7/17(日) 葛西詩織②
「幼かったころ、実はこの家に住んでいました」
「ここに?」
ちらりと振り返る。普通の住居としてはリゾート感高めの、おしゃれな2階建ての家だった。
「ええ。今の隣町に移ったのは小学生の途中でしょうか。引っ越す少し前、親の仕事が忙しくなったり鹿之助を雇ったり、いろいろと家の事情が変わったんです」
昔を思い出したのか、先輩は寂しそうに目を細める。
「どうせ私しかいないのに、あんな大きな家になんて……」
小さな声だったけれど、充分に伝わるほど忌々しさが吐き出された。
「両親とも厳格な人で、言い付けはもともと守っていました。私が反抗するとしてもパフォーマンス程度です。でも、鹿之助が来た頃から、両親の様子がおかしくなってしまって」
先輩はおそるおそる俺の顔へと手を伸ばしてきた。その艶やかな仕草に、思わずどきりとする。けれどふっと自虐的に笑って、触れることなくそれを下ろした。
「今は両親に反発なんてできないんです」
「一体、何が……あったんですか」
口の中が乾いて、静かに喉を鳴らした。先ほどから先輩の眉間のしわが緩まないのが気がかりだ。
「ある朝、父が急に引っ越しすると言ったんです。それは決定事項だと。でも私にだって事情がありますから、私、初めて大泣きして反対したんです。そうしたら父が急に怒り出して……私を……」
どんどん息が荒くなる。一度飲み込み、ぶるぶると震える身体を自分で抱き締めた。気持ちを落ち着かせるように何度も呼吸を試みてから、やっと声を絞り出す。
「ぶった、んです。初めて、頬を。……それが、怖くて……っ!」
絶句だった。先輩のそっと閉じた瞳から、大きくて純粋な涙がこぼれ落ちるのを見た。
「それから私は自室に閉じ込められました。ある日の夕方、母が部屋にきて、『遊びに来た子がいたけど、あなたのことが嫌いで迷惑してる、二度と来ないでと伝えて追い返したわよ』と言って。思わず泣き崩れました。私がこの家にいたい理由を端からつぶしていくんです」
「それからその友だちには……」
先輩は力なく首を振って。
「もちろん会っていません。それから引っ越しの日まで、必要な生活以外、部屋から出してもらえなくて。ごはんは一日一食。鹿之助が運んでくれて、ひとりでとっていました」
「なんでそこまで……」
お嬢様で、何の苦労もないと思っていたけど、まさか、そんなつらい幼少期を過ごしていただなんて知らなかった……。
「前、自分のことロボって言いましたけど、あれ言い得て妙なんです」
「あ……」
「私、それから親に逆らわないようにしました。友だちもいらない……」
投げやりにつぶやいたかと思うと、今度は吐き出すように言った。
「ごめんなさい! 男の人に触れてはいけないのも、親の言いつけなんです。だから私、小鳥遊くんとの接触を何度も拒絶……しました」
「!」
やっと、違和感のわけがわかった。先輩が妙に現実感がない人だなって思ったのも、その身に触れたことがなかったからだ。
「誰かと関わって両親を怒らせて、大切な人まで傷つけるなら……もう最初から大切な人を作らないし、誰とも関わりたくない。だから学校でもできるだけ、人と距離を置いていたんです」
わざわざ俺に語ってくれた胸の内は。
「だって、私がロボになれば。誰ひとり傷つかなくてすむじゃないですか」
うれしくもあり、悲しくもあった。