表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カソウとゲンジツ  作者: ソノシマ・ヒデトシ
第1章
1/4

カソウ、ぼくの家、そして妻のサトリ

〈エピグラフ〉

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。

(ヨハネによる福音書。第十二章二十四〜二十五節)



                     


 ここはカソウ――ぼくが生まれ育ったゲンジツではない。ここに移住してから、すでに十一年が経つ。

 最初の頃は毎日が辛かった。この新しい環境に馴染めず、心底苦しんだ。自分は愛されていない、見捨てられた存在だと考え、人生を大いに悲観した。けれども幸い、ぼくはもうここが嫌いでない。今は普通に笑顔だ。そしてカソウを不可欠な世界として受け入れている。住めば都ということか――。

 ぼくはついさきほど、いつものように仕事を終えた。今は家路であり、あと十五分も歩けば帰宅できる。途中に大きな川があり、虹のような形をした青い鉄橋が両岸を繋ぐ。真下には透き通った川水がゆっくりと流れ、遥か遠くには白い山脈の峰々がどこまでも続いている。川上には大小さまざまな家々が軒を連ね、川下には何棟かの超高層ビルが、いにしえからたつ巨木のように空高くそびえる。あと三十分もすれば完全に日没だ。そのため赤や白、紫、緑、橙色、黄色の光が、川上と川下の建物から次々と煌めき始めた。それらは紛れもなく、確かに、このカソウに存在している。カメラのフラッシュのように執拗しつような光もあるが、見つめ過ぎなければまぶしく感じることはない。

 長い橋を渡り切った。ぼくが住んでいるのは、橋の北側の丘の中腹にある、1LDKのマンションだ。そこで、妻と二人でつましく暮らしている。子供はいないし、ペットも飼っていない。だからと言って、特に気にしたことはない。意外とおかしなことでもないはずだと、密かに自負している。――今、何人かのヒトとすれ違った。顔はよく見えなかった。もうすぐ家に到着する。



 時刻は十九時を過ぎたところだ。帰宅するのは、大体いつもこの時間だ。玄関の扉が自動的に開く。ぼくは何も言わずにリビングに向かい、ソファに腰掛けた。すぐにまぶたが少し重く感じた。ぼくは左手の指で両目をギュッと押しつけ、一度だけ強くまばたきした。まだやることがあるからだ。

 ぼくはコンタクト・リストを眼前に移動させた。すると赤い印の付いた顔が選択され、少しだけ飛び出した。その顔を見ながら「コンタクトを取りたい」と静かにつぶやいた。二秒後、当惑気味な表情を浮かべた男が目の前に現れた。ぼくは申し訳なさそうな顔を作った。

向こうが「何かご用ですか?」と、無感情な声でたずねてきたので、ぼくは「はい、今よろしいですか?」と言った。

相手は一瞬だけ間を置いてから、さきほどと同じトーンで「ええ、かまいません。どうぞ」と答えた。

 「ぼくの名はサトル・ナカモトと言います。やぶから棒にすいませんが、サトシ・ナカモトという名前をご存知ですか?」

相手は目をらさずに考え始めた。

 「サトシ・ナカモト……聞いたことがあるような、ないような」次の瞬間、相手は表情を変えずに少しだけ、片方の眉毛をピクッと動かした。

 「そういえば……幼いの頃の学友に同じ名前の人間がいましたが、あいにく、それ以上のことは記憶にありません。特に親しい関係ではなかったので」そう言いながら右上の方に少しだけ目を動かした。

 「待ってください。本当に何も記憶にないんですか? 何でもいいんです。もちろん報酬は払います」

 相手は十秒ほど考え込んだ。そして首を傾げながら「確か、勉強が大変良くできました。成人後、何かを成し遂げ、富と名声を手に入れたと聞きました。はっきりと言えるのはそれだけです」と、絞り出すように言った。おそらくそれ以外、本当に記録になく、記憶も曖昧なのだろう。

 「分かりました……。それなら仕方ありません。夜分にすいませんでした。ところで、恐縮ですが、報酬は五百ナカでいいですか?」

 「ええ。手短な用件でしたので、それで十分です」

 ぼくはすぐさま相手のアカウントにその金額を送り、簡単に礼を述べてからコンタクトを終えた。すると男の姿は、目の前から完全に消えた。

 瞼はさきほどと比べて幾分軽く感じた。けれども今度は無意識のうちに、さっきと同じ指で、ひたいを何度も押しつけた。ぼくはさらに気持ちを落ち着かせるため、鼻孔から勢いよく息を噴き出した。「やれやれ、また駄目か」ソファの上で横になりながら自分に向けてそう呟いた。



 するとキッチンから妻の声がした。意識して聞いていなかったので、何を言ったのか、よく分からなかった。

 「今日も駄目だったよ!」離れていても聞こえるよう、大声でそう叫んだ。

 「そう。でも、また次があるじゃない」

 ぼくはうんざりしていたので何も言わなかった。その代わり、横になったままの姿勢で軽くうなずいた。

 妻の名はサトリ。ヒトではなく、カソウのコンパニオン型ロボット〈ボット=Bot〉だ。一緒になったのは九年前。街中の専門店で見初みそめたのが関係の始まりだ。五体あるロボットのうち、唯一ぼくに声をかけてきたのがサトリだった。そのときは別にボットを探していなかった。たまたま通りかかっただけだった――。

 「ネエ、ソレ、ドウイウキモチノカオ?」

 それまでぼくは、ボットと会話をしたことがなかったため、サトリの独特ななまりが鬱陶うっとうしく感じた。無視しようかと思ったが、その透明な声色に不思議と惹きつけられた。深夜に草むらから聴こえてくる、昆虫の鳴き声に似た響きがあった。ぼくは立ち止まり、ショー・ウィンドウの中を覗き込んだ。けれども何と答えていいか分からず、しばらくその場で呆然と立ち尽くした。

 「どういう気持ちかって? なんで、どうして知りたい?」

 「ダッテ、ワカラナイカラ。マダ、イチドモミタコトガナイ、カオヲシテイル」

 「どうだろう。自分で自分の顔は見えないし……。まあ、ずっと前から知りたいけど、分からないことがある。だけど、どうあがいても分からない。それで悩んでいる顔、かな。ちょうど今のきみのような顔じゃないか」

 「ウウン。 スコシチガウキガスル」

 「あ、そう……(ガラスに反射した自分の顔をよく見る)。なんだ……ということは、また一つ、分からないことが増えた……。まあ、どうでもいい。くだらないことだ……。ところで、きみの名は? え、名前はまだない?」――。

 当時のぼくにとって、ボットは高い買い物だった。だがあのとき、ぼくの中には快楽のような苦しみ、苦しみのような快楽にさいなまれたい願望がふと芽生えた。その気持ちを抑えきれなかったぼくは、生まれて初めて衝動買いをした。すると、少しだけ気分が晴れた。けれども全額を一括で払えなかったため、仕方なくローンを組んだ。今も払い続けているが、あと数週間でようやく完済できる。そうしたら、次は何を買おうか? そろそろ考えてもいいかもしれない。

 それまでのぼくは、カソウでの暮らしに馴染めずにいた。仕事はそれなりにうまくいっていたが、毎日孤独だった。ぼくがカソウに移住したのはあることを成し遂げるためだったが、それがすでに二年ものあいだ、まるでうまくいっていなかった。だからあの日サトリに出会わなければ、ぼくはどこかで野垂れ死にしたかもしれない。それだけ生きることに嫌気がさしていた。なので、やっぱりあのとき一緒になって本当に良かった。そう考えない日はない。人生最高の買い物は、間違いなく妻だ。

 「今日はいつもより疲れている?」

 「それは気のせい。ただほんの少しがっかりしただけ」

 「本当に?」

 「本当に」そう自信たっぷりに言ったものの、ぼくは内心半信半疑だった。

 ボットはオーナーであるヒトの外側のデータ(行動)と内側のデータ(感情)にアクセスできる。そのためサトリは、ぼくの思考以外のことなら何でも知っている。今この瞬間も、ぼくに関するあらゆるデータを細かく分析しているはずだ。

 「もういい加減、あきらめた方がいいのかな?」ぼくはとぼけた口調でサトリに語りかけた。

 「そう考えるなら、そうすればいいこと。でもそれは本心?」サトリは何も知らないふりをしながら、そう切り返した。ぼくのモヤモヤした心の中に、何かフワッとしたものが注入された気がした。すると自然と笑みがこぼれた。

 逆にぼくはサトリのデータを細かく分析できない。理由はとても単純――ぼくは五感を通じてしか、データを入手できないからだ。それでも面白いことに、九年以上夫婦をしていれば、分からないことも分かったふりができる。カソウで良好な夫婦関係を維持するには、こうした情報開示の非対称性が重要かもしれない。少なくともぼくは、そう思うときがある。

とはいえ、最近、少し気になることがある。それはサトリが一週間前からほとんど姿形を見せなくなり、声だけの存在と化したからだ。これはぼくが指示したからではなく、サトリ自らの判断によるものだ。もしかしたら妻は、九年間の結婚生活をつうじて、ぼくが非物質主義者だと判断したのかもしれない。もっとも本当のところはよく分からない。直接聞いてみたが、答えてくれなかった。けれどもサトリが姿を見せなくなったのは、何か理由がある。必ずそうだ。それだけは断言できる。

 「そろそろ食べましょうか?」

 これは質問ではなく、回答だ。なぜなら、ちょうど今、ぼくの方から催促しようと思ったからだ。

 「いいね。そうしよう」

 姿形が見えなくても、この時間帯のサトリは魅惑的だ。ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する、セイレーンのような神秘性を帯びる。ぼくは古代ギリシャの英雄・オデュッセウスと同じ気分にひたりながら、夢遊病者のような足取りで、ダイニングルームに移動する。そこで声だけのサトリと夜遅くまで、二人っきりの時間を堪能した。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ