九月の出来事B面・⑦
「あのヤロー! どこに行ったのよ!」
新学期が始動してまだそんなに経っていない一年一組の教室に、乙女の怒鳴り声が響き渡った。
ドタバタと教室の後ろの方で起こった騒音を、教卓の真正面という居眠り絶対禁止な自分の席で聞いたアキラは、机に両肘をついて顎を乗せた。
「あ~、新学期が始まったって気がするなあ」
しみじみと言うアキラの髪を、ヒカルがブラシで梳いていた。
「この怒鳴り声を聞くとな」
どうやらヒカルも同意見のようだ。一学期の間は、毎日と言っていいほど放課後が始まる度に、同じ班の由美子が、図書委員会の仕事をサボろうとする孝之を追いかけまわす風景が見られたのだ。
どうやら二学期になっても同じ事が繰り返されるようだ。
「なんて言ったっけ? 王子の愛人」
クラスメイトの名前を積極的に覚えて来なかったアキラが、席の隣までやって来た『学園のマドンナ』である恵美子に訊ねた。
親し気に言葉を交わすのには理由がある。クラス内で行事などがある場合、この三人に由美子を加えた四人で班を作って行動する事が多いのだ。
「真鹿児くんのこと?」
「誰が愛人じゃあぁ」
心からの叫びを口から放射能火焔のように噴き出して、由美子が一人で騒いでいた教室後部からやってきた。
「真鹿児なら『先に失礼する』と言って、チャイムと同時にダンボール箱を被ったような低い姿勢で、教室から出ていったぞ」
変な行動だったのでアキラは覚えていた。
「あのヤローっ。部活より委員会優先だって言ってあンのに」
由美子の叫びも尤もだと言える。由美子が孝之を追う理由と言うには大袈裟かもしれないが、一学期の彼女と今の彼女では変わったところがあった。
清隆学園高等部の女子用制服では、徽章類が夏服ではベストにピン止めされたフェルトにつけられる。普通の生徒ならば校章とクラス章だけだが、由美子のフェルトには、あと二つの徽章がつけられていた。
校章の横にある開いた本の徽章は、図書委員を示している。これは一学期中や夏休み中にもつけていた。だが今学期からは、その下に見慣れない赤い流星の形をした徽章があった。これはリーダー章といって、清隆学園高等部内の複数ある団体のどれかで指導者の立場に就いた者がつける徽章だ。この場合、図書委員の徽章と合わせて図書委員会委員長の地位を示した。
なにせ由美子は二学期最初の委員会会議で、満場一致で図書委員長に選出されたのだ。委員長と同じクラスの委員がサボり魔では、他のクラスに示しがつかないではないか。
「『先に』と言っただけだから『先に委員会へ行く』という意味だったのかもよ」
アキラが指摘すると、由美子は口を尖らせたまま動きをとめた。
「うー」
「あらダメよ、王子」
唸り声を上げる由美子を、四人の中で一番の長身な恵美子が、ちょっと怒った顔で見おろして言った。
「恋人が居るんだから、浮気もほどほどにね」
「こいびと…」
由美子はなぜかキョトンとし、それから改めて怒鳴り声で喚き散らした。
「誰が恋人じゃあ!」
「恋人?」
アキラの髪を弄っているヒカルが不思議そうに表情だけで訊ねた。
「前に教えたでしょ」
悪戯気にウインクなど決めて見せた恵美子が教えてくれた。
「王子にはイイ人がいるって」
「アイツとはンな関係じゃなぁあああああい!」
まるで遠くに見える富士山に木霊させるような大声で由美子が否定した。
「またまた」
プププと噴きだすのをこらえられないと口元に手を当てた恵美子は、由美子の気迫を宙へ散らすように反対の手で空気を扇いだ。
「この前、図書室のみんなで行ったお祭りでイイ雰囲気だったクセに」
「あ、あれは…」
ポッと赤くなる由美子を、楽しいオモチャだと言うように見た恵美子は、自分のスマートフォンを取り出した。
「ほら。二人きりで、こんなイチャイチャして」
画面に表示されていたのは、浴衣姿の由美子であった。紺色に大きな風鈴柄の浴衣姿がフレームに収められており、手には綿菓子を持っているようだ。由美子の隣には、乳白色をした空に飛ぶ無数の紙飛行機という浴衣を着た誰か立っているようだが、残念ながら顔は見切れているし、手振れが酷くてはっきりと分からなかった。
「なんだ女じゃねえか」
ヒカルの感想が終わる前に、由美子の悲鳴のような声が響き渡った。
「いつ撮ったのよ!」
「だって隙だらけなんだもーん」
恵美子は得意そうに笑った。
「二人っきりで幸せだからって、無防備なんだもん」
「貸して。消すから」
「やーだもーん」
手を伸ばしてくる由美子に取られては大変と、恵美子は自分のスマートフォンを上に掲げるようにして、彼女の射程圏外へと避難させた。
「むむむ」
しばらく手を伸ばしたり、ピョンピョン飛んだりしたが、いくら由美子でもフィジカルで恵美子に勝てるわけがなかった。なにせ相手は都大会から関東大会へ駒を進めた剣道部のエースである。
しかしエースと言えども不意を突かれれば対応できない時がある。
「なんじゃ?」
反対側から、彼女よりもっと背の高い明実が、手をのばして恵美子が上へ逃がしていたスマートフォンを、簡単に手に入れた。
「あっ」
「ちょっと」
「ふうむ」
表示されていた写真を一目見て、持ち主である恵美子へと返却した。
「良く撮れているではないかの。必要とあれば画像補正するが?」
「それって、もっと綺麗にできるってこと?」
「ピントや手振れも、ある程度はの」
「お願いしようかなあ」
「するなあ」
由美子は怒鳴りながら恵美子の右腕を取った。恵美子はスマートフォンを取られないように持ち替えて、遠くになるように左腕を伸ばした。
「いいから貸しなさい」
「ダメだもーん。永久保存しとくから」
「それよりも、こんなところで遊んでいていいのかの?」
明実に問われて由美子が硬直した。
「今日は図書委員会の会合とやらで、図書室は休室日と聞いたが?」
「あ、忘れてた」
恵美子とじゃれ合っていた由美子はパッと離れると、纏めてあった自分の荷物の所へと移動した。ささっと肩にかけ、春よりも長くなった後ろ髪を靡かせた。
「それじゃ、またね」
「ああん。置いてかないで」
恵美子も慌てて追いかけた。彼女は図書委員では無いが、由美子の友だちとして図書室までついて行くつもりのようだ。
「さて、オイラも行くかの」
「行くって、科学部か?」
明実は文化会系が運動会系の部活より予算が不利な事を憂いて、科学部という組織を作った。違う部活同士で同じ物品を共同購入するなど予算の効率的な運用することで、予算案の圧縮に成功した実績がある。二学期も始まったことで、そろそろ年度後半の予算案などで忙しくなるはずだ。
「いいや」
ニヤリと笑った明実は、立てた人差し指を左右に振った。
「今日の図書委員会は清隆祭で何をやるのかが議題と聞いた。委員長に就任したフジワラが、どんな風に委員会を率いるのか、これは注目であろう。よってオブザーバーとして参加しようと思っての」
もともと由美子は一学期の間は副委員長の職にあった。先代の二年生があまりにも仕事をせずにいて、実質図書委員会は彼女が仕切っていたのだから、人事としては当たり前と言えた。
「なんだ野次馬かよ」
アキラの髪のブラッシングをあらかた終わらせたヒカルが呆れた声を出した。後ろの席に勝手に置いた自分の通学用バックへ、ブラシと入れ替わりに包み紙がまだついた柄付きのキャンディを取り出した。
「じゃあオレたちも図書室か?」
アキラの確認に、明実は白衣の懐から紙の束を取り出した。
「うんにゃ。おぬしらには科学部に所属する部活を回って、予算案のアンケートを配ってもらいたい」
ドンと低くない紙の山を自分の机に置かれたアキラは、困った声を出した。
「なんか多くないか?」
細かい物品の値段まで書き込めるようになっている用紙は、科学部に名を連ねている部活以上の数があるようだ。
「当たり前だ」
平然と明実は言った。
「二学期からは、学校側に部活動と公認されている団体だけでなく、同好会や愛好会など、その他の団体まで声をかけるからの」
清隆学園高等部では、同好会は諸事情でまだ部活動と認められていない団体、愛好会はさらに下って私的な集まりと定義されていた。部活動から二軍落ちという形でそちらに分類されるようになった団体もあるが、大体は部活動として公認をもらおうと活動している場合がほとんどである。この内、同好会には活動によっては予算がつく場合があるが、愛好会には一切補助はなかった。
「どこまで手を広げるつもりなのやら」
包み紙を解いたキャンディを口に放り込みつつヒカルが呆れた声を上げると、アキラが幼馴染の思考回路は重々承知と言う声を出した。
「世界征服するまででしょ」
「渡す団体の名前は、この紙に書いてあるからの」
別の紙を白衣の懐から取り出した明実は、アンケート用紙の束に追加した。さらにその上へタグのついた鍵を置いて錘にした。
「ヨロシク頼むぞい」
「おまえよぉ」
頬杖をついて紙の端を摘まみ上げたアキラは言った。
「自分でも少しは受け持とうとは思わない?」
「オイラは忙しい身だからな」
声が遠くから聞こえた気がして顔を上げれば、もう明実の背中が教室から出て行くところだった。
「おい!」
慌てて声を上げても、もう遅かった。
「はあ」
意識せずとも二人の溜息が揃った。
「どうするよ」
アキラがヒカルに訊ねた。
「まあ各部活に配るぐらいは付き合ってやるか。その他大勢は、ほっとけ」
ヒカルの意見にアキラは頷いた。
気が付けば一年一組の教室には二人きりであった。荷物を纏めて、押し付けられた紙の束を小脇に抱えた。
「荷物は部室に置いておくか」
口元からキャンディの白い柄を生やしたヒカルが、アンケート用紙の上に置かれていた鍵を、手の中でクルリと回して言った。この鍵は高等部C棟一階にある器材倉庫の物だ。化学実験室の隣にあるという好立地と、誰にも注目されずにほったらかしになっていたという事から、明実がどこからか手に入れてきたのだ。
それ以来、三人によって科学部の部室として利用されて来た。
いまだ室内は、半分以上が放り込まれたまま忘れられたようなガラクタで埋まっていた。半ば忘れ去られたような空間に、いちおう科学部らしくノートパソコンが一台だけ、学内のネットワークに繋がって鎮座していた。
特に便利なのは、外に面して一枚しかない窓ガラスに厚いカーテンという覗かれる可能性が低い場所なので、わざわざ更衣室まで行かなくても着替えることが可能だというところだ。外見は美少女であるが中身は男の子であるアキラが、周りを気にせずに着替えられる利点は大きかった。
ただし同じ事の繰り返しになるが、窓が一枚しか無いので、通気性は最悪である。残暑が厳しい今日に行くと、確実に汗まみれになるのは、ちょっと問題ではあった。
まあ窓が一枚しかないという事は、空き巣などの被害も受けにくいということにも繋がる。荷物を安心して置いておけるのも利点と言えるだろう。特にヒカルの通学用バックなどは、普通の高校生が持ち歩いていなさそうな物がたくさん入っていそうだ。
「そうするか」
ヒカルの提案に頷いて同意するアキラであった。
B棟の三階にある一年一組の教室から、廊下で西の端にある階段室に行き、一階まで下る。下った場所はB棟とD棟の境目に当たる場所で、二人はD棟の廊下を北へ向かって進んだ。
購買部や学食、そして自販機コーナーを抜ければ高等部北側に当たるC棟へと辿り着ける。科学部部室としている教材倉庫は、渡り廊下と繋がって裏口の役割をしている非常口の横にあった。
「さてと」
部屋に入って、自分の通学用バックを適当な机の上に置き、アキラは明実に渡されたメモを見た。
「化学部に生物部、被服部に…。近いところから行くか」
「まあ、そうなるわな」
同じように荷物を置いたヒカルも反対意見は無いようだ。
「まあ化学部はいいとして、近いのは被服部か」
アキラはまず化学部をリストから外した。科学部ではなく化学部である。なにせ化学部は一年生三人以外全員が幽霊部員ときている。その三人はアキラ、ヒカルそして実質部長職の明実の三人だ。科学部と同じ面子しか揃っていないのだから、リストから外すのは当然であった。
紙の束だけを持って廊下へと出る。エコロジーという言い訳で全然空調が効いていない廊下であるが、これでも科学部部室よりマシなのだから困ったものだ。
廊下の反対側には調理実習室があるが、今日は静かだった。料理研究部の活動場所であるはずだが、今日は活動していないようだ。
二人は廊下を進み、化学準備室と家庭科準備室とが向かい合ったところまで来た。この時間ならば、それぞれに被服部と写真部の誰かが捕まえられるはずである。
家庭科準備室には、青色をした細い眼鏡をかけた女先輩と、被服部顧問の田沢先生がいた。予算の話しを簡単にしてプリントを手渡す。なお田沢先生はオヘソが出る黒い衣装を、女先輩は白いワンピースといった衣装で「お揃い」だった。
もちろん制服では「ぶっちゃけありえない」。おそらく秋に行われる文化祭で使用する衣装だと思うことにした。
化学準備室には暗室があり、そこが写真部の根城になっていた。ソバカスが目立つ穏やかそうな女性が相手をしてくれたが、彼女は私服であった。教師ではなく、もうとっくに卒業した女先輩である。写真部は前々から現役生よりOBやOGの出席率の方が高いと噂されていたが、それは本当のようだ。
順調に二つの部活を済ませた二人は、廊下をさらに東進した。物理と生物の実験室は静かで、覗いてみたが誰もいないようだ。
物理講義室では数学部が、生物講義室では生物部が、それぞれ活動していた。数学部は何か難しい計算式を黒板に大書し、それを睨むようにして部員たちが一斉に紙に数式を書き連ねている姿が印象的だった。生物部の方は、四人で雀卓を囲んで、怪しげな紫煙を室内に籠らせていた。
「ほどほどにしないと肺に悪いぞ」
自分だって白い棒を咥えているヒカルが、一嗅ぎで煙の正体に気が付いた。医者のような忠告とアンケート用紙を残して次へと急いだ。
この先廊下は右に折れてA棟に続き、教職員たちが主に使用する部屋が並んでいるばかりだ。
C棟とA棟の境目は、高等部の正面玄関とも言える職員昇降口となっていた。片隅には展示スペースがあり、主に運動会系部活が過去に獲得したトロフィなどが飾ってあった。
ここにも二階へ上がれる階段がある。二人はそこからC棟二階へと上がった。
上がったところは、C棟の突き当りだ。A棟に二階は無いのだ。廊下がそのまま広くなったようなスペースとなっており、いまはジャージ姿の女子数人が、ヒップホップの動きを、壁にかけられた大きな鏡チェックをしていた。おそらくダンス部であろう。
ダンス部は運動会系に所属するので、いまは関係が無い。アキラがまるで相撲で手刀を切るようなポーズをして横断する事をジェスチャーで伝えると、ジャージ姿のダンサーたちは踊りながら道を開けてくれた。
廊下の幅が元に戻って、右がコンピュータ教室で、左が音楽室である。
コンピュータ教室では数理研が、音楽室では吹奏楽部が活動していた。
重い防音ドアの向こうで、吹奏楽部は音合わせをしていた。
数理部は何か難しい計算式を黒板に大書し、それを睨むようにして学校側の備品であるパソコンを叩いている姿は、下の階の物理講義室と同じ光景に見えた。
電算室や各科の準備室を通り過ぎ、視聴覚室では映画研究部が、CALL教室では英語研究会が活動していた。といっても映画研究部の方は視聴覚室の大スクリーンに、ただアニメ映画を垂れ流しにしているだけであったし、英語研究部といっても普通に日本語で世間話をしているだけであったが。
小さな倉庫の入り口となる扉を過ぎると、右が地学講義室、左が図書室である。
両方ともA棟側の入り口は使えないように潰してある。廊下にガラスケースが出してあるのが図書室の入り口となるが、今日はそこに立て看板が出されていた。
立て看板には「今日の図書室はお休み」と大書されていた。D棟の方から来た二人組の女子がソレを見ただけで来た道を戻ったから、効果はあるようだ。
地学講義室は、その立て看板よりも手前に入り口があった。
開けっ放しの扉から室内を覗くと、二人の女先輩とクラスメイトである真鹿児孝之が何やら話していた。
「来月のオリオン座流星群はどうします?」
どうやら二学期の主な天体ショーを上げて、観測予定を詰めている段階のようだ。奥の方から、ふくよかな女子生徒と優男の二人組も出てきた。
「おー」
五人の部員が集合しているところへ、アキラはクラスメイトという気安さで孝之へ声をかけた。
「お? なに?」
ピラピラと紙を振っていたので用事があると分かったのだろう。孝之が会話の輪から外れて来てくれた。
「科学部の予算案。なるべく早く提出してくれ」
なにせ一学期に同じ事をやった時に、書類を纏めたのはアキラとヒカルの二人なのだ。こんな面倒な仕事は早め早めに情報が集まる方が後々楽になる。
「ああ~、なるほどね」
チラリとプリントのタイトルを見た孝之は何度も頷いて、プリントを気安く受け取ってくれた。
「部長に渡しておくね」
「なるべく早くって忘れずにな」
ヒカルが釘を刺すように念を押した。
その時だった。
「きゃあああ」「うをををw」「うせやろ」「ふんがああ」
まとめて十人ぐらいで同時に悲鳴を上げたような音が廊下に響いた。
「?」
どうやら反対側の図書室から上がった悲鳴の様である。
「どうした?」
「うきゃああああ」
三人で顔を見合わせていると、再び巨大な悲鳴が轟いた。だが今度は一人で上げた悲鳴のようだ。
意味が分からずに、再び顔を見合わせる三人。あまりの声の大きさに、地学講義室の中にいた他の部員も廊下に顔を出した程だ。
破壊する勢いで図書室の扉が開かれ、誰かが飛び出して来た。
「王子?」
「フジワラ?」
どうやら教室で分かれた由美子の様である。顔を真っ赤にした彼女は、不安そうに廊下へ顔を出した天文部プラス二人の所へ駆け寄って来た。
「な、なんじゃ?」
顔は真っ赤だし、両目は吊り上がって、まるで鬼の形相である。走って来た勢いでドロップキックでもかまされるのではないかと、つい身構えてしまった。
そのまま由美子は、孝之へ体当たりするように抱き着いた。
「?!」
一同が戸惑っている間に、まるで幼子の如く孝之のワイシャツにしがみついた由美子は、彼の筋肉量が足りずに、まだまだ大人になり切っていない胸へ顔を埋めた。
「ごめんね、ごめんね」
「はあ?」
全員意味が分からなかった。だが、時間経過とともに、どうやら由美子が泣いているということが分かって来た。
「なんかしたのか、おまえ」
イライラとキャンディの柄を揺らしながらヒカルが軽蔑するように孝之に訊ねた。
「いや、ええ?」
どうやら委員会をサボった以外に思い当たる節は無いようだ。孝之は抱きしめるわけにもいかず、両手が中途半端に上を向いていた。
「わかったわかった」
女先輩たちが優しい声をかけ、由美子の背中や頭を撫でてやる。先輩方の目線だけで何事かを了解した一年女子が、室内へと戻った。
「お茶を淹れるから、落ち着きましょ」
ここは私たちに任せてとばかりに、先輩方の目線がアキラとヒカルに向いた。
「それじゃあ…」
次の部活へプリントを配りに行かなければならない身である。一種のパニック状態になっているクラスメイトを放っておくのも問題があるような気もするが、ここは先輩方に任せてしまって構わないだろう。
二人が図書室で起きた騒動を知るのは、翌朝の事だった。
東京都下多摩地区。武蔵野の風景がいまだに残る土地である。関東平野の南端ともいえる平らな土地に、その学園はあった。
私立清隆学園。幼年部(幼稚園)から大学まで揃えた巨大な教育施設である。
国道二〇号線日野バイパスと中央自動車道に挟まれているが立地は広く、それぞれの学び舎は余裕をもって建てられていた。
敷地の名義は清隆大学の物となってはいたが、幼年部(幼稚園)から初等部(小学校)、中等部、高等部と全ての建物がその中に建てられていた。
だが、これだけの学び舎に加え、大学図書館などがあるにも関わらず、古き武蔵野の風景たる雑木林の面積の方がまだまだ広かった。
最先端のアレコレを研究する大学の建物は、昭和時代に建てられたコンクリート製の物が多かったが、中には今では使われていないような怪しげな建築物まで混ざっていた。
清隆大学は昭和の終わり頃の景気が良い時代に、文学部や社会科を含む文科と、学生が入学後に二年間学ぶことになる教養学部が、多摩川の支流が形成した扇状地の方へ移転していた。
こちらに残されたのは、工学部や理学部など理系の学部ばかりである。
そして古くは存在したが、移転に当たって人気のない学部は整理され、廃止された物も多くあった。
廃止された学部の中に、神学部も含まれていた。これは大学設立時の複雑な事情も絡んでいた。元々この土地には陸海軍共同の航空基地が存在した。滑走路を含む広い土地に目をつけた地元の有志達は、戦争が終わってこれからは平和な時代とばかりに大学の設立を考えた。しかし当時、この土地は航空基地跡としてアメリカを始めとする進駐軍の管理下に置かれていた。何としても払い下げてもらい学園を設立したい。それもなるべく安い値段でお願いしたい。そう考えた地元の有志改め設立者たちは、神学部のある大学の計画を進駐軍側に提示したのだ。
当時、日本の教育制度改革に熱心だったGHQへの、神学部のある大学の設立申請は、とても承認しやすい物だった。大学設立者たちに快諾し、土地は無事に払い下げられて清隆学園が創設された。
だが創設者改め経営者たちには、神学部は言い訳のつもりで用意した学部である。学部に人が集まろうが集まらなかろうが、関心は低い物だった。
団塊の世代が受験する時代になると、熱心に広報しなくとも勝手に受験生が集まる時代となった。しかし、そのような時代でも就職に役立ちそうにもない神学部の人気はさっぱりであった。
ちょうど外国から招いていた教授たちの契約も、主に年齢の面から更新されそうにもなかった。彼らの後継者も、もっと熱心に神学を学んでいる他の大学へ赴任したがった。
こうして昭和が終わる頃、清隆学園の経営者から見れば「用済み」となった神学部は閉鎖されたのだ。
神学部が無くなったからとはいえ、建物自体が無くなったわけではない。さすがに木造で耐震強度や消防設備が時代に合わなくなっていた神学部校舎は取り壊されて、その敷地には、科学研究棟の一部が建てられた。が、付属設備はそのままとされたのである。
旧神学部校舎の付属設備は、大小の図書館と、教会であった。
とくに教会は、学生同士で結婚を上げる時などで、まだ需要があった。羽目板構造の外壁は定期的に塗装され、内部も大学の宗教サークルが清掃を欠かさなかった。
学部の付属で建てられた教会であるから、とても小さな物だ。小さな祭壇の前に二列のベンチがあるだけだ。あとは花嫁の着替えに使えるような小部屋が一つと、トイレぐらいしかなかった。
周囲はすっかり雑木林に再侵略されていた。
残暑の中で生命の残り火を燃やし尽くすような蝉の声が響いており、丈の長い下生えでは秋の虫が愛の言葉を囁き交わし始めていた。
教会正面の普段は締め切ってある木製のアーチ扉を開く者がいた。
入って来たのは、まだ小学校にすら通っていないような幼子であった。
子供らしく、体を使って遊んでいても容易に脱げないようにするためか、サロペットを履かされていた。上着は汗を掻いてもすぐに取り替えられるように、Tシャツ一枚だ。
しかし、そんな親の配慮も無駄の様である。この子は厳しい日差しの下を歩いて来たはずなのに、まったく汗を掻いていないのだ。
短い足を一生懸命動かして歩いてくると、祭壇後方に鎮座している聖印を見上げた。
「おや? お客さんですか?」
脇の小部屋に繋がる扉が開き、一人の少年が現れた。
その少年は、癖のついた黒髪に、銀色の細いフレームの眼鏡をかけていた。
清隆大学の学生ではない。彼は黒い学ランを身に着けていた。これは清隆学園高等部において第二種制服に指定されている物である。だが学ランの第三ボタンまで外しているので、下に着た黒いワイシャツが見えており、そこに白いネクタイを締めているのが確認できた。
何を隠そう、彼は清隆学園高等部図書室常連の左右田優であった。
信心深い彼はここへ足繫く通い詰め、大学で宗教家を自称する先輩方と、神についての弁論を重ねるのが習慣となっていたのだ。最近では彼のせいなのか、先輩方の足が遠くなった程だ。
「ここに幼子に分け与える物は無いのですが…」
薄く笑った表情でちょっとだけ眉を顰めた彼が近づくと、幼子が振り返った。
「!」
慌てて優は跪いた。
「これは、み使いとは知らずに、無礼な口をきいてしまいました。どうぞ、お許しを」
「一目で分かるか」
幼子が大人びた抑揚でこたえた。
「知る者が見れば」
頭を上げずに優はこたえた。
「して、何用で地上へ降臨成されたのです?」
優の質問に答えは無かった。不思議に思い、少し頭を上げて相手の顔を覗き見ると、幼子は、まるで大人がそうするように不敵に微笑んでいた。
九月の出来事B面・おしまい