7/17(日) 葛西詩織①
日が落ちる前に俺たちは、宿泊先の先輩の別宅に到着した。
狭いです……と、申し訳なさそうな彼女に、みんな「寝られたら充分!」と励ましていたのだが。今、見事に全員の口が開いたままになっていた。
うちはカフェ併設だし、そんなに小さいほうでもないと思うけど、それよりも、明らかにデケーーーな、この家!!
「2階の洋間は女性、男性は1階客間をお使いください」
玄関で仕切っているのは葛西先輩の家の使用人で教育係の五百蔵鹿之助氏だ。
「設備は自由にお使いいただいて結構ですが、私は玄関にいちばん近い和室で待機させていただきます。それがこちらをお貸しする条件です」
それは防犯的にも安心だし、お屋敷を貸していただいている身だしで、反対意見はもちろんない。「むしろご飯も一緒に……」と言ってる途中で固辞されてしまった。
「それじゃ早速、お風呂貸していただけます?」
凛々姉が玄関の先で泥を払いながら尋ねる。
「浴室は廊下突き当たりを左です。広いので皆さんでどうぞ」
「そう。ありがとう」
女子たちは次々に、廊下の奥へと消えた。
しかし俺がわずか数mmほど動いただけで、五百蔵は俊敏な動きで行く手を阻んだ。
「もちろん男性は女性が終わってからご利用ください」
ぼ、防犯性高すぎっ!?
ああ、信頼ならない俺らは、厳重な監視下に置かれているってわけですかい……。
女子がいなくなり静かになった玄関先には、鉄壁の玄関ブロッカー五百蔵に向き合う俺と野中。そして泳がなかった葛西先輩が、間でニコニコと両者を見比べている。
なにこの時間。気まずっ。
「あ、俺電話きてたわ。ちょっとかけてくる」
重い空気に耐えられなかったのか本当に電話が来ていたのか知らんが、野中が先に離脱した。
「じゃあ、俺も……」
かわいい女子とならまだしも、老年系男子と見つめ合うなんて趣味、残念ながら持ち合わせてないもんでね!
でも一体、どこで時間を潰せばいいものやら……。と、庭の奥に見えるテラスが気になった。行ってみようかな。
暇そうな先輩に声をかける。
「先輩、景色でも見に行きます?」
「いいですねっ」
はーん癒し〜。レッツ・たおやか☆
テラスは客間の窓とつながっていて、その先はすぐ崖になっている。海がよく見渡せる絶景ポイントだった。
日光が穏やかになり、空は緩やかに色を失いつつある。にぎやかだった海水浴編とはうって変わって、静かな二人の時間を演出するのにぴったりな場所だった。
「うわあ……迫力あるなあ」
「気に入ってもらえて良かった。私もここ好きなんです!」
目を細めて、どこまでも続く地平線を眺める。セミの声と波の音が聞こえる夏の空間で、俺たちはしばらく景色に見入っていた。
「……ぐすっ」
黄昏ていると、先輩がすすり泣く声が聞こえてぎょっとした。
「えっどしたの!?」
パッと先輩の方を向くと、顔を隠すようにして背けられる。オロオロとしていると、目元を拭いながら先輩は顔を上げた。
「急にごめんなさい。……小鳥遊くんっていつも前を向いて生きてるなあって、羨ましくて。そんな方と一緒に、こうやって仲良く、私の好きな景色を見られるのがうれしいです」
羨ましいか? 明らかに誰から見ても、俺なんかより先輩の方が人間的にもすごいと言うだろうに。
でも、先輩にも密かに抱えているものがあるんだろう。うれしいと言うけど、そんな顔には見えない。
「私は……過去に未練がましく、しがみついてしまっています」
自虐して、無理に笑顔を作ろうとする姿が痛々しかった。
「書籍だって昔、誰かが書いたもの。過去のものです。今、まさに作り出そうとしているものにはなかなか触れられない……。私は思い出ばかりを懐かしく、優しく、愛でて……傷つき、進めません」
俺は小さく息を吐いて、首を振る。
それが特別に後ろ向きだなんて思わない。俺だって、自分の命の終点が見えてるから動こうとしているだけだから。
「……先輩は何のために虎蛇入ったのさ」
猫に語りかけるときのように、できるだけ優しい声色で聞いた。
夕日が落ちて先輩の顔が見えなくなる前に、泣き止んで、いつもの笑顔を見せて欲しいと願って。
「それは、みんなで文化祭を成功させるためで……」
「おお、まさか。意外だった」
「私、なにか変なことを……?」
「いや。本のためじゃなかったのかなって」
「!」
先輩は、やっぱり少し変わってきてる。それがかなりうれしい。
「大丈夫。きちんと自分で経験するために動いてる」
「……そうかな。でも今は虎蛇会のこと、真面目に考えているんですよ、これでも」
子どもが言い訳をするようにつぶやくものだから、俺は少しだけ笑ってしまった。
「凛々姉に言うと怒られるけど、委員会の仕事なんて、本当は二の次でいいと思うんだ。先輩は、虎蛇で友だちを作る!」
「えっ、え??」
「ひとりで傷つく理由はないんじゃない? 今日だってみんなお互いを知りたくて合宿してるし、俺たちが一緒に海を眺めてる意味だってそうでしょ。だから、寂しいとか辛いとか苦しいとか……」
次に出る、自分の言葉に発生するだろう矛盾に対する後ろめたさをぐっと飲み込む。
「……ひとりで抱えているのはよくないね」
思考を吹っ切るように勢いよく親指を立て、笑ってみせた。
「……ぐすっ」
心地よい風が額の汗を吹き飛ばし、手すりを越えて崖の下に落ちていく。砂浜に届いただろうか。それとも途中で木に引っかかったのだろうか。関係ないことをなんとなく考えながら、波の揺らめきで変わる海の模様を目で追っていた。
「……昔話を、聞いてくれますか?」
ふと隣で。
「聞いてくれるだけでいいんです」
すっかりと声の調子が戻った先輩はいつも通りのゆったりとした口調で、そう言った。