九月の出来事B面・⑥
「ちょっと…」
フロントウィンドから見上げるようにして外を確認した由美子が声を上げた。
「ここ、本当に東京なのよね?」
わざわざ助手席のシートから振り返って、運転席の後ろで体を丸めているサトミに確認した。
「やあねえ、ちゃんと都内よ」
運転席の後ろでサロペットスカートを、まるで長い足に巻き付けるようにして抱え込んでいるサトミは、何を当たり前のことを言っているという態度だった。
「ちなみに雲取山も母島も東京都よ。まぁ青梅は独立国っていう噂があるけど」
「バカ言ってンじゃないわよ」
だが由美子が不安に思うのも当然の結果かと思えた。今まで市街地を走っていたと思っていたら、次の瞬間には道の両脇が林となり、結構急な坂道を上っているのだから。
「この坂はね、多摩川の河岸段丘なのよ」
サトミが地学の授業で聞いた事のある単語を口にした。
「ほら、清隆学園も駅に向かうと坂があるじゃない。あれも河岸段丘。あそこから数えて一つ上の段になるけど」
「だからって…」
由美子は不安そうに周囲を見回した。
真っすぐな坂道の両脇には、うっそうとした森林が続いていた。先ほどまで都会に居たはずなのに、突然山の中へテレポートしたような突然さであった。
「まあこの辺りは東京とは言っても、開発が遅れている内に、環境保護とかで雑木林が残された辺りですものね」
坂を上りきる直前に、道は交差点となっていた。わずかだが人家のある風景が戻ったと思う間もなく、運転席に座るミセスがハンドルを切り、再び木々が生い茂っている方に車は走った。
「えっ」
由美子は息を呑んだ。
「ドコが探偵事務所なのよ」
由美子を助手席に乗せたビートルは、道の向こうに見えてきた墓場へと入って行こうとしていた。
サトミに心霊探偵とやらが居る場所に向かうと聞いて、なんとなく場末の雑居ビルあたりを想像していた彼女ではあるが、想像の範囲外の場所だった。
まるで槍を等間隔で植えたような外周に、唐草模様に鉄棒を曲げて作ったオブジェのような門が備わっていた。
開けっ放しのその向こうには頂部が半円をした墓石が並んでいた。和風の四角い石を三段に重ねた物は一つもない。逆に交差した剣が刺さっているようなデザインだったり、羽を広げたクジャクの彫刻だったり、個性的な墓石がそこかしこに混ざっていた。
「外人墓地?」
「うん、ここら辺ではそう呼ばれているわ」
霊園に進入したビートルは、心なしか速度を落とした。
霊園の中には視界を遮るものはほとんどない。中心辺りに祈りをささげる場所であるだろう小さな庵と、墓石に添えられたように植えられている楡などの木だけが視線より高い物体で、後は全て視線の高さよりも下に見えた。
小鬼を模した彫刻がこちらに向けて永遠に叫び声を上げているような顔を向けていたり、逆に目を閉じて天を仰いでいる天使の彫刻があったり、標準的な墓石が並んでいる間に個性的な墓が散見出来て、風景に飽きるということは無かった。
ビートルは入り口すぐの環状交差点に入ると時計回りでほぼ一周して、進路を右に向けた。
西洋式のお屋敷が正面に来る。道は少し左に膨らむと、お屋敷の前庭のような車寄せに近づいていった。
上部にステンドグラスをあしらったガラス扉の前に、黒い影が立っていた。
こんな暑い日だというのに黒い三つ揃えを隙無く身に着けている長身の人物であった。
まるで惰性だけで進んだように静かにエントランスの前に進入したビートルが停車すると、大股で歩み寄ってきてボンネットの前を通過し、助手席のドアに手をかけた。
優雅な仕草で開け放つと、由美子が降りやすいように手を貸してくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
黒の三つ揃えなんていう男装をしているが、声質からして間違いなく女性である。身長はサトミよりも高くて一八五センチはあるだろうか。短くした髪は金髪で、瞳が銀色という日本人には有り得ない色彩をしていた。標準的な日本人より彫の深い顔立ちからして、ラテン系の人間のようだ。
「やあ、家令」
ミセスに手を借りて後部座席から体を抜き出したサトミが、服のアチコチを引っ張って皺を消しながら声をかけた。
「お姫さまはご在宅?」
「お久しぶりですサトミさま。三代目は現在些事に手を煩わしていますので、しばしお待ちいただくことになります」
軽く会釈したスチュワードが微笑んでこたえてくれた。外見から想像しにくいが、発音を含めて完璧な日本語であった。
「それでは、車を片付けてまいります」
サトミの次に孝之に手を貸していたミセスがスチュワードに言うと、彼女はサッと無駄のない動きで助手席のドアを閉めた。
車内へ戻ったミセスがワーゲンを発車させ、車寄せには四人だけが残された。
由美子はスススと足音をさせずにサトミに近づくと、耳打ちをするように小さな声で訊ねた。
「スチュワードって何よ」
目線で彼女を指差した。
「女の人ならスチュワーデスじゃないの?」
「本人がスチュワードって言うんだからスチュワードなんでしょ?」
「? ああ、名字?」
「本名は違うみたいだけど」
二人の内緒話も新宿の喧騒の中でするのならば誰の耳にも届かないであろうが、ここは鬱蒼とした森林に囲われた霊園である。騒音と言っても蝉の鳴く声しか存在しなかった。
確実に耳に入っているはずだが、気になっていないようにスチュワードは三人の先に立って歩き始めた。
開けっ放しの扉から入るとエントランスは広いホールとなっていた。正面へ真っすぐ伸びる廊下を、まるで上から抱きしめるように右側から階段が下りていた。二階には途中二回の踊り場で上がれるようになっていた。
「ふう」
ホールを満たしているひんやりとした空気に一息ついていると、先に立っていたスチュワードが左の扉を開け放った。
「こちらへ」
入口の脇で三人を呼んだ。
応接室だろうと由美子がその扉をくぐると、その予想は裏切られた。
まるで古い博物館のような空間がそこにあった。壁には額に入れられたモノクロームの写真が飾られ、木製の展示台が部屋の中央に並べられていた。
窓際にも本棚のような展示棚が並んでおり、ビクトリア朝様式の張り出し窓には、小さな植木が並べられていた。
風景を少し歪めているので手作りとわかるガラス窓は、どこそこも開けられていた。とすると、この館内の冷気は空調などによる人工的な物では無く、自然豊かな周囲の森林がもたらしている物なのかもしれなかった。
柔らかなそよ風が一陣、由美子の髪の毛先を弄んで駆け抜けていった。
「ここは?」
「一族の展示室よ」
サトミが明快に教えてくれた。
「お荷物は?」
「いや、これは結構」
扉のところで手を伸ばして来たスチュワードに断りを入れるサトミ。透明なビニールでできたバッグなので、スマートフォンや財布が入っているのが丸見えで、あれでは人に預けたくないのも当たり前であろう。次に顔を向けられた由美子も、丁寧にトートバッグを預けることを断った。
「こちらで、しばしお待ちになって下さい」
スチュワードは告げるだけ告げると、フッと姿を消してしまった。
「気配が薄い人ね」
「職業的に求められるからでしょ」
由美子の感想に、サトミがこたえた。
「ほら見てみて。ここの外人墓地が拓かれた時の写真じゃないかしら」
入口すぐの写真を見上げてサトミが声を上げた。
「こっちは初代の人かな」
「一族って、なんのだよ?」
「ここの外人墓地はね、代々櫻田家が管理している墓所なのよ。おそらく彼が初代櫻田恋太郎」
おそらく工事関係者と思われる職人たちの輪の中で、黒い短襟の神父服を着て微笑んでいる男性がいた。キャプションには「明治某年、イギリスの宣教師ホワイトにより主の教えを授けられ開眼。この地に永遠の安息の地を拓く」とあった。
「ここ教会なの?」
「教会は向かい側に建ってるわ。こっちは一族の住むお屋敷」
「じゃあ、あたしらがこれから会うのも牧師さん?」
「カトリック系なんで神父さんよ。間違えると嫌な顔をされるから注意」
「? なにが違うの?」
訊いて来た孝之の顔を見る限り、どうやら宗教的な知識はあまり持っていなさそうであった。サトミは嫌な顔せずに教えてくれた。
「カトリックとプロテスタント。カトリックが神父で、プロテスタントは牧師ね。世界史の授業でやったと思うけど、旧来のままローマ教皇を頂点として最大派閥を形成しているのがカトリック。宗教改革で分派したのがプロテスタント。まあ同じキリスト教だけど、細かいところはだいぶ違うわ。日本の仏教だって唱えるのが『念仏』と『お題目』とか宗派によって違うでしょ」
「ああ」
どうやら納得したようだ。孝之は次の展示物の前へ移動した。
それにしても時代を感じさせる展示品が一杯ある部屋であった。片隅に大きなタイヤが置いてあるので何の記念品だろうとキャプションを見れば、太平洋戦争末期に、この近くへ墜落した爆撃機の物だった。機内で戦死していた搭乗員を墓地へ受け入れた時に、一緒に貰った物のようだ。同じ時代の物で軍刀が一振り飾ってあるが、どうやらこっちは近所に駐留していた戦車隊の指揮官が提げていた物のようだ。キャプションが本当ならば、終戦の玉音放送を聞いた彼はこの軍刀で切腹したみたいである。隣の潰れた十四年式拳銃も似たような経緯でこちらに来たようだ。
もちろんそんな血生臭い展示物だらけでは無く、大正デモクラシー華やかな時代の映画ポスターや、昭和の三種の神器と言われたテレビ、洗濯機、冷蔵庫の企業広告なども展示してあった。
もちろん代々お屋敷に住んでいる家族写真もたくさん並べられていた。
どうやらここ最近は一〇年ごとに、先ほどのエントランスで撮影することが一族の行事となっているようで、人数が増えたり減ったり、抱きかかえられている赤ちゃんが隣の写真では小学生だったりする、まるで連続写真のような展示は見ごたえがあった。
「あれ?」
「藤原さん」
家族写真に違和感があるような気がした由美子が首を捻っていると、離れた位置から孝之に声をかけられた。首を巡らせて彼を探すと、入り口近くの展示物を覗き込むようにして見ているようだ。
「なによ」
「これ」
先ほどまで不安そうに固まっていた彼の表情が半笑いといったものに変化しているのを見て、由美子は孝之に駆け寄った。
展示台の中によれよれになった大きな輪っかが飾ってあった。
「?」
由美子から見てゴミでしかない展示物には、小さな説明札が添えられていた。どうやら明治時代に近隣の村民から寄贈された品であるようだ。寄贈してくれた者の名前とは別に一筆添えてあった。
「七十六年後の子孫に託す?」
「どうやら自転車のチューブのようね」
反対側から覗き込んだサトミが展示物の正体に気が付いた。
「はぁ?」
由美子の思考が「なんでそんな物を?」と走ったところで、サトミは声を上げて笑い出した。
「わからないの?」
隣に立つ孝之に訊かれて、ますます頭が混乱する由美子。
「ほら、ここに新聞の切り抜きが」
孝之が説明札の横に置いてある、すっかり黄ばんだ紙を指差した。
日付は一九一〇年の四月二三日であった。
古びた、今は使われていない文字を含んだ文章を、眉を顰めて読み上げてみれば、以下のような内容であった。
仏蘭西のフレンマリオン博士によれば、ハリイ彗星の尾に含まれる水素が地球の空気中に存在する酸素と化合すれば、人類は皆窒息して死滅する。
ハリイ彗星の尾が地球に接触するのは来月、すなわち五月一九日の正午である。
「ハリイ彗星?」
「あれ? 姐さんは知らないの?」
意外そうにサトミが訊いて来た。
「明治四三年にあったハレー彗星大接近の時の出来事よ。その時のハレー彗星の軌道は、ちょうど地球と太陽の間を通過する事になったから、ヨーロッパじゃハレー彗星が吹き出す尾の力で、地球の空気が全部吹き飛ばされるとか、猛毒の成分が降り注いで生物が死滅するとか、大騒ぎになったの」
「あ~」
由美子はサトミを指差して何度も頷いた。
「聞いた事ある」
「世界が終わるって全財産をパーッと使っちゃった人とか、近所のチューブや氷嚢とか空気が溜められる物を買い占めちゃった話とか、流言飛語の代名詞として使われる話よね」
「たしかアニメでも、ンな話しがあったような気がする」
「まあ、あれよ」
まだ笑いの余韻が残っているのか、唇を右に歪めたままサトミは人差し指を立てた。
「『一九九九年七の月。空から恐怖の大王が来るだろう。アンゴルモアの大王を蘇らせ、マルスの前後に首尾よく支配するために。詩編一〇の七二番』あれと同じ。いつも世界は終末の直前と思っていないと生きていけない人たちがいるの。それで馬鹿な事件を起こした人たちも居たわね」
「二〇一二年なんていう映画もあったなあ」
「ああ、ただしくは数字だけの『二〇一二』ね」
サトミは孝之の台詞を修正した。
「マヤ歴が二〇一二年に終わっているから、その一二月が終末だっていう映画でしょ。たしか惑星直列が太陽コロナを刺激して、その熱で地球のマントルが活性化して大陸が動くとか無茶な設定だったわねえ」
「まあ、そういうビジネスもあるってことでしょ。ビジネス」
由美子がさめた目で言い切ると、ちょっと眉を顰めてサトミに訊いた。
「ねえ。こういう神父とか独身じゃないといけないんじゃないの?」
「?」
由美子は家族写真が並べられている一角を指差した。
「独身なら子供ができないから、後継者がいなくなっちゃうはずでしょ?」
「あら? 姐さんは結婚しないと子供をつくっちゃいけない派? 内縁の関係だっていいじゃない」
サトミが、今の由美子では到底できない、妖艶とも思える笑みを浮かべた。
「いや。そりゃあ籍を入れなくったって子供がいてもいいとは思うけども」
「重要なのは愛よねえ」
サトミのウインクに由美子は頬が赤くなるのを感じた。
ニマニマと由美子の表情を愉しむ様に見ていたサトミは、ちょっと真面目な顔に戻って教えてくれた。
「ま、それは冗談として。聖職者だって結婚している人はそれなりにいるわよ。上司たる司教から許可が出た者だったり、神父になる前に結婚してたりね。まあ出世したいなら独身を貫かないといけないけど」
「まあ、こんな世界の果てでの墓守なんて、成り手が無いから世襲を強制されているようなものだがな」
はっきりとした発音をした声が聞こえて来て、三人は入り口の方へ振り返った。
やはり気配が薄いスチュワードの姿が目に入った。
「どこを見ている」
割り込んできた声がまた聞こえて来たが、スチュワードではないようだ。視線をだいぶ下へと移動させると、おそらく発言しただろう人物が視界に入った。
「わあ」
由美子がつい歓声を上げてしまうほどの一人の女の子が、腕組みをして立っていた。
身に着けているのは赤と黒を基調にしたAラインワンピースである。ただフリルがこれでもかと言うぐらい増し増しに盛り付けられており、いわゆるゴスロリファッションと呼ばれる姿であった。そのまま立っているだけで折れてしまいそうな細い脚には、白いストッキングと赤い靴が履かされており、肩からはハート形のポシェットがかけられていた。頬の高さの黒い髪は、ワンピースと同じ赤と黒のヘッドドレスで飾られていた。
第一印象は着飾る痩せた小学生女子で、まるで西洋のお人形のような姿であった。だが彼女が只者ではないことを予感させるように、黒い瞳には意志の強そうな光があった。
「ん~、今日も可愛いですね。お姫さま」
「喉笛を噛みちぎるぞ、この野獣」
いかにも口だけの軽薄な誉め言葉を上げたサトミへ、とても冷たい視線が向けられた。
「あら」
スカートの裾をちょっと摘まみ上げて膝を折る礼をしたサトミが、軽い調子で言い返した。
「こんなオシャレをしてきたレイディに向かって野獣だなんて。お姫さまも厳しいわね」
「獣を獣と言って何が悪い」
「サード」
後ろから静かな声でスチュワードが声をかけた。
「言葉つかいに気を払ってくださいませ。そのような言葉つかいは、当家の淑女にふさわしい物ではありません」
スチュワードが注意するのも尤もである。身長が一五〇センチ無いような矮躯からポンポンと乱暴な言葉が出て来る様子は、お召し物とは似合わない事に果てが無かった。
小さな拳を口元にあててコホンと咳払いをしてから彼女は喋り始めた。
「わかっているわ、スチュワード。でも、おまえだって見ているだけで気分が悪くなるものがあるでしょう? たとえば脂ぎった無能なオジサンとか、喧しいだけで教養のないオバサンとか。あたしにとってアレがまさしくそうなのよ」
「あらあら」
小学生の我儘を聞くという態度でサトミが笑顔を一層強くした。
「いちおう人間扱いしてくれるのね、ありがとう。で、今日は、私が依頼人という立場。つまり客人というのに、この家は客人をそんな失礼な態度で扱うのかしら?」
「客だから、かろうじてヒトにカウントしてやったんだ」
つかつかと室内に歩み入って彼女は言った。やはりサトミに対すると口調が戻ってしまうようだ。
「本当なら、ヒトでなくてヒル。よくて毒虫だ」
「あ、あのう」
あまりの剣幕に孝之が由美子の後ろに隠れながら声を上げた。
「ケンカはよくないと…」
「あら? これがケンカに見えまして?」
彼女は孝之の方へ顔を向けて言った。声色が戻っていたのは、もはや出来の悪いコントのようだ。
「せいぜい時候の挨拶よ」
孝之に向かって言い切ると、サトミに厳しいままの目線で訊いた。
「で?」
「紹介するね」
苦笑のような物を浮かべたサトミが、彼女と、由美子たちのほぼ中間に立った。
「こちらは今回の相談相手。『拳の魔王』こと藤原由美子女史と、『天文部員一号』の真鹿児孝之くん。こちらが変人探偵…、おっと失礼。妖怪ハンター…、違うか。心霊探偵の櫻田恋歌ちゃん」
「ちゃん?」
要らぬ前振りを重ねられて、不機嫌な顔をさらに顰めた恋歌は、それだけで人が殺せそうな熱量を持った視線をサトミに向けた。
「年上に、なんだその態度は」
「ええ~」
サトミがとても不本意だという声を上げた。
「だって恋歌ちゃんは、恋歌ちゃんじゃない」
「イズミの紹介だから付き合うが、そうじゃなかったら、この屋敷に出入りを禁じているところだ」
クワッと牙を剥くように口を開いたが、由美子の方に向いた時には、相変わらず不機嫌そうな表情ではあったが、普通の顔に戻っていた。
「で?」
「今日はよろしくお願いします」
水を向けられた由美子は、さすが社長令嬢といった態度で頭を下げた。
「サトミの同級生の藤原です。こちらはクラスメイトの真鹿児くん。ほら」
「よろしく…」
挨拶しかけたところで由美子が背中を叩いた。
「帽子」
「あ」
慌てて被っていた野球帽を脱いで丸めると、今の無礼を詫びることも含めてか、深々とお辞儀をした。
「よろしくお願いします」
「『拳の魔王』? 『天文部員一号』?」
眉を顰める恋歌に、由美子は溜息を誤魔化しつつ説明を入れることになった。
「サトミがまともな呼び名を考えつくと思います?」
「たしかに」
何度も頷く恋歌から首を巡らして、由美子はサトミをロックオンした。
「後で話しがある」
由美子の一言に、恋歌も「よし」と頷き、孝之はあわあわと口に手を突っ込んだ。
「きみとは気が合いそうだ」
恋歌はニヤリと男前な微笑みを浮かべた。着ている物が、フリフリな衣装でなかったら、とても似合った事だろう。
「やーねー。不寛容は最近じゃ嫌われるのよ」
サトミが軽い調子で言ったが、少しは身の危険を感じているらしく、一歩だけ後退った。
「主に仕える者が悪魔に寛容であるわけがない。この楽園の蛇め、恥を知れ」
強い口調でサトミを怒鳴りつけた後に、恋歌は咳払いをして口調を改めた。
「で? なにやら不思議な事件に巻き込まれたとか? 相談事があると聞いているけど?」
「あたしではなくて」
由美子は一歩下がって、後ろに隠れていた孝之を前に押し出した。
「このコが」
「は、はい」
帽子を丸めて持ったままの孝之がペコリと頭を下げた。すっかり恋歌の先程までの勢いに、気を呑まれている様子であった。
「やあねえ恋歌ちゃん。相談内容はメールしといたでしょ」
サトミが横から口を挟んだ。
「マカゴくんの家に、兄弟が増えて困っているって」
「正確には認識していなかったと」
また腕組みをした恋歌は、孝之に再確認した。
「はい。絶対、去年に兄弟が生まれた事なんてないんです。だって受験だったからよく覚えていますから。勉強に大変だったし、マ…、母が全面的に協力してくれたことも覚えています。夜食やらなにやら作ってくれたりして、お腹が大きかったら僕だって別の心配したはずなんです」
「なにも、きみが言っていることを否定するつもりは無いぞ」
恋歌は、孝之の心を解きほぐすためか、微笑んでみせた。その微笑みだけを見れば極上の物で、先ほどから飛び出している乱暴な言葉などには縁が無いように感じた。
「日本の妖怪にだって『ぬらりひょん』という奴が居る。こいつは家の中に当たり前のように入ってきて、飯を食べたり茶を飲んだりする。しかも人と出くわしても、妖怪と思うどころか家の者と誤って認識するという。今回も、そういう類の物かもしれない」
「よっ! 妖怪ハンター!」
まるで太鼓持ちのようなサトミの掛け声は無視された。
「妖怪ならば…」
チラッとそれでもサトミを見てから恋歌は続けた。
「専門外であるが、とりあえず見てみない事にはなんとも言えないな」
「…」
「ほら、スマホ」
恋歌の言葉にボーッとしていた孝之の背中を由美子は叩いた。
「あ」
慌ててジーンズの尻ポケットからスマートフォンを取り出し、急ぎすぎて操作をトチりながらも、自分が異分子と認識する兄弟の画像を呼び出した。由美子たちが<コーモーディア>で見た物と同じ、市道で遊ぶ幼子の写真である。
恋歌が精査できるように、近くの展示台の上へスマートフォンを置いた。
「ふん」
しかし恋歌は、スマートフォンを手にするどころか、一回だけチラ見しただけで鼻息を噴いた。恋歌は真っすぐと孝之を見た。何もかも見透かされているような気がして、孝之はおずおずと訊ねた。
「な、なんでしょうか」
「天使という言葉に心当たりは?」
次に恋歌から出た言葉に、息を呑む二人。
「やはりな」
「えーっと?」
一人だけ話しが分からないサトミが、困った顔を突っ込んできた。
「このコがなんだって?」
恋歌は説明するのがとても嫌そうに喋り始めた。
「天使だよ、天使。正確に言うと『無翼の天使』だ。普段は天界に住まう天使が、主命を受けて地上で活動する時に、一時的に仮初の肉体を得た状態と言えばいいかな? 他にも人の体を借りて顕現するという方法もあるけど…」
恋歌は目の悪い人が良くやるように、瞼を細め目の周りに皺を寄せて、孝之を見た。
「ソッチはもう試した様だ。それでうまく行かなかったから、顕現から受肉に方法を切り替えたってトコかな?」
二人して顔色を青くして棒を呑んだように硬直していた。恋歌は微笑みすらして訊いた。
「で? この天使は誰で、何をしに地上へ下りたか知っているのかな?」
しばらく由美子と孝之は顔を見合わせたままだった。それから視線で発言権の譲り合いをした後に、由美子が溜息をついた。
「地上の悪を滅ぼしに来たそうです」
「ほほう、悪ね」
恋歌はクルリと体の向きを変えて、サトミへ歪んだ笑みを突きつけた。
「どうやら地獄へ帰る時間が来たようだぞ」
「まだ早いですよ。…たぶん」
いつもの何を考えているのか分からない笑みを浮かべたサトミは平然と言った。
「それと、私は日本神道の人なんで、伴天連の天使とやらが来ても、なんの恐怖も感じませんしね」
「世界の三割が信じているんだ。少しは敬意を払いたまえ」
恋歌の命令口調にも肩を竦めるだけだった。
「で、ムヨクの天使さんとやらが居るという事は、ゴウヨクな天使さんも居るっていう事?」
「ちがう」
強い一言で恋歌は否定した。
「そっちのヨクではない、翼のヨクだ。まだ地上に降り立ったばかりで力が無いのだろう。本当ならば背中に白き翼が生えているはずだからな」
「あ~、そっち」
サトミは納得したように頷いてから、ちょっと顔をしかめた。
「とすると、天使なんて存在が現れたって事は、世界の仕組みは恋歌ちゃんたちが正解ってこと? まあ、どちらにしろ私は地獄行きだから構わないけど」
「そんな者たちにも救いを与えるのが当教会の役割だ」
恋歌は胸で十字を切って見せた。
「あの」
由美子は思い切って口を挟んだ。
「ラモニエルさんが…。あ、ラモニエルというのは、この天使の名前なんですが。ラモニエルさんが言うには、観測対象が変わると、自分の見え方も変わるって、言ってました」
「観測対象が変わると見え方が変わる?」
理解できなかったとばかりにサトミが困った顔をしてみせた。
「はい。キリスト教を知る人には天使に見えるかもしれないけど…」
ラモニエルが冗談のように口にしていた言葉を思い出した。
「仏教を信じる人にはそれなりに。イスラム教を信じている人にもそれなりに」
「つまり…」
うーんと小さく唸ったサトミは人差し指を立てた。
「観測対象に合わせて姿が変わるってことね?」
「そうそれ」
つい由美子はサトミを指差してしまった。
「まあ人類なんか下等生物にしか見えない超常的な存在だものねえ。真なる姿は別にあるということね」
「それは違う」
恋歌は手を振って否定した。
「人は見たいものしか見ない。そういうことだ」
「ああ」
自分の首筋を撫でながらサトミは分かったような声を上げた。
「まあ、そういうものよね」
「天使なのはわかりました」
二人の禅問答に孝之が割って入った。
「で、僕はこれからどうすればいいんでしょうか?」
「なにも」
恋歌は即答した。
「きみは、何もできやしないよ」
「それって、どういう…」
冷たい断言に、流石に顔色まで変える孝之だったが、彼が何か言う前に、恋歌は手で制した。
「知力でヒトの上を行く存在だ。きみが自分の事を怪しい存在だと思っていることを、悟っているとは思わないのか?」
「それは…」
思い当たる節でもあるのか、孝之から言葉が出てこなかった。
「もう今ごろは家を出て、自分が居た痕跡はきれいさっぱり消してしまった後だと思うぞ。その証拠に、ほら」
恋歌は孝之のスマートフォンを手に取った。優雅とも言える仕草で孝之へと差し出す。受け取ったスマートフォンの画面には、先ほどまで市道で遊ぶ幼子が写っていたはずだが、アスファルトの上に散らかった玩具しか見当たらなかった。展示台の上に置いてあった時には確かに写っていたはずの無邪気な微笑みはどこにも無かった。
「ええっ」
「きみは、この天使が顕現する時に肉体を貸した身だから、記憶は保持されるだろう。が、家族はもう誰もこのコのことは覚えていないだろう」
「ど、どうして…」
正体不明の兄弟が居た時の不気味さから、得体のしれない喪失感に心が入れ替わっていた。
「それは簡単だ。きみが地上ではアテにならないと、この天使…、ラモニエルか? とやらは判断したのであろうな」
「そんな…」
孝之はポロポロと涙を流し始めた。涙を見て恋歌は不思議そうに訊ねた。
「なぜ泣く? 感じていた違和感の正体がはっきりして、すっきりしたのではないのか?」
「頼ってくれてもよかったのに…」
立ったまま帽子ごとスマートフォンを握りしめて泣き始めた孝之は、かろうじてそれだけ口にした。
「泣くなよ」
見かねた由美子がハンカチを差し出し、そっと前から抱きしめた。孝之はされるがままに、その細い肩に顔を埋めた。
「…」
「お?」
恋歌がちょっと音程を外したような声を上げた。彼女は彼を慰める彼女の方を見ておらず、別の方角を観察していた。ジロジロと(身長差もあって)下からサトミの顔を覗き込んでいるのだ。
「めずらしい。嫉妬か?」
「そういうものではない」
サトミは女言葉をやめて機械的に言った。
「お姉ちゃんの胸の中で泣かせてあげるよ」
ニンマリと笑った恋歌は、両腕を広げてサトミを誘うかのようなポーズを取った。
包容力のある所を見せた恋歌をしばし見つめるサトミ。
「すまん。ロリータ趣味はないもんで」
すげなくサトミは断った。
「ムキーッ! 二三歳のドコがロリータなんだよ!」
「ええっ」
フリルスカートなのに地団駄を踏む恋歌の年齢に由美子が声を上げ、その衝撃に孝之すら振り返った。
「あれ? 恋歌ちゃんは二二歳じゃなかった?」
女言葉に戻ったサトミが不思議そうに訊ねた。サトミの疑問に、胸を張って恋歌はこたえた。
「誕生日がきたんですーぅ」
成人女性というより小学生のように、恋歌は口を尖らせた。
対するサトミの態度は、小さい子の我儘を聞く母親のような物になっていた。
「あら、それはおめでとう。いつだったの?」
「先月の二十九日だ」
どうだ凄いだろうと言わんばかりに胸を張る恋歌の前で、サトミはきっちり三秒間、首を傾げて考え事をした。
「ああ。ベニト・ムッソリーニの誕生日と同じなのね」
「フランスのエトワール凱旋門ができた日って言えよな」
クワッと牙を剥くが、やはり沸点の低さは成人女性というより小学生という印象しか浮かばなかった。
「てっきり、しょ…、中学生くらいかと」
流石に自分と同じくらいとは由美子でも言えなかった。
斜め前にいるサトミの方が、よっぽど成人女性に見えた。ただしサトミは成人でも女性でもないのだが。
「いいじゃない、若く見られるってことは」
サトミはニコニコとして言った。
「私が知っている人…、ここでは池田和美(仮名)って事にしておくわ…、その人は、女は二十歳を過ぎてからは、毎年十八歳の誕生日が来るって言ってたわよ」
「そこは十七歳じゃないのか?」
恋歌の質問に、全員が同時にツッコミを入れていた。
「おいおい」
夏の長い太陽もそろそろ傾いて来た。
十年一日のごとく入院病棟では同じ光景が繰り返される。つまり夕方の検診が始まり、時間は早いが夕食の配膳だって準備が始まる時間である。
エレベーターを降りるとまず目に入るのが、ケージの到着を待つための広い空間であった。体の不自由な者でも待てるように清潔そうなソファが置かれたホールが来院者を出迎える。
ホールを抜けて防火壁を抜けると、半円形をしたナースステーションであるが、忙しい時間のためか、広さの割に人影はまばらであった。
しかし、その数人の看護師は一様にギョッとして、エレベーターから降りてきた人物を見た。
やって来たのは夏だというのに黒いスーツを着込んだ若い男である。
場所柄、そういったファッションは誤解を生みやすいので、避けて欲しい服装であった。暦の上では秋になってはいるが、まだまだ厳しい残暑が続いているというのに、汗一つ搔いている様子は無かった。それが余計に彼を超常的な存在に見える効果を生んでいた。
いちおう服飾に詳しい人間が見れば、黒い色をしていても夏用の裏地の無いスーツではあった。女優は夏の撮影でも冬のシーンだと精神力で汗を止めるという。汗の方は、もしかしたらソレと同じ現象なのかもしれなかった。
まあ、もちろん入院病棟内には四六時中空調がかけられており、ベッドへ横になる患者たちが不快になるような室温ではないのだが。
不吉な色のスーツを身につけてはいるが、青年が小さな花束を小脇に抱えた姿から、見舞客であることは間違いないだろう。
中折れ帽で顔の上半分を、モミアゲから続く顎髭で顔の下半分を隠した青年は、長い手足を優雅に動かして、ナースステーションの前を通過した。
いちおう防犯上の理由で見舞客はナースステーションの名簿にサインしなければならないが、忙しさゆえか注意する者はいなかった。
青年は、東西に長い二本の廊下とそれを繋ぐ南北の短い廊下という、セブン・セグメントディスプレイの八の形になっているこの階をゆっくりと歩き回った。様々な仕事で看護師だけでなく病院の職員も廊下を行き交っているが、特に邪魔をする様子もないので、ほぼ無視される形となった。
各部屋の入り口に掲げられているネームプレートを確認している事から、知り合いが入院したが、部屋の号数は教わっていないものと思われた。
南側の通路を行き着き、一番東端の部屋まで来た。
青年は一周だけ自分の周りを確認した。
どんな人ごみでも、ふと人の関心が別に向く瞬間がある。そんな空気を読んだ瞬間に、彼は音もたてずに引き戸を開けた。
自重で自動的に閉まるようになっている扉は、全部開くと相当な間口が取れるようになっている。その機能をケチるように三〇センチだけ開いた隙間に、影だけが差し込んだ風を装って、青年の姿が廊下から消えた。
足元は革靴だというのに、まったく音がしなかった。
ここの部屋は個室であった。手前に付添人のためであろうかシャワールームや流しなどを備えた空間があり、その奥が病室となっていた。
窓際に置かれたベッドは、カーテンで囲われていた。脇に立てられた複数のスタンドには、点滴や薬液を注入するための輸液ポンプがリズミカルな音を立てていた。他にもベッドの脇からはカテーテルと繋がったパックがぶら下げられているし、壁から補給される酸素を患者へ供給する管がカーテンの中へと消えていた。
青年は小脇に挟んだ花束を、近くに用意されていた椅子へと置くと、一切の音を消したまま閉じられたカーテンへと近づいた。
あるかないかの空調による空気の動きでカーテンが少しだけ動き、隙間を作った。青年にはそれだけの間隙で充分だったようだ。
ベッドには、鼻から酸素補給用のチューブを差し込まれ、それでも足りないのか顔半分を覆う酸素マスクをかけられた、この部屋の主が寝息を立てていた。
脇には心肺能力を計測する器械が置かれて、現在の心拍と呼吸数、それと血中酸素濃度を表示していた。
小柄な入院患者である。髪の長さや面差しから小学生ぐらいの女の子に見えたが、青年は彼女の事を知っていた。
「…」
何か言いたげに口を開いた彼であるが、ハッと振り返り、音を立てないまま花束を回収すると、入り口脇にあるシャワールームへと身を隠した。
「いつも、ごめんなさいね」
「いいえ、そんなことは」
どうやら本物の見舞客が来たようである。中年女性と制服姿の少女という組み合わせだ。
引き戸を開けて個室へと入って来た。片方は入院患者の母親であろうか、中年の女性であった。おそらく仕事の帰りで、茶色いスーツに化粧は抑えめといった感じだった。
もう一人は学生であった。ただ入院患者の姉妹とは思えない。まず面差しが全く似ていなかった。気の強そうな魅力的な瞳に、ちょっとほったらかしていたら伸びてしまったといった感じの中途半端な髪をしていた。
紺色のプリーツスカートに、同色のベスト、ブラウスの胸元を占める臙脂色のネクタイというのは、この近くにある清隆学園高等部の女子用夏季制服であった。
「起きてる?」
もし相手が寝ていたら起こさない程度の声量で、二人はカーテンをめくった。どうやら彼女はまだ寝ているようだ。
その時、何かが軋むような音がした。
「?」
制服姿の彼女が入り口の方を振り返ったが、二人が入室した時に開けた引き戸が、自重で閉まる所だった。
誰かの影を見たわけでもないが、少女は不思議そうに扉を見ていた。
間一髪、被発見を免れた侵入者は、まだ同じ階にいた。
不法侵入なんてしていませんという何食わぬ顔で、花束を小脇に抱えたまま、ナースステーションを覗き込んだ。
一仕事を終えたのだろう、タブロイド端末でゆっくりとデータ入力をしていた若い看護師が、彼に気が付いた。
「なにか?」
取り敢えずデータ入力の手を止めて、カウンターの方まで出て来た。
「あ~」
ポリポリと額の辺りを掻いた青年は、渋々といった調子で口を開いた。
「ここに池田和美っていう女が入院しているって聞いたんだが」
とても渋い声である。まるで小林清志か、大塚明夫のような重みのある声だった。だが同じ渋い声でも銀河万丈といった感じではなかった。
「いけださま?」
キョトンとした看護師は、壁にあるナースコールの表示板へ目を向けた。そこには各病室に入っている全ての患者の名前が表示されていた。
「ええと、本当にコチラに入院していると聞いたのですか?」
「ああ」
少し顎を引いて頷いて見せる青年。
「酷い脱肛で緊急手術って聞いたんだが」
「脱肛? 肛門科は本館四階の外科病棟になりますよ。こちらは別館の三階ですから、一時的な患者さんはいらっしゃらないのですが」
「一時的?」
不思議な言い回しに青年が眉を顰めた。
「ええ」
看護師は「言わなくても分かるでしょう」とばかりの態度で、目線をエレベーターの方へ移した。
エレベーターホールとナースステーションの境目の防火壁には、この階層が取り扱っている患者の科目が掲示されていた。
白いゴシック体で「終末医療」「ホスピス」と書かれていた。
「ああ、じゃあ俺の勘違いかな? ん?」
青年の眼光が鋭くなった。
「?」
意味が分からずキョトンとしていると、途端にナースステーションの中が騒がしくなった。
壁面のナースコールがけたたましく鳴り、病室の機器をモニターしている端末が警告音を立てた。
「ええ!」
慌てて看護師がモニター端末へ駆け寄ると、廊下の方から怒鳴り声が聞こえてきた。
「三〇三の小山さんに、ACLSの台車を持って来て!」
「はい!」
端末の所から南側の廊下へ顔を出した看護師は、ナースステーションの端に停められていた二階建ての台車を押して駆け出した。上にはコードが束ねられた器械が、下段には各種薬品とパウチされた注射器などが整然と詰められていた。
「ごめんなさいね!」
急いで台車を押して行く背中は、まだカウンターの所で行先を見失って困った風の青年なんて関わっていられないと言っていた。
青年は素早く左右に視線を走らせた。無人になったナースステーションのカウンターを青年は軽々と飛び越え、最初に看護師が弄っていた端末へと駆け寄った。
慣れた調子で端末を叩き、電子カルテを検索し始めた。
「あった…」
求めていたデータを見つけると、とても小さな声で感嘆の声を漏らした。
重度の肋膜腫。注意、硫酸モルヒネ徐放剤投薬患者。特記として第三段階疼痛管理と書かれていた。
「ふむ」
これで納得いったのか青年は何度も頷いた。それから何かまだ気になることがあったのか、電子カルテの再検索を始めた。
「?」
画面から顔を上げて後ろを振り返った。だが背後には誰もいない。しかし、まるで壁を透視しているかのように、誰かがナースステーションの方へ駆けて来る足音に合わせて首を巡らせた。
「すみませーん」
走り込んできたのは、さきほどの個室に入院している患者を見舞いに来た女子高生であった。途端に風が吹いたような気がした。
「あれ?」
しかしナースステーションの中は空っぽであった。緊急に呼び出された看護師は、まだ戻ってきていないし、ましてや不法侵入している黒いスーツの青年なんて、影も形も無かった。
「誰もいないのかな?」
独りごちた少女は首を傾げ、中をよく見ようと首を伸ばした。
やはり誰もいないようだ。
「すみませーん」
今度は声を小さくして、少女はナースステーションの中へと入った。二十四時間体制で看護師がいるココには、奥に仮眠室があることを彼女は知っていたのだ。
「なんか機械の表示がおかしくなっちゃったんですけど…」
キョロキョロと見回すが、やはり誰もいないようだ。そこだけ畳敷きになっている仮眠室にも人の気配はなかった。
誰もいない事を確認した彼女は溜息をつき、部屋へ戻ろうと振り返った。
その視界に、開きっぱなしの端末が目に入った。
一度は視界に流れるままにしたソレに、まるで磁力があったかのように引き付けられる少女。
「電子カルテ? 『サトミヒロシ』?」
少女にはその名前に見覚えがあった。
車寄せにタクシーが並んでいた。
もう陽が沈んで、地平線に広がる東京の町並みには夕陽の名残のようなオレンジ色しか残っていなかった。
しかし残暑厳しい時期である。今夜の東京も熱帯夜であることは間違いないだろう。
ここら辺では一番大きい建物である公立病院から出てきた黒いスーツ姿の男は、病院を囲うように残された武蔵野の面影を残す雑木林を見回し、駐車場の方へと歩き出した。
彼はスーツのポケットから紺色をした紙箱を取り出した。片手で蓋を開くと、だいぶ減った中身を一本摘まみ上げて、口元へと持って行った。
手に残した一本を咥えると、箱ごと両手をポケットへと突っ込んだ。
「火をお点けしましょうか?」
彼へ丁寧な声で話しかける者がいた。
「あ?」
意外そうに振り返ると、植え込みの間に置かれたベンチに、とても中性的な人物が腰かけていた。
彼が自分を認めたのを見て取ると、立って歩み寄ってきた。
「こいつはそんな物じゃねえぜ」
青年は白い筒状に巻かれた包み紙を剥くと、ポリポリと齧り始めた。
「ていうか自分で来られるなら自分で調べろ」
とても不機嫌そうに告げた。
「だってえ」
薄い水色をしたパジャマという外を歩くには適さない格好の相手が、拗ねた女性のように身を捩った。
「入院患者であるオレが、他の病棟をうろついていたら、目立ちすぎるでしょ」
「『オレ』ということは、今はサトミでは無いのか」
「まあ、この格好だし」
自分の華奢な体を見おろした。検査の後だろうか、アチコチに器具が取り付けられていたような跡があるし、右手にはタイヤのついたスタンドを握っていた。スタンドには透明な生理食塩水のパックが吊るされ、入院患者の腕とチューブで繋がっていた。
自分の姿を確認した後、ニッと悪戯を考え付いた男子小学生のような表情で、今度は相手の姿を上から下まで確認した。
「昨日まで無かったお髭なんて生やして。暑くないの?」
「まあ暑いな」
外の熱気で噴きだした汗が不快なのか、ポリポリと顎の辺りを掻いてみせた。
「変装なんて慣れない事はするもんじゃないな」
「ウツラなら顔バレしてないんだから、素顔でも良かったんじゃない?」
「予防だ。現に藤原さんとすれ違うハメになったぜ」
「まあ」
目を丸くする入院患者をつまらなそうに見た青年…、不破空楽は機嫌を損ねたような声を出した。
「貴様、なんでココに居る?」
「そりゃ入院しているからに決まっているでしょ」
ただでさえ中性的な外見に加えて、口調すらどっちつかずの物だから、とても非現実的な存在に感じられた。服装だけならば彼と同じように変装かもしれないが、白い肌にブチのように残された注射の痕は作り物に見えなかった。
「入院なんてして。やっぱり頭が悪いのか?」
「そうなのよ」
両手を拝むように合わせて、作った笑顔を向けてきた。
「ほらオレ、顔は良いんだけど頭が悪くてさ」
「貴様…」
なにか指摘しようとして、空楽は声を詰まらせた。
「なあに?」
クリクリと瞳がちな目で顔を覗き込まれた。もし正体を知らなければ恋をしてしまいそうな表情だった。
空楽は、何か言い返す代わりに、見舞客として振る舞うために用意した花束を差し出した。
「…」
「お花? どうしたのコレ」
「見舞いと言ったら花だろ?」
「…、まあそうかもね」
ちょっと眉を顰めて考えるその顔へ押し付けるようにして手渡した。
「なあに? オレへのお見舞い?」
「やる」
花束を手放した空楽は、後を見ずに歩き出した。
「まあ、ありがとうと言わせてもらうわ」
「勝手にしろ」
「で? どうだったの? 彼女」
振り返らない背中に、大きな声がかけられた。
「後で纏めたら話す」
「楽しみにしているわ」
そっけないこたえに返事をした後、入院患者は匂いを満喫するかのように、花束を抱きしめた。
「お見舞いにはお花ね…」
青年の残した言葉を噛み締めるように入院患者は繰り返した。
終電間近になって、駅を通過する貨物列車が多くなってきたようだ。
踏切待ちをしているハイヤーの窓から、電車では聞かれないガシャンガシャンという自動連結器が擦れあう金属音が、車内へと侵入して来ていた。
「ふう」
ナイトドレス姿の彼女がため息をついたのも、当たり前というやつだ。昼間の研究所での勤務だけでも疲れるというのに、今日は夕方から学会や政界のお偉方との立食パーティというスケジュールをこなしたのだ。
多分に見合い相手の紹介という意味も含まれた集まりであった。彼女の様に研究一筋の女性は、男性社会である理系の研究畑では、なにかと煙たがられるのだ。
まだ結婚なんて考えるのは早いと思っている彼女であるが、このまま上司につきあって、ああいう集まりに参加していると、適当な国会議員候補の奥さまという未来を押し付けられてしまうかもしれない。
まあ、それが嫌だとは言っても、別のビジョンがあるわけでもなかったが。ただ雑用ばかり増えて一向に進まない研究と、高校生の世話をしているような立場からは、いつか抜け出したい気持ちもあった。
何の気も無しに車窓を確認すると、もう目的地の傍であった。
長い列車が通り過ぎると警報器が鳴りやんで遮断機が上がった。いっさいの揺れを感じさせないように、丁寧な運転でハイヤーは走り出した。
目が黒い墓標のような物を追う。もちろん駅前の一等地に墓標を建てておく余裕は東京にはない。あれはここら辺でも有数な高級マンションなのだ。
黒曜石の一枚板の様に滑らかな表面が、街の灯りを反射していて幻想的な雰囲気を醸し出していた。航空衝突防止灯の赤色がアクセントであった。
この駅は国道から直に駅前ロータリーに入ることができないという不思議仕様となっており、踏切を渡ったハイヤーは一旦北へ行きすぎてから、交差点を二つ曲がって幅の広い通称「大学通り」へと出た。有名私大のキャンパスがあるというのが、この地方自治体の特色なのだ。
広い「大学通り」の突き当りが駅前ロータリーだった。
ラウンドアバウトのごとく時計回りに進入し、駅にケンカを売っているような位置にあるケーキ屋の前を通過した。ロータリーが膨らんだようになっている線路沿いがマンションの車寄せであった。
これまたショックを感じさせない二段階制動で停車したハイヤーは、マンションの正面エントランスのド真ん前にピッタリとつけた。
「?」
車寄せにはもう一台停車している車があった。屋根の上の行燈からしてワゴンタクシーであろう。運転手らしき男が人待ち顔でフロントウィンドを拭いていた。
彼女の乗っているハイヤーから、サッと下りた運転手がボンネットの前を通っている内に、身の回りの物を確認する。スマートフォンなどは出していなかったので、ハンドバッグの口がちゃんと閉じているかを確認するだけでよかった。
「到着です」
「ご苦労様です」
本当はそんな物を用意しなくてもいいのだが、彼女はハンドバッグから小さな祝い袋を差し出した。ちなみに料金は年契約なので、毎月口座からの引き落としだ。
「こんな遅くにごめんなさいね。これは心ばかり」
「いえ、そんな」
余分なチップは受け付けないようにと社内教育がされているのか、制帽を被った運転手はあからさまに戸惑った顔をした。
「受け取って下さい」
半ば強引に胸板へ押し付けるように差し出すと、中年のショーファーは取り敢えず祝い袋を手に取った。
「困ります」
「一度出したものを返されるのも困るわ。お茶代ですから」
ニッコリ笑ってエントランスへと歩き出した。
受け取っていい物か悩んで立ち尽くしている様子が、磨き上げられたガラス扉に映っていた。
正面に広い間口の自動ドア、その両横に狭い自動ドアと三つの入り口が並んでいる。その内、彼女は右の自動ドアに近づいた。
正面の一番立派な入り口は、意外に思えるかもしれないが、住居スペースへと繋がってはいないのだ。では何のための入り口かというと、上階に入っているトレーニングジムや高級レストランを利用する一般客のための物なのだ。入ると画廊を兼ねたエレベーターホールとなっており、途中階には停止しないエレベーターが設置されていた。
対して彼女が向かった自動ドアは、住民専用の入り口となっている。ちなみに左の自動ドアは地下駐車場への入り口だ。
向かって右側にあるコンソレットへ鍵を差し込んで回すと、鈴やかな確認音がして自動ドアが解放された。
狭い廊下をまっすぐ行けば住民用エレベーターホールに出るが、彼女は横道に逸れた。各部屋の郵便ポストが並んでいる区画がそこにある。赤と緑のLEDがたくさん灯っていて、まるで星空のような空間であった。投函があるとLEDが緑から赤に変わるという単純な仕掛けなのだが、ちょっと暗い区画なので想像力が刺激された。
彼女は一つのLEDが赤色に変わっていることに気づき、再び鍵を取り出した。
カタンという音を立ててポストを開くと、バサバサと派手な音を立てて大量の紙が床へ
散らかった。
「ふうむ」
抗議するような声を漏らしてから、散らかった紙を拾い集める。ついでに離れた位置にある電球色をしたダウンライトの光の輪まで持って行く。天井から投げかけられる光で、チラシや広告などの重要度が低い物と、真に必要な郵便物を仕分けた。
チラシなどは区画の隅に置いてあるゴミ箱へ放り込んだ。
手元に残った物の宛名などを確認しつつ通路に戻ると、ちょうど住人用のエレベーターが一階に到着したようだ。控え目なチンという音と共に扉が開いた。
「さきに行くよぉ」
中年の男女と、背は高いが中学生ぐらいの女の子がケージから降りてきた。推理するまでもなく親子であろう。優しそうな父親と、どこか困ったような顔をしている母親、この二人が車輪のついた大きな旅行鞄を二つもケージから降ろそうと努力していた。そして赤い縁をした眼鏡をかけた女の子は、何も持たない身軽さのまま長い髪を靡かせて振り返った。
「にしし」
同性でも可愛いなと思える微笑みを見せて、眼鏡の女の子は彼女の脇を駆け抜け、自動ドアの方へと行ってしまった。
いまだ荷物に手間取っている夫婦と走って行った子供、そして表に停車していたワゴンタクシーが結びついた。どうやらこんな時間だが、海外など遠くへ出かけるようだ。いや、もしかしたら明日の早い便の飛行機のため、この時間から出て、空港近くのホテルで仮泊するのかもしれない。
エレベーターとは反対にあるカウンターには警備員が座っていた。彼はケージから荷物を降ろすのに苦労している夫婦を無視するように、何か書類に目を通していた。
普段なら警備員に挨拶をするところなのだが、なにせ扉に荷物が挟まりそうであった。慌てて彼女が壁のボタンを押して止めてやった。
「ありがとうございます」
礼を言われて頭を下げられたが、同じマンションとはいえ見知らぬ顔であった。だが、このぐらいの親切心は持ち合わせているつもりだ。
「どういたしまして」
頭を何度も下げる夫婦と入れ違いにケージへと乗り込んだ。申し訳なさそうな二人の顔をケージの扉が遮った。
目的階のボタンを押し込むと、ズウーンというモーターの駆動音が聞こえて、階数表示が加算されていった。
駅前の一等地に立つマンションとは言っても、部屋のグレードはピンキリである。彼女がエレベーターから降りたのは、中ほどの階層であった。
なにせ高給が保証された企業の研究員などと違って、金の稼げない仕事である。まあ、今夜の様にいわゆる「先生」という奴と知り合いになって、支援をしてもらえば贅沢が出来ないことはないが。
目的階で降りると、変形五角形といったホールとなっており、エレベーターを待つためのベンチや、坪庭風のスペースが設けられていた。
坪庭にはオウゴンカズラらしい観葉植物が飾ってあった。
変形のホールから短い廊下を歩いて、一番端の部屋に辿り着いた。
「はぁ」
やっと家に着いた安堵感から、また溜息をついてしまった。扉を前に気を取り直し、手に持ったままにしていた鍵をドアへ差し込んだ。
解錠してドアの中へ。室内は真っ暗であった。
猫でも飼えばと言われた事があるが、ペットなどいない完全な一人暮らしである。なにせ研究が佳境に入ったら、何日も家に帰らない事があるのだ。もし犬や猫を飼っていたとしても、餌を与えるという基本中の基本すらできずに死なせてしまう可能性の方が高かった。
それでも暗闇に寂しさを感じるのか、彼女は玄関の上がり口脇にある照明のスイッチを全部入れた。
「あー」
灯りが目に入ってホッとしたのか意味不明の声が出た。黒い大理石で化粧された玄関から伸びるウッドフローリングの廊下。両脇に立つ木製のドアの右側が開けっ放しになっていた。
開けっ放しのドアをくぐり、部屋の明かりを点ける。
ここは四畳半の狭い部屋だが、彼女は部屋全体をウォークインクローゼットとして使用していた。
通販で購入した物干し台を縦に並べて、フォーマルからカジュアルまで色々な服を吊るしたままにしてあった。
少々乱暴にハンドバッグを窓際に設置した棚へ置き、ナイトドレスを脱ぐとそちらは傍らにある衣装ケースの上に放り投げた。
「あ」
履いていたストッキングが伝線していた。忌々し気に脱いで壁際のゴミ箱へと投げ入れた。
下着だけとなった彼女は、いつも室内で過ごす服装を身に着けた。男物のカッターシャツに緩めのカーペンターパンツという体を締め付けることが無い服装だ。
「はあ」
やっと肩肘を張らずに過ごせる格好になって、安堵の溜息をつくと、ハンドバッグから抜いたスマートフォンと、脱いだナイトドレスを持って、廊下へと出た。
部屋の明かりはスマートフォンのお尻でスイッチを叩くようにして消した。
廊下を横切って、斜め前の部屋へと移動する。
照明のスイッチを入れると眩しいぐらいになった。手ごろな洗面台に椅子を備えた化粧スペースである。
風呂の脱衣所も兼ねているため、ドラム式の洗濯機を据え付けてあった。
洗濯機の横には緑と赤の洗濯籠を置いていた。このうち緑は自宅で洗濯する物を放り込んであるが、赤の方は定期的に品物を取りに来るクリーニング店へ渡す物が放り込んである。ナイトドレスを赤の洗濯籠へと突っ込んだ。
洗面台の前に座ると、スマートフォンを傍らに置き、そこいらに散らかしっぱなしにしている髪ゴムで長い髪を後ろに纏めた。
それからは毎日のようにやっている作業だ。洗顔クリームを使って化粧を落として、化粧水を含ませたコットンで顔を拭っていく。一通り終わらせたところで保湿ジェルを使用して整えた。本当ならすぐにお風呂に入るのがいいのだが、帰って来たばかりでそこまで腰が軽くなかった。
最後に、たくさん積み上げているタオルの一枚を取って、匂いを確認するように顔を埋めた。もちろん化粧を落とす時に何枚も使ったタオルは緑の洗濯籠行きだ。
「はあ、ふう」
また出た溜息で、もうちょっと呑み足す気分になった彼女は、最後のタオルを首にかけて立ち上がった。
廊下に出て化粧スペースからリビングダイニングへと足を向けた。
リビングダイニングと廊下とは、他の部屋とお揃いのドアで仕切られている。彼女はドアを開けてリビングへ踏み入れた。
「!」
その瞬間、胸倉を掴まれた彼女は暗闇に放り出された。
慌てて受け身を取ろうにも何もできずに、本能的に出した手と膝で床に四つん這いになるような格好で着地した。
「なかなかの部屋ですね。研究所の安月給じゃローンを払うのも大変でしょ」
若い男の声がかけられ、同時にパッと照明が点けられた。
「おおっと、動く時には慎重にな」
背後からハスッパな声をかけられたので、首だけを曲げてそちらを見た。
リビングの入り口脇には、左手に持った自動拳銃の銃口をこちらに向けた人物が立っていた。
彼女の印象は一言で表すと「黒」であった。黒い長袖Tシャツにブラックデニム、足元は同色のごついブーツであった。黒い髪に黒い瞳、持っている銃まで黒色だ。ただし肌は日本人らしいペールピンクで、可愛らしい口元からは白い爪楊枝のような物が生えていた。
知らない顔ではなかった。
「新命ヒカル…」
「ヒカル。乱暴な事はしないんじゃなかったか」
別の声が少し離れた位置から聞こえた。眼球だけを向ければ、照明のスイッチが並んでいる辺りに、デニムのボトムと無地で臙脂色をしたランニングシャツを合わせたファッションの少女が立っていた。
そちらも知らない顔ではなかった。
「海城アキラ…」
「甘ぇこと言ってんな、アキラ。こいつは敵と思って行動しろ」
ヒカルのプロフィールはざっとだが知っていた。裏の世界で暮らして来た人物にふさわしく「疑わしくは敵」という原則通りの発言だった。
「でもお」
眉を顰めたアキラは、大事故に遭わなければ普通の男子高校生として青春を謳歌していたはずの身の上である。こういう場面に出くわしたことが無い事が丸わかりの態度であった。
「立ちやがれ。ゆっくりとな」
投げ出された時に打った膝が少々傷むが怪我をしたと言うほどでもない。少し急かすように振られた銃口が命じるままに、彼女はゆっくりと立ち上がった。
これまた投げ出されたままに前に出していた手を、ゆっくりと頭の上へと差し上げて、抵抗する意志が無い事を強調した。
「手は後頭部で組むんだ。そしてアッチを見ろ」
ゆっくりと動いてリビングに面したベランダの方へと体ごと向いた。背中を向けた途端に、ヒカルの右手が乱暴に彼女の体をアチコチ、服の上から叩いた。別に攻撃というわけでは無く、武器を隠し持っているかを確認しているのだろう。
もちろん自宅で過ごすのに武器を携帯して過ごすなんていう生活はしてこなかった。
チラリと洗面台のところへ置いてきてしまったスマートフォンに思いが行った。あれが手元にあれば警察などに通報が出来たかもしれないが、当然取りに戻れる雰囲気ではなかった。
顔を向ければリビングの応接セットで白衣を着た少年が寛いでいるのが分かった。
平均的な日本人とはかけ離れた彫の深い顔。これまた平均的な日本人とは違い色素の薄い肌と髪の色。同じく色素が薄い瞳がこちらを冷静に観察していた。
白衣の下に着たままの清隆学園高等部男子用制服を確認するまでもない。他の大人たちからは「明日のノーベル賞受賞者のその候補」と噂されている御門明実であった。
星空を背景にしているように見えるが、あれは掃き出し窓の向こうに広がる夜に瞬く東京の街灯だ。
「武器は無いようだな」
離れた位置に戻ったヒカルの声はドスのきいたままだった。
「いいぜ」
明実にヒカルが許可を出すと、彼は自分の前のソファを彼女に指し示した。
「どうぞハカセ、お座りください」
明実が浮かべた微笑みに絆されたように表情を取り戻した岸田美亜博士は、意識してゆっくりと動いて彼の対面に座った。
すぐにヒカルが距離を詰めて背後に立った。銃の狙いが胸のあたりから首筋に変わったらしく、チリチリと殺気を感じた肌が粟立って行くのが分かった。
「さてと」
それでもイニシアティブを取るために、余裕のある態度でソファに腰かけると、長い脚を組んでみせた。顔を拭う振りをして、少し口元に首にかけたタオルの柔らかさを感じてみた。
「これはどういうことなのか、説明してくれるかな? さすがにキミたちに師と慕われることはあっても、こういった扱いはされないと思うのだが?」
三人に囲まれた岸田美亜博士は、まるで大型犬を抱えるように、自らの後ろ髪を背中から前に持って来て抱きかかえた。
芝居っけたっぷりに室内を見回して見せる。前に座る明実は余裕の表情。背後で銃を構えるヒカルは鬼の表情。そして離れた壁際に立つアキラは、とても心配げな顔をしていた。
「それともアキザネはスロバキア風の教育を受けているからなのかな? 特にその足元は」
岸田博士の前で寛いでいるように見える明実は、清隆学園高等部が登下校時に履く事を推薦している革靴のままだった。ヒカルも黒いブーツを履いたままだし、この分だとアキラも土足であろう。
「いちおう我が家は土足禁止にしているんだが?」
面白くなさそうに片眉を額の方へ上げてみせる。だがフローリングの床には、足跡一つ見つけることはできなかった。
「すみませんねハカセ」
口先だけで謝罪する明実。大仰な仕草で腕を広げて謝るような姿勢を見せるが、目が全然笑っていなかった。
「しかし、説明してもらわないといけない重要な案件が発生しましてね」
「重要な案件?」
とぼけて眉を顰めてみせた。しかし正対する少年の頭脳は、その程度の演技では誤魔化せないようだ。少しも空気が緩まなかった。
「お心当たりはありませんか?」
「ん~」
再度促されて、拳を自分の顎に当てて考え込むふりをした岸田博士は、指を鳴らしてからこたえた。
「職員用の冷蔵庫にあったプリンを食べてしまったことかな? いやあ、アレは後で買って返そうかと思っているのだが」
「やはりそうでしたか…。楽しみにしてたのに」
明実が沈痛な面持ちで頷き返した。
「そうじゃねえだろ」
狐と狸の化かし合いのような応酬に、ヒカルが痺れを切らした声を上げた。
「白膏学苑の連中に、あのバカの腕を渡したのは、おまえだろって話だ」
「バカって…」
背後のアキラが何か言いたそうな顔になったが、空気を読んだのか、それだけで黙った。
「おやあ」
わざとらしく驚いた顔を作った岸田博士はヒカルを振り返った。
「アキザネの研究を守らなくてはいけない私がなぜ? どうしてそういう嫌疑がかけられることに?」
「嫌疑…。いやハカセを嫌っているわけではないですので、疑惑ということにしておきましょうか」
明実の提案に岸田博士は頷き返した。
「では、その疑惑をなぜ私に?」
「これですよ」
明実は白衣の脇から小さめのモバイルコンピューターを取り出して開いた。あらかじめ呼び出してあったのか、研究所の廊下の映像が画面に映し出された。
「これは?」
「ハカセが我々に見せてくれた、検体窃盗犯の映像ですよ」
白い廊下だけ映されており、壁のタッチパネルが作動状態を示すパイロットランプを赤から緑に切り替えるだけの映像である。あの時の説明は、防犯カメラの映像からきれいに人物だけ消去されているというものだった。
よく観察すれば照明器具の反射板に廊下を移動する人影だけが映っているはずだ。
「この映像を解析したら、私が検体を持ち出すところでも映っていたのかな?」
「いいえ、全然。それどころか、こんな感じでした」
明実がモバイルコンピューターのタッチパネルを操作すると、画面に白くて四角い枠が現れ、照明器具へと寄って行った。
白い枠がそこの部分を切り取り、画面が拡大された。すると黒い棒のような影が確認できた。それから上から赤い線が現れると荒い画面を撫でるように下りて行き、棒のような画像を細かく分析し、影がなんとか人に見えるぐらいの画質に変化させた。
「曲面補正と拡大補正を同時に行うプログラムか。よくできている」
「まあ、オイラは天才なんで」
ニヤリと笑った明実が再びモバイルコンピューターを操作すると、何とか人に見える画像へ再び処理された。切り取られた画像は、性能の悪いデジタルカメラで隠し撮りした程度の画質で落ち着いた。
画質が悪くても、おそらく廊下の壁であろう白い背景の中を歩いている人物がはっきりと見て取れた。
「これは助手の高橋くんに見えるのだが?」
映し出された映像を見て岸田博士は感想を述べた。
荒い画面に映し出されている映像は、白衣を着た女性が青色の筒を抱えているように、見えた。
明実と一緒に研究所を訪れた事のある者なら知った顔だ。この春から清隆学園研究所に籍を持った明実につけられた助手の女性である。
「ええ。高橋さんですね」
明実が認めるように頷いた。
「では、彼女が犯人だ。なぜ私の所にキミたちが来る?」
「まあ実行犯は彼女ということでもいいでしょう。しかし、この映像こそがハカセが真犯人だということを証明しているんですよ」
「ほーう」
全身で面白くなさそうな雰囲気を演出した岸田博士だが、目は真逆で面白そうに輝いていた。どうやら教え子の推理に興味があるようだ。いやどちらかというと、どれだけ問題を解くことができたかの答え合わせをする気持ちなのかもしれない。
「続けたまえ」
まるで手招きするようにして先を催促した。
「この映像、研究所の防犯カメラの物ですよね」
「そうだが?」
明実の確認に、ちょっとだけ岸田博士の表情が曇った。
「それが、どういう風に記録されているかご存じで?」
「まあ色々と雑用を押し付けられる立場だからな。たしか警備員が二十四時間詰めている防災センターにある記録装置だと思ったが?」
岸田博士は腕を組み、記憶を検索するように、天井の方へ視線をやった。
「正確には、防災センターにある安物のハードディスクレコーダーです」
「?」
何を言っているのか分からないという顔になり、明実の顔を確認する岸田博士。
「まあ日本…、いや世界の最先端を行っている清隆学園研究所ですがね、予算が潤沢にあるわけじゃない。こんな防犯カメラの映像を保存するのにスーパーコンピューターを使うわけがない。警備の人に聞いたら、何年か前に業者が在庫整理で余った物を持って来て、安く設置したらしいですね」
「まあ金になる研究というのは、なかなか無いからな」
帰宅の途中に考えていた事である。素直に口から出てしまった。
「で、いま見せた画像。どうやって人物が消されたんだと思います?」
「それはアレだ。外部から不正にハックして…」
そこまで口にして岸田博士の動きが止まった。
「ネットに繋がってないのに?」
明実が意地悪そうに顔の右側だけ歪めた。
「さらに付け加えるなら、こんな人物だけを選択して消去するなんていうソフトが動くほど、あのレコーダーに処理能力はありませんが」
岸田博士は考えを纏めるためか、一回咳払いをした。
「だったらアレだ。外部から映像を持ち込んで、あの日の記録に上書きしたんだな」
「そうでしょうね」
あっさりと認めた明実は、上体を背もたれにあずけた。
「でも、二十四時間警備員が詰めている防災センターで、どうやってそれを成したんです?」
両腕を開いて質問した明実の前で、岸田博士は沈黙してしまった。
しばし待ち、どうやら答えが無いと判断した明実は、先を続けた。
「物理的には簡単です。録画されていた映像をUSBへとダビング。映像加工ソフトが入っている端末まで持って行って、実際に人物を消去。新たな映像をUSBに保存。それをポケットに忍ばせて再び防災センターに行き、警備員の隙を見てレコーダーのUSBポートに差し込み上書き操作をする。うん、簡単だ」
腕組みをしなおした明実は大きく頷いてから、ソファから乗り出して下から覗き込むように岸田博士の顔を見た。
「でも、ただの助手である高橋さんに、それができると本気で言えますか? いくら我々研究者よりも頭脳労働に劣る警備員だって、助手である立場の高橋さんがこんなところに何度も来るなんておかしいと思って、最低でも記憶しているんじゃないですかね? ま、普通ならレコーダーに近づきも出来ずに、入り口にあるカウンターで世間話が関の山だ。何とかレコーダーに近づけたとしても、あとで事件が発生した当日の映像が無いって事を聞いたら、映像を消去したのはアイツだって丸わかりだ。でも…」
明実は体を起こして再び背もたれに体重を預けた。
「でも、ハカセならどうです? あなたなら警備員に目撃されないように、たとえばゴミ捨てを命じるだとかして、席を外させることが容易だ。その隙にレコーダーに近づく事なんか造作もない」
「喉が渇かないか?」
岸田博士はソファから振り返った。背後では相変わらずヒカルが銃を向けていた。
「キッチンにウォーターサーバーがある。コップは適当な物を使ってくれ」
面白くなさそうに立っているヒカルはピクリとも動かなかったが、アキラが対面式のキッチンの方へと移動した。カウンター形式のシステムキッチンを回り込み、壁際に設置してある食器棚からカットグラスを二つ出した。
ちょっとだけ勝手が分からずに辺りを見回してから、ウォーターサーバーをキッチンとリビングの境目に発見した。カットグラスに冷水を汲むと、ソファセットの真ん中に置いてあるガラス卓へと配膳した。
「ちょっと呑まされちゃってね。喉が渇いたところなんだ」
アキラが下がったところでカットグラスへ手を伸ばすと、背後からカチリという金属音が聞こえた。ヒカルが構えている銃のトリガーに握力をかけたため、弾丸を激発するストライカーを発射直前まで固定して暴発を防ぐ安全機構が外れた音だ。このままトリガーを引ききれば、ストライカーが解放されて弾底のプライマーを叩きガンパウダーに着火、そのまま暴発などの異常事態が起こらなければ弾丸は発射されるはずだ。
「おいおい」
慌てて手を引いて胸の高さで掌をさらす岸田博士。
「さすがにグラスを割って凶器にするとか考えはするが、実行はしないよ。これでも頭脳労働者で、荒事には慣れていないんだ」
再び聞こえてきたカチリという音は、トリガーが戻された音であろう。岸田博士は安心してグラスを手に取り、のどを潤した。明実もほぼ同時にグラスに口をつけた。
「さて、これでもまだシラを切りますか?」
「切らせてもらおう。なにせ私が犯人という可能性は高まったが、いまだにこれだという証拠は何もないではないか」
「てめえ、そういうのを往生際が悪いって言うんだぞ」
後ろからガリリと硬い音をさせてヒカルが言った。おそらく咥えている柄付きキャンディに歯を立てたのだろう事は容易に想像がついた。
「悪くさせてもらうが? なにか?」
当然の権利とばかりに岸田博士は余裕の態度だ。
「まあ、もう一つあるんですがね」
明実の指がモバイルコンピューターへ伸び、サッと操作すると何かの表に切り替わった。
「これは?」
「事件当日の出退記録ですよ」
「ほう」
「知っての通り研究所には各部屋や各通路、至る所に非接触型のカードでロックがかかっています。通るには職員証も兼ねているカードをかざさなければなりませんが、いつ誰がどこを通ったのかは、研究所のホストコンピューターに全て記録されています。そして当日に我々が、あの実験室に出入りした記録は残されていますが、それだけです。他に出入りした者の記録は残されていません」
どうだと言わんばかりに笑顔を作る明実に、岸田博士は難しい顔で訊ねた。
「つまり、キミが持ち出したと?」
岸田博士が茶化すような事を言っても、明実の笑顔は揺るがなかった。
「オイラではありませんな。大前提を覆そうとしないでください。他に記録が無いということは…」
「誰かが、高橋さんが出入りした記録を消したと思っているわけだ」
明実が言いたいことを岸田博士は先取りしてみせた。
「もちろん不正に、欠勤や遅刻、早退の記録を消すことができないように、出退勤を管理しているホストコンピューターの領域はセキュリティが厳重に為されていますが…」
「警備員と同じ。いや、それ以上か」
どうやら誤魔化すことはできなそうだと岸田博士は肩をすくめてみせた。
「そうですね。職員の勤務管理も任されているハカセなら、管理者権限でアクセスし放題。しかもアクセス記録すら書き換え自由の立場ですからね」
「だがアキザネ」
注意を促すように岸田博士は声を張った。
「これだって状況証拠というヤツだ。私だという決定的な証拠ではない。同じ権限を持っている者ならば、私以外にも所長を含め一〇人ぐらいいるぞ」
ちょっと非難がましく唇を尖らせて岸田博士が言っても、明実の態度は揺るがなかった。
「ええそうです」
あっさりと明実は認めた。
「しかし、これだけ可能性が重なれば充分と判断しましたから、今夜お邪魔したわけで」
「ふうむ」
二十四次元の接吻数が間違えて一九、六五六二だったような難しい顔をした岸田博士は、チラリとまた背後を確認した。
「つまり?」
「簡単な話しだ」
ヒカルが出番とばかりにガラの悪い声を上げた。
「ハカセには鉛弾をいくつか喰って貰って、お喋りが楽しくなってもらおうっていう寸法さ」
「おお怖い」
演技力たっぷりに岸田博士は首を竦めた。しかしヒカルの眼力には効かなかったようだ。
「まあ数学者がビッコでも、研究に問題はなかろう?」
「ビッコでも、お喋りが楽しくならなかったら?」
「そりゃあ、これからの人生を車椅子で生活する事になるんだろうな」
まるで、これから楽しいレクリエーションが待っているかのような声だった。半分だけ振り返ってヒカルの表情を確認すると、嬉しそうに微笑んですらいた。ヒカルの向こうに立つアキラが、二人の代わりに顔を青ざめさせているのとは、対照的であった。
「歩けないのは不便ね」
「もちろん楽しくなってもらうまでには、段階があるからな。腿をいきなり撃ったりしねえ。足の指からだ。どうだ? とりあえずパンプスでも誤魔化せる場所からだぞ、ありがてえだろ? それからまだまだ楽しい事は続くぜ。なにせ口頭既述だって研究は続けられるからな」
岸田博士は大きな溜息をついた。後ろに向けていた顔を正面の明実へと戻した。
「他の部長には映像の件は無理ね。両方を満たす人物となると、あと考えられるのは所長ぐらいか」
「まあ所長でも可能ですがね。まだ問い合わせしていません。なにせ我々と同じで頭が良い方なので、問い合わせただけで全てを悟ってしまうでしょうから。そうしたらハカセが微妙な立場に置かれることになる。ハカセが失脚したら、今度は巡り巡って自分の不利益になりますから」
ハカセはフッと笑った。
「ちゃんと大人の考え方ができるようになって、嬉しいわ」
「そこまで考えての、この行動です」
明実は両腕を広げた。
しばしリビングに沈黙が訪れた。再び駅を貨物列車が通過しているのか、遠くからゴトンゴトンというリズミカルな音が聞こえてきた。
「白状してくれませんか? どうしてオイラの検体が…」
「オレの腕だろ」
アキラのツッコミに首を竦めた明実は言いなおした。
「どうしてアキラの腕が、白膏学苑へ渡ることになったのかを」
「ふうむ」
ソファの上で胡坐をかいた岸田博士は、自分の膝に頬杖をついた。ちょっと眉を顰めて、不満そうに唇を尖らせた。
しばしの間、遠くから聞こえてくる音を楽しんでいるかのように目を閉じた。次に瞼を開いた時には、もう違う表情になっていた。
「つまり私はやり過ぎたということね」
「そういうことだ」
事実上の自白に、再びヒカルが握った自動拳銃がカチリと音をさせた。
「私も全部を把握しているわけではないけれど、まあいいわ」
ソファに座り直した彼女は、先ほどまでと声色を変えて話し始めた。
「そこまで大人の考え方ができるなら、大丈夫でしょう。そう、あの腕を白膏学苑に渡したのは私よ」
「まず右足の小指からか?」
「まあ、聞いて」
撃たれないように再度手を挙げた岸田博士は、落ち着いた口調で言った。
「お金が必要だったのよ」
「こんな贅沢してるからだろ?」
ヒカルが責めるように言ったが、彼女は冷ややかな目を返した。
「一体、どれだけの金額がかかっていると思っているのかしら、この娘は?」
「はぁ?」
咎めるような物言いに、ヒカルは意味が分からず声を裏返した。だが岸田博士の冷たい視線は揺らがなかった。
「その身体を維持する『生命の水』の話しよ。まさか、そこらからタダで湧いてきているなんて思っていないでしょうね?」
「うっ」
ヒカルは喉を詰まらせたような声を出した。
「材料費、運搬費、加工費、保管費。それだけでも結構かかっているのよ」
たしかに岸田博士の言うとおりである。アキラとヒカルの身体を維持するため『生命の水』は毎月投与しなければならないのだ。そして『生命の水』は、普通のコンビニで売っている飲み物とはかけ離れた成分で出来ている。原材料を集めるだけでも大変だし、いざ製造するのにだって金はかかっているはずなのだ。
「まあ、そうでしょう」
明実も素直に頷いた。
「希少な鉱物などをふんだんに使いますからなあ」
沈黙したヒカルに勝ち誇った視線をやってから、岸田博士は言葉を続けた。
「そんな研究所のお財布事情を分かってくれたところで、事の発端を話すと。まあ、簡単に言って、あなたたちのせいなのよ」
「ふぁ?」
いきなりヒカルと一緒に指差されて、アキラから変な声が出た。
「五月にちょっとした事件に関わったでしょ? あなたたち」
さて、何の事だろうとアキラはヒカルを見たが、ヒカルは生憎と咥えていたキャンディに歯を立てることに忙しそうだった。
「どこかの空港で大暴れしたって聞いたけど」
「ああ、あのバイトか。こっちも入り用だったんでな」
素直にヒカルは認めた。
「それで、ある人物…、簡単に言うと有力者というべき人物に目をつけられた」
「なんで?」
「片手で象殺しの拳銃を連射する女の子なんて、目立つ存在だと思わない?」
「うっ」
言葉に詰まるヒカルを見て、岸田博士は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「さらにその相棒は、自分の腕の肘から先を飛ばしてフェンスを抜くような人間業じゃ有り得ないようなこともするし」
「うっ」
今度はアキラが呻く番だった。
「二人とも、その有力者が抱えている、そういった荒事担当の部署とやりあったみたいねえ」
「直接じゃねえがな」
ヒカルが忌々しそうに認めた。
「で、自分の敵を調べるなんて、基本中の基本。あとは芋づる式にズルズルと二人の情報が集められた」
「だがのう」
明実が腕を組んだ。
「腕利きの二人組ぐらい、世の中にはゴマンといるのではないか?」
「まあね」
あっさりと認める岸田博士。
「でも自分の子飼いの兵隊たちと同じレベルを見せつける、まるで人外の膂力を持った女子高生なんて、特別でないなんてことはないでしょ?」
岸田博士が確認するように訊くと、明実は納得できるとばかりに頷いた。
「たしかに」
認めながら明実がジロリとヒカルを見た。何か言いたそうではあったが、見ただけで収めるようだ。
「この先、実弾と実弾が飛び交う裏世界で、ワイルドカードになりうる存在。有力者としては十分警戒するわよね。まあ事件自体は、その有力者の姪が用意した、さらに上を行くワイルドカードのせいで、向こうの勝ちになったみたいだけど?」
「ち」
なぜか勝ち誇った声を上げた岸田博士に、ヒカルは面白くなさそうに舌打ちを返した。咥えたキャンディの柄が不安定に揺れていた。
「で、決着が着いた後に、その有力者はどうしたと思う?」
新たな設問に、明実は視線を室内に彷徨わせた。しばしの後に岸田博士の表情を確認するように目を戻した。
「まあ、最低でもワイルドカードを自陣営に取り込もうと考えるのは不思議ではないな」
「でも、その相手が正体不明では気持ち悪いでしょ?」
「たしかに」
「そういう正体不明の者を、もっと詳しく調べて把握しておくのも戦略よね。そして調べさせて行くうちに、二人の秘密も大体分かって来た」
岸田博士は再びカットグラスに口をつけて水分を補給した。明実はというと、二人へ向ける非難がましい視線を一層厳しくした。
「厳重に情報を管理していても、相手の目の前で動かれては、隠すのにも限界があるからのう」
「で、まあ、後はお決まりの流れよ」
「お決まり?」
アキラが不安そうに訊いた。何でもない事の様に岸田博士はこたえた。
「金と権力を手にした人間が次に求める物よ」
「なんだろ?」
首を捻るアキラをヒカルがバカにするように言った。
「まあ常識的に考えれば健康、長生き。その先にあるのは不老不死」
「正解」
岸田博士は人差し指をクルリと回した。
「グループ企業の情報網を使って掴んだ眉唾な話しを、その有力者は信じて二人の身体を維持管理している組織を見つけ出し、接触してきた。つまり…」
「つまりハカセのところに話しが来たというわけか」
確認するように訊いたアキラに岸田博士が頷いた。
「そ。金ならあるから、この老いた体を若返らせてくれって」
「オイラは一言も聞いておらんがのう」
つまらなそうに明実は言い返し、ソファの上で伸びをするように座り方を変えた。その彼に、彼女は確認するように訊いた。
「そんな煩わしい話をいちいち下の者に聞かせていたら、マネジメントとしては最低じゃないかしら」
「ふうむ」
納得いったのかいかないのか、明実は自分の顎に拳を当てて考えるような素振りをした。
「他にも自衛隊やら政治家の先生やら複数の話しが来てるのよ。全部私のところで止めているけど」
明実の顔が少し難しい物となった。
「で、ここまでが前振り」
岸田博士は明実の方へ、ちょっと身を乗り出した。
「アキザネの研究がちっとも進んでいない事は把握しているわ」
「日夜努力はしておるんだがのう」
何事か考えていた様子の明実は、顎に当てていた拳を外し、またいつもの様子でこたえた。岸田博士は苦言があるとばかりに表情を変えた。
「キミの研究は、成功率が五割にも届かないし、下手をしたら生命に危険があることも分かってる」
念押しの様に言われたが、かえって明実の表情は明るい物となった。
「なにせ不老不死ですから」
「で、そんな不確かな物だからって、一度はお誘いを断ったの。本当に魅力的な金額を提示されたから、そんなことはしたくはなかったのだけれど」
「まあ万が一の場合、責任を追及されても…」
「万が一ではない。成功率は四七パーセントだ」
口を挟んだヒカルの言葉を、不満があるとばかりに明実は遮った。ヒカルはつまらなそうに鼻息を一つ噴いて言いなおした。
「よんじゅうななぱーせんとで失敗しても、責任はとれないわなあ」
そんな二人のやり取りを無視するように、岸田博士は言葉を続けた。
「一度は断った。でも、今度は地元の国立大学に、最高のスタッフと最高の設備を用意するから、九州でも研究をさせろと言って来たのよ。日本で本格的にこんなことを研究しているのはウチだけ…、というよりアキザネだけだったから、まあ研究する機関が増えれば成功率の足しになるかと思って、資料を渡したのが六月…」
「で、うまく行かなかったと」
当然の事と言わんばかりに明実は口を挟んだ。
「そうね。一例も成功させることができなかった。向こうは私に、まだ渡していないデータがあるんじゃないかとまで言って来たわ。まさかキミ、隠してはいないわよね?」
「失礼な。ハカセには全てのデータを渡しています。あれが全部だ」
本当に隠していないのだろう。自分たちの無能さを責任転嫁されたようで、明実の機嫌が悪くなった。
「で、向こうもアキザネの研究待ちとなったのだけど、キミはキミで余分な事を始めた」
「余分?」
「キミが検体と呼ぶあれらのことだ。私としては成功率を少しでも上げる研究を進めて欲しかったのだけど、余技ともいえるあれらに時間を取られて、ちっとも先に進んではいなかった」
「あれは、まあ…」
明実が鼻白んだ声を漏らした。
「あれは、あれで必要だったのですが」
岸田博士は本当かしらと言わんばかりに肩をすくめてみせた。
しばし無言で視線をやり取りしてから、岸田博士は話を続けた。
「でも、向こうの研究者たちには朗報だったのよ。実物があれば研究が進むって。腕の一本でいいからこちらに譲れって言って来た」
「それならそうと言ってくだされば…」
「素直に譲ってくれた?」
逆に問われて明実は腕を組み直してしばし考えこんだ。
「いや、渡さなかったでしょう」
「という事で」
鬼の首を取ったように岸田博士は言った。
「あなたの研究室から高橋さんに腕の一本を持ってきてもらったわけ」
三人のため息が重なった。
「まあ、上司たるオイラのさらに上司であるハカセの命令ならば、高橋さんに拒否する権利は無いようなもの。それに、もし問題化しても私に任せておきなさいとか言われたら尚更」
「そういうこと。東京から向こうへは、最初に宅配便とかも考えていたんだけど、やっぱり輸送中の事故が怖くてね。とある人物に依頼したのよ」
「ワイルドカードねえ…」
ヒカルが面白くなさそうに呟いた。ここには居ない人物に思いが飛んでいた。
「ワイルドカードというより自爆ボタンだろ、ありゃあ」
「まあそうね」
ヒカルの感想に、つい岸田博士を含めた一同が頷いてしまった。
「ワイルドカードには偶然か、それとも神の悪戯か、向こうの近くに知り合いが居てね」
「それが白膏学苑の化学部?」
「そう」
岸田博士は、話しの先回りしたアキラを指差した。
「何が『両校の更なる発展を願って』ですか」
当時、彼らを招待した理由を問われて岸田博士がこたえた言葉を思い出して指摘すると、肩を竦めて可愛らしく舌を出して見せた。
「で、あの中に車椅子の娘が居たでしょ。あの車椅子に隠して持ち出そうとしたわけ」
「高橋さんからハカセに。ハカセからワイルドカードに。そしてワイルドカードが車椅子に隠した、と」
これから為す手順を確認するように明実が言った。
「そ。車椅子なら出入口を管理しているゲートではなく、その脇にある荷物搬入用の出入口を使うから、よりバレにくいしね」
なるほどとアキラは頷いてしまった。ただ持ち出すだけなら誰かの荷物に紛れ込ませればいいはずだが、わざわざゲートを避けたということは、あそこには荷物を透視してチェックする機能か何かがあるのだろう。もちろんアキラはそんなことを今まで知らなかった。
「それでアキラの右腕は白膏学苑へと旅立ったと。で? なんで、その国立大学とやらに届かなかったんです?」
最大の疑問を明実が口にした。
「ん~、それは私のせいではないのだが」
前置きをしてから岸田博士は苦しい言い訳をしているように話し始めた。
「あの時も説明したと思うが、白膏学苑は文部科学省から科学教育重点校の指定を受けている。よって県内ならず北九州で理系に興味がある人材が集まっている。その中に柳田美也緒という女子生徒が居た。あの時も混ざっていたが、目立たない静かな娘というのが第一印象だったな」
「その柳田が?」
「彼女は検体を一目見るなり、最先端技術を突き抜けた存在ということが分かった」
「なにせ青く光る液体に浸かった、生きているヒトの右腕だからなあ」
自らの身体は『施術』によって『クリーチャー』にされてはいるが、科学に素人であるアキラがそう思うのだから、他の者がアレを見てそういう物と感じるのも当たり前だと言えた。
「で、彼女は、自ら青く光る液体…、つまり『生命の水』を調べたのだろう。これが並みの生徒ならば、正体不明で終わるところだが…」
「彼女は優秀だったということですね」
言外に「自分よりは劣りはするが」と付け加えて明実。
「幸か不幸か科学教育重点校の指定を受けた白膏学苑には、色々な器材も揃っていた」
「なるほど」
「いくつかの原核生物で効能を試し、運よく…、いや悪く? ともかく『生命の水』の秘密を知ってしまった」
岸田博士は再びカットグラスを手に取ったが、残りはわずかだった。一気にあおって飲み干すと、アキラの方へと振り返った。
アキラは何も言われずともカットグラスを受け取り、お代わりを汲んでガラス卓へと置いた。
「そこで論文に書いたのまでは分かるんですが、なぜ公式に発表されることになったのかが、いまいち理解できませんね」
本当に不思議そうに明実は訊ねた。
「柳田美也緒は、化学部の部長である三浦康介と親しい関係のようだ」
「あ~」
ヒカルが呆れた声を出した。
「あのアキラの手を握って離さなかった男か」
「ああ、あいつか」
アキラも思い出した。東京には美人が多いとか言って寄って来た男子であった。知らないとはいえ中身が男であるアキラの手を握ってナンパしようとさえした。まるで軟体生物が如く肌を撫でたりして、気味が悪かったことでアキラは彼を覚えていた。
「なんだスケコマシだったのか、あいつぁ」
「すけこまし?」
「女たらしって意味だよ」
最近ではあまり使わなくなった言葉を、ヒカルはアキラに説明してやった。
「三浦には歳が少し離れた従兄弟がおり、その者が県立大学の生命工学研究所で助手を務めていてな。そこを経由して学術雑誌への発表がなされたわけだ」
三人は顔を見合わせると溜息をついた。
「つまり運び屋に裏切られたと」
「運び屋は車椅子の娘だから、横取りされたが正解かもね」
ヒカルの言葉を岸田博士が訂正したが、なんの慰めにはならなかった。
「で? ハカセとしてはどうするつもりです?」
明実の確認に、岸田博士はずいっとソファから乗り出した。
「もう一度。今度は私自身が検体を向こうへ持って行くつもりなのだ。アキザネ、一つ融通してはくれまいか?」
「あ~、それは無理です」
明実は残念そうに即答した。
「なぜ?」
「こんなことだろうと、だいたい予想がついていましたからね。ココへ来る前に検体は破棄しました」
「やはりか」
どうやら岸田博士も明実がどう動くのか予想していたようである。乗り出していた上体をソファの背もたれに預けた。そのまま脱力したように天井を見上げた。
あからさまに肩まで落とした岸田博士に、明実は声をかけた。
「どうします?」
「どうしますと訊かれてもな。キミが研究を完成させるのを待つという、常識的な答えしか持ち合わせていないのだが」
「白膏学苑の方は?」
「まあ、アキザネでも成功率が五割を切る実験だ。あんな論文、しばらくすれば馬脚を現して、世界中からバッシングを受けることになるだろう。横取りされた検体は、仲介をしたワイルドカードに何とかしてもらおうと思う」
「では、残るは我々がハカセに対する感情といったところですかね?」
「…」
岸田博士は改めてリビングを見回した。向かいに座る明実は、まるで大人の様に堂々としているし、ヒカルは女子高生という仮の顔を捨てて本職の姿を見せていた。
一人だけ不安そうな顔で三人の顔を見比べているアキラが一番高校生らしい態度であった。
「…」
しばしの沈黙の後、岸田博士は口を開いた。
「<コーモーディア>のチョコレートパフェでどうだ?」
清隆学園の近所にある、マスターの人生と経験と魂をこめて開いている喫茶店のチョコレートパフェは、味も量も評判なのである。特にデカパフェと名付けられた品は、女子グループで一つ頼むだけで十分楽しめるとされていた。
「ちっ」
意外にも最初にヒカルが銃を引いた。銃口を上に向けてから腰に巻いたウエストポーチのようなホルスターへ、安全装置を確認しながら仕舞ってみせた。
ヒカルの態度を確認してから明実が脚を組んでみせた。
「まあ、そこら辺が妥当な線でしょうな」
「いいのかよ」
拍子抜けしたアキラがホッとした声を漏らした。
「他に落としどころがあるのか?」
逆に質問されて、アキラは目を白黒させた。
「いや、思いつかないな」
「それでだ」
余裕のある態度を取り戻した岸田博士は、とびっきりの笑顔でフローリングを指差した。
「もちろん、床の掃除はしてから帰ってくれるんだろうね」
「あ」
三人は自分の足元を再確認した。