閉じ、私に返しながら男性は口を開いた。


「ハイランドパークの十二年をロックで」 男性の声は低く、聴いていて心地のいいバリトンボイスだった。男の私でも一瞬聞き惚れ、彼の顔を眺めてしまう。そんな声だった。

 そんな私の失礼な視線など気にしないどころか、私自身がいない、見えていないかのようで、彼は自分の世界を瞬時に築いているかのようだった。


「か、かしこまりました」 不自然な間が空いた後、私はようやく声を発し、差し出されていたメニューを受け取る。

 私は恥ずかしさのあまり、顔を赤くしながら準備に取り掛かる。冷凍庫から取り出した氷をアイスピックで削り始める。私はその繰り返す動作が好きだった。別の店で修業を積んだ日々を思い出しつつ、慣れ親しんだ動作で氷を削っていく。

 その作業が私に心の余裕を作ってくれていたのを自覚した。氷を削り終わるとロックグラスに入れ、ハイランドパークの十二年ものをゆっくりグラスに注ぐ。


「お待たせしました」 私は先にコースターを男性の前にセットし、それから出来上がった品を置いた。

 彼は静かにロックグラスに手を添えると、氷の音一つさせず琥珀色の液体を口に含んだ。その一連の動作は静謐で何か厳かな儀式なのではないかと私に感じさせた。

 ロックグラスをコースターの上に戻すと、いつのまにか彼は私を見つめていた。私は思わず息を呑む。彼は私を見つめたまま口を開いた。


「私は黒井、と言います」

「──え? あ、ああ、お名前。今夜はようこそいらっしゃっ……」

「実は先日、長年連れ添った妻と別れてしまいましてね」

「そ、それは……」

「癌でした。女性だけがなるという」 彼は私の反応を伺うこともせず、私からの言葉を待っているという素振りも無くただ淡々と自身の言葉を述べていった。

 それは、話を聞いて欲しいとか、同情して欲しい、悩みを聞いて欲しい等のものではなかった。そして私を見つめていると思っていた彼の視線は決して私を見ているわけではなかった。ただ前を見つめているのとも違う。彼にだけ見える、その空間を見つめているように私には思えて仕方がなかった。


 彼は亡くなったという妻との思い出をつらつらと述べ続けた。一度も私に感想を求めようとはしなかった。少し不気味だったのは話す彼の表情が一つも変わらないという点だった。

妻と初めて喧嘩したという悲しい思い出も二人で出かけてデートをしたという楽しい思い出も。全てが同じ表情だった。

 ただその話の内容は一つの物語を聴いているようだった。起承転結があり、まさに人、一人の人生を聴いたのだった。妻が生まれ、亡くなるまでの物語を。


 彼は妻が亡くなった時に傍にはいていられなかったことを話すと急に黙った。彼が話し終えたということを理解するのに私はしばらく時間がかかった。


「そう、だったのですね。とても素敵な方だったのですね」 私はそう話していた。事実、私は彼の話を聴いてそう感じていたのだった。

 私の口にした言葉に彼が何か反応をすることもなく。その後に彼の口から出た言葉は実に拍子抜けするものだった。


「お会計を」

「──え? あ、は、はい」 私は少し困惑しながら彼に金額を伝え、丁度の金額を彼から受け取る。

「ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております」 私は彼に頭を下げた。彼は私を一瞥もすることなく来た時と同じように静かに店から出て行った。

 彼が退店してから、しばらくして私の耳にBGMのジャズが流れ込んでくる。あれ? ずっと流れていたはずだよな、と私は頭を傾げた。


 次に彼が店を訪れてきたのは、その次の日だった。その日も他にお客はおらず、昨日と同じように真っすぐに私の前のカウンター席に座る。

 私はたった二回目の来店だというのに、また来てくれたという喜びに満ち溢れていた。彼は相変わらず静かで足音も、席に着く音も全くしなかった。昨日と違ったのはすぐに私に対して言葉を発したことだった。私ではない、目の前でもない、彼にだけ見えるその空間を見ながら彼は言った。

「昨日の話は、無かったことにして頂きたい」

「え⁈ そ、そんな……。も、もちろん私は別に誰にも話したりはしませんよ」 彼は誰かに話されることを嫌がってそんなことを言ったのだろうと私は思い、そう言った。だが、彼はそれきり何も言わず、私から受け取ったメニューを眺めていた。


 い、いったい、この人は何者なのだろうと私は考える。まったく何を考えているのかわからない。昨日の話では、二十代で結婚し三十年連れ添った妻と、話していた。そうなると年齢は五十代後半くらい? 職業は高校の理科の教師と話していた。

 わからない。外見からは彼の言った年齢に合うようにも見えるし、まだまだ若いようにも見え、それ以上年上の様にも見える。そんなことを考えていると、彼が心地のいいバリトンボイスで注文をした。


「ザ・マッカランの十二年をロックで」

「か、かしこまりました」 私は昨日と同じ要領で氷を削り、気持ちを落ち着きさせる。昨日はハイランドパークで今日はザ・マッカラン、か。スコッチが好きなのか。それともたまたまなのか。

「おまたせしました」 私は注文の品を作り終えると、彼の前に置く。

 彼はグラスに手を添え、氷の音一つさせず、琥珀色の液体を口に含んだのだった。その一連の動作に再び私は目を奪われる。ここまで美しく、ウイスキーを飲む人を私は初めて見た。

 彼はグラスをコースターの上に置くと、あの空間を見つめていた。


「私は佐々木、と言います」

「え? あ、あれ、昨日は確か、くろ……」

「実は、先週長年勤めていた会社をリストラさせられましてね」

「あ、ああ、え、はい」 私は自分が変なのかと疑う。でも、確かに、昨日は黒井と名乗っていたはずだ。

 私の慌てている様を気にすることも無く、自称、佐々木氏は話を続ける。

 そして、その日もリストラされた物語を彼は話しし終えたのだった。その日、佐々木氏は自身を三十代の元銀行員だと名乗った。

 いったい、何がどうなっているのか。私にはわからない。だが、彼はそれから毎日、お客がいなくなった束の間に店を訪れ、必ずウイスキーのロックを一杯だけ飲んでいく。銘柄はバラバラで毎晩異なる。きちんとお金を支払っていくため、他の客には知られていない真の常連客ということになる。彼が毎晩私の店に通ってくれたことで私には店が続けられるという安心感が生まれたのだ。

 もう一つ、毎晩私に話してくれる彼の誰かの物語。それを聴くのがいつの日からか楽しみになっていたのだろう。

 彼が最初に口にする言葉は必ず、「昨日の話は、無かったことにして頂きたい」だ。


 今夜も彼は現れ、誰の為なのか、何のためなのか、言葉を述べ、どこかの誰かの物語を紡いでゆく……。


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