6/25(土) 葛西詩織②
部屋に戻ってトートバッグに教科書とノートを詰め込み、急いで家を出た。強いチリチリとした日光に、帽子をかぶってくればよかったなと一瞬後悔する。
「おう知実~」
近くから自分を呼ぶ声が聞こえる。
太陽を遮っていた手を下ろすと、子どものように堤防の上を歩いて向かってくる背の高い人影を見つけた。
なんだ……父さんか。
「おはよう。どこか行くのか?」
「おはよ。ちょっと駅前に。父さんこそ何してんの?」
「ああ、海見てきた」
「そんなんいつでも見られるだろ。変だな」
「ははは! ずっと家の中だからな、そうでもないんだぞ」
堤防の上でしゃがみこんで、父親は豪快に笑った。
「あとは、観光客のリサーチってところかな」
沖を眺めると、サーファーたちが海に並んで波を待っていた。気温は今日も30度超えるらしい。
「夏、来てたんだなーははは!」
お、おう……。マイペースだな、父。
「……んじゃ行ってくる」
トートを肩にかつぎ直して駅のほうに足を向けた。
「なあ、知実」
「なに?」
なんの気なく振り返ると、柔らかい笑みを浮かべた父親が道の真ん中に立っていた。
「最近、生き生きしているじゃないか」
初めてそんなことを言われて、少しだけ身体が強ばる。
「今までなーんか無気力だったもんなあ、お前」
「……」
「今のお前は毎日一生懸命に見えるからな。俺は、お前の好きなようにさせてやりたいと思っているよ」
「……ん」
うれしくて心がくすぐったかった。でもさっきの母親の姿を思い出すと、手放しで喜べない気持ちもある。気が咎めて、目を逸らしてしまう。
「でもな。お前が無理をしているように見えるときもあるんだ。俺も母さんも味方だ、ちゃんと頼りなさい」
父親の声がじんわりと染みて、バッグを握る手が汗で滑りかけた。
「金のことも心配するな。だから……」
言葉尻に涙声が混じっているのに驚いた。それに気づいたときにはもう、父親は完全に俯いていた。そんな姿を見るのは辛い。胸が引きちぎられそうに痛い。
ごまかすためだろう、父親はごほんとひとつ咳をした。だから、俺は何も気づかなかったふりをすることにした。
きちんと父親に体ごと向き直る。
周りの人が感じる不安や弱った気持ちは、俺が一笑して見せさえすれば、多少は吹き飛ぶのだろうから。たとえ一瞬だけの安心感であっても、それには意味があることだ。
でも、そんな考えは浅はかだった。
泣いていると思った父親は、顔を上げたときにはすでに穏やかな表情だった。もう視線を離さないというような、強い眼光が突き刺さる。
「安心して、思うようにやりきりなさい。誰かのために生きることは、間違いなく人が生きる意味のひとつだよ。もし、自分をおろそかにしてると悩んでいるなら、心配しなくていい。胸を張りなさい」
さっきの母親との会話を聞いていたのだろうか。あまりにもタイミングがよくてぎょっとする。
「君がおそろかにならないようにするのは、俺と母さんの役割だ。だから君は、後悔しないように。やりたいことをやっていいんだよ」
……父は。困ったときはいつも、相談してもいないのに気づくと隣にいてくれた。大抵は無言だったけど、ただそれだけで安心できたんだ。
なのになんだよ、今日はよく喋るんだな。
俺が気を使ってみせるだなんて、まったくの愚行だった。
「……サンキュ。じゃあ行ってくる!」
泣きそうなところを見られたくなくて、父親に背を向けて走った。
ごめんな、父さん母さん。あとちょっとだから。もう少しだけ、好きなことをさせて欲しい。
全てが終われば、もうわがままは言わないから。