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九月の出来事B面  作者: 池田 和美
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九月の出来事B面・②



「ねえ、あのヒト。だいぶイケメンじゃない?」

 東京都下、新宿から伸びる私鉄と、戦前から貨物線として活躍してきたJRの路線が交わる駅。その改札口に一人の若い男が立っていた。

 バランスよく鍛えられた筋肉が目立つ上半身を覆うのは薄手の黒いTシャツ。清潔に整えられた黒髪に、引き締まった顎。適当に十人集めても上位に入るだろう整った顔をしていた。

 青年と言ってはちょっと早い年頃かもしれないが、義務教育はとっくに卒業していそうな風貌である。

 普段は見かけないイケメンが駅前に佇んでいる姿は、それだけで絵になった。遠巻きにしている若い女性からの視線が熱かった。

 彼は人に見られていることを意識しているように、腕組みをして券売機前の庇を支える柱へと寄りかかっていた。

「だいぶ大人って感じよ?」

「ダメダメ絶対カノジョ居るタイプ」

「そうかな~『硬派』って感じだけど」

 彼を眺めている内、近所にある大学へ通う女子大生たちが、囁き声にしては大きな声で噂し合っていた。自分に対する高評価が耳に入っているのかいないのか。いや彼には小鳥の囀り程度の関心しかないようである。

「声かけてみよっか」

「うわあ、勇気あるぅ」

 彼は黒いトレッキングズボンの上に巻いたウエストポーチのジッパーを開くと、中から紺色をした紙箱を取り出した。器用に片手だけで蓋を開くと、指で底をトントンと叩いた。

 行儀よく並べられて詰められていた白くて細い円筒形をした物が振動で浮き上がり、彼はその内の一本を手に取り、咥えると紙箱を仕舞った。

「火をお点けしましょうか?」

 彼へ丁寧な声で話しかける者がいた。その途端に、駅前には溜息のような物が溢れた。

 彼に声をかけたのが、近くに存在する高校…、清隆学園高等部の制服を着た女子だったからだ。

 しかも、誰に訊いても「美少女」と答えるだろう面差しと、夏の制服を着た上からも分かるボディラインをしていた。

 筋肉質の彼と、釣り合いが取れるほどの高身長の美少女。しかも親しげな様子から、第三者はお呼びでない事は明白である。

 あちこちで滞っていた人の流れがスムーズに戻った。

「そんな物を持ち歩いているのか?」

 自分へ差し出された百円ライターを見て、男は話しかけて来た者へ訊ねた。

「あら? 火種はいつどこで必要になるか分からないから常備する物でしょ?」

「貴様の常識と、世間の常識が一致するとは思えないがな、サトミ」

 とてもつまらなそうに男は相手の名前を呼んだ。サトミなんて親し気に話しかけてはいるが、決してそういう関係ではない。清隆学園高等部において『学園のマドンナ』と呼ばれる人物が、彼にサトミとの関係を直接訪ねたことがあったが「奴とは敵同士です」と断言していた。

「あら、そうかしら? で? 火はお入り用? ウツラ」

「いらん。コレはそんなモノではない」

 ウツラと呼ばれた彼は、白い包み紙を剥くと、ポリポリとシガレットチョコを齧り始めた。何を隠そう清隆学園高等部で不破(ふわ)空楽(うつら)と言えば、読書と睡眠、そしてアルコールをこよなく愛する者として、教師から三年生に至るまで知らぬ者がいない一年生であった。(高校生がアルコールを愛している件については、少々問題があるが)

 この空楽と、サトミ、そしてここには居ないもう一人、権藤(ごんどう)正美(まさよし)の三人を合わせて、誰が呼んだか『正義の三戦士(サンバカトリオ)』という通称が、学内ではまかり通っていた。

 いつもは静かな学び舎である高等部で、一朝事件が起きた時には必ずと言っていいほど、首を突っ込んでいる問題児たちなのだった。

「で? 何の用だ? こんな朝早くに」

「もうサラリーマンが出勤を終えてくる時間を朝早くとは言わないと思うけど…」

 先ほどの意趣返しなのか、微笑みながらサトミが言い返した。

「何の用だと訊いておるのだ」

 焦れたように空楽が声に棘を含ませると、サトミは誰もが見とれてしまう様な微笑みを浮かべながら、さらにウインクを重ねた。

「歩きながら話しましょ」

 ついっとサトミが駅の南側にある跨線橋の方へと足を踏み出した。

「ふん」

 イニシアティブを取られたことが不満なように空楽が鼻息を噴いた。

「話しっていうのは、簡単なことよ」

 二人が並んで歩いている姿は絵になった。二人とも身長が高いし、何よりそこら辺のニキビ面をした高校生と同い年とは思えない程、落ち着きがあった。

「一つ、頼まれごとを受けて欲しいの」

「頼まれごと」

 面倒な事はお断わりだと、空楽の額の方へ上げられた左眉が語っていた。

「必要ならば報酬も考えるわ」

「内容による」

 ここの跨線橋は河岸段丘の上にある駅舎から、下にある駅前ロータリーを繋ぐ、下るだけという珍しい構造をしていた。車椅子などが利用しやすいようにエレベーターが設置されているが、サトミは自転車が通れるように九十九折りになった斜路へと足を進めた。

「先月に、私たち海に行ったでしょ」

「ああ。まあ楽しかったな」

「違和感がなかった?」

「違和感?」

 空楽が空に一番星でも見つけたように視線をやった。気のせいか空は、昨日よりも高くなっているような気がした。

「彼女。姐さんが連れて来た()よ」

「ああ。ん、まあな」

 空楽にも納得する相手だったのだろう。実は先月、『正義の三戦士』と『学園のマドンナ』、そして彼らが「姐さん」と呼ぶ女子生徒本人と、彼女が連れて来た女子中学生の六人で海水浴へと出かけたのだ。

「彼女の素性が知りたくて」

「自分で調べればよかろう」

「そうしたいんだけど」

 サトミは空楽へ振り返ると、制服のプリーツスカートの裾を摘まんでみせた。

「私、これから学校に行かないといけないの」

「なんだ? 補習か?」

 授業中に居眠りばっかりしている空楽が言うと深刻なセリフである。ただ彼の名誉のために補足すると、一学期をそれなりの成績で終えていた。もちろん保護者の呼び出しどころか補習の「ほ」の字も関係なかった。

「んんん。被服部の手伝い」

「あ~、あの同じクラスのナントカさんの手伝いか。最近、図書室まで迎えに来るようだな」

「ナントカさんって…」

 同じクラスの女子ぐらいは覚えておこうよと言外に忠告するサトミ。

「まあ、そうなのよ」

「そんなに針子が足りないのか?」

「針子…」

 今ではあまり使われなくなった言葉に、サトミは目を点にした。

「ん~」

 難しい顔をして自分のコメカミに人差し指を当てたサトミは、苦しい言い訳のような事を口にした。

「私、可愛いでしょ。だから被服部にストックされているコスチュームで撮影するのよ」

「変な格好は得意そうだからな」

「で、今日だけじゃなくて、しばらくソッチに掛かりきりにならなくちゃなくて、時間が足りないの」

「他のヤツじゃいけないのか?」

 空楽の質問に、サトミは意外そうな表情を浮かべた。

「あら? 諜報活動を渋るなんて、石見氏直系の名が廃るわよ」

 空楽は忍者の家系であると公言していた。なにせ父親が(だいぶ酔っ払って)彼に伝えたご先祖の話しだ。間違いない、太鼓判である。

「ち」

 舌打ちを隠そうとせず空楽は言葉を繋いだ。

「まあ、呼び出された時点で、そんなことじゃないだろうかと思ってはいたが…」

「じゃあ…」

「俺も彼女には興味がある」

「あら意外」

 サトミは目を丸くして見せた。

「ウツラの好みって、あんなのだっけ? もっと和風美人っていう女子(ひと)かと思った。具体的に言うと華道をやっているような女の子。さらに言うと…」

「そういう意味ではない」

 余計な事をベラベラと話し始めるサトミを遮り、ちょっと不機嫌になった空楽は、腕組みをして立ち止まってしまった。

「ナゼに彼女が、よりにもよって貴様のようなヤツを指名したのか、不思議でたまらん」

「あらあ。それは私の美貌に対する嫉妬?」

「言ってろ」

 ケッと軽く蹴る振りだけして、顔を引き締めた。

「で、なにかヒントのような物は無いのか? 彼女の素性に対して」

「薬の袋」

 サトミが細い人差し指を立てた。一瞬意味が分からなかったのか、空楽の眉間に深い皺が刻まれた。

「彼女、薬を飲むので袋を出したでしょ、あの薬袋がヒントになるわ」

「普通の紙袋に見えたが?」

 彼女が薬袋を取り出したのは空楽も覚えていた。

「あれ、とある公立病院で処方された時に、そこの薬局で入れてくれる袋なのよ」

「…。そんな下らない事まで、よく知っているな」

 サトミは、そんな事を知っていても役に立つのかどうか分からない知識を仕入れている事でも有名であった。

「あら? 言っていなかった? 私もアソコには入院していた事があって」

「入院?」

 空楽は眉毛を寄せた。

「やっぱりアレか。頭が悪いのか?」

 なぜか目を丸くしたサトミが三秒間だけ静止すると、肩を揺らし始めた。

「ククク」

 低く抑えた笑い声を立てると、サトミは何でもない事のように言った。

「正解。私、顔は良いんだけど、頭が悪いのよね」

 ちなみにサトミの成績は、上から数えた方が早い位置をキープしていた。

 まるで蛙を睨みつける蛇のような歪んだ笑顔を見ていた空楽は、一瞬だけ見せた不快感を消して大きく頷いてみせた。

「なるほどな。では間違いではない自信があるのだな」

「うん。だからウツラに調べて来て欲しいのよ。お・ね・が・い」

 サトミは一語ずつ区切って発音すると、胸の谷間を強調するかのように前屈みになってダメ押しをした。しかし空楽の表情は一ミリも動かなかった。

「貴様が色気を武器にしても、ちぃとも楽しくないな」

「ちぇー」

 サトミは口を尖らせて拗ねた表情を見せた。

「依頼は確かに受けた。結果は一週間以内に出せると思う」

「よろしくね。もちろん姐さんには見つからないようにね」

 サトミは軽い調子で念を押すと、ヒラヒラと手を振りながら跨線橋の斜路を駆け下りて行った。



「はあ」

 清隆学園高等部C棟にある図書室に、溜息が流れた。

 溜息をついたのは、利用者ではなくカウンターの内側に座るスタッフ側の生徒であった。

 夏休みといえども進学校である清隆学園高等部では、図書室は日曜日を除いて開室していた。もちろん運営しているのは各クラスから選出された図書委員の面々である。

 いま溜息をついたのも、そんな図書委員の一人である。

 座り心地が良さそうな椅子に腰かけているためハッキリわかるわけではないが、大柄とか小柄とか特に指摘するほどでもない普通の体格をした、セミロング程度の髪を背中へ流している女子だ。

 人よりも色素が薄い肌には夏の紫外線が大敵らしく、鼻のあたりにソバカスが散っていた。

 しかしそんな些細な減点も、魅力的とも言える強い意志を感じさせる切れ長の目で、かき消されてしまう。

 誰よりも強い瞳を除けば「十人前の美人」で片付けられてしまいそうな彼女こそが、清隆学園高等部図書委員会にこの人ありと、学園内に勇名が響き渡っている副委員長の藤原(ふじわら)由美子(ゆみこ)女史なのだった。

 彼女はカウンター内に陣取り、数枚の書類を処理していたはずだが、いつの間にか手が止まっていた。

 書類の脇に置いたペンケースを潰さないように肘をつき、顎を乗せた。

「はあ」

「おやあ」

 静粛が求められる場所であるから、二回も漏らされた溜息は、横で文庫本を開いていた髪の長い少女の耳にも、もちろん届いていた。

 場所柄、大きさに気を付けた声で訊ねられた。

「どうやら憂鬱なご様子。どうしたの? 王子」

「どうしたって…」

 重い視線をよっこらしょとばかりに横へ向けた。

 由美子の横には絵画が飾られていた。完璧な黄金比が計算されつくし、導き出された数式によって再現された究極の美貌。血色の良さそうな肌は摩擦抵抗などないように磨き上げられ、凡庸な紺色をしたブレザーという、女子生徒の間では「まるでOLのようでイケてない」と酷評されている制服を身に纏っていても、女性らしい曲線をした肢体は艶気を醸し出していた。

「ん?」

 驚いたことに絵画と思われたモノの表情が動き、長い睫毛が生え揃った瞼を一回だけパチクリと動かして、言葉の続きを誘った。

 もちろん動いたからには絵画などではない、信じられないことに生きている人間だ。

 夏の日差しが差し込んで蔵書を傷めないようにと窓にひかれたカーテンが、エアコンの風で(そよ)いでいる。ガラスからカーテンが離れた瞬間だけサッと明るくなる室内で、別に光源を持っているような美しい少女である。

 彼女が一学期だけでなく、夏期休業中だというのに行われた生徒会(裏)投票において連続五ヶ月『学園のマドンナ』に選出された佐々木(ささき)恵美子(えみこ)嬢である。長い清隆学園高等部の歴史において『学園のマドンナ』に連続五ヶ月選出は新記録であった。

 並みの神経の女子だと、彼女の美しすぎる姿に気後れして横に座る事すら遠慮してしまうが、由美子は平然としていた。

 なにせ同じ一年一組というクラスメイト。しかも同じ班である。学校生活で一緒に行動する時間の方が多いぐらいだ。

 それに彼女自身が持つ意志の強そうな(まなこ)だってヒトを惹きつける物がある。スタイルや見た目だけでなく、動いている彼女を見れば恵美子に劣る所などありはしなかった。

 とはいえ、今の由美子の魅力的な視線は鳴りを潜め、憂鬱気に頬杖をついていた。友人でもある恵美子が、心配げに顔を覗き込んでくるだけはあった。

 夏休み中も開室している図書室であるが、今日の利用者は少ない方だった。新学期早々に慌てなくていいように課題へ取り組んでいる生徒が男女合わせて数人。貸出や返却業務が無ければ基本暇なカウンター当番である。自習スペースから距離があるカウンター内で内緒話するぐらいは大目に見られるだろう。

「わかった王子」

 音に注意しながら読んでいた単行本をそこらに置いて、両手を合わせた恵美子が嬉しそうに訊いた。ちなみに王子というのは、語源は定かではないが女子の間で流行している由美子の呼び名だ。

「恋の悩みね」

「あンなあ」

 少々ガラッパチな声が出た。慌てて声量に気を付けながら、言葉を続けた。

「なんでも恋の悩みにしないでよね、コジロー」

 由美子が口にしたコジローというのは恵美子の呼び名だ。この美しさから想像しにくいが、彼女は剣道部のエースである。並み居る先輩方を差し置いての剣道の腕前と、名字から有名な剣豪になぞられてつけられた。

「えー、だってS…」

「図書室では静かに」

 相手の口からとある単語が出る直前に、引き攣った笑顔で黙らせた。

「いい雰囲気だったじゃない。サト…」

「だからシャラップ」

 聞きたくない名前に耳を塞ぐふりをしてみせた。

「んん、もう」

 会話が成り立たないので恵美子は渋い顔をした。彼女が口にしようとしているのはサトミといって、ここ清隆学園高等部図書室の常連の名である。

 ただ根っからの騒動屋なのだ。おかげで静寂を是とするココの運営管理を任されている由美子にとって天敵のような存在であった。

「あたしが考えてンのは、あんな性格が複雑骨折筋肉断裂しているようなヤツじゃなくてな」

 声が大きくならないように気を払いつつ、由美子は教えを諭すような口調で恵美子へ告げた。

真鹿児(まかご)のこった」

「ああ真鹿児くん」

 恵美子は再び音を立てないように両手を合わせた。

 由美子の口から出た真鹿児というのは、二人と同じ一年一組で図書委員に選出された男子生徒の事である。フルネームは真鹿児(まかご)孝之(たかゆき)という。真面目に副委員長職をこなす由美子とは違って、所属している天文部の方を優先しがちで、彼は委員会の仕事には非協力的であった。

 一学期の間は、捕獲して委員会の仕事をさせようする由美子が、彼を追いかけまわすことが多かった。あまりにも毎日のように繰り返されるので、二人が所属する一年一組では、放課後が始まる合図のようになっていたほどだ。

 夏休み中は、事前に決めたローテーションどおりに各クラスの図書委員がカウンター当番に登校することになっていた。

 一年一組の女子委員である由美子が当番を務めている今、本当なら隣には男子委員である孝之が座っていなければならないはずだ。

 が、今日は…、いや今日「も」事情は特殊である。全体的の話しだが真面目に図書委員の仕事をこなす生徒の割合は、サボる生徒に比べて圧倒的に少ない。本当なら今日だって三年三組の図書委員の当番日であった。

 もちろん病欠や家の用事など、ローテーションを決めた後に止むおえない事情で当番を務められなくなることもあろう。さらに言えば受験生である三年生の貴重な勉強時間を、誰がこなしてもいいカウンター当番などで潰すわけにもいかなかった。

 よって、ちゃんと連絡があれば、こうして副委員長の由美子が代理として当番を受け持つことが多かった。そして連絡が無い不届き者も一定数いるために、夏休みだというのに、ほぼ毎日、由美子は図書室に顔を出していた。

 対して恵美子の方はというと、午前中にあった剣道部の練習が終了し、昼からは冷房の効いている図書室で涼んで過ごそうという魂胆である。ただで涼んでいてもいいがクラスメイトで知らぬ仲でない由美子の手伝いも兼ねて、図書委員でも無いのに、こうしてカウンターの内側で手伝ってくれているというわけだ。

 ちなみに肝心の剣道部の方であるが、今日の午後からは剣道場を使用しない練習メニューが予定されていた。文武両道を標榜する清隆学園には、星の数ほど部活が存在し、練習する場所の取り合いがよく発生する。そういった時は公平にクジビキ等で使用権を決定するのだが、今日の午後からの剣道場は銃剣道部に使用権が移ることになっていた。

 おかげで午後から剣道部員たちは、道着を着たまま外で基礎体力を鍛えることになっていた。具体的に言えば古き武蔵野の雰囲気を随所に残した学園内の敷地でのロードワークである。

 まあ一年生ながら全国大会レベルの腕前をした恵美子に、そんな体力増強よりも精神修養が主な目的である練習メニューをサボることに、文句を言える先輩など一人もいなかった。文句があるなら竹刀で言ってこいというヤツである。

「あら、ダメよ」

 恵美子は、そこだけでも黄金比が再現されている目を細めた。

「浮気なんてしちゃ」

 恵美子の台詞を聞いて、ガックリと由美子が俯いた。下を向いた姿勢から、まるで地獄の釜から響いてくるような声が出た。

「浮気ってなんだよ」

「お似合いじゃない。王子とサトミ」

 そうなのである。恵美子はなぜだか天敵同士である由美子とサトミが付き合って当たり前と誤解している節があり、他の名前が出て来るとすぐにチャチャを入れて来るのだった。

「誰が誰とだって?」

「王子、シーッ」

 つい大声が出そうになり、恵美子に指摘されて慌てて口をつぐんだ。サッと室内へ目を走らせると、二年生らしい眼鏡をかけた男子が、眉を顰めてこちらを睨みつけていた。

 由美子が曖昧な微笑みを浮かべて軽く頭を下げると、彼は何も言わずに自分のノートへ向き直った。

 カウンター内に置いてあるメモ帳を取ると、由美子は走り書きをした。

<ほら怒られた>

 由美子が見せられたメモを見て、目を細めた恵美子は、自分のペンケースから筆記用具を取り出した。

<王子が素直に認めないからでしょ>

 容姿に似合った美しい書体を見て、由美子はしょっぱい顔をした。彼女の表情を見て、恵美子は声を殺してひとしきり笑った。

「…」

 由美子が何か言いたそうにしているのを見て取ると、恵美子は人差し指を立てて再びメモを手に取った。

<で? マカゴくんがどうしたって?>

 今日はこの程度で許してあげるという顔をしてメモを掲げてきた。百言ぐらい言い返したいことがあったが、場所を(わきま)えてグッとこらえた。

 由美子はメモ帳から新しく一枚切り取ると、さっとペンを走らせた。

<あいつ、最近ふさぎ込んでやがんの>

<王子がミリョク的なのがいけないんでしょ。モテ女子じまん?>

「はぁ?」

 つい声が出た由美子に、恵美子が慌てて人差し指を立てた。慌てて両手で口を押えて、室内の様子を窺う。誰も反応はしていないようだ。一言出ちゃったぐらいは許されたのだろう。

<色っぽい話じゃなくて。あいつ家庭内で孤立しているんだと>

 由美子の走り書きにキョトンとした顔をしてみせる恵美子。また変に色恋沙汰な話しに捻じ曲げられるのも嫌なので、由美子は畳みかけるようにペンを走らせた。

<二人目の弟だか妹だかが、いきなりデキたって言って、ハブられてるらしー>

 由美子の新しいメモを見て、意味が分からないと首を振る恵美子。

<アイツが長男で、小学生の妹がいて、一歳のアカチャンがいるんだよ。アイツそのアカチャンがいきなりデキたって騒いだらしい>

 まだ分からないと首をさらに振る恵美子。

<ずっと自分と妹の二人兄弟のつもりだったのに、ある日いきなりアカチャンが増えてたんだとさ>

 段々と理解できたようだ。ふんふんと恵美子は頷くと、ゆっくりとペンを取った。

<つまり王子が産んだと>

「はあ?」

 つい出た由美子の声に、図書室中に咳払いが行き渡った。顔を上げれば室内の利用者全員がこちらへ厳しい視線を向けていた。

 さすがに二回目ともなると見逃してくれないらしい。声量も先ほどよりも大きかったようだ。

 由美子は一回立ち上がると、深々と頭を下げて謝罪の意を示し、椅子へ戻った。由美子の謝罪の気持ちが伝わって許してくれたのか、利用者たちはそれぞれの作業へと戻って行った。

 横の恵美子は、まるで衆人の視線から隠れるように椅子の上で丸くなっていた。

 肩のあたりが小刻みに震えているので、どうやら笑いをこらえているようだ。

 由美子は手を伸ばして、脇腹の辺りをギュッとつねってみた。

「~」

 体をのばしてつねられた方の脇を押さえた恵美子は、彼女を睨みつけて声にならない悲鳴を上げた。美しいカーブを描く眉が顰められているので、どうやらちょっと怒っているようだ。

<わたしのゼイ肉つまんだな~>

 乱暴に書き殴って、半ば涙目で提示して見せる。言っておくが剣道で鍛えている彼女に贅肉など存在するわけがなかった。

 由美子はペンのお尻で恵美子の脇の辺りをツンツンした。

「?」

<ゼイニクなんて、ココらへんにしか無いじゃん>

 由美子の書いたメモを読むと、恵美子は自分の胸を隠すように腕を巻き付けた。

<女子のムネはゼイ肉じゃありません>

 自分とは比べ物にならない程の存在感をジト目で見てから、言い返…、書き返した。

<いやムネじゃなく>

<それこそカウンセラーさんの仕事だよね>

 恵美子が、制服の上から左腕で胸を隠しながら書いたメモの意味が分からずにキョトンとしていると、恵美子のペンが伸びてきた。

「?」

 伸びてきたペン先が、ちょっと前に書いた筆談の一部を囲うように動いた。

<あいつ、最近ふさぎ込んでやがんの>

 どうやら話題を戻してくれるようだ。由美子は頷くと、また新しく切り取った一枚に、自分の意見を書き込んだ。

<なんか大げさになっちゃうんじゃない?>

<でも、こういった時のためのカウンセラーさんだよね?>

 ちなみに清隆学園高等部にも、ちゃんとスクールカウンセラーの先生はいる。しかも話しやすいように男女二人もいた。性別によって担当を固定しているわけではなく、男性のスクールカウンセラーに女子が相談することもある。もちろん養護教師や学校医との連携も取れているので、一人に相談すればほぼ完璧なバックアップをしてもらえること間違いなしだ。

 おかげで清隆学園では不登校児の問題は少ない方であった。

 由美子だって一回、図書委員会の激務が重なるので、ちょっと凹んだ時など話しを聞いてもらったことがあった。

(ま、貰った助言がアレだったけど)

 由美子の眉が痙攣したように動いた。ちなみに貰った助言というのは「図書委員会の所属している生徒だけで仕事を回そうとせずに、一般の生徒にも手伝ってもらったら」であった。いまの恵美子と同様に『図書室の常連』を標榜する連中は、ありがたいことに積極的に図書室の仕事を手伝ってくれる。しかしその有象無象の中に問題のサトミが含まれていた。

 由美子は腕を組んで目を閉じ「う~ん」と考え込んでから再びメモへとペンを走らせた。

<家族を一人忘れちゃうってアリなのかな?>

 恵美子は驚いたように肩を竦めてから返信してきた。

<それこそ、心理学の出番じゃない?>

<ほら話しがデカくなってきた>

 由美子はそう書いてから、数行前に書いた自分の意見をペン先でつついた。

<なんか大げさになっちゃうんじゃない?>

 恵美子は顔を曇らせてしばし考えを巡らせると、パッと表情を明るくした。由美子が彼女の上に電球が灯ったのを幻視したほどの表情の豊かさだった。

<それこそサトミに相談じゃない?>

「はあ?」

 また出てしまった声に、図書室内の全利用者が立ち上がった。みんなとても恐い顔をしていた。

「す、すみません」

 さすがに「仏の顔も三度まで」というヤツだ。由美子はまた椅子から立ち上がると、今度はハッキリと謝罪した。

 それでもしばらくは睨みつけられたが、無言の抗議をしている時間が無駄と感じられたのか、それぞれが自分の課題へと戻って行った。

 椅子に戻ってから、してやったりという顔をしているクラスメイトを睨みつける。

 由美子が何か書く前に、どうやら先回りして書いていたメモを見せてきた。

<サトミなら、頭いいし、何でも知ってるし、顔もいいし、行動力あるし、かわいいし、やさしいし、なんならつきあっちゃえば?>

 確かに成績の面でサトミが苦労しているという話しを聞いた事が無い。それに付随して無駄な知識を騙らせたら(おっと「語らせたら」だ)右に出る者は二人ぐらいしかいないが、なにせ天性の騒動屋である。由美子からの評価はあまり高い方じゃなかった。

 顔も中性的な面差しで、その横顔につい見とれてしまう時があったが、数秒後には何か騒ぎを起こすのでまったく油断はできなかった。

 行動力といっても、だいたい無駄にそんなものを備えているからの騒動屋である。

 かわいいとは人によって基準が異なるから何とも言えないが、警戒している由美子すらハッとさせる表情を見せる時がある。が、その口から平気に下ネタが出てきたりするからまったく油断ならないのだ。

 そして、やさしい…。

 フッと蘇った夏の想い出に、由美子の表情が失われた。

 胸部に違和感が起きたので視線を上げると、恵美子が握るペンが彼女をつっついていた。

 そのペン先が、先ほどのメモの一部を丸で囲った。

<なんならつきあっちゃえば?>

 恵美子の顔が今にも笑い出しそうに緩んでいた。

 バッと由美子の手が彼女の腕を掴んだ。そのまま強引に隣室である司書室へと連れ込み、音を立てないように注意してドアを閉めた。

「だから! そんなんじゃないって言ってるでしょう!」

 だが壁越しに彼女の怒鳴り声が響いては、そんな努力も無駄という物であった。



 夏である。

 脳髄の芯まで染め上げる意図があるのか、蝉の鳴き声が空間を埋め尽くしていた。

 建売一戸住宅であった海城家も、命を懸けた大合唱を全て無効にするほどの防音対策はされていなかった。室内には、聞いているだけで暑くなってくる蝉たちの愛の言葉が侵入していた。

 例えば清隆学園のような学校ならまだしも、一般的な住宅である海城家では、さすがに廊下までは冷房されていなかった。

 魂を燃やし尽くすように叫び続ける蝉たちの声と、家中の熱気が集中している二階の廊下。そこへ細く白い足首が差し出された。

 階段側はヒカルにあてがわれた部屋だ。その扉が音もなく開かれて、抜き足差し足といった風情でヒカルが廊下へと抜け出てきたのだ。

 なんと上下とも橙色をした下着だけという、いかにもな姿である。暑いからといって部屋で脱いだわけではなかろう。いちおうヒカルの部屋にだってエアコンはついているはずだ。

 他には何も身に着けてはいない。いやトレードマークのような柄付きキャンディは、相変わらず咥えていた。

 そのまま忍者かドロボウのコントをしているような調子で、ヒカルは廊下に出て音を立てずに進んだ。

 隣室に当たるアキラの部屋の前まで来ると、そーっと耳を扉につけた。

 難しい顔をして室内の様子を探るが、どうやらそれは叶わなかったらしい。なるべく音を立てずにノブを回すと、丁番の軋む音を呪いながら、隙間を作ることに成功した。

 わずかに開いた線のような狭間から、室内の様子を確認しようと顔を近づけた。

 何を期待しているのか、キャンディの柄がせわしなく上下していた。

 アキラは課題に取り掛かっているようで、長年使っているらしい勉強机の前に置かれた椅子に背姿を確認できた。

 どうやら夏の風物詩たる蝉の鳴き声に、余分な音は搔き消されたようだ。小さく見える背中は、ヒカルの奇行に気づいた様子はなかった。

 ヒカルは再び音を立てないよう慎重に扉を閉めると、抜き足差し足で自室へと戻った。

 扉をちゃんと閉める事なしに、なにやらゴソゴソと作業を始める。布ずれの音に金具の音などがしばらく続いた後に、最後に「ピッ」とエアコンのリモコンを操作する音で静かになった。

 次に同じ扉が開け放たれた時には、まるで高層ビル群の足元を行き交うOLのような格好で現れた。

 すなわち白黒ボーダーのTシャツに、紺色をしたサマージャケットを合わせ、真っ白なスキニーなボトムに細いガチャベルトを一巻きして、余った残りの分は長く前に垂らしていた。首元には紺を基調にしたエスニック柄のスカーフをリボンのようにして飾り、手には革製のトートバッグ、女子高生というのではなくオフィスに似合った化粧をした口元には柄付きのキャンディという姿である。

 ストッキングに包まれた爪先だけで再び廊下を戻り、またアキラの部屋を扉越しに窺う。一つ頷いたという事は納得する事態であるのだろう。

 ヒカルはゆっくりと階段を下り始めた。

 これが安普請ならば踏板が軋むなどするのだろうが、海城家ではそんなことも起きず、ヒカルは無事に一階へと下りる事ができた。

 右手の居間からはイビキまではいかないが、寝息と言うには少々荒い呼吸音が聞こえてくる。首だけで覗き込むと、ソファで明実が引っくり返り、香苗にかけてもらった毛布にくるまって寝ていた。

 まるで挨拶するかのように、咥えたキャンディの柄が一回だけ下を向いた。

 反対のダイニングキッチンの中は空っぽであった。

 明実の起きる様子が全然ない事から肝が据わったのか、ヒカルは大股になって廊下を進み、突き当りの玄関に到着した。

 靴箱の中から黒いパンプスを取り出すと、海城家では傘立てに差し込んである靴ベラを使ってサッと足を通した。

 トートバッグを改めて肩にかけると、一階を振り返り、やはり誰も気が付かなかったことを確認してから玄関の扉を開けた。

「遅いぜ」

 出てすぐに、外で待っていた人物に指摘されて、ヒカルは危うく両膝を地面につきそうになった。

 カジュアルな格好をしていなかったら、実際にそうしていたかもしれない。強力な脱力感を玄関のノブを支えにして耐えたヒカルは、隣の御門家との境にある庭の木陰から声をかけてきた人物を睨みつけた。

「あたしの先回りをするたあ、おまえも腕前を上げたもんだ」

 わざわざ口から出したキャンディで相手を指差し、青い炎のような光を抱く瞳で睨みつけると、同じ瞳を持った相手が曖昧な微笑みを浮かべた。

「おまえの場合は、ワンパターンなんだよ」

 木陰から出て、夏の日差しを痛そうに見上げたのは、ヒカルが部屋にいると思ったアキラであった。

「そうか?」

 アキラの指摘に難しい顔になるヒカル。今日はちゃんとお化粧をして髪を梳かしており、いつものヒカルを十は歳上に見せた。

「で、いってらっしゃいの挨拶というわけでも無いようだな」

 つまらなそうにキャンディを口へ放り込み直して腕を組んだヒカルは、アキラの姿を一瞥した。

 上はアキラがこんな身体になってから香苗が通販で取り寄せた花柄のカットソーである。襟ぐりが広くバックシャンで白い背中が見えていた。

 それに紺色のサロペットを合わせていた。こっちは去年までの体に合わせて持っていた男性用の物で、だいぶ隙間が多い。下にアースカラーのショートパンツを履いていなかったら余分な目線をカットするのに苦労しただろう。

 元が男の子なだけに活動的なアキラに似合った夏ファッションであった。

 これが動きにくいワッシャープリーツのワンピースなどだったら見送りに間違いなさそうだ。が、荒事になっても対応できる格好をしているという事は、どうやらヒカルのお出かけについてくる気があるようだ。

「はあ」

 咥えたキャンディを落とさないように気を付けながら、ヒカルは芝居気たっぷりの溜息をついた。歩き出すと当然のような顔をしてアキラが横に並んだ。

「で? どうやって二階にいたはずのオマエが先回りできたんだ?」

 ヒカルはつまらなそうに片方の眉を額の上へと上げた。

「あれは、かあさんだよ」

 アキラは振り返ると我が家を振り仰いだ。ちょうどアキラの部屋に開いた窓から香苗が顔を出したところだった。

 悠々と手を振ると、軽く手を振って返事をしてくれた。

「な」

 一緒に見上げていたヒカルへ、ウインクするように片目を閉じて種明かしをするアキラ。アキラと香苗は、さすが母と娘(息子?)だけあって、ちょっと見だけでは判別が出来ないくらい似ていた。まして薄く開けた扉越しでは間違える方が自然と言えた。いまだって遠目の香苗はアキラに見えなくもなかった。

「ちぇ」

 自分の至らなさにヒカルはキャンディを咥えたままの唇を突き出した。

「こうでもしないと、黙ってどこかに行っちゃうだろ」

 アキラの顔が心配そうに曇った。まるで段ボールに入れられてクンクン鳴いている子犬のような表情に、ヒカルはせっかく梳いた頭を掻いた。

「別に居なくなるつもりは、まだ無いんだがな」

 ヒカルの身体を維持するのには『生命の水』を月一回注射する必要がある。注射は自分でするにしても『生命の水』の製法を習得するか、または十分の備蓄が無ければ、明実から離れて暮らすわけにはいかないのだ。

 言わば見えない首輪が巻かれているような物だ。

「で? 今日は?」

 バス停の方へ歩き出しながらアキラが訊いた。

「また変なバイト?」

「んにゃ」

 軽い調子で否定し、ちょっとキャンディの柄を上下させてから、ヒカルは言葉を続けた。

「旧交を温めようかと思ってな」

「きゅうこう?」

 一瞬だけ「きゅうこう」を「急行」と連想してから思い直したアキラは、ちょっと難しい顔をした。

「やっぱり、変なバイトかよ」

 アキラがそう思うのも無理はない。なにせヒカルが「いい店」と言って連れて行かれた場所は、日本国内では違法になる銃器を扱う裏稼業の店だった。また新宿で一睨みするだけで黙らせた知り合いは「や」で始まる三文字の自由業に就いている感じの男だった。

 旧交と言われても「どこのテロリストですか?」と質問したくなる相手であることは十中八九間違いないだろう。

「仕事の話しになるかどうかは流れ次第だがよ」

 ヒカルはちょっと呆れたように言い返した。

「あたしがいつも切った張ったばかりだと思うなよ。普通の友だちだっているんだからな」

「それって…」

 つい立ち止まってアキラは不安そうに訊ねた。

「男の人?」

 意外そうに訊く口調にヒカルはソッポを向いた。

「そらあ人類の半分は男なんだから、あたしにだって男の知り合いはいるに決まってんだろ」

 チラリとアキラの表情を確認してから続けた。

「なに泣きそうな顔してんだよ。おまえだって男にも女にも知り合いはいんだろ」

「そうだけどよ」

「大丈夫だって。そんな関係じゃねえから」

 ヒカルは苦笑してアキラの髪を鷲掴みにすると、グシャグシャに掻き回すようにして撫でた。

 二人は通学にも使っているバスを利用して、私鉄の主要駅へと出た。ここは通勤快速どころか有料特急も停車する駅なので、清隆学園に通う生徒や学生がよく利用する。学園にはここからさらにバスを乗り継がなければならないが、どうやら待ち合わせはこの駅のようだ。

 当たり前の顔をして、高架駅一階に入っている広めの本屋、そこに併設された喫茶店へと足を向けた。

 入店する前に、嘗め終わって棒だけになったキャンディを、ティシュに包んでポケットへ落した。

「ふう、あちーな。なに飲む?」

 店内の冷房が効いた空気を取り込もうというのか、胸元を一回引っ張ったヒカルは、カウンターの上に掲示されているメニューを見上げた。ほぼ手ぶらでついて来たアキラは、釣られるように同じメニューを見上げた。

「じゃあ冷たいココアで」

「ココアな。あたしは冷たい緑茶で」

 それが制服なのか、薄茶色のベレー帽を被った店員は、料金分だけの笑顔を二人に向けて、オーダーを繰り返した。

 サロペットから潰れた小銭入れを取り出そうとするアキラを制し、ヒカルはトートバッグから出した長財布で支払いを済ませた。

 小さなお盆がカウンターに出され、上に二つの飲み物が並べられた。

「オレが持つよ」

「いいって」

 ヒカルは年長者らしい余裕でアキラを黙らせると、お盆を手に店内を振り返った。

 ぐるりと見回したところで空席に向かうことから、どうやら待ち合わせの相手はまだ来ていないようだ。

 二人は、埋まりかけている大窓に近い席の方ではなく、奥の方にある出入り口が見やすいボックス席に陣取った。

 向かい合わせに席へ着くと、トートバッグからスマートフォンを出して一瞬だけ電源を入れて時刻を確認すると、テーブルの上に置いた。アキラはまだスマートフォンを持たせてもらえないので、羨ましそうな顔になった。

「友だちって、どんな人?」

 夏の暑さで喉に渇きを覚えていたアキラは、さっそくココアに口をつけた。

「男か女かで訊かれたら…」

 ヒカルも冷茶で唇を湿らせてからこたえてくれた。サッと縁に着いた口紅を指の腹で拭いとる姿が新鮮だった。

「クマ」

「は?」

 突拍子もない言葉にアキラの顔が呆けるのを見たヒカルが小さく笑った。

「オレは男か女かで訊いてんだけど?」

 からかわれたと思ったアキラの眉間に皺が寄った。

「クマみたいな男だよ」

 厳つい体格を示すためか、ヒカルは座ったままで両肘を張ったポーズをしてみせた。

「ふうん」

 そのジェスチャーをつまらなそうに眺めたアキラは、ついでのように装いながらさらに訊ねた。

「じゃあ元グリーンベレーとか、そんな感じ?」

「たしかに元グリーンベレーに知り合いはいるが、今日はちげーよ」

「いるのかよ」

 そこは否定して欲しかったアキラだった。

「まあ昔ベトナムで世話になったり、世話をしたりしてな。今日、待ち合わせてんのはボウケンカ」

「ぼうけんか?」

 ヒカルの口から出てきた単語の意味が理解できずに、アキラの首が捻られた。語感から昆虫類を連想してしまったのだ。

「冒険家だよ。分からないか? アマゾンの奥地で謎の古代人を探したり、サハラ砂漠に埋もれた超古代文明都市(ルフトシュピーゲルング)を探したり…」

「はあ?」

 やっと漢字を当て嵌める事ができたアキラの開いた口がポカンと開いた。

「たしか今は二一世紀だよな?」

 冒険家と聞いてアキラは、大航海時代の帆船や、暗黒大陸を縦断するラクダのキャラバン、そして襲って来た毒蜘蛛を素手で払いのけるサファリルックの本郷猛を連想した。

「まだまだ地球にゃ不思議がいっぱいあるってことだ。来たぜ」

「?」

 ヒカルに教えられて首を巡らせて出入口を確認すると、たしかに「クマ」と表現するのが分かりやすい大男が入って来たところだ。

 四角い顎に生え揃った髭、まるで雀の巣のような蓬髪、肩幅だけでヒカルの倍はありそうな見事な体格は、元は蛍光レッドだったらしいビニール素材の上着に包まれていた。腕まくりして剥き出しにした腕には、黒々と体毛が茂っていた。短足でガニ股気味の足は、動きやすそうな帆布製のズボンを履いているが、足元は登山靴やスニーカなどではなくゲタであった。

 しかも、こんな町中だというのに、冬登山に使うような大きいバックパックを背負っていた。その大きさは小学生ぐらいの子供ならば、中に入って楽に隠れていられそうなほどである。

 多摩地区とはいえ文明化された東京では異質な存在であることは間違いない。

 大男は店内を見回してヒカルの姿を見つけると、お弁当箱のような顔に柔和な笑みを浮かべた。笑顔から察するに、あんな迫力のある体格をしておきながら、争い事は好むよりも嫌いなタイプに見て取れた。

 彼は尻のポケットから出したサイフで勘定を済ませると、カウンターでお盆にのせたアイスコーヒーを受け取り、こちらへとやってきた。

「ひさしぶり」

 アイスコーヒーをテーブルに置いてから、笑顔を一層深くした。

 近くに立たれると威圧感がある存在である。「見上げるような」とはよく使われる形容だが、いまのアキラでは本当にそうしないと、彼の顔を見る事ができないのだ。

 幅だって相当の物である。相撲取りのように脂肪で丸くなっているのではなく、全身が筋肉という装甲で固められた槍騎兵のような四角さだ。

 声は体格に似あった低い物だったが、朗々さはまるで青年のような明るさを持っていた。

「ひさしぶりだな」

 ヒカルが席から立って、笑顔で右手を差し出した。慌ててアキラも席から立ってペコリとお辞儀をした。

 目の前でヒカルの細い手と、指にまで体毛が生えたごつい手が交わされていた。

「妹さん?」

「ちげーよ」

 初めて見るアキラの事を警戒する様子はなかった。右手が中途半端な高さで彷徨っていたので、これは握手をするのが礼儀なのかなと思い、アキラもおずおずと右手を差し出した。

 ぎこちなく握手を交わしている二人を見てヒカルが苦笑いのような物を浮かべた。

「いまの仕事仲間だよ」

「仕事仲間? へえ、よろしく」

「は、はい。よろしくおねがいします」

 大男の手は変に湿っているというわけでもなく、か細く(なったように見える)アキラの手を潰さないように気を使った力の入れ具合だった。

 二人と握手を交わした彼は、まるで展望台から三国の景色を見おろすような風情で店内をもう一度見回した。

「シロクニさんはどうした?」

(シロクニ?)

 アキラが訝しむ間もなく横のヒカルがこたえた。

「マスターなら死んだよ」

「ああ…」

 大男は溜息のような声を漏らした。

「そうか。シロクニさんは…。それは、お悔やみ申し上げる」

 顔を歪めて左手を胸に当ててしばらく目を瞑った。

「ありがとな」

 まるで立場が逆のように、明るくヒカルは彼の腕を軽く叩いた。それでこの話題は終わりとばかりの調子だ。

「どう座る?」

 短い黙祷を済ませてから、二人と席とを見比べる大男。なにせ彼は幅があるので、小柄な女の子でも彼と並んで座ることは難しそうだ。

「おまえがコッチに来い」

「う、うん」

 ヒカルの手で奥側に押し込まれるアキラ。座りしなにテーブルに置かれた飲み物の配置を修正した手際は流石であった。

「どっこいせっと」

 大きな荷物をアキラの向かいの席へと置いた大男は、また尻のポケットに入れていた財布を取り出すと、開いて一枚の紙を取り出した。

「はじめまして。こういう者です」

 ぶっとい指に似合わず繊細に差し出された物は、名刺であるようだ。

「あ、どうも」

 慌ててまた立ち上がって差し出したアキラの右手をヒカルがはたいた。

「あ、痛」

「名刺を受け取る時は両手で、まっすぐに」

 いつも見せる不機嫌そうな表情を百倍濃くしたような目で睨まれてしまった。

「あ、すみません」

 素直に頭を下げて、言われたとおりに受け取った。素直に従ったアキラを見てから保護者といった風情でヒカルも頭を下げた。

「ごめんな、不作法者で」

「いいって。こっちもまともなサラリーマンじゃないしな」

 ガッハッハと笑って許してくれる大男。どうやら細かいことはあまり気にしない質のようだ。

「さ、いつまでも立っているのもなんだから」

 着席を促してくれた。大男のでかい尻にお洒落な椅子がギシリと悲鳴のような軋み音を立てた。アキラも座りなおしながら、さっそく名刺を覗き込むように確認してみた。少々黄色が買ったクリーム色の上質紙に、流れるようなアルファベットの筆記体で「G、MASAMICHI」とあった。

 その下に赤い筆記体で「ADVENTURER」「WRITRE」「VICTIM」と肩書が書いてあった。

「本当に冒険家なんですね」

 つい考えが口に出てしまった。

「ああ、冒険は楽しいぞう。男の子って冒険が好きだと思わないか? 俺もそれだ」

 四角い顔全体に皺を浮かべ、クシャリと畳んだような笑顔を見せた。彼の体格はクマのようだが、精神は男の子のままのようだ。

「まあ、そうですね」

 つい半年ほど前までは男の子だったアキラは同調してしまった。

 そのままアキラは、幼稚園の頃に「冒険」と称して隣町まで自転車(補助輪つき)で出かけた事を思い出した。小さい頃はたったそれだけでも充分に「冒険」で、往きはワクワクしていた。そして、お約束のように道に迷ってしまい途方に暮れた。この話のオチは、当時から天才ぶりを発揮していた明実が、彰の自転車に電波発信機を仕掛けておいてくれたので、簡単な結末を迎えた。電波発信機を逆探して、公園の隅で半ベソをかいていた彰を、明実が当然のような顔をして迎えに来てくれたのだ。ほろ苦い思い出の一つというやつだ。

「まあ、あれだよな」

 座ったことで出来たスキニーボトムの皺を直しながらヒカルがニヤリと笑って言った。

「世界中で遊びまわっているニートだよな。金が無くなると帰ってきて、適当に本を出して旅費を稼ぐ」

「手厳しいな」

 マサミチはヒカルの指摘も笑い飛ばした。

「まあ、実際そうなんだが」

 ちょっとは心に響く物があったのか、ボリボリと後頭部を掻いて笑顔の質を変化させた。イメージ的にはフケやらなにやら落ちて来る印象だが、そんなことはまるでなく清潔にしているようだ。

「あんなに可愛い奥さんいるんだから、もう海外をふらつくのはやめて、腰を据えたらどうだ?」

「あと一回ぐらいはコジオスコに登らせてくれよ」

「こじおすこ?」

 キョトンとするアキラを見て、ヒカルが苦笑いを見せる番だった。

「日本で一番高い山は?」

「富士山」

「じゃあ世界で一番は?」

「エベレスト?」

「そこでなんで首を捻る」とツッコンでから意地悪そうに表情を変化させた。

「じゃあオーストラリア大陸で一番高い山は?」

「へ?」

 アキラは腕を組んで固まった。

 しばらく雑踏から流れて来る遠い笑い声などが一同の頭上を駆け抜けていった。

「エアーズロック?」

「なんで、あんな丘が最高峰なんだよ。答えはいま出たコジオスコ山」

「へえ~」

 ヒカルの博識に目を丸くしていると、余分な情報まで教えてくれた。

「スキーのリフトで頂上まで行けるがな」

「はあ?」

「いやいや」

 慌てたようにマサミチが手を振って訂正した。

「リフトの上の駅から七キロぐらいは木道を歩かないと頂上じゃないぞ」

「七キロ?」

「なんせ富士山より千五百メートルぐらい低いからな」

 ヒカルに種明かしされてアキラは「あ~、冒険家特有のジョークってやつね」と理解できた。

「たしか赤ん坊がいたよな。男の子だっけ? その子も連れまわしてんのか?」

 ジョークを納得して頷いているアキラを放っておいて、ヒカルがちょっと目を鋭くして訊いた。

「カミサンとチビは日本で留守番だよ。刺されたら酷い目に遭うヤバイ虫が居るところなんか連れて行きたくないもんな。平気な人もいるけど、やっぱり女の人は苦手だろ? 虫」

「その言い方だと、あたしが例外に聞こえるんだが?」

「おや? そう聞こえなかったか?」

「この」

 ヒカルは拳を作って殴るふりをしてから笑顔を見せた。まあマサミチほどの大男ならばヒカルに殴られても笑っていられるだろうことは容易く想像できた。

「今日は、どこの帰りだ?」

「六月いっぱいはデナリで植村さんを探して、その足でアコンカグアに挑む日本の大学連合遠征隊のサポートをして、先週帰って来たとこだ」

「また危険な山ばっかり。奥さん心配してんだろ」

「まあ、ほら。カミサンも忙しい身だし」

 照れたように鼻を掻くマサミチ。彼と添い遂げようと思った女性はどんな人なのだろうかとアキラは想像してみた。

 やはり自然の木を利用したツリーハウス…、の根元に開いた洞窟から顔を出す肝っ玉母さんのような大柄の女性。そんな想像をしている内に話題が変わっていた。

「育児を母親に丸投げなんて、悪い父親だ」

「俺自身もそう思う。帰ってきてビックリ。チビも、今年からもう高校生だった」

「はえ?」

 ヒカルの口から変な声が出た。

「あの赤ん坊が高校生?」

 そうだと頷くマサミチ。ヒカルは頭を抱え込んでしまった。

他人(ひと)()の子は育つのが早いっていうけどもよぉ…」

 ヒカルはなんとか気を取り直してマサミチを見上げた。

「じゃあ、あの頃のおまえと同じでワンダーフォーゲルとかやってるのか?」

「いんや。幸いなことに俺ではなくカミサンに似て、美術部に入って大人しく絵を描いている。はては芸術家だな」

「その方がいい。奥さん安心したろうな」

「だな。自分がこうなのに言うが、親としては安心だ。しかも俺と違って頭もいいらしい」

「…」

 ヒカルはちょっと深い沈黙をしてから、疑い深そうに訊いた。

「それ、おまえの子か?」

「失敬な」

 怒るどころか笑いながらマサミチは胸を張った。

「顔なんか俺にそっくりだぞ」

「…」

 再び黙り込んでからヒカルは決定的な一言を言った。

「そらあ、お気の毒に」

「おい」

 心外そうに言い返してからマサミチはガッハッハと笑い出した。

 この大男に似た外見で絵描きというビジュアルが想像できなくて苦労しているアキラを、意味深に眺めたマサミチは、話題を切り替えてきた。

「新しい仕事仲間ってことは、いまも忙しくしているのか?」

「どうだろ」

 ヒカルは余裕たっぷりに緑色の液体が入ったグラスに手をかけた。

「こうして古い友人に会うぐらいは暇をしている。で、わかるだろ」

「まあ、またややこしいことに巻き込まれてんのかな? 聞かぬが花ということかな?」

「いつもの通りにな」

 微笑みで誤魔化すヒカルに肩を竦めるマサミチ。海外での経験からか非常に様になっていた。

「ネットに書き込んでおいたと思うんだが読んでくれたのかな? こっちもちょっとした相談事があるんだ。話を聞く時間はあるか?」

「なんだなんだ?」

 顔をしかめたヒカルが楽しそうに訊いた。

「厄介事を、おまえが持ち込んで来るなんざ、珍しいな」

「ま、色んなトコで色んな目に遭っていると、作りたくない『貸し』が増える一方でな」

 それが小石を蹴り飛ばす程度の仕事であるかのような余裕でマサミチがこたえた。

「昔に『借りた』恩を返す時が来たみたいでな。で、持ち込まれた厄介事が俺の手には余って、困っていたところで…」

「昔に『貸した』恩を思い出したと。まあ、いいぜ。かかりっきりになる事は無理だが、相談ぐらいなら乗れるかもしれねえ」

 ちょっと済まなそうに表情を曇らせるマサミチに、ヒカルは艶気のあるウインクを返した。

「話しが早いと助かる」

 そこでマサミチは店内を見回した。

「河岸を変えるか?」

「聞かれたくない話か?」

 ああそうだと大きく頷くマサミチにこたえるように、ヒカルは手にした冷茶を一気飲みした。



 飲み物をサッと飲んでテーブルを片付け、外へと出る三人。痛いほどの日差しから逃げるように建物と建物の間へと入った。

 もう行く場所を決めているのか、大荷物を背負った大男は迷いを見せずに歩き出した。

 左右に揺れる大荷物について歩き出してから、アキラは声を潜めてヒカルに訊ねた。

「冒険家と知り合いなんて、顔が広いんだな、おまえ」

「知り合いたくて知り合ったわけじゃねーよ」

 新しい柄付きキャンディをトートバッグから取り出して、包みを解きながらヒカルは、ちょっと忌々し気に教えてくれた。

「昔、ギアナ高地でな」

 思わせぶりな言い方に、アキラは呆れた顔になった。

「遭難でもしたのか?」

「まあ、そんなも…」

 不自然に言葉を途切れさせたヒカルは、アキラの顔へ振り向くと、準備の出来たキャンディを口へ放り込みながら言った。

「そうなんです」

 言ってやったぜとばかりのドヤ顔に、アキラからは溜息が出た。

「遭難ばっかしてるな、おまえ」

 前にサハラ砂漠で遭難した話を聞いた事があるアキラがツッコムと「当たり前だろ」と言い返された。

「世界中を飛び回っていたんだ。そりゃ東京で暮らしているよりかは、色んな目に遭う確率も高くなる」

 言われてみれば確かに、東京で交通事故に巻き込まれる可能性と、ブラジルはアマゾンにて何かしらのトラブルに巻き込まれる確率と、どちらが高いと訊かれたらアキラは後者を選ぶだろう。

「食い物も水も少なくなって困ってた時に、偶然出会って助けられたんだよ」

「あの時は、別の遭難者を探していたんだ。結局、見つけられなかったが」

 どうやら小さな声で話していたがマサミチに聞こえていたようだ。

「日本人が乗った軽飛行機が、どこかのテーブルマウンテンに不時着したって聞いてな。もしかしたら生存しているかもしれないからって、現地の大使館に頼まれて」

「じゃあ…」

 アキラはヒカルの顔を覗きこんだ。

「そう、あたしはその代わりに助けられたんだよ。飛行機にゃ姉弟(きょうだい)二人で乗っていたらしいが、感謝してる」

「ま、俺も無駄足にならずに、おまえさんやシロクニさんを助けられてよかったよ」

 マサミチは感慨深そうに言った。

「それって罪悪感とか無いの?」

 アキラがおずおずと訊くとヒカルは胸を張ってこたえた。ピリッと口元のキャンディの柄が上を向いた。

「無いと言えば嘘になる。だけど生きていくってのは、そういうもんだろ?」

 ちょっと厳しい目が向けられた。

「あたしらは他の命を食べないと生きていけない身体なんだ。毎日、物を食べているのと同じ。助けられる命の裏で助けられなかった命もある。その積み重ねで今の自分がある。重要なのは卑屈にならずに、胸を張って生きて行く事だ。恥ずかしい事じゃない」

「俺も…」

 背中でマサミチが語り始めた。

「エベレストで三人、見捨てる破目になったことがある。俺たちはベースキャンプにいて、三人はアタック地点にいた。こんな夏の日に想像できないだろうが、一週間も吹雪いてなぁ。アタックキャンプに色々と足りない物があることは知っていたが、助けに行けなくてなぁ。無線でやり取りしていたんだが、段々と受け答えが途切れてきてなあ…」

 夏の日差しを避けるためか、かつて源義家(みなもとのよしいえ)が寄進したという欅が並ぶ六社明神の参道を歩いていく。木陰と言うには薄い物だが、直射日光よりはましになった歩道を行き、大鳥居の交差点までやってきた。

 一斉に青になった歩行者信号に従って、石造りの鳥居の足元へとやってきた。

 そのまま通り過ぎようとするアキラと違って、ヒカルとマサミチが一礼をしてから鳥居をくぐった。慌ててアキラも真似をした。

「おまえ、神道だったっけ?」

「いんや」

 ヒカルはあっさりと否定した。

「でも、真面目に信仰している人を不快にするほどヤボじゃない」

「どんな神域にも礼儀を忘れずにな」

 これはマサミチだ。

「俺なんかは『神の住む場所』とか言われている山に登ったりするから、迷信深くなっちまってよ」

 広い参道を並んで歩く形となった。夏の日差しが背の高い木々に遮られ、また足元がアスファルトでなくなったおかげか、先ほどまでよりは過ごしやすくなった。

 神社らしくハトがあちこちを歩いているのが目に入った。

「大丈夫だよな?」

 アキラが小さな声でヒカルに確かめた。

「?」

 一瞬だけ怪訝そうな顔をしたヒカルであったが、アキラの言いたいことはすぐに分かったようだ。

「いちおう、お互いの生活は覗かないっていう協定だしな」

 他の「人のようなものたち」と共同戦線を張る時に交わした紳士協定である。強大な敵である天使を何とかするまで仲間同士で争わない事はもちろん、お互いの私生活を覗き込まないという約束である。

 なにせ約束を交わした相手のうち鍵寺(かぎでら)明日香(あすか)は、人間の目玉や耳などをハトやネコなどに移植する技術を持っていた。そうやって作ったキメラは見た目が気持ち悪いだけならまだよかった。だがそれらの感覚器官は離れていてもアスカと繋がっており、情報を遠くからでも集める事ができるのだ。ハトに移植した眼球で見たり、ネコに移植した耳で聴いたりできるのだから、誰かの私生活を覗こうと思ったら、いくらでもやり放題である。そういった諸々で、アキラはアスカの事が好きにはなれそうもなかった。

 もちろんアスカが協定を順守する保証はどこにも無かった。

 境内には大は図書館や土俵、小は記念碑などがあった。それらを参道から眺めながら、右手に見えてきた手水舎の方へと、マサミチは近づいていった。

 見事な竜の吐水口から流れ出る真水が目に涼し気だ。

 これからお参りかと思っていたら、二人は手水舎には寄らず、その奥へと入って行った。

「?」

 ちょっと広めの東屋が休憩所として用意されており、マサミチが先に入って行った。おとなしく続くヒカルの後をアキラは追った。

 休憩所と言ってもこんな暑い日だ。壁が無い東屋では涼を取るにも限界がある。もちろんクーラーなんてついているはずがない。よって現在ここには他に人影は無かった。

 コンクリート製らしい床には、誰かが夜間に悪戯でもしたのか、花火の欠片などが散乱していた。それだけではなくお菓子の包みや空き缶なども散乱していた。バカ騒ぎの名残の中で、壁際に設けられた丸太を加工したベンチは奇跡的に綺麗に見えた。マサミチは角にあたる席へ、背負って来たバックパックを下ろした。

「ちょいと荷物を見ていてくれ」

「おうよ」

 安請け合いしたヒカルが、荷物から離れた席へ腰かけた。

「ちょいと待っていてな」

 アキラとすれ違いざまに言い残したマサミチは、東屋を出て行った。すれ違う時にチラリと見えた彼の表情は、これからまるで雪豹でも狩りに行くような険しい物になっていた。

 先ほどまでの柔和な印象とまるで違ったので、つい大きな背中を見送ってしまった。

「座ったらどうだ?」

 促されて、アキラはヒカルの横へ腰をおろした。

「いったい、何が始まるんだ?」

「内緒話だろ?」

 なにを分かった事を、という感じでヒカルに言い返されてしまった。

(そんな雰囲気じゃなかったんだが…)

 アキラは落ち着かずに周囲を見回した。

 四角い東屋の二面には腰ほどの高さの壁、もう二面は解放されてそれぞれが砂利道に繋がっていた。内緒話をするには開放的すぎるのではないだろうかと、アキラは不安になった。

 三分も経たずにマサミチが帰って来た。

 戻って来た彼は、またあの平和を愛する優しい表情に戻っていた。

「飲む?」

 左手の指の間に、複数のペットボトルを挟んでぶら下げていた。どうやら近くの自動販売機で購入したようだ。

「くれ。暑いから、すぐ喉が渇く」

 何も持っていない左手で顔の辺りを扇いでいたヒカルが、迷わず手を差し出した。

「君は?」

「いただきます」

 ヒカルが警戒していないのでアキラも素直に受け取ることにした。飲み物の種類はスポーツドリンク一択であった。

 さっそくキャップを切って、キャンディを咥えたまま一口飲んだヒカルが、ちょっとだけ身を乗り出した。

「で? ここなら誰も聞いていないと思うが?」

「まあ、待て」

 自身も水分の補給をしながら、マサミチは大荷物の口を開いて、中からタブレット端末を取り出した。

 二人がうまそうに飲んでいるので、アキラも喉を湿らせることにした。

 マサミチはタブレットをさっさと操作して画像を呼び出しつつ、二人とは向かい合うベンチへと腰を下ろした。

「エルデーイ王国って知っているか?」

「えるでーい?」

 アキラがキョトンとする。ヒカルはちょっと首を傾げてからこたえた。

「トルコとブルガリアの間にある国だな。あれだ『黒海のキューバ危機』と言われた事件の元凶だ。近くまでは行った事があるが…」

「黒海のキューバ危機?」

 聞き慣れない単語にアキラが振り向いたので、その惚けた顔と向き合うことになったヒカルが面倒くさそうに教えてくれた。

「まだ世の中が冷戦華やかだった頃の話だ。共産圏のブルガリアと、自由主義側のトルコの間に位置するエルデーイ王国にゃ、両陣営の息がかかった組織が入り込んでいてな。街頭行進(デモ)活動妨害(ゲバ)に暗殺と、町中がお祭り騒ぎになってよ。自国(じぶん)軍隊(トコ)じゃ面倒見切れなくなったとアメリカに助けを求めた。治安維持のために軍隊を派遣して下さいってな。まあ他国の軍隊を受け入れる入れないで、さらに一悶着あったんだが…。で、結局来てもらうことになったんだ。が、来るついでに、そいつらが核兵器を持って来るんじゃないかって、国際的な大騒ぎが起きた。で、前に核戦争一歩手前まで行ったカリブ海の事件になぞらえて『黒海のキューバ危機』って名前がついたんだ」

「へえ~」

 さすがにキューバ危機は社会の授業で触りぐらいはやっていたので、すぐに理解できた。

「でも、なんでそんなトコで大騒ぎに?」

 両陣営の最前線に核兵器が用意される方が自然に思えて、アキラは逆に不思議になった。

 アキラの呑気な様子に、ヒカルの口からガリリと音がした。どうやらキャンディに歯を立てたようだ。

「おまえよぉ」

「?」

 素で分からない顔をしているので、ヒカルは指を立てて説明してくれた。

「当時…、いや今でもか…。今のロシアに攻め込むとしたら、どこから攻め込むよ。例えば独裁政権に民衆が反旗を翻し、米軍がそれに介入することにしたらって条件でさ。これだとぶっそうな核兵器(オモチャ)は、どっちも使えないだろ」

「攻め込むのにオモチャ?」

 アキラがまたキョトンとするのでヒカルは遠慮なく舌打ちをした。

「ヒロシマとナガサキで使われたチビとデブだよ」

「あー」

 ついこの間、高校野球の中継で黙祷をやっていたので、すぐに連想が繋がった。

「で、勝利条件はもちろん赤の広場でのバーベキュー大会開催だとすると、どう攻める」

「赤の広場? あーモスクワか。モスクワに攻め込む?」

 アキラは、はてと首を捻った。

「やっぱりドイツやフランスから戦車で押しかけるのか?」

「おまえはどこぞのチョビ髭か?」

 馬鹿にするように言われてしまった。

「そんな考えだと美術大学にも受からねえぞ。途中にあるベラルーシが軍隊の通過を許可しなかったら、そことも戦争になるじゃねえか。いまのウクライナは、まあEU寄りだから通してくれそうだがよ」

「あ、そっか。途中に別の国があるのか。じゃあ…」

 日差しは周囲の林のような木々が遮ってくれるが、熱が籠る原因となっていそうな屋根を振り仰いだ。

「海からだと、ええとあそこは…、バルト海?」

「だな」

 同意とばかりにヒカルが頷いてくれた。

「だけど冬の間は通れないぜ。なにせレニングラードから上陸しようにも、海が凍っちまうんだから」

「海が凍る?」

 暑気の中にいると想像がつかない世界だ。

「サンクトペテルブルグな」

 マサミチが苦笑しながら訂正してきた。

「あ、そうだった。つい昔の癖が」

 忌々しそうに髪を掻きながらヒカルが間違いを認めた。

「いまはその名前になったんだっけ。ちなみに同じような理由でムルマンスク…」

 ここで顔をマサミチに向けた。彼は大仰に頷いてみせた。

「ムルマンスクから上陸ってのも非現実的だぜ。港は凍らないが、それまでは荒れる北極海を抜けなきゃならねえ。ま、米海軍兵学校(アナポリス)の奴らなら、通りますって答えるだろうけどよ。上陸出来たらモスクワまで最短距離だからな」

「じゃあドコから? まさか日本から東回り?」

「延々とシベリア鉄道で進軍するつもりかよ? 今度は生存圏(レーベンスラウム)じゃなくて世界最終戦論でも唱え出すのか?」

 ヒカルはアキラの言葉を小馬鹿にして鼻息を一つ吹いた。

「えーと、東西南北だから…」

 頭の中に世界地図を広げてみる。大雑把に言うと、最初のEUから出発が西からとなる。するとバルト海やムルマンスクは北から、シベリア鉄道が東からモスクワを目指すことになると言えるだろう。そのどれもがダメとなると答えが見えてきた。

「…南から?」

「そう」

 腕組みをして大きく頷かれた。

「黒海を抜けてセバストポリに上陸、そのまま海で使えるような大きな船が通れるドン河を遡上しながら要所を占領し、モスクワを目指す。これが最も簡単かつ確実で、季節や天候に左右されにくいルートだ。米国陸軍士官学校(ウエストポイント)じゃ常識だぜ」

「その近くに核兵器か。確かに大騒ぎになるか」

「まあ米軍はもともとそんなモン持ち込むつもりはなかったようだが。で、いちおう東側の査察を受け入れることで決着がついたんだ」

 歴史の勉強は終わりとばかりに両手を広げるヒカル。マサミチに向き直ると、ちょっと身を乗り出した。

「で? そのエルデーイ王国がどうしたって?」

「今度、そこの王太子殿下が来日するんだ」

「ふうん」

 とたんに興味を失ったようにヒカルはこたえたが、咥えているキャンディの柄がゆっくりと上下しているところから、好奇心は刺激されたようだ。

「日本との関係はどうなんだ?」

「なにか争っているわけでも無し、特に友好的という距離でもない。まあ今はEUの一部だしな。それなりの関係と言ったところか」

 マサミチが事も無げに教えてくれた。

「じゃあやっぱり『外交的努力』とかいう奴か? お互いの国の友好を深め、地球規模の平和の発展に寄与する。ついでに日本からの融資や投資も(ジャパンマネーに)お願い、ってトコか?」

「まあ、半分ぐらいはそうかな」

 目当ての画像を呼び出せたのかマサミチはタブレットをクルリと反転させて、画面を二人へ向けた。

 そこにドレスで着飾った美人が映し出されていた。

「エリザベート=バートリー=エルデーイ王太子殿下だ」

 西洋人にありがちな堀の深めな顔立ちは、まるで古代の職人が丹精込めて大理石から削り出したような面差しをしていた。肌の色は薄く、皮膚の下を流れている静脈が青く見える程だ。

 そして茶色がちな長い髪。こうした公式の場に出る人が髪を染めているとは考えにくいが、紅茶で毎日洗っているのではないかというような連想をさせる色だった。

 アキラのクラスメイトに『学園のマドンナ』に選出された女の子がいるが、彼女と比べると宝石の本物(オリジナル)模造品(イミテーション)ほどの違いがあった。

 美人は、まるで時代物の映画に出て来るようなクラシックで黄色いデビュタントドレスを身に纏い、銀のティアラを髪に乗せていた。ウエストなんかは内臓がどうやって入っているか分からないほど見事に(くび)れており、手袋の左手の甲にはバラとカスミソウで作られたコサージュがつけられていた。

 画像は一定時間ごとに切り替わった。彼女のバストショットになったり、同じように大時代的な軍服を着てサーベルを吊るした軍人と思わしき男性と踊っていたり、彼女の様子がよくわかる映像集だった。

 どの映像でも輝いているほどの笑顔である。

 ターンの瞬間を捉えたのだろうか、腰に回されたパートナーの腕に体重を預けて、大きく仰け反っている画像では、彼女の長い茶色がちな髪が広がって、まるで特注のベールを被っているような見栄えの良さだった。

「ほえ~」

 ついアキラの口から変な声が出た。

「お姫さまだ」

「まあ『王国』を名乗っているんだから、お姫さまの一人や二人ぐらいいるだろ」

 眉をひそめたヒカルがアキラへジト目をくれた。

「これが王太子? たしかあそこら辺は…」

 画像に顔を戻して、ヒカルは脳内を検索するように、少し遠い目になった。

「ギリシャ系の住民が多かったはずだが? なんか鼻の形がそれらしくねえな」

「はな?」

 アキラは王太子が手に着けているコサージュの事かと思い首を捻ってしまった。

「歴史を紐解くことになるが、エルデーイ王国の始まりは、十字軍の頃にやってきたドイツ系移民だよ。だから周囲と人種の差があって、ブルガリア、トルコ、ギリシャに挟まれて、ポツンと独立国家となったんだ」

 マサミチの説明に、アキラはヒカルと交わした朝の会話を思い出した。

「ゲルマン人種っぽくもねえな」

 長い事世界中を飛び回っていたヒカルらしい眼力だ。

「正解」

 マサミチは再びタッチ操作をするためにタブレットを自分の方へと向けた。

 すぐに呼び出せたのか、秒で画面がこちらへ戻って来た。

 今度は妙齢の日本人女性が画面を占めていた。肌や髪の色、顔の造形だけで日本人と決めつける事は難しいかもしれないが、なにせ現代風に日本髪を結って、鶴の舞う様子を豪勢に刺繍した和服を着ているのだから間違いないだろう。

「王妃だったケイコ=バートリー女王陛下だ」

「なんだ母親が日本人か」

 チラリとアキラの顔を見て辟易したように言った。

混血児(ハーフ)にゃ飽き飽きしているんだが」

「日本でもニュースになったことがあるはずなんだが、知らないか?」

 マサミチの問いかけに、同時に首を横に振る二人。

「女王陛下の父君ちちぎみは、普通の商社マンでな。日本から家族ごとエルデーイに赴任したのが振り出しだ。陛下が高校をご卒業された頃だったらしい。で、現地のエルデーイ大学へ入られた。きっかけはその確か大学。そこで現国王、当時の王太子だったテルビール陛下とご学友になられてな。ま、あとは若い二人だ。トントンと…」

「だった?」

 ヒカルが左眉を額の上の方へとやった。

「?」

 話の腰を折られ、不審そうに見かえしてくるマサミチを、口から出したキャンディで画面を指差しながらヒカルは確認した。

「いま『王妃だった』と」

「ああ」

 悲しそうに肩を落としたマサミチは、別の画像を呼び出した。白く塗られた四角い箱がお花畑に埋もれるように飾られていた。その小さなお花畑は、変な荷馬車のような物に乗せられて、八頭の馬に牽かれているようだ。

「去年、ご逝去なされた。まだお若いのに、ガンだそうだ」

「ふうん」

 どうやら画像は女王陛下の葬儀、しかも葬列の様子であるようだ。王太子殿下の時と同じように時間が経つと画面が切り替わった。

 大時代的なボルトアクションライフルに着剣し、黒や紺の軍服を着た軍人たちが二列に向かい合っていた。軍人たちがライフルを斜めに捧げて、まるでゲートを作るように並んでいる石畳の道を、騎馬隊に警護された砲兵隊が通過する画像が、三枚ほど続いた。

「まだ五十代だったはずだ」

 葬列を見送る軍人たちの間に、黒いスーツ姿の女性が混じっていた。顔は黒いベールで隠されているが、先ほど見せられた王太子殿下であることはすぐに分かった。

 悲しみの余り立っていられないのか、両脇に立つ男性がそれとなく手を貸していた。

 左側に立つ壮年の男性は、周囲にいる軍人よりも一層派手な装飾をした服を着ていた。

「こちらの方がエルデーイ国王のテルビール陛下だ」

 派手な男性をマサミチの太い指が指し示した。

「フルネームはテルビール・アンドレアス・ステファン・バートリー・エルデーイ・ザクセン=コーブルグ・ウント・ゴータ陛下」

 マサミチはジュゲムのような長い名前を、息継ぎなしに言ってのけた。

「ザクセン=コーブルグ・ウント・ゴータ? 国王だけだって凄いのに、また凄い家名(かめい)が出て来やがったな」

「ザクセん? んん? なんだって?」

 話しが分からないアキラがキョトンとしていると、ヒカルが説明してくれた。

「有名な家名だよ。知らないか?」

「うん」

 素直に頷くアキラを蔑むのではなく、教えを垂れる教師のような口調でヒカルは言った。

「ウィンザー家は知ってるか?」

「ういんなあ?」

 聞き間違えたアキラが首を傾げた

「ドイツかどっかの貴族か?」

「バカ」

 流石にツッコミを入れてから教えてくれた。

「現イギリス女王エリザベス二世のフルネームが、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザーだろうが」

「あ、ういんざあね。ってことは」

「イギリス王家の家名だよ。今がエリザベス二世だろ。で、その親父がジョージ六世で、その兄貴がエドワード八世で、その二人の親父がジョージ五世だ。つまり女王の爺さんだな。ジョージ五世が何やったか知ってっか?」

「はて?」

 アキラが腕組みをして首を捻ると、ニヤリと笑ってヒントをくれた。

「在位は一九一〇年から一九三〇年ぐらいだ」

「せんきゅうひゃくじゅうねん? そこらにイギリスで大事件なんてあったか?」

 世界史の教科書を思い出そうとするが、まだ清隆学園高等部の授業ではそこまで時代が進んではいなかった。アキラにあるのは中学の時に受けた歴史の授業で得た知識だけだ。

「『行クぞ、イヨいよ大戦へ』って習わなかったか?」

「いくぞ? 一九一四年第一次世界大戦勃発(イクゾイヨイヨタイセンヘ)…、あ」

 年号暗記の語呂合わせからポンとアキラは手を打った。

「そん時の国王がジョージ五世だ」

「へえ」

「で、イギリスはドイツと戦争をすることになったんだが、困ったことがあった」

「?」

「当時のイギリス王家が名乗っていた家名がザクセン=コーブルグ=ゴータだったんだよ。あ~、英語で言うとサクス=コバーク=ゴータだな。んでザクセン=コーブルグ=ゴータってのは戦争している相手、敵国ドイツの地名だ」

「あ~、そりゃまずくない?」

「だろうな。だから家名を、住んでた城の名前に変えたんだ」

「じゃあ…」

 自信なさそうにアキラはマサミチの持つタブレットの画像を指差した。

「この人はエリザベス女王の親戚?」

「まあヨーロッパの貴族なんざ、大きな事を言うとみんな親戚みたいなもんだが、そういうこった。ありえない話ではあるが一〇〇〇人ぐらいいるイギリスの王位継承権者が軒並み倒れたら、ワンチャン、この王さまにもイギリス国王の継承権が回ってくるはずだ」

「ちなみに八〇〇年ほど遡ると、ドラクレシュティ家から輿入れがあったらしい」

 マサミチが情報を付け加えた。

「どらくれしゅてぃ?」

 さすがにこちらの家名は知らなかったようで、ヒカルもキョトンとした顔になった。その顔を見てしてやったりというイタズラ小僧のような笑顔を見せたマサミチが、答えを教えてくれた。

「有名なブラド三世の家系だよ」

「ああ」

 今度はヒカルが手を打った。

「ぶらどさんせい?」

 三世と聞いて思い浮かべるのは、赤色だか緑色だかのジャケットを着て、国際指名手配をされていて、ワルサー使いの猿顔をした男だけであるアキラは、もっと話の分からない顔になった。

「一般の日本人には、コッチの名前は馴染みがないか」

 マサミチは反省するかのように頭を掻いた。

「分かるように教えてやれ」

 これはヒカルだ。

「君も聞いたことぐらいあるだろ? ドラキュラの名前を」

「ああ…。あの美人の血を吸う吸血鬼。十字架とニンニクに弱くって、マンガだと大抵トマトジュースで我慢…、ええ? 本当に居たの?」

「つまりだ」

 驚きの余りベンチから落ちかけているアキラに、画面に映る喪服の美人を指差してヒカルは断言した。

「イギリス王家とドラキュラの親戚なんだよ、このお姫さまはよ」

「へええ。凄い家系なんだね」

「まあ家系で言うなら日本の皇室も負けてはいないんだが…。で? このお姫さまがどうした?」

 だいぶ話しが脱線した自覚があるのだろう、ヒカルがマサミチに先を促した。

「俺は前に、亡くなられた女王陛下に助けられてなあ。ほら冒険家っていう職業柄、人の行かない土地に入ったりするだろ。で、人には見られたくない軍事機密なんかもそういった場所に隠されていたりする。で、そうとは知らず、とある山の中に入っちまった俺は、スパイじゃないかって国家警察隊(クロンウーラン)に取っ掴まってな。もちろん牢屋に入れられた俺は無実を訴えた。で、当時の駐在日本大使が、同じ日本人という事で女王陛下に相談してくれてなあ。無実かどうかは二の次にして、牢屋から出ることができたんだ」

 遠い目をしてマサミチは境内の木々の方を向いた。その横顔を見たヒカルが、ニヤリと笑って訊ねた。

「で? 本当のトコはどうなんだ? 米国中央情報局(ラングレー)あたりからバイトでも斡旋されてたか?」

「とんでもない、俺はまったくの無実だって。今だってそういったことには関わらないようにしているよ」

 大男が大げさに身震いする様子は滑稽だった。

「で、約束したわけだ」

 話しは見えたとばかりにヒカルが人差し指を立てた。

「『私に何かあったらこの子をお願い』ってなあたりか?」

「まあ、そういうことだ」

 悲しそうだった四角い顔を、ニッと笑い皺だらけへ戻して、マサミチの雰囲気は明るい物に戻った。

「で、俺がこの前まだ南米にいる頃に、王太子殿下から連絡があってな。今度、結婚することになりましたと」

「ふ~ん」

 ヒカルがまた興味を失ったように鼻で答えたが、咥えたキャンディの上下運動から察するに、内心はまるで逆のようだ。

「同時に現国王陛下は王位を退き、王太子殿下が新しく女王として…」

「ちゃいまち」

 マサミチの演説のような口調をヒカルが止めた。

「結婚?」

 難しい顔をしてみせた。

「そう」

 マサミチは先ほど見せてくれた女王陛下の葬列を前に倒れそうになっている王太子の画像を再び示した。

「こちらが国王陛下で、こちらが殿下の婚約者であられるボリス公爵だ」

 国王テルビールの反対側から王太子を支えているのは、欧州人の見分けが不得意な日本人でもイケメンと感じられる青年将校であった。

「王さまに公爵さまねえ」

 ヒカルが呆れた声を出した。

「あたしには関わりの無い世界だわな」

「結婚もだろ」

「しゃー」

 余計なツッコミをしたマサミチに、ヒカルはまるで猫のような威嚇音を上げた。

「で、恩人の娘さんに何か頼まれ断れなかった、と。で、困ったおまえは、今度はかつて自分が施した恩を思い出して『手伝ってくれ』と、あたしに連絡してきた、と?」

「まあ、そういうことだ」

 言葉を区切って確認するヒカルに、話しが早くて助かるとばかりにマサミチの笑顔が大きくなった。

「気に入らない相手だから潰せ? それとも破談になるように攫え? 結婚生活に有利になるような恐喝(きょうかつ)強請(ゆすり)のネタでも拾ってこい?」

「と、とんでもない」

 物騒な言葉の羅列が、近所へのお使いだと言わんばかりの態度のヒカルの言葉に、マサミチは夏らしく怪談を耳にしたように震えあがった。

「だって、おまえなら大抵のトラブルを解決できるだろ? できないことって言ったら、あとはニンジンを食べるぐらいじゃないか」

「いちおうカレーに入っているニンジンは克服した。じゃなくて、そんな怖い話しじゃないんだ」

 両手を振って否定した。

「お二人の交際は順調に進んでおられるよ。結婚式は来年秋のご予定だ。で、式の招待状が各国に送付されたんだが…」

 段々とマサミチの歯切れが悪くなってきた。

「王室同士で交流が深い国には、本人が直接赴いて招待することになってな」

 分かるだろとばかりに向けられた視線に、ヒカルは大きく頷いた。

「ま、礼儀として当然だわな」

「で、母君が草莽(そうもう)の出とはいえ日本人となれば、日本の皇室への招待状は殿下ご本人がお渡しになる方がよかろうということで…」

「それで決まった来日か」

 フーンとまた興味を失ったような態度に戻るヒカル。

「死んだ母親の生まれた国か。まあロマンの一つも感じて当然だわな」

「それが今回の依頼なんだ」

「ロマンが?」

 話しが分からなくなり、ヒカルの顔が曇った。咥えたキャンディの柄が上下左右に揺れていた。

「殿下は幼少の頃より、女王陛下から日本の思い出を聞かされて育てられた」

「室内じゃ靴を脱げだの、電車は並んで待てだの、自動販売機は蹴り上げるなだの、暗黙の了解みたいな感じで、向こうじゃ信じられないような生活様式だからなあ」

「自動販売機はどうだか知らないが、まあそんなところだ。お正月には初詣。節分には豆まき…」

 ひな祭りに花見と続きそうだったマサミチの言葉をヒカルは遮った。

「それのドコに、あたしが関係するんだ?」

「面でも被って鬼の役でもやれってんじゃね?」

 久しぶりにアキラが口を開いたら、豆が無くても鬼が素足で逃げ出すような顔で睨まれてしまった。

「で、だ」

 注意を自分に向けようとしたのか、マサミチが一際大きな声を上げた。

「女王陛下には、かつて恋人がいた」

「まあ王室にゃスキャンダルがつきものだしな」

 ヒカルは何の事は無いという態度を示した。

「いやいや」

 慌ててマサミチが手を振って否定した。

「国王陛下と出会う前。日本にいる時にだよ」

「エルデーイへ渡る前か…。確か、高校を卒業してから渡ったって言ったな。まあ高校生ぐらいなら恋人がいたとしても不思議じゃないか」

 納得して頷くヒカルを見て、アキラはクラスメイトたちの顔を思い浮かべてみた。わずかな例外を除いて、誰もが「彼氏が(もしくは彼女が)欲しい」と欲望を垂れ流していたが、実際に相手が出来たという噂は聞いた事が無かった。いやクラスの中で作る班の中で、班長だけは友人から「決まった相手が居るじゃない」とか冷やかされていたような気もした。

 これから彼らにも、色々な恋愛模様が押し寄せてくるのだろうか? まあアキラは、こんな身体になってしまったので、惚れた腫れたなどという色恋沙汰とは縁が薄い話しになりそうだった。

(でも…)

 チラリと、人生で初めて告白した相手の横顔を盗み見たが、無反応だった。

「なんだなんだ?」

 苦笑いのような物を楽しそうに浮かべたヒカルがマサミチに訊ねた。

「元カノの娘が結婚するのに嫉妬して、邪魔をする男でも現れたのか? ケツの穴がちいせえ男だなあ。地球のコッチとアッチの長距離恋愛をダメにした女が、そこまで憎いか?」

「話しが先走りすぎだ」

 違う違うとマサミチさらに手を振った。

「確かに、女王陛下には日本を離れてしばらく連絡を取っていた相手が居たが、そういう話しじゃない」

「じゃあ、どういう話しだ?」

 いい加減、話しを終わらせろとばかりに胸を張るヒカル。暑気の中で話を聞いていて、頭も茹で上がってきたところだ。

母君(ははぎみ)から高校時代の話しを聞いて育った王太子殿下は…」

 ここまでは話しが分かるなとばかりに、マサミチは言葉を区切った。それに対して、だいぶ不快指数が上がった視線をヒカルは返した。

 その顔を見て分かっていないのかと溜息をつかれた。

「母君の青春時代…、恋の舞台となった学び舎を訪ねてみたいと、ご要望された」

「は?」

 一瞬だけキョトンとしたヒカルは、口を尖らせた。わざとらしい程の速さで瞼を瞬かせると、表情を一転させた。

「それの護衛か? つまらねえ話だな、おい」

「それが…」

 再びタブレットを操作し始めたマサミチは、殴り書きした横文字だらけの文章を表示した画面をこちらへ向けた。どうやら時刻を示すらしい四桁の数字が規則正しく並んでいるので、来日スケジュールの素案のようだ。

「来日してからのスケジュール調整をどう工夫しても、そういったお時間を用意する事ができそうもないんだ」

「そいつは残念だったな」

 軽く肩を竦めたヒカルは、彼から外した(まなこ)を厳しくしてから戻した。

 黙って二人はしばらく見つめ合った。

「まさか…」

 ヒカルがポカンと口を開けた。咥えていた柄付きキャンディが落ちそうになっていた。

「そう、そのまさかってやつ」

 マサミチは鷹揚に頷いた。

「まさかって何だよ」

 話しが見えなかったアキラが訊ねると、舌打ちするような勢いでヒカルに冷たい目線を向けられた。

「カンが鈍いなあ」

「鈍くてすまなかったな。で?」

「女王なんていう椅子に座ったら、こんな東の果てまでおいそれとやって来れないのは分かるか?」

 ヒカルの確認に、皇族が海外に行幸されるだけで大騒ぎになるテレビなどを思い浮かべ、アキラは首肯した。

「で、独身最後の来日は出来そうだが、遊ぶ時間は足りねえと言われた」

「遊びではないんだが…」

 百言ありそうなマサミチを眼力だけで黙らせて、ヒカルはアキラへ問うた。

「じゃあ、どうする?」

「どうするって…」

 アキラにもぼんやりと依頼の内容が見えてきた。

「ホテルをぬけだす?」

「そうだろうなあ」

 やっと面白いことになってきたとヒカルは顔を歪めてみせた。身体をマサミチへ向きなおして、改めて確認する。

「そういうこったろ?」

「そういうことだ」

 マサミチは困ったように笑っていた。

「それでスペイン階段でジェラートでも嘗めるのか?」

 ヒカルの言葉に、マサミチが顔を歪める番だった。

「生憎と俺は新聞記者ではないんだが…」

 ポリポリとなぜか照れたように頭を掻き始めるマサミチ。アキラは全然話しが読めなかった。

「よっ色男。真実の口に手首を齧られんじゃねえぞ」

「はあ」

「じゃあそういうことで、ベスパを一台用意しておけばいいんだな」

 もう話しは終わりとばかりにヒカルは立ち上がった。

「いやいや。こういった事は苦手だから、ホテルから脱出して、その学校まで辿り着ける案を考えるのを手伝ってくれよ」

「はぁ?」

 機嫌悪い声をヒカルは上げた。

「オンブにダッコかよ。もう大人だろ」

 プイッとそっぽを向いたヒカルは、すぐに思い直したように顔を戻した。

「ちなみに訊くが、そのお姫さまは、どのくらいの運動神経なんだ?」

「テニスや乗馬など嗜んでおられるが、同年代の女性と比べても、極めて普通であられる」

 立ったまま腕を組んで、右手を顎に当てたヒカルが目を細めた。

「じゃあ、おまえがプランを立てることに無理があるか。おまえだと平気に『この高層ビルを素手で屋上までよじ登って下さい』とか『ここから飛び降りて下さい、三階ですけど』とか言い出しかねねえからな」

「さすがに俺でも三階から飛び降りるのは、月に一回が限度だぜ」

「できるの?」

 アキラが目を剥いて驚いていると、事もなさげに教えてくれた。

「自分の体にかけていい負荷の限界を知らないと、極地では生き残れないからね」

 丁寧に教えてくれる大男に、嫌々手伝うという態度と声でヒカルはこたえた。

「そんなことお姫さまにやらせるわけにもいかないか。いつの話しだ?」

「来年の二月だ」

 マサミチの答えを聞いて、ヒカルは天井を振り仰いだ。

 しばらくしてアキラの顔を見た。

「?」

 意味が分からずキョトンとしていると、無表情にマサミチへ視線を戻した。

「ちょっと手伝うことはできねえな」

「そこを何とか」

 拝む仕草をするマサミチに、申し訳なさそうにヒカルが告げた。

「手伝ってやりたいのは山々なんだが、いまやってる仕事が、どう転ぶか分からねえ。確実に手を貸せないのに安請け合いをしたら、無責任ってヤツだろ? まあアイディア出しぐらいなら手伝ってやる」

「それで十分だ。助かる」

 座ったままマサミチは頭を下げた。大男の頭頂部を見おろす形になったヒカルは、注意するように言った。

「だけど警備体制とか、当日のスケジュールとか、情報が無いと無理だぜ」

「それなら大丈夫だ。手伝ってくれる方が、もう一人いる」

「もう一人?」

 ヒカルはアキラと顔を見合わせた。




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