九月の出来事B面・③
薄暗い部屋にノートパソコンが置いてあった。
電源を入れて開いてあるので、バックライトが室内唯一の明かりとなっていた。
「だから、そこからはオレのせいじゃありませんって」
カーテンを何重にも閉めた窓際に、細長い人影があった。
暗い室内を幾ばくか照らそうとする液晶画面の光から隠れているような距離であった。
「これが、お手元までオレが運ぶ契約でしたら、責任を感じるところですがね」
暗いので容姿は全く分からないが、真面目な話を誰かとしているらしい。とても大人びた口調をしている。声質はとても高く、話しているのは女性と思われるが、男言葉であった。
「~~~~~~!!!!」
責任逃れと思われるセリフを聞いてノートパソコンからは非難する音声が流れ出た。ただ発信者も身元を特定されたくないのか、だいぶエフェクト処理された声であり、ゆえに細かい言葉までは潰れてしまって、何を言っているのか半分は分からなかった。だが、言いたいことは伝わった。
「そちらの処理はシマコさんに任せますよ。大丈夫、彼女もヤリ手ですよ。なにせオレのお師匠さまだ」
「~~~~~~」
今度は落ち着いた応答。どうやら納得は出来ていないが、これからの働きに期待するというような事を言っているようだ。
「もちろん。オレは今までこのかた裏切り者を許したことがないんでね。それ相応の代償というやつを払ってもらいますよ」
人影が窓際からノートパソコンの傍に移動してきた。液晶パネルから人物に光が当たり、暗闇の中に姿を浮かび上がらせた。
見事なまでの長い金髪に、作り物のような碧い瞳。そしてこんな暗闇に浮かび上がるので幽霊のように見える…、いや人ならざる者に見えるからこそ美しい面差しだった。
どこから見ても全くの美少女が、まるで魂だけ入れ替えたように男言葉で喋った。
「話しというのはそれだけですか? オレも忙しい身でしてね。そろそろ次の仕事にかからないと…」
「~~」
ネット回線を使用しての音声通話は、相手の捨て台詞のような挨拶の言葉で終わった。
手袋に包まれた細い指がタッチパネルにのび、カーソルを動かして通信アプリが確実に終了したことを確認し、蓋を閉じた。
真っ暗になった室内でゴソゴソと、おそらくノートパソコンを片付けているのだろう気配があった。
と、突然明かりが灯り、立っていた人物は体を震わせて一瞬だけだが硬直した。
まず目立つのが鮮やかな金髪である。そしてミニグラマーに見える肢体に、銀色のスラックスと一体になった袖まで真っ赤なジャケットを身に着けていた。
照明で明るくなった室内を見回し、操作したのが誰なのか見極めようとした。
だが長机が三列に並べられた教科教室には誰も確認できなかった。
照明のスイッチは教室の前後にある出入り口付近に設けられていた。半ば硬直したように立つ教壇の位置からは、どちらも影となる場所ではなかった。
と、出入り口とは反対側に当たるカーテンが動いた。
教壇から最も遠い扉から侵入し、照明のスイッチを入れた後に、奥側に散らかっている様々な物陰を進み、窓際のカーテンの裏へ飛び込んで、次から次へとカーテンを伝って接近してきたのだろう。そうすれば教壇からは発見されづらいはずだ。
窓から教壇に至る距離を、目にも止まらない勢いで小柄な影が、彼女の長い金髪が流れる背中に向かって走り寄り、室内の照明を反射する何かを振り上げた。
無防備に見えた背中に振り下ろされるという刹那、彼女は体ごと振り返ると、小柄な影を抱きしめるようにして動きを封じた。
「そんな程度じゃ、まだまだよ。新井さん」
先ほどまでとは違い彼女は女言葉を使った。彼女の胸に飛び込む形となった小柄な影は、モグモグと膨らみの間からくぐもった声を上げた。
「あら、息ができなかったかしら」
腕を緩めると、モゾモゾと顔を出して「ぷはあ」という少々演出過多の声で息を継いだ。この二人、ただでさえ身長差があるのに、惑星開発に従事する時の作業服を模したこの服装だと、高さがあるブーツを履いているので、さらにそれが強調されるのだ。
よって襲撃者の顔の高さが、ちょうど胸の高さと同じになっていた。
抱きしめられていたのはオカッパ頭にブ厚い眼鏡をかけた少女だった。こちらの少女は清隆学園高等部で夏季制服に指定されているブラウスに紺色のスカートという姿だった。
「誰と話していたの?」
とても明るい調子で、自分を抱きしめている者へ語り掛けた。ただし、まだ右手には三○センチを超える大きな裁ちバサミが握られていた。これを背中へ突き立てようとしていた間柄とは思えないほどの親密さである。
彼女は新井尚美。二人は同じ中学出身で、さらに現在この学校ではクラスメイトという間柄であった。
「死ぬのが怖くなった老人」
腕の中の小鳥に話しかけるように優しい声でこたえた。
「それ、おかしいよ」
実際に短く笑って尚美は言った。
「サトミ以外で死ぬのが怖くない人なんているのかな?」
「私だって怖いわよ、死ぬのは…」
そこで形の良い眉を顰めた。
「いや違うわね…」
サトミと呼ばれた者は、ちょっと考えた後にニコリと天使のような笑顔を返した。朝に駅で空楽と待ち合わせしていた人物と同じ名前で呼ばれたが、到底同じ人物には見えなかった。
「死ぬより、その先に地獄が待っているのが怖いのかな? とすると死ぬこと自体は怖くない?」
自問自答してから改めて尚美の顔を見た。抱きしめた勢いで彼女の顔から少し眼鏡がずれていた。
「その割には私に殺される気マンマンに見えるけど」
「新井さんには私を殺す権利があるのを認めているだけ」
尚美の手からそっと裁ちバサミを抜きながら、サトミはこたえた。
「そうそれ」
尚美は眼鏡の奥の瞳を好奇心に輝かせて訊いた。
「なんで私だけなの? 他にも殺そうとした人いるでしょ?」
「まあね。でもハッキリと敵討ちを宣言して、堂々と切りかかって来たのは新井さんだけよ。他の人はコソコソと嫌がらせみたいな罠を仕掛けたり、陰口ぐらい」
「ふうん。なんにせよ私が殺すまで死ぬのは認めないから」
尚美は、それが食卓の塩と砂糖を入れ替えておく程度のイタズラであるかのように、物騒な事を口にした。
「寿命ぐらいは認めて欲しいかな」
ニコリと笑顔を返すサトミ。尚美もニコリと笑顔を返した。
「それも認めない。飽きるまで、私のお人形になってもらうから」
「意外と厳しいんだぜ、いい加減」
サトミは女言葉から男言葉に戻して苦笑いした。気のせいか声も野太くなったような気がする。
「最近、ゴハンが美味しかったせいか贅肉が増えてさあ」
サトミはそう言いつつ、贅肉なんか存在しないかのような見事なくびれを見せる自身のウエストを撫でた。
「肩幅も出てきたし」
サトミは尚美を解放すると、飾りボタンが縫い留められた肩のあたりを撫でて見せた。
「そお?」
もう握りしめていた裁ちバサミの事は忘れたように、尚美はサトミのラインを確認した。立てたジャケット襟から覗く鶴首の花瓶のような耳から肩へ繋がる線だけでも色っぽさがあった。
「このままオッサンになること間違いなし」
ニヤリとイタズラ小僧のような笑顔を見せた。そう、このピザン王国の国王ハルマン三世の一人娘のような外見をしている人物、サトミの本来の性は、今の外見とは全く逆の物であるはずだった。
なんでこんな格好をしているのかと言うと、本人から『加害者』を認定されている尚美が、サトミを実物大の着せ替え人形にして楽しんでいるからだ。
とある事情で命を狙うために同じ中学からサトミを追って清隆学園高等部に入学した彼女だったが、部活勧誘の場で知り合った先輩に誘われ、入部したのが被服部だった。
彼女にとって被服部で様々な衣装を縫うのは楽しかった。
ただ服を仕立てるのと、出来上がった服を着るのには、海よりも深い河が間を横切っていた。
なにせ尚美は色々な意味で「普通の女子高生」であった。
自分が、理想の体型とは程遠いシルエットしか持ち合わせていないことを充分承知していた。
かといって本職のモデルを頻繁に雇うほど、被服部の予算が潤沢にあるわけでもない。
そこで白羽の矢が立ったのが、自分が『加害者』になる予定のサトミであった。
中学生時代のとある事件からこっち、サトミの命を狙って来た尚美である。が、その手を緩める事と交換に、まるでモデルのような体型のサトミに、自分が縫ったアレコレを着てもらうことを了承させたのだ。まあ緩めると宣言しただけで、やはり先ほどみたいに隙あらば刃物を突き立てようとする事を諦めてはいないのだが。
尚美曰く「どうせ殺されるなら、何を着ても同じでしょ」と。
それで納得するサトミもサトミなのだが…。以来、他人から仮装を頼まれると嫌がるサトミが唯一リクエストに応える相手となっていた。
もちろん尚美はサトミを着せ替えるために、その素肌の全て見たことがあった。間違いなくサトミは尚美と同じ身体ではなかった。
だが詰め物で誤魔化した胸といい、モデルのようにくびれた腰といい、今のサトミはどこから見てもミス・ギャラクシーにて入賞するような美少女に見えた。見事な化け具合であった。
「で? なにか用があるの?」
「そうそう」
すっかりクラスメイトに対する態度になった尚美は本来の目的を思い出した。
「サトミに用があるって、お客さんが来てる」
「客?」
「あの図書委員の…」
「あ~、姐さんか。何の用だろ」
サトミは自分の頭を鷲掴みにした。するとズルリと見事な金髪がズレ、茶色がちな長めの髪が現れた。当たり前だ、サトミは純粋な日本人である。この金髪も碧眼も、ついでに言うなら胸も紛い物である。
ウィッグを外しただけで、駅前に現れた顔に近くなった。
「あれ? その格好は気に入らなかった? どこかサイズ、あってなかった?」
尚美は意外そうに目を丸くした。
「サイズはバッチリ。でも、これで人に会うつもりは無いわよ」
苦笑しつつ嵌めていた手袋も脱ぎ始めた。
「次は何がいい?」
「そうだなあ世界福祉事業協会の犯罪トラブルコンサルトなんかどうかな」
「そしたら誰かもう一人仲間を探して来なくっちゃ」
「あらあ?」
教壇に置いてあった容れ物へ、外した碧色のコンタクトを収めながらサトミは言った。顔に化粧はしているが、すっかり元の顔に戻っていた。
「私がケイをやるから、あなたがユリをやりなさいよ」
すると尚美はプクゥと頬を膨らませた。
「イジワル。私じゃ釣り合わない事分かっているくせに」
「そお?」
サトミの右手が伸び、尚美の顎先を捉えた。クイッと自分の方へ向かせて、身長差から上より覗き込むようにして視線を合わせた。
「新井さんも、ちゃんと可愛いんだから。自信を持って」
まるで恋に奥手になっている妹にアドバイスをする姉のような感じであった。
励まされた尚美は薄く染めた頬を見られないようにするためか、慌ててサトミの手を振り払い、背中を向けた。
「じゃあお客さんには『探し物が終わったら来る』って感じで伝えるわね」
「よろしく」
サトミの返事を聞いた新井は、被服部が更衣室として夏休みは利用している生物実験室から迷わず廊下へと出た。
夏休みの校舎には人気は無かった。
冷房の設定温度がエコロジーという言い訳で高めになっている廊下には、人影が全くなかった。それでも一応、前後を確認してから自分の胸に手を当てて、鼓動を確認するかのような仕草をした彼女は、再び顔を上げると廊下を移動した。
隣室になる被服室へと続く扉には、毒々しい紫色をした大きな貼紙がしてあった。貼紙には禍々しい字体でこう書いてあった。
「許可なくこの扉を開く者に災いあれ」
まるで室内で魔女の集会でも行われているかのような呪いの文句であるが、被服部員である尚美には、何が行われているのかはよく分かっていた。
室内では複数のトルソーが立てられ、どれもが華やかなドレスを着せられているはずだ。そして、トルソーの周囲には目の色を変えて鬼気迫る表情になった被服部員たちの姿も幻視できた。
秋に行われる『清隆祭』と名付けられた学園祭。夏休みの被服部はそこで行われる『学園コレクション』と名付けられたファッションショーの準備に忙殺されるのだ。
高等部の生徒を全員収容しても余裕がある講堂を貸し切って行われる『学園コレクション』の評判はとても高かった。清隆学園の大学に通う学生どころか、初等部(付属小学校)の児童や中等部の生徒まで見物に押しかけるという、毎年注目のコンテンツなのだ。
もちろん去年の『学園コレクション』も大盛況だった。故に今年も半端な準備をするわけには行かないのである。
夏休みの間は毎日のように登校して部員それぞれが手掛けているドレスの完成を急ぐことになるし、舞台装置や演出などに何度も会議を重ねることになる。
そしてもちろん本番まで、どんな衣装が発表されるのかは部外秘となる。
作業をする被服室は当然の如く部外者立ち入り禁止になるし、誰がどんな服を着るモデルになるかも秘密とされる。
被服室の前後にある出入口は施錠され、出入りは被服準備室からのみとなる。外部から覗かれないように、校庭に面する側はもちろん、廊下に面する側の窓にも、模造紙が張られて視界を遮っているほどだ。
もちろん九月の新学期からは、この被服室を使っての授業が再開される予定だ。それまでに完成させないと、秘密裏にドレスを完成させることは、ほぼ不可能となってしまう。
夏休みも中盤に差し掛かった現在、被服部員たちは時間との戦いに身を置いているのだった。
尚美だって本当はこんな伝書鳩のような用事をしている暇は無いのだ。
だがサトミは、尚美が担当する事になった大トリのドレスを着るモデルとなる予定なのだ。もちろん大トリの事は秘密だ。よってサトミは、対外的に被服部へ装飾を手伝いに来てもらっていることになっていた。
被服部の秘密を抱えたサトミを訪ねて来た人物がいたら、誤魔化すのは担当者である尚美となる。そういう理由だ。
ちなみに先ほどまでサトミが着ていた服装も尚美の作品であった。彼女の作る作品の出来栄えは、どれも素晴らしい物だった。よって彼女が大トリのドレスを担当する事に反対する上級生はいなかった。いや上級生たちも、ただ尻ごみをしていたのかもしれないが。
新入生がそんな大役を任されること自体が珍しい事であるが、今年はちょっと事情が違った。
本来なら大トリなんていう大役は、現役最後になる三年生たちに任されるはずだ。だが春に行われた『学園コレクション』に向けた被服部の全体会議で、三年生たちが「自信がない」と日和り、大トリの担当を「クジビキ」で決めようと言い出したのだ。
そして運悪く「アタリ」を引いてしまったのが尚美というわけだ。
いまの三年生たちには、年々期待が大きくなる『学園コレクション』への重圧が大きすぎたのだろう。
大トリを任されたこと自体に文句を言うつもりは無いが、尚美にだって自信があるわけではない。辞退するか散々迷っていた背中を押してくれたのがサトミであった。
サトミには複雑な思いがあるが、少なくとも今は彼女の敵ではないようだ。
尚美の足が被服準備室の前で止まった。いちおう教員が使用するスペースなので、彼女はちゃんとノックをしてから入室した。
「はあい」
尚美のノックに反応して返事をしたのは、細く青色のフレームをした眼鏡の良く似合う女子生徒であった。
彼女が被服部部長、大沼日鞠である。
「あ、新井ちゃん。どうだった?」
「探してもらっていた物はあったようです」
尚美は一年生ながら『学園コレクション』の大トリを任される、つまり被服部のエースということになるが、さすがに相手が一個上の二年生で部長ともなれば、丁寧な言葉遣いになる。まあ、もともと尚美は他人相手に強気に出る事があまりない性格なのだが。唯一の例外はサトミに対してだけである。
「すぐに来れるそうです」
「ですって」
ウインクをやり取りしてから、まるで言葉を受け流すかのように隣に立つ女子生徒へと振り返った。
誰でもない、清隆学園高等部図書委員会にこの人ありと、学内に勇名が轟いている藤原由美子その人である。
白いブラウスにプリーツスカートという夏季制服を、さらに崩して身に着けている尚美とは違って、由美子は猛暑期には省略しても良いという規定があるベストもちゃんと着て、エンジ色のネクタイまできっちり結んでいた。さらに胸元には、ほとんどの生徒がつけない徽章類を留めるフェルトまで、ちゃんと提げていた。
校章の下に彼女のクラスである一年一組を示す「1-1」の記号が入っているクラス章、校章の右横にある本が開いた形の徽章は図書委員会に所属していることを示す物だ。
一般的生徒では省略してしまう徽章類まで、一部の隙無く身に着けているので、彼女の人となりが伺うことができた。
尚美も被服部の部員らしく相手の服を観察する癖がついてしまったようだ。
「藤原さんも大変ねェ」
室内には、尚美と大沼部長、来訪者である由美子の他にもう一人女性が居た。被服部顧問の田沢先生だ。もちろん顧問なんて請け負うぐらいだから、先生は家庭科の授業の内、被服を担当していた。
「またトラブル?」
「は、はあ」
サトミが図書室で騒動を起こすことは全校に知られている事なので、田沢先生に訊かれることは事態に不自然ではない。が、由美子にしては珍しく、気を呑まれたような返事をした。
まあ無理もないことだ。
田沢先生は、隣の被服室へ繋がる扉を背負う様な位置に置いた椅子に腰かけていた。ここの住人と言ってもよい存在だから、そこに座っていること自体はなんら不思議な事ではない。ただ、今の田沢先生は教師らしい服装ではなく、まるでセーラー服のようなコスチュームを身に着けているのだ。
腕まくりをしたかのような袖に、白い長手袋。襟とチュチュのようなスカートは燃えるような赤。そして特徴的な胸元のリボンは紫色。さらに額にサークレットを巻いて、長くて持て余したような足先には踏まれたら痛そうな赤いハイヒールときた。
もう間違いようもなくアレであった。
「あ、あの…」
「今年はコレで行こうと思うのよ。藤原さんから見て、どお?」
「と、とてもお似合いだと思います」
由美子もコスプレなる文化があることは知ってはいたが、身近な変態以外で見るのは、ほぼ初めてだった。
(まさか、あいつも田沢先生の影響なんて事はないわよね)
背中に掻いた冷や汗を悟られないように、とても浅い笑いで誤魔化した。
「あの…」
だいぶ泳いだ目で部長の大沼に助けを求めた。
「なに?」
ちなみに大沼部長もセーラー服を着ていた。こちらは水色をしている夏用の半袖の物だ。
大沼部長が着ているセーラー服は、デザインがまともなので本当の制服に見えた。が、清隆学園高等部の制服規定には夏服にセーラー服は無い。かけている眼鏡と相まって、どちらかというと北宇治高校の吹奏楽部で金管楽器を吹いているような姿であった。
在室四人中、半分が清隆学園高等部の制服では無いという事実。しかも一人は、どちらかというと服飾規定を守らせる立場の人間であるはずだ。
(もしかしたら、被服部では、コスプレが部活動をする時の原則なのかもしれない)
変に穿った考えに捉えられそうになった由美子の耳に、まるで原住民の包囲下にある駅馬車が聞いた騎兵隊のラッパのように響いてきた音があった。
お上品に指先だけで触ったようなノックの音。続いて「おまたせ」と、男の子にしては高い声を聞いて、この異常な空間から脱出できるとばかりに、由美子は振り返った。
そして脱力した。
「おまえよぉ…」
確かに入室してきたのはサトミではあったが、こちらも普通の格好では無かった。
紺色の夏用プリーツスカートに、白いブラウス。キッチリ締めたネクタイに、スカートと同じ紺色のベストという、由美子とほぼ同じ服装だったからだ。唯一違うのは胸元に留めるフェルトが無いところだろうか。
清隆学園高等部に通っている女子生徒ならば、肩にかけたディパックも含めて普通の格好であった。由美子は知らないが、朝に駅前で空楽と待ち合わせした時の姿と同じである。
サトミの正体を知っている由美子ですら、見事と思える着こなしであった。
(だけど制服なだけマシね)
気を取り直した由美子は、大沼部長に目線を戻した。
「サトミに話しがあるンですが、いいですよね? 借りて行っても」
「それは新井ちゃんが決める事じゃない? 手伝ってもらっているのは、新井ちゃんなんだしさ」
室内の視線が一人に集中した。由美子を、ブ厚い眼鏡越しに、柔らかい表情で睨み返して来た。
「私もついて行っていいなら」
「えっ」
由美子は動揺した。あまり他人には聞かせたくない内緒話をしようと思っていたからだ。
「そうじゃないとサトミ、どこかに行っちゃって、その後手伝ってくれなくなりそうだし」
「あ~」
不覚にもついポンと手を打ってしまった。同じ音が同時に複数したのは、由美子だけでなく大沼部長や田沢先生までも、由美子を真似たように手を打っていたからだ。
「あ、ひっどいの。みんなでそういう認識なわけ?」
プクウと頬を膨らませるサトミ。女子高生というより女子中学生といった幼げな表情であった。
「じゃ、じゃあ新井さんも一緒に」
「ええ」
にこやかに微笑む彼女。由美子は尚美の笑顔の中に、何か棘のような物を感じた。
「それでは失礼します」
二人を連れて被服準備室を出た由美子は、そこで立ち止まってしまった。
「どうしたの? 姐さん?」
身長差からサトミが上から見おろしてくる。その鳩尾に意味もなくパンチを食い込ませてから、由美子は尚美と顔を見合わせた。
「どこで話しをしようか?」
「は?」
サトミは黙っていれば美少女に見える顔をポカンとさせた。
「いつもの司書室でいいじゃない」
「そういうわけには行かないの」
クワッと牙を剥いて威嚇しておいた。
「学生サロンなんてどうです?」
横からおずおずと尚美が提案した。学生サロンというのは立派な施設でもなんでもない、D棟二階のほぼ真ん中にある廊下が太くなったような場所だ。通路との仕切りが無いが、生徒たちが歓談できるようにと椅子やソファが置いてあった。
「えっと…」
由美子は戸惑った。なにせこれから内緒話をしようというのに、廊下とほぼ同じような場所では、他に聞いている者がいるかもしれないからだ。
「夏休みだから誰もいないと思うし、誰か近づいてきてもすぐにわかるし」
尚美の言う事にも一理あると思った由美子は小さく頷き返した。
「それじゃ学生サロンで」
ここから学生サロンへ行くにはD棟の廊下を西へ進み、校舎北西の角にある階段室からD棟の二階に上がるのが最短距離だ。
「新井さんは、そのお」
黙って歩くのも味気ないと思い、由美子はあまり面識がない同級生に話しかけた。
「ああいう格好はしないの?」
「ああいう?」
まるで有名大学に六浪して入学した苅野家のご長男が愛用しているような瓶底眼鏡の向こうで、尚美がキョトンとしていた。
「うん、ああいう」
「?」
要領を得ない由美子の言葉に、サトミが小さく笑い出した。
「まあ先生がアレで、部長がアレだもんねえ」
「アレ?」
いまだにキョトンとしている尚美に、苦笑したままサトミは言葉を継いだ。
「コスプレ」
「ああ」
納得の声を上げる尚美。それならそうと言ってくれれば話しが速いのにとばかりに、眼鏡を押し上げた。
「いちおうコスプレは二年生からということになっていますから」
「ウソ」
クスクス笑ったサトミが、チョンと尚美の鼻先をつついた。
「自分じゃ似合わないと思っているんでしょ? そんなことないわよ。新井さんも十分美人さんだから、コスプレしても似合うと思うけど」
「またまた」
つつかれたことで、直したばかりなのにずれた眼鏡の位置を修正しながら尚美は両手を振った。
「ああいう格好は、スタイルがいい人に任せます」
「例えば、私みたいな?」
サトミが自分の髪を掻き上げて、背中を反らすポーズを取ってみせた。
はっきり言って、この三人の中で一番色気があった。
「おまえは黙っとれ」
容赦なく由美子の拳が鳩尾に食い込んだ。
「逆に訊きますけど、何のコスプレだったら、私に似合うと思います?」
「へ?」
真剣な眼差しで訊かれて由美子は困ってしまった。そりゃあ普通の人よりも読書家である由美子の事であるから、一般的にラノベと呼ばれるジャンルもたくさん読んでいた。世間の基準では十分「オタク」の分類に入るかもしれない。だからといってスラスラとコスプレの対象になるようなキャラクターに関して熱く語れるほどの知識があるわけでもなかった。
しかし真剣な尚美の様子に、ただ黙っていられる雰囲気でもなかった。
「ええと、楠幸村とか、雪ノ下雪乃とか、泉こなたとか、立華かなでとか、初音ミクとか…」
「それって…」
尚美がジト目で睨んできた。まあ由美子が上げたキャラクターたちには、とある共通点があったからだ。
「あらあ?」
由美子の痛撃から立ち直ったサトミが、口を挟んだ。
「私だって困らないんだから、新井さんも挑戦してみたら?」
制服越しに自分の胸を持ち上げて強調してみせる。二人ともそれが紛い物だと知っているので、同時に手が出た。
「おうふ」
いつも一人分の拳しかめり込まない鳩尾へ同時に二発も喰らい、さすがにサトミも前のめりになった。
北西の階段室から二階へと上がる。そのまま廊下を南へ入ればD棟だ。
手前側には廊下を挟んで「学生会館」と「談話室」と名付けられた大部屋が並んでいた。両方とも夏休みに入る前は、男女問わず生徒たちで溢れているスペースだった。
さすがに長期休暇中では利用者がいないと思いきや、右手の「学生会館」と名付けられた大部屋の方では、数人のグループが世界地図の上に小さな模型を並べて架空の戦争を繰り広げていた。どうやらインド亜大陸を挟んで双方の艦隊が睨みあいをしているようだ。反対側の「談話室」では、電車のオモチャを通常では考えられないような広さにレールを組み上げて走らせていた。
「ん~『レッドサンブラッククロス愛好会』と、こっちは『鉄道研究会』と『プラレール同好会』の有志で結成された『列島縦断新幹線をプラレールで実現する同盟』」
廊下と仕切る扉に設けられた窓から室内を覗いたサトミが、それぞれの集団の正体を指差して教えてくれた。
双方とも普段なら考えられないような贅沢な面積を占有して遊びを満喫している様であった。もちろん後から入って来た誰かが内緒話を始める事ができるような雰囲気ではなかった。
「やっぱり新井さんが言うみたいに、学生サロンが確実かな?」
談話室に並んで監査委員会が根城にしている部屋があり、そこを過ぎると廊下が広くなっていた。
ここが目指していた学生サロンである。
もうちょっと正確に表現すると、本当は両側に存在した部屋との間仕切りを無くして、廊下を建物の幅いっぱいに拡大した一角である。
この先からは、生徒会各委員会の部屋が並んでいた。暇な生徒たちが駄弁っているために五月蠅い「学生会館」や「談話室」と違い、普段から針が落ちても気が付くような静寂に支配されている世界であった。
喧騒と静寂の境目として造られたスペースなのだ。
もちろん夏休みの今は、静けさがいつもより増して存在していた。
「大丈夫なようね」
学生サロンを見回した由美子は、無人だったことにホッとして、用意してある丸テーブルとセットの椅子へと腰かけた。
「いつもなら生徒会長あたりがうろついてるのにねえ」
同じテーブルにつきながらサトミが周囲を確認した。
尚美だけは席に着かずに、サトミの背後に立った。
「あ、そうだ」
今更気が付いたように、サトミが肩にかけてきたディパックを隣の席に置くと、サイドポケットから小銭入れを取り出した。
「なにか飲む?」
「え? 悪いわよ」
サトミにだけ出させるわけにはいかないと由美子は制服をまさぐったが、タイミングの悪いことに彼女のサイフは司書室に置いた通学用バッグの中であった。
「いいって。新井さんも何か飲むでしょ?」
取り出した小銭入れを、席に着く様子の無い尚美へと差し出した。尚美は当たり前のように受け取った。
「私はコーラね。姐さんは?」
「あたしは日本茶で」
「こおらあ?」
尚美は眉を顰めた声を出した。
「そこの自販に無いじゃない」
学生サロンには一台だけ自動販売機が設置されていたが、入っているのは紙パックの飲み物だけである。コーラなどの炭酸飲料は、同じD棟の一階にある自販機コーナーまで行かないと手に入らないはずだ。
「自販機コーナーまでお願い」
両手を合わせて拝む仕草をするサトミからは、全然申し訳なさそうな雰囲気はしなかった。
「むう」
唇を尖らせた尚美は、サトミを一睨みすると手にした小銭入れを振り回した。
「もちろん私も、自分の分を買っていいんだよね?」
「それはもちろん」
「じゃあ、行ってくる」
不満そうに出発する尚美の背中へ、笑顔で手を振るサトミ。
まだ彼女の姿が見えている段階で、由美子を見ずに訊ねて来た。
「で? 内緒話?」
「ああ」
尚美にわざわざコーラを注文した理由を察していた由美子が、ちょっと早口で話し始めた。自販機コーナーまでの距離はそんなに遠くは無いからだ。
「おまえも知っているよな、真鹿児のこと」
「あの姐さんと同じクラスの男の子?」
まだ見える尚美の背中から、ようやくサトミの視線が由美子へ向いた。
「何度か倒れたところを助けた記憶があるわね。それからどうなったの? 脳に異常でも見つかった?」
「ブルブルブル」
慌てて首を横に振ったら唇が変な音を立てた。
「でも…」
思い直して丸テーブルに肘をついた。
「似たようなもンかもしンない」
「そりゃ大変ね」
全然驚いていなさそうにサトミは反応した。
「あいつが最近ふさぎ込んでやがンの」
「へえ」
目と口を丸くしてサトミは驚いてみせた。
「お星さまさえ見てれば幸せってタイプかと思ってた」
「それはそうなんだけど」
あっさりと由美子が彼の素行を認めると、サトミが顔を曇らせた。
「?」
意味が分からず首を傾げると、改めて明るい声でサトミが訊いて来た。
「そのマカゴくんがどうしたのよ」
「あいつ最近、家で孤立してンだと」
「孤立? ネグレクトかなにか?」
不快そうにサトミの眉毛が動いた。
「そうじゃなくて、あー」
図書室で恵美子に説明した時を思い出そうとした。
「マカゴが長男で、下に小学生と一歳のアカチャンがいるンだよ、あいつンち」
「よく、お知りのようで」
つまらなそうにサトミは目を窓の外へやった。今日も猛暑日で、校庭で練習していたはずの運動部は休憩を取っているようだ。
「で、アイツ、そのアカチャンがいきなり現れたって騒いだらしい」
「いきなり現れた?」
眉を顰めた表情が帰って来た。
「テレポーテーションかなにか?」
「あー、ソッチじゃなくてな」
なんと言えばいいのか面倒臭くなって、由美子は頭を掻きむしった。
「あいつが言うには、ずっと自分と、小学生の妹の二人兄妹のつもりだったのに、いきなりアカチャンが増えたンだと」
「…」
しばらく硬直したサトミは確信した答えを掴んだ声で言った。
「つまり姐さんが産んだと」
「どいつもこいつも!」
「はぁ? なに? ちょっと!」
いきなり丸テーブル越しに扼殺されかかり、サトミは悲鳴のような声を上げた。
「何で、みんなして、高校生のあたしが赤ン坊を産んだことにしたがンの!」
「姐さんチョーク! チョーク!」
サトミの悲鳴に我を一瞬取り戻した由美子は、一旦緩めた握力を再び強めた。
「ぐへ」
慌てて椅子から飛び退るようにしてサトミは殺人者の手から逃げ出すことに成功した。
「なにすんのよ、もう」
首のあたりを直しながらサトミが非難の声を上げた。
「いや、いっそのこと、ここでトドメを差そうかと」
「過激なんだから」
物騒な事を言われながらも席に戻って来てくれるという事は、まだ内緒話には付き合ってくれるようだ。
「本当は三人兄弟なのに、一番下のコが認識できていなかった、というわけね?」
サトミの確認に、由美子は手を打った。
「そうそう。それそれ」
自分に言いたかった事を纏めた言葉を聞いて喜んだ由美子を見て、サトミが溜息をついた。
「まあ、ちょっと遅いかもしれないけど、赤ちゃん返りの一種とか?」
「下に兄弟ができると、上の子が甘えん坊さんになるっていうアレ?」
保健の授業の一環で育児の事をさらっとやった時に聞いたような気がした。
「真鹿児が?」
うーんと唸って腕組みをする。親に甘えたくて取っている行動には見えなかった。しかも小学生ならまだしも、男子高校生が今更という気もした。
「何らかの理由で一時的な記憶喪失…、まで行かなくても記憶の混乱という線は?」
「それは…」
サトミに指摘されて絶対無いと言い切れない由美子だった。なにせ彼が超常現象に巻き込まれるのを実際に目で見て体験したからだ。もしかするとそのせいかもしれないと由美子自身も薄々思っていたほどだ。
「どちらにせよ心理学の出番ね。学校のカウンセラーに相談したら? なにせタダよ」
「最終的には、それが正しいンだろうけど」
何か言い足り無さそうな由美子を見て、サトミが悪戯気な顔をしてみせた。
「大げさになるのが嫌なのね?」
「うう、まあ、う、うん」
不承不承といった感じで頷いた。
「う~ん」
今度はサトミが唇を尖らせて唸る番だった。
「姐さんが本当に心理学の問題と思っているなら、学校とは関係ない精神科の医師を紹介するぐらいのことはするでしょうから、つまり超常現象か何かの可能性のほうが強いって思っているわけね」
「うっ」
サトミの洞察にぐうの音も出なくなる由美子。
「わかったわ」
色気のあるウインクが返って来た。
「?」
「その筋の専門家に心当たりがあるから、会ってみるのはいかが?」
「変なツボとか、掛け軸とか、売りつけられないだろうな?」
薄っぺらいサトミの笑顔に警戒心が否応にも上がった。
「大丈夫…、だと思うけど」
「そこは言い切れよ~」
由美子が脱力して丸テーブルに突っ伏したところで、廊下を走って来る音がした。
顔を向けると階段室の方から、お使いを頼んだ尚美が戻って来るところだった。
「お待たせ」
三本の飲み物を、わざわざ胸の下で抱きしめるようにして持っているのは、適当な袋などを用意していなかったせいだけでは無さそうだ。
「サトミのコーラと、お茶。私は麦茶にしたよ」
「お財布は?」
サトミの質問に、キラキラ輝く笑顔を向けた尚美は言った。
「胸のポッケに入ってる。飲み物の前に取らないと、お駄賃として私が全部貰っちゃう」
「ま」
由美子の目と口が丸く開かれた。なにせ尚美は制服姿とはいえ、猛暑期には省略してもいいことになっているベストを着ていない。つまり夏用の薄いブラウスの下は、透けて見える黄色と白の縞模様をしたブラだけだ。ネクタイも締めておらず、それどころか先ほどは外していなかったボタンを、襟元から二つほど外しているから、肌の色どころか寄せた谷間の始まりが見えていた。
両腕で下から掬い上げるだけでなく、三本のペットボトルが支えているので、鳶一折紙ほどの胸部でもじゅうぶん女が強調されていた。
「ダメよ、盗っちゃ」
女を演出している尚美の胸をチラリとつまらなそうに見たサトミは、平然とブラウスのポケットに指を入れて、自分の小銭入れを回収した。
「あん」
尚美がちょいと艶っぽい声を出してみせるが、サトミはまったくの無反応で小銭入れを仕舞った。
「ちぇ」
つまらなそうに口を尖らせた尚美は、丸テーブルの上に冷えたペットボトルを散らかした。ペットボトルの結露で、ただでさえ薄地の夏用ブラウスが濡れて透けていたが、サトミは興味が無いとばかりにキャップを切って飲み始めた。
その喉へ後ろから尚美は指を食い込ませた。
「ぐ、ぐへえ」
炭酸からくるゲップなのか、首を絞められての苦しさからくる悲鳴なのか、よく分からない音がサトミの口から洩れた。
「ちょ、ちょっと」
慌てて止めようと由美子が立ち上がりかけるが、その前に尚美がサトミを解放した。
「あらあ?」
不思議そうに振り返ったサトミは、再び乱れた首元を直しながら訊ねた。
「扼殺は趣味じゃなかった?」
「私の力じゃ殺しきれないもの」
平然と尚美が言い切った。自分の握力でサトミを殺せるか否かを把握しているだけでも変な会話である。
「今日はよく首を絞められる日だこと」
二回も締められて首の具合がよろしくないのか、左手がネクタイを少し緩めた。
「で、さっきの話しなんだけど」
「は、はあ」
冗談にしては殺気立っていた尚美との会話から、コロッと表情を戻すサトミに、由美子は毒気が抜かれた。
「相談相手の予定は後で聞いておくね。たぶん忙しい方だから今日の今日というわけにはいかないと思うのよ。会える予約が取れたら姐さんに連絡すればいい?」
「う、うん。よろしく」
なぜかサトミの頭越しに睨まれるという不慣れな思いをしながら由美子は頷いた。
「こういうのも仕事って言うのか?」
安さで選んだハンバーガーセットを乗せたトレーを、狭いテーブルに置きながらアキラは訊いた。
「仕事?」
まったく同じメニューを選んだヒカルも、アキラのトレーの横に自分の分を置いた。
冒険家の大男は、話しを終えると手配があるとかで、すぐにその場で分かれた。そのまま帰宅しても問題は無いのだが、二人して駅前にあるファーストフード店へと寄ることにした。暑い中で長い話をした事で、身体も火照っていたし、なにより喉が渇いていた。
もちろん香苗には昼食を外で取ると電話はした。(じゃないと後が怖いのだ)
「あ? ああマサミチの話しか。コンサルタントだって立派な仕事だろうが」
胸を張って言いきったヒカルは、トートバッグを置いてからドスンと尻を席へおろした。
「こんさるたんと…」
いまいち反応が悪いアキラに、ヒカルは舌打ちをしながらバッグからスマートフォンをテーブルに出した。少しだけ傾けてチラリと時間だけ確認した。
「経営コンサルタントとか環境コンサルトとかと同じさ。とっとと座れ」
言い切るヒカルの姿は、実際にそういった職業についていてもおかしくない姿だ。ちゃんとした化粧をして、オフィスに勤めているような服装に、スマートフォンときた。口元のキャンディの柄は、咥えタバコに見ようとすれば見られた。
何も知らない者からならば十分にそう思われる要素しかなかった。
「あ、ああ」
改めて相棒の大人っぽい姿をまじまじと見ていると、ヒカルは顔を赤くしてソッポを向いた。
「クライム・コンサルタントだってちゃんとした職業だ。おまえだって本職に会ったことあるだろ、ネモ船長とか」
「ああ~」
ヒカルが請け負ったちょっとしたバイトの事を思い出して、アキラは手を打った。そこで硬直して眉を顰めた。
「くらいむこんさるたんと?」
テーブルの反対側に座ると、したり顔をしたヒカルに言われた。
「世間にゃ、色々な需要があるってことさ。需要があれば供給も生まれる」
「じゅよう…、きょうきゅう…」
難しい顔のまま頬杖をついて考え込んでしまった。
「なんだよ、おかしなことは言ってないだろ」
「まあ、そうだけどよ」
真っすぐジッとヒカルを見つめた。
「おまえには、あんまりそういうことはやって欲しくないかな」
「いまさらか?」
悪ぶって歪んだ微笑みを浮かべるヒカルをまっすぐ見つめていると、上を向いていたキャンディの柄が下がってきて、降参とばかりに肩を竦めた。
「でも、今回のは犯罪とはいえ人助けだろ?」
「う、ううう、うううんんん」
歯切れが悪いどころではない声が出た。
「はんざい…、ではあるか。でも本人の意志だし、うううむむむむ」
「狂言誘拐だって立派な犯罪だ」
ヒカルは言い切ると、トレーの上に店員が乗せておいてくれた紙ナプキンを一枚取った。テーブルに広げた紙ナプキンの上へ、咥えていたキャンディを柄ごと置くと、飲み物へと口をつけた。
「…」
「このシェイク、夏の新作だってさ」
とても微妙な顔で紙コップの中を覗き込んだヒカルに、アキラは教えてやった。
「なんだよ、コレ」
「名古屋名物ういろう味シェイク」
同じく口をつけたアキラも、しばらく沈黙した。
何か言いたそうにお互いの顔を見つめ合った後、クスリと笑い合った。
「食い物は話題性だけで選んじゃダメだな」
「なんだよ、おまえが選んだから安心してたのに」
「ま、まあ、冷たい物を飲みたかったろ」
「お冷とドッチがマシか…」
うーんと唸りながらもヒカルはストローに口をつけた。
アキラは口紅を差したヒカルの唇がすぼめられるのをジッと見つめていた。
「なに見てんだよ。飲みにくいじゃねえか」
「いや、その…」
慌てて視線を外すが、顔が真っ赤になっていた。
あからさまに照れられるとヒカルにも気恥ずかしさが伝染したのか、黙ってしまった。
「きょ、今日はこの後、どうする?」
無理にひねり出したアキラの言葉に、ヒカルが落ち着かない声でこたえた。
「どうするって?」
「い、いや、ほら。もう用事が無いんだったら、午後はどこかで遊ばないか?」
「こんな堅苦しい格好のままでか?」
ヒカルがジャケットの襟を引っ張った。
「嫌なら別にいいんだが…」
あからさまにショボンとするアキラを見て、ヒカルの顔に苦笑が広がった。
「別にいいぜ。なんか仕事サボってデートするOLみたいな感じだがよ」
「デート」
ヒカルの口からその単語が出て初めて意識したように、再びアキラの顔が赤くなった。
「ば、ばか。そこで照れるな。あ、あたしも恥ずくなるだろうが」
「て、照れてなんかねえよ」
言い返した声は完全に裏返っていた。
「まあ、その…」
咳払いの真似なんかして間を取ると、アキラは自分の小銭入れの中を意識しながら言葉を繋いだ。
「そんなに大金を持ってきていないから、映画とかは無理かもしれないがよ」
「暑くなきゃ別にいいぜ」
ヒカルも相手が高校生と言う事は十分に承知していた。高校生にいきなり高級会員制のゴルフを一ラウンドとか誘われても、戸惑いしか覚えなかっただろう。手にした紙コップを差し上げて笑顔を作るとアキラに言った。
「分相応って言葉もあるしな。あたしとおまえらしいじゃねえか」
笑顔のヒカルにウインクされて、アキラの顔がまた赤くなった。
照れ隠しなのか、アキラはハンバーガーの包み紙を開いてパクつき始めた。慌てて口にしているからか、次に顔を上げた時には鼻の頭にソースがついていた。
「ぶふ」
「?」
たまらず噴き出しても、アキラは気が付いていない様子だ。
「なんだよ小学生かよ、こんなトコにつけて。ほら、拭いてやるから」
紙ナプキンをもう一枚取ると、アキラの鼻についたソースを拭った。おそらく傍から見ていて、面倒見のいい社会人の姉と、やんちゃな妹に見えたことだろう。
「あ、サンキュな」
再びアキラが、かぶりつく様子を眺めていたヒカルも、包み紙を解いてハンバーガーを口にすることにした。
「ふう」
先に口をつけた分、アキラの方が早く食べ終わった。口直しになるのか微妙な飲み物に手を付けながら、テーブルの反対側のヒカルを見た。
いつもハスッパな態度でいるからかイメージが湧かなかったが、まともな格好をしてファーストフード店にいても、あまり違和感が無かった。
いや美人は得というヤツで、どんな背景でもヒカルはうまく溶け込めるのだ。
グレートバリアリーフのホワイトヘブンビーチ、北米はナイアガラの滝、タイのココナッツ・アイランド、ウクライナは恋のトンネル、ボリビアのウユニ塩湖。実際に行った事は無いが、アキラは絶景と呼ばれる風景にヒカルがいることを想像してみた。どれもお似合いに思えたのは、アキラの目が恋に曇ってしまったからだろうか。それともエキゾチックなヒカルの魅力が違和感を与えないのだろうか。
「なに考えてんだよ」
ちょっとボーッとしていた時間が長かったようだ。気が付くとヒカルのジト目がアキラを睨みつけていた。
「いや、オレの相棒は美人だなって思ってた」
「はぁ?」
アキラの不意打ちにヒカルは顔を真っ赤にして声を裏返した。いつもならば所かまわず銃を抜くところを、テーブルの上に置いたキャンディに手が伸びた。
「ど、どうせまた、あんなクマとどうやって知り合ったかなんて、余分な事を考えていたんだろ?」
「そ、そんなことは…」
ピタリと眉間に向けられたキャンディ相手に否定しようとして、ちょっとだけ乗り出した。
「どうやって知り合ったんだ? ギアナで遭難って?」
「ま、まあ、ほら」
ヒカルはキャンディを口へ放り込むと、慌てて周辺を確認した。店内は閑古鳥が鳴いていて、離れた席にサラリーマン風の男が一人いるだけだった。男は何やら忙しそうにノートパソコンで文章作成しているようだ。作業に集中するためだろうか、大きなヘッドフォンで耳を塞いでいた。
あれならば小さな声で話していれば盗み聞きされることもないだろう。
「あたしらの身体に使われている『施術』っていうのは、トップシークレットだっていうのは理解できるだろ?」
「うん、まあな」
なにせ不老不死である。歴史上の有名な人物がこぞって追い求めた物だ。
「だから、あたしのマスターは、公では活動していないような研究所…、つまり裏の研究機関に引っ張りダコだったんだよ。このあたしで『施術』を成功させたから」
「裏の研究機関?」
なにやらキナ臭い話に眉が自然と寄った。
「振り出しは何とかっていう製薬会社。そこの研究所であたしの『構築』に成功してから、去年おっちぬまで、転々とそういった研究機関を渡り歩いて来たんだ」
「ヤバイ研究だからか?」
「まあな。人体実験を重ねることになることぐれえ、想像つくだろ?」
「う、うん」
「ま、いちおう死刑囚だったり、死んだことになっている人間だったり、実験する相手は選んでいたようだけどよ。どこまでそれが本当の事だったか、あたしにゃ分からねえ」
肩を竦める仕草が板についていた。
「まあ、だいたいそういう裏の団体は、ある程度研究が進むと、成果だけ取り上げて口封じとか考えるもんでな。そうなると、あたしの出番ってわけさ」
トートバッグに片手を突っ込むと、中で何かを操作した。チキッという金属音から、いつも使っている得物がバッグに入れてあり、安全装置を外したか何かしたのだろう。
「ええと…」
空いている左手で何かを数え始めるヒカル。指を折るのに合わせて咥えたキャンディの柄が上下していた。
「たしか九番目? 十番目だったか? とにかく、そのぐらいに関わった団体は、南米の地下に街を持っている連中だった」
「南米?」
南米と聞いてもアキラはサッカーと派手なカーニバル、そして密林ぐらいしか想像がつかなかった。
「地下に研究所から裁判所、警察やらなにやら全部揃えて『大帝国だ』なんて嘯いてたな」
「地下の大帝国…」
確かに胡散臭かった。
「もとはあれだ、ほら。オデッサ機関の残党だよ」
「オデッサ?」
ヒカルから聞いた単語からアキラが連想したのは、連邦の白い悪魔が発射された水爆搭載のミサイルを切っている瞬間だった。
度重なるアキラの惚け顔にイラついたのか、ヒカルは自分の頭を掻くと、何度も自分を納得させるように頷いた。
「まあ、よく言われる国会社会主義独逸労働者党の残党どもが作った集団だよ」
「なちす? ああ」
やっとアキラの頭が回って来た。ポンと手を打ってヒカルを指差した。
「第二次大戦のアレか」
「そう。大戦前に独裁国家をおっ建てていたアレだよ。で、戦争に負けた連中が、ドサクサに紛れて財宝を持って南米に逃げたって都市伝説があるだろ? その全部が本当じゃなかったが、全部が全部ウソでもなかったんだよ」
欧州戦線での敗戦を受けてUボートで旧大陸を脱出し、南米へ逃れたなんていう設定の悪役は、アキラが知っているマンガにも出てきた。
「そんな連中が『施術』?」
「もしかするとチョビ髭の遺体が今もどこかに隠してあって、復活させようとしているのかもな」
意味ありげに昏い微笑みを見せるヒカルを前に、アキラは溜息をついた。
「半分は作り話だよな?」
「そう聞いてていいぜ」
ちょいと肩を竦めたヒカルが言葉を続けた。
「で、その連中が、せっかく隠れ住んでるトコから、日本へ移転するとか言い出した。どうやら『施術』に必要な何かが日本にあったらしい」
「なにかってなんだよ」
ちょっとアキラが乗り出した分、ヒカルが後ろに仰け反った。
「それを知ってりゃ、あたしがおまえの心臓を狙うこともなかっただろうよ。『施術』に関する事はマスターに任せっきりだったんだから」
二人が出会いは、この三月にヒカルがアキラの心臓を狙って襲撃してきたのが最初だ。心臓を狙った理由は『クリーチャー』に月一回注射される『生命の水』が、体内に入ると何故かそこに集まるからだ。マスターを失ったヒカルは『生命の水』を新たに入手する手段を失っており、自分の延命のために『生命の水』を得ようとしての襲撃だった。
「で、身の回りの整理って奴を始めようとした」
「引っ越す前には必要だろうしな」
頬杖を一回ついたアキラはすぐにやめると、ヒカルの顔を覗き込んだ。
「えっと、つまり?」
「人体実験だって平気でする連中だぞ」
何でもない事のように笑ってみせた。
「あたしがマスターを抱えて脱出しなけりゃ、研究所ごと…」
ヒカルの右手が上向きに「ボカーン」と開かれた。
「それで水も食料も無しに…」
「いちおう何回も同じ目にあってたから、準備は怠ってなかったぜ。でも浄水器はすぐに使えなくなるし、缶詰ぐらいしか食べる物無くなるし。マサミチに出くわしてなけりゃどうなってたことか」
「同じ目って…」
ちょっと絶句してからアキラは呆れた声を出した。
「何回もあったのかよ」
「まあなにせ不老不死だからな。アチコチから引っ張りダコだったんだってば」
「次の就職先から助けが来るとかは無かったのかよ」
「ああ~、ダメダメ」
ヒカルは手を横に振った。キャンディの柄まで横に振られていた。器用な真似をするものである。
「あからさまなヘッドハンティングを受けているとなると、そういった裏の連中はすぐに抗争を始めるから。次の就職先を見つけたとしても、基本脱出は自力なんだ」
「そんなことに慣れたくはないなあ」
アキラの感想に、当時を思い出すためか、ヒカルは遠い目をした。
「あんときは、想定よりも人里に出るまで時間がかかってよ」
「なんでまた」
「マスターが歳くって、足腰が弱っていてな」
「はぁ?」
アキラは目を丸くしてみせた。
「だって『施術』…」
「いちおう老化をある程度抑えるために『生命の水』を定期的に打っていたみたいだがよ、マスターは最期まで人間だったぜ」
「ふーん」
アキラが納得いかないという顔をしているのを見て、ヒカルは遠い目に戻った。
「人体実験なんて繰り返してたから、すっかりイカレかと思っていたが、ヒトとして死にたかったんじゃねえかな」
「はっきりと聞いたわけじゃないのか?」
「まあ、なんとなく。長いつきあいだったしよ」
「ふーん」
今度は違う響きを混ぜてアキラが返事をすると、何が面白かったのか、ヒカルがクスクスと笑い出した。
「なんだ? 男の嫉妬は見苦しいぞ」
指摘されて初めて気が付いたような顔をすると、アキラは真っすぐに言った。
「そうだな、嫉妬だな」
「は、はあ?」
ヒカルが引っくり返った声を上げた。あまりの素っ頓狂さに、ヘッドフォンをしていたサラリーマン風の男が振り返ったほどだ。
両手で口を塞ぐと、どうやら掌に咥えていたキャンディの柄が刺さったようだ。慌ててテーブルの上へ放り出すと、曖昧な微笑みを作って、振り返ってこちらを見ている男に軽い会釈をして誤魔化した。
男が画面に向き直ったのを確認してからキッと眼光を鋭くしてアキラへ振り返った。
「変な事言うんじゃねえ」
「変な事か?」
逆に不思議そうにアキラは訊ねた。
「好きになった女が、昔一緒にいた男の事を照れた様子で話して、嫉妬しない男がいるのかな? 最低でも、オレはそこまで人間ができてねえぞ」
「な」
誤魔化すこともなく正直に言われて、ヒカルの方が赤くなった。
「そ、そんな好きとか、こんな場所で言うな」
「別に秘密にしているわけじゃ…」
「あたしが照れるだろ」
プイッと余所見をするようにヒカルは横を向いてしまった。手だけでテーブルの上に敷いた紙ナプキンの上を彷徨い、嘗めかけで放り出したキャンディを見つけると、パクッと口に咥えた。
「嫉妬のついでに訊いておくけど」
アキラは前置きをしてから訊ねた。
「ヒカルには、今まで恋人が居たことがあったのか?」
「ん?」
ちょっと顔をひきつらせたヒカルは、アキラの方に向きなおすと、いつもの悪戯気な笑顔を浮かべた。咥えなおしたキャンディの柄がピコピコと上下に揺れていた。
「もうドコ行ってもハーレムばっか。若い男の子をこう右に左に侍らせて、ふんぞり返ってると、大皿へ山盛りに乗せたフルーツが…」
「あ~、そういうのいいから」
まるで横町の老人が「ワシも昔は、ゼロセン鞍馬天狗と呼ばれるほど、凄かったんじゃあ」と自慢しているような態度を、アキラは軽い調子で手を振って遮った。
「そりゃあいたさ」
誤魔化せないと踏ん切りがついたのか、ヒカルはちょっと怒ったように言った。
「こんなにスタイルのいい美人だぞ。男が寄って来ない方が変だろ」
「ちなみに今は?」
「おまえがそうなんだろ」
クスリと笑ったヒカルは、キャンディを口から抜くと、手に持ったまま再びストローに口をつけた。やはりこの味は口に合わないのか、顔をちょっと顰めた。
「お、おおう」
慌ててアキラも飲み物に口をつけた。
「それにしても独特の味だなあ」
「そうだな」
二人で意見が一致したところで、テーブルに置いたスマートフォンがブルブルと動き始めた。社会人らしく、ちゃんとマナーモードに切り替えてあったようだ。
「なに?」
アキラが目で指差して問うと、キャンディを咥え直して画面を確認したヒカルが、スマートフォンをテーブルに戻しながら教えてくれた。
「マサミチだ。明日の朝に、もう一人を紹介するってさ」
「じゃあ確実に今日は空いたな」
アキラは本物の高校生だが、ヒカルはアキラと明実の護衛のために入学したいわば偽物である。仮の身分を用意したのは、清隆大学の教授たちに顔が利く明実だ。でも偽物とはいえ夏休み中の学生である。もちろん進学校らしく新学期が〆切の課題が山ほど出されてはいたが、順調に消化してきているので、半日ぐらい遊んでも問題はないはずだ。
「ドコ行く?」
そう訊ねたヒカルは、滅多に見せない明るい笑顔になっていた。