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九月の出来事B面  作者: 池田 和美
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九月の出来事B面・①

★登場人物紹介

海城 アキラ(かいじょう -)

:本作の主人公。漫才で言うところのツッコミのはずがボケ。春に交通事故に遭って、人では無い『創造物』とやらに『再構築』された身の上。

御門 明実(みかど あきざね)

:自称『スロバキアと道産子の混血でチャキチャキの江戸っ子』の天才。そして変態である。アキラの体を『再構築』した張本人。今回は寝不足。

新命 ヒカル(しんめい -)

:自分を『構築』してくれた『施術者』の仇を追ってアキラたちと出会った『創造物』。二人の護衛と引き換えに、自分の体のメンテナンスを明実に任せているが、徐々に調子を落としてきている。

海城 香苗(かいじょう かなえ)

:この物語のメインヒロイン(本人・談)その美貌に明実の心は虜になっている。

藤原 由美子(ふじわら ゆみこ)

:清隆学園高等部一年女子。アキラのクラスメイト。外伝なのだが、やっぱりセカンドヒロインあたりに腰を落ち着けた様子。

真鹿児 孝之(まかご たかゆき)

:同じく高等部一年男子。由美子とはクラスで「仲良くケンカする仲」である。今回は相談事を持ち込む役。

佐々木 恵美子(ささき えみこ)

:同じく高等部一年女子。出て来る新キャラクターたちが美人ばかりなので、最近その地位が危なくなっている『学園のマドンナ』

岡 花子(おか はなこ)

:同じく高等部一年女子。今回出番なし。

サトミ

:今回は由美子に相談されるという役回り。大丈夫かサトミ。いつもは問題を起こす側なのに、急に立場が変わって、足がつりでもしないかと作者は心配。

不破 空楽(ふわ うつら)

:同じく高等部一年。今回は忍者の末裔(自称)らしく諜報活動に専念する。

権藤 正美(ごんどう まさよし)

:同じく高等部一年。今回は出番なし。

マーガレット 松山|(- まつやま)

:アキラたち一年一組の副担任。その正体は『施術者』の一人であるクロガラス。今回出番なし。

鍵寺 明日香(けんじ あすか)

:アキラたちと同じような「人外のもの」。今回も特にコレといった出番はない。

天使

:天界から降臨した存在。





 ジリジリと鳴る発車ベルに急かされて、鈴木(すずき)洋子(なみこ)は、国電の開いている扉へ駆け込んだ。

 後から切符を買う演技をして遅れたミネさんも飛び込んできて、洋子の背中へとぶつかった。

「はあはあ」

 ジーンズに包まれた細い足へ手を置いて、息を整えようとしていると、発車の揺れがやってきた。

「おっと」

 細い肩をミネさんが支えてくれた。

 とくにスポーツもしていないミネさんだが、さすが武闘派を自認するだけあって、この程度で少しも揺らいでいなかった。

 つい女としての本能で頼りたくなるが、そこはグッと我慢して背筋をのばして吊革を掴む。自立した存在。洋子の目標はそんなに大それたものではない。

「ありがとうございます」

 背筋をピンと伸ばしても、ミネさんの肩ぐらいまでしか届かなかった。

「キミの作戦は、なかなかだったけど…」

 イタズラ小僧のようにニヤリと嗤ったミネさんは、目線で一つ後ろの車両を指差した。

「追っ手は、まけなかったようだよ」

 車両同士を繋ぐ貫通路越しに、二人組の男たちが見えた。

 揃いの背広で逆三角形の体格を包んでおり、こちらへの視線を深くかぶったパナマ帽で隠していた。洋子の視線が向いたと分かり、わざとらしく何か会話を始めた。

 洋子は半ば息が上がっているのに、向こうは悠然としている。明らかに基礎体力の違いだ。またミネさんも、そんなに息を切らしていないところを見ると、洋子は認めたくないが男女の体力差も関係あるようだ。

 あの二人は、千葉で行われた意見交換会会場から洋子の後について来ていた。いや洋子にではなく、一緒にいるミネさんの方が目的である可能性が高かった。

 なにせ学生運動家としての経歴は、ミネさんの方が長い。洋子は、まだ首を突っ込んだばかりのヒヨッコであった。

 三つの大学合同で開かれた意見交換会。会場を出て、駅に向かっている途中で、こんなことには慣れっこなミネさんが、尾行に気が付いた。

 それから二人を巻こうと、わざわざ総武線を逆方向に乗り、成田から我孫子へ抜け、そして東京に戻る列車に飛び乗った。

 だがピッタリと貼りついており、どうやっても見失ってくれなかった。試しに何度か途中下車して、町を一周し、再び電車に飛び乗ってもこうだ。

 二手に分かれる振りをする洋子の作戦もダメだった。

「おそらく情報が洩れていたのだろう」

 ミネさんがドイツ語でそう懸念を口にした。英語を聞き取れる大人は多いが、他の外国語ならばそれも難しくなる。運動に関する話は、日本語と英語以外で会話する事が取り決めてあった。

 幸い洋子はドイツ語の成績はよかった。だから今回、選ばれたとも言えた。

 洋子には、いやミネさんには尾行される心当たりがあった。

 この後、全学連で有力者だったアノ方に会う予定なのだ。反政府活動をしている人の許へ行くのに、正体不明の男を引き連れたままでは、もちろん色々とまずかった。

 そんな重要人物のところに、新参者の洋子が気軽に会いに行けるわけがない。用事があるのはミネさんの方だ。

 ミネさんから見たら、洋子は学生カップルとして擬装するための道具なのかもしれない。しかしそれでも、後の歴史書に書き残されるだろう人物と会えるチャンスは、もう二度と来ないと思って、二つ返事で引き受けてしまった。

 現在ブントは四分五裂。それを再び結集して、権力を乱用し戦争へと突き進もうとする政府に、絶対に物申さなければならないのが市民の役割なのだ。

 そういうミネさんの主張に、洋子は共感するところが大きかった。

「だれなんでしょう」

 つたない発音で洋子はミネさんに疑問をぶつけてみた。

「おそらく警察…。しかも公安あたりじゃないかな」

「こうあん…」

戦前(まえ)の特別警察みたいなものだよ」

 洋子の知っているドイツ語の単語にあわせて会話のレベルを下げてくれていた。本来ならば戦前に存在した特別高等警察と言いたかったのだろう。国体保護を言い訳にして、拷問を含む圧力を活動家へかけ、言論弾圧などを重ねた秘密警察(ゴロツキ)である。

 まあ洋子もこんな活動に身を置いているから「秘密国家警察(ゲハイメ・シュターツポリツァイ)」ぐらいの単語は知ってはいるのだが。

「もう、ぐんたいが、わるさするじだいじゃないのに」

「彼らには彼らの主張があるのだろう」

 そこでミネさんが、視界に入る他の乗客が不思議そうな表情をしていることに気が付いた。

「内緒話は、向こうでするか」

 日本語でそう言って、車両の前の方を指差した。一両目との境目の端っこには、シートで酔っ払った会社員風の男がひっくり返っており、赤い顔でイビキを盛大にかいていた。

 周囲の大人たちは、絡まれてはつまらないとばかりに、一定の距離を置いていた。

 その混んでいる車内にできた空間へ、二人して移動した。

 まあ、これだけ酔っ払っているのだから、暴れ出してもあまり怖くないだろう。と、洋子は思うことにした。いちおうミネさんも一緒だし。それに、せめて逃げ足ぐらいは鍛えておかないと。またあの激しい闘争が始まった時に、足手まといになるのは嫌だった。

「ここなら大丈夫かな?」

 日本語で呟き、周囲をもう一度注意深く観察するミネさん。一瞬だけ見せた猛禽のような鋭い視線は、すぐに鳴りを潜めた。

 酔っ払ったこの男以外、二人の会話が耳に入る者はいなさそうだ。尾行して来る二人組も、貫通路越しに視線を送って来るだけ。車両一つ分も離れれば、なにを喋っているのかまでは分かるはずがなかった。

「そう固くなっていると、かえって遅れを取るぞ」

 同じように車内を確認していた洋子を、ミネさんは少しからかった。

「いいのですか?」

 日本語の使用を確認した。

「あまり労働者に不安を与えてもいけないだろ」とウインク。気障だがとても似合っていた。

「自分は特別だ、なんて考えは持たない方がいいよ。ボクらも彼らと同じ人間だ」

 いまだ肩肘に力の入った様子の洋子に、年長者としての注意を授けるミネさん。ミネさんが顎で示した酔っ払いは、幸せな夢でも見ているようだ。目を閉じたままニコニコして、腹を掻いていた。

「君が女神のように神聖視する人も、普通の女の子だった」

 ちょっと目を細めたミネさんが、すっかり暗くなってしまった車窓へ視線を移した。会場を出た時は、まだ昼下がりだった。もう夕ご飯どころか夜食の時間である。

 その夜闇をスクリーンにして、ミネさんは誰かを幻視しているようだった。

「帰ったら卒論完成させるって言っていたのだけどなあ」

「わ、私だって。命がけになったとしても、後悔はしません」

 つい大声を上げそうになって洋子は自分で自分の口を塞いだ。

「命をかけなくったって、確実に得点は重ねているさ」

 現実に引き戻されても、余裕のある表情のままでミネさんは言った。

「なにせ安保阻止はできなかったが、民主主義を破壊しようとしていた内閣は、総辞職へ追い込むことができた」

「ブントのみんなは、あれは屈辱だって言っていますけど?」

「途中から倒閣運動にすり替わってしまったからね。慌てることは無い。僕らは若いのだ。一つずつやっていけばいい。議会で議席を取り、悪法は改正し、外国からの干渉は排除して、平和憲法のもと…」

 そこまでまるで昼間の意見交換会の続きであったかのように捲し立てていたミネさんは、慌てて口をつぐんだ。

「すまなかったね。君は気にしていたのだよね」

「へ、平気です」

 洋子は、昨年行われた国会前の三三万人デモに参加できなかった。当時はまだ生まれ故郷で受験のため勉強を重ねる毎日だったのである。

 あと数年早く生まれていれば、彼女が神聖視している女性と肩を並べて活動ができたかもしれなかった。

「見たまえ」

 ミネさんは、まだ弁舌の余韻を残した声だった。

「彼の幸せそうな寝顔を。また日本が戦争に巻き込まれたら、こういった普通の幸せすら破壊されるのだ」

 そんな対象にされているとは露とも感じていないのだろう。酔っ払いが起きる気配はなかった。

「見たまえ、この町を」

 ミネさんの目線が車窓へ移った。暗い中にポツポツと明かりがあった。

「あの明るい窓一つ一つにある幸せを。爆弾が降って来ない平和な町を」

 再び車内へ視線を移す。いまだ怪しい視線を向けて来る方ではなく、先頭車両の方に顔をやると、そこにも人々の生活があった。

「ほら、あのカップルなんか幸せそうだろ」

 貫通路越しに視線を飛ばすと、四角いお弁当箱のような男と、薄い色のブラウスと茶色いスカートを合わせた二人が言葉を交わしているのが目に入った。

 立って吊革を握っている男もそうだが、明るい表情を作っている女も、どこかの勤め人といった風情だ。

 パッと見て恋人同士に間違いない。もしかしたら、その先の婚約関係まで行っているかもしれないと思わせるものがあった。

「我々は普通の生活ができないかもしれない」

 チラリと背後を見る。先程の二人組が、こちらの車両に移ってきていた。

「しかし、彼らの幸せを守っていると考える事ができれば、また彼らの未来を守っていると考える事ができれば、多少の不自由ぐらいは我慢できる」

 芝居がかったミネさんは体を反対側へ向けた。

 ミネさんの行動が予想外だったのか、二人組の男は足を止めて、吊革に掴まって車窓を見る振りをし始めた。

「『だるまさんがころんだ』だな、こりゃ」

 洋子に満面の笑みを向ける。その様が板についていた。

 尾行者が近づいて来たので再び盗み聞きを警戒したのか、ミネさんはドイツ語に切り替えて語り掛けてきた。

「ボクがアノ人の説得に成功すれば、分裂してしまった組織も立て直すことができる。なあに、ちょっとした行き違いが発端だ。すぐにまた仲良くなれるよ」

「しみんのために、おねがいします」

 丁寧に頭を下げた洋子に、了解したとばかりに頷いてみせるミネさん。

 と…。

「?」

 突然の急ブレーキに体をミネさんに押し付けられる洋子。ガッシリとした胸板に受け止められ、頬の辺りに温かみがやってきた。

 そしてけたたましい警笛の音。普通ならば一声鳴らせば止める物を、尾が引くほど鳴らしっぱなしにしていた。

「んが?」

 シートの上でひっくり返った酔っ払いが、何事かと目を覚ました。

 その途端に、まるでレールの上から田舎道へ舵を切ったかのように、電車がガタガタと揺れ始める。車内に悲鳴が重なった。

 時間の流れが遅く感じられた。

「?!」

 窓の外を、誰かが通り過ぎたような錯覚を得て、洋子は息を呑んだ。あれは誰かの腕であった。

(事故だ!)

 そう認識した途端に破滅がやってきた。

 洋子たちが乗る列車は、何かへとぶつかり、あっという間に前の車両が視界から消え去った。それと同時に重力が消え、洋子の体はミネさんと一緒に床から浮き上がった。

 そして真っ暗になった中を、抱き合ったままの二人は、どこまでも深く落ちて行った。



(まただ)

 目を覚ましたままベッドの中で身じろぎもせずに海城(かいじょう)アキラは思った。

(また変な夢を見た)

 左腕が動かせないので、右腕を使って額に浮いた汗を拭った。

 目だけを動かして、部屋の中を右から左へと観察した。

(まさか変な夢を見るような機械が仕掛けられているんじゃないだろうな)

 そのままの姿勢でアチコチに視線を走らせるが、幼いころから使用している自分の部屋に、見慣れない物が置いてあるなどの違和感は無かった。

 動いている物と言えば、夏の間はスイッチが入れっぱなしになっているエアコンが、コンコンと小さな作動音をさせて冷気を吐き出しているぐらいだ。後は動いている物など無かった。

 だが安心はできない。なにせ相手は高校生にして複数のパテントを持っているほどの(無駄な)天才児なのだ。そしてアキラの幼稚園からの幼馴染でもあった。

 とは言っても、ただの高校生であるアキラに、その幼馴染の天才的頭脳を出し抜けるとは思えない。この部屋だって、とある理由から監視がされている可能性の方が高かった。

 神経質な人間ならば発狂しかねないだろうが、幸か不幸か幼馴染の変な実験に、幼稚園の頃から付き合わされているので、アキラには耐性ができてしまっていた。

(変な発明品ではないとすると…)

 アキラはあまり体を動かさないように心掛けながら、自分の左脇へ視線を移した。

 弱冷房に設定してあるはずの冷気の中で、自分の左半身がホカリと温かい。理由は単純だ、アキラの左半身に美少女が貼りついているのだ。

 穏やかな寝顔を見せて、アキラの左腕をまるで抱き枕のようにして抱え込んでいた。両手でガッチリと抱え込まれていて動かせそうもない。そのおかげで左腕はどんなヌイグルミよりも柔らかくて暖かい物に呑み込まれたようになっているし、脚なんかもアキラの下半身へ纏わりついて、ちょっとやそっとでは引き離せない程だ。

(目が覚めたら女の子がベッドに入り込んでいました、か。まるでマンガのような…。う~ん、前だったら嬉しかったのかな)

 アキラは、今のシチュエーションを去年の自分だったらどうするか考えてみた。だがピンと来なかった。

 これも幼馴染に身体を「女の子のようなもの」に変えられた弊害だろうか。

 そうアキラは去年までは普通の男子中学生である海城(あきら)として暮らしていた身であった。

 だが今では、ドコを切っても「町ですれ違う男の子の八割は振り返る美少女」といった外見となっていた。

 高校へ進学してソッチ方向へデビューしたわけではなかった。

 それまでは至らない所もそれなりにある、普通の男の子として生活していた。背も伸び始め、母親を見おろすほどにもなった。自分の進路も見定め、それに有利な清隆学園高等部を受験する事にし、実際に入学試験も受けた。

 しかし、その合否発表の日に、彰は不幸な交通事故に遭遇した。大型トラックに跳ねられて体はズタズタになり、死んでしまうところだった。

 それを偶然居合わせた、科学者でもある幼馴染に助けてもらった結果が、この事故前とは似ても似つかぬ身体というわけである。

 残念ながら助けてくれた幼馴染は、天才科学者である前に、変態だったのである。

 そんな説明を沖縄の人にしても「うんじゅが、ぬー、うっしゃとーるぬが、わかやびらん」とか言われるだろう。ちなみに津軽の人ならば「なーが、何、しゃべっちゅぅのが、わがらね」だろう。

 まあ、そういうわけで、いまのアキラは女子生徒として、清隆学園高等部に在籍していた。

 この身体になってからというもの、性欲なんかは感じる事は無くなっていた。まあ、あるべき物が無くなったのだから、そういう物なのだろうなと深刻には捉えてはいなかったが。

 それでも精神(こころ)は思春期男子のままなので、他の女子の着替えなんか見ると顔が熱くなってくるのは変わらない。体育の授業なんか、更衣室の隅で壁に向かって着替える程だ。

 水泳の授業に至っては、事情を把握している母親から、参加の禁止を言い渡されていた。

 まあ学園では、体が弱くて休みがちという事になっているので、体育の欠席や見学は不自然ではなかったが。実は体が弱いどころか、どんな大男を片手で捻り上げる程の膂力を、今では持っているのだが。これも「女の子のようなもの」になったせいだ。

 そんなアキラだが、いちおう恋をした。

 身体が「女の子のようなもの」でも精神は普通の男子だったから、相手も普通に女子であった。

 しかも相手はエキゾチックな雰囲気を纏った、そして黒髪が似合う美人であった。

 とはいっても、その正体は今のアキラに近い「女の子のようなもの」なのだが。

 その相手とは、この春から海城家に居候兼用心棒として住むことになった、新命(しんめい)ヒカルであった。

 いま現在、アキラの左腕に抱き着いて寝息を立てているその人である。

 不器用なアキラは、正直にヒカルへ自分が抱いている好意を伝えた。

 答えは「ばか」とか「やり口がきたねえ」とか碌な物じゃなかった。

 ただ、はっきりとした答えはもらえなかったが、ヒカルの方も満更ではない様子だ。

 証拠にそれ以来、夕食後にアキラが夏休みの課題をこなそうと自室に籠っていると「手伝ってやる」とか「分からないとこ、無いか」とか言い訳をしながら、ヒカルの方から訊ねてくるようになったのだ。

 外見は同い歳に見える二人だが、ヒカルの方はもうとっくに成人しており、しかも銃に関する専門家ときた。もちろんただ海城家に居候しているわけでは無く、アキラと幼馴染の用心棒として昼夜問わず警護するのに必要だったため同居しているのだ。清隆学園高等部に通うのも、学内での警護の都合上のカモフラージュでしかなかった。

 頭脳の方だって明晰で、高校の授業なんて簡単でつまらないと豪語できる程。アキラの身体の事も知っていて、四六時中一緒にいるのだから、こんなに家庭教師に向いた人材は他では考えられないだろう。

 ヒカルには、住み込みの用心棒として暮らせるように、海城家では部屋があてがわれていた。家庭教師として訊ねて来るときに、部屋から自分の布団を引き摺って来ることも多かった。

 昨夜も床に敷いた布団の上で、ベッドへ横になったアキラと、寝入るまで他愛のない話をした。

 ヒカルの話しは面白かった。(身体のこと以外は)普通の高校生でしかない自分では体験できないような外国の話しや、極地での冒険譚。海や山で遭難したが、それを切り抜けて帰って来た話。どれもこれもジュール・ベルヌの作品を読み聞かされているようなワクワクするような物ばかりだ。

 そして大抵、朝目覚めるとこうだ。確かにヒカルは床の布団で寝たはずなのに、いつの間にかアキラのベッドに潜り込んでいるのである。

 もちろんアキラには、身に覚えがない。起きている時にそういう雰囲気にもならないので、不純な行為が行われているとは思えなかった。

 いちおう服を点検してみる。夏休みの学生としてごく当たり前の格好…、今年買った水色と白のボーダーというマリンカラーのTシャツに、去年も愛用していた茶色いサマーパンツは、寝入った時のまま、特に乱れていることもないようだ。

 異常と言えば、同じ頃からアキラは先ほどのような夢を見るようになったことだ。

(これって、ヒカルの見ている夢なのかなあ)

 幼いころから見慣れた天井へ目をやり、寝起きで働いていない頭で考えてみた。

 夢は一つのパターンだけでは無く、数パターンあるようだ。ある時は婚約者のお見舞いの帰り道、ある時は就業時間後の呑み会の帰り、そして今日見た活動家の行動。そのドレも、夢の主人公は女性であり、最後は大きな事故に巻き込まれて暗闇に吞み込まれるのだ。

(たしか…)

 アキラは自分の記憶をひっくり返してみた。

(五人分の死体を繋いで『構築』されたんだっけ)

 ヒカルは厳密に言うと人間ではなかった。ついでに言うと今のアキラも同じである。『施術』という現代の科学技術ではない方法で、限りなく不老不死に近づいた『創造物(クリーチャー)』と呼ばれる存在だった。よって外見は二人とも美少女と表現できる容姿だが、あくまでも「女の子のようなもの」である。

 その証拠に、腕がちぎれるような大怪我を負っても、翌週にはケロリと治ってしまう。(まあアキラの腕は別の理由で、肘から先がよく飛んで行ってしまうのだが)

 部屋が監視されていても不思議ではない理由がそれであった。『施術』はまだ完璧な物ではない。よっていつ身体に異常が現れても対応できるように覗かれている可能性は高かった。

 交通事故で肉体が破壊されたアキラを救うには、この方法しか無かった。対してヒカルは、自分を作った『施術者(マスター)』に、五人分の死体を集めて作られたと、かつて語ったことがあった。

(もしかしたら…)

 いつもは寝ている時すらへの字口なヒカルの、今は穏やかな寝顔を見ながらアキラは思った。

(もしかしたら、これってヒカルが死んだ時の記憶なのかな)

 不吉な夢である。今のヒカルからは想像できなかった。黒くて長い睫毛が生え揃っている瞼は閉じられ、幸せそうに微笑んでいるようにさえ見えた。

 もし悪夢を見ているならば、もっと苦い表情をするのではないだろうか。

「…」

 寝ながらもアキラの視線を感じ取ったのか、まるで子猫が甘えるように、腕に頬を摺り寄せてきた。

 そんな無防備であどけない姿がとても愛おしかった。

 アキラは体を傾け、ヒカルと正対した。桜色の唇が薄く開いて、柔らかい寝息を立てていた。

 起こさないようにと気を使いながら右腕をヒカルの腰へと回し、グッと顔を覗き込むように近づいてみた。

「…」

「…」

 パチリと開いた黒い瞳が正面からアキラを見ていた。瞳の中に燃えるような青い光が揺らめいていた。

「あ」

 アキラが何か言い訳を口にする前に、ヒカルの眉がキリキリと寄せられた。

「なにをするつもりだ?」

 とても冷徹な声で訊かれた。その迫力にアキラはヒカルの身体に回していた右腕を解いた。ヒカルの方も、抱きしめていたアキラの左腕を放した。

そそくさと上体を起こした二人は、ベッドの上で距離を取った。

 小柄な身体である。

 オーバーサイズのTシャツを寝間着代わりに着ているが、他の物は何も身に着けていない。そんな格好なので目に刺さるような肌色をした脚の間から、橙色をした秘密の布地が少し視界に入った。

 アキラの視線に気が付いたのか、ヒカルは二人の身体にかけていたタオルケットを、身体を隠すように抱え込んだ。

「ええと」

 ちょっと視線を逸らしてみる。いい考えが浮かばなかった。なので喋りながら考えることにした。

「いや、よく寝ているなって」

「へ~」

 見る間にヒカルの顔がどんどんと険しくなっていった。危険な兆候だ。春から一緒に暮して来た経験からすると、張り倒される一分前といったところだ。

「どのくらい寝てるのか、よく見ようとして…」

 その時、天啓のようにアキラの脳裏へ、自分の母親が口にしていた言葉が蘇った。

(女の子はね、毎日褒められないと満足しないんだからね)

「ほら、おまえの寝ている顔って、かわいいからさ、つい」

「かわいい?」

 まるでその単語が親の仇であるかのように歯の間から押し出すようにして繰り返し、そしてヒカルは訊いて来た。

「どのくらいだ?」

「へ?」

「どのくらい、かわいいかって訊いてんだ」

 どうやら訊き返しておいて、後悔しているようだ。ヒカルの頬に赤味が差しているような気がした。

「ええと…」

 そんな例え話が旨くできるほど人生経験を積んでいるわけがない。この身体になってからというもの色々と数奇な経験は重ねたが、やっぱりアキラは高校一年生なのだから。

「ああ、あれだ。アフリカとか中東によくいるような、猫のような犬のような、そんな動物の赤ちゃんのような…」

 両手を無意味に振り回してアキラは説明を始めた。何か具体的な対象を思いついたわけでは無い。単語をとにかく羅列しているだけだ。

「へ~」

「サバンナとかに住んでて、夜行性で、集団で暮らしているような動物で…」

「ほ~」

「笑うような鳴き声で、顎の力が強そうな…」

「それハイエナだよな」

「…」

 口から出まかせを言っていたはずなのに、意外にも該当する動物が居たようである。しかしよりによってハイエナとは。同じ肉食獣でもライオンの方が、まだ可愛げがあったかもしれない。

「ふ」

 片頬だけ歪めるというシニカルな笑みを浮かべたヒカルは、黒い髪を靡かせながら胸を張った。

「おまえがあたしの事をどう思っているかは、よおくわかった」

 力強く握った右拳に左手を当て、ポキポキと関節を鳴らし始めた。アキラは身近に迫った危険を自覚することになった。

「ま、まて。今のは言葉の綾と言うか何というか」

 言い訳しながら自分も体を起こすと逃げ腰になった。

「問答無用!」

 慌てて逃げ出そうとしたアキラの視界に星が散った。



「おお痛て」

 ヒカルの拳が食い込んだ頬をマッサージしながらアキラは一階への階段を下る。海城家では夏休みでも朝はちゃんと七時には起きて朝食の席に着かなければならない。そうでないと母親の圧力を感じる静かな笑みが出迎えることになるのだ。

 もちろん言うまでもない事だが、その後は碌な目に遭わないことになっていた。

 ヒカルはというと、なるべく音を立てないようにして布団を自分の部屋へ戻している最中だ。

 外見がどうであれ、いちおうアキラとヒカルは男子と女子。一晩同じ部屋で過ごしたとなれば問題視されても致し方ない。よって、こうしてダイニングへと下りるタイミングをずらしたり、布団の移動に気を使ったりしていた。

「おはよう、アキラちゃん」

 一階のダイニングキッチンのテーブルには、すでに朝食が並べられていた。厚目のトーストにイチゴジャム、一人分ごとに皿へ取り分けられたサラダにはソーセージやオムレツがついているといったホテルで出て来るような立派なメニューである。それもこれも今、人数分のコーンスープを手鍋からカップへと取り分けている女性の力作である。

 エプロン姿がとても似合う人である。ちょっと美容院へ行きはぐってしまったようなボブカットより少し伸びた黒髪に健康そうな肌。小柄だが、エプロンの下に身に着けたサマーセーターにデニム地のカーペンターパンツという少々野暮ったいコーディネートでも、女性らしい曲線を感じさせる肢体。

 黒目がちな瞳に、誰かにチョンと突かれるのを待っているような小振りな鼻。

 これだけの条件が揃っていてジョン・メイトリックスのようなゴツイ偉丈夫であるはずがない。アキラぐらいの年頃をした男の子なら、並んで登下校する事を夢に見るような美少女であった。

 アキラは体ごと振り返った彼女と正対した。背の高さが向こうの方がちょっとだけ高かったり、着ている物が違ったりするが、まるで鏡に映った姿のようにそっくりだ。

 しかして、その正体は…。

「おはよう、かあさん」

「おはよう、アキラちゃん」

 アキラへ再び挨拶を返したのは、アキラの母親である海城(かいじょう)香苗(かなえ)であった。

 とても高校生の子供がいるとは思えないような容姿であった。

 なにせアキラがまだ男子中学生だった頃には、彼の姉妹に間違われた程の外見だ。しかも去年あたりは姉の方に間違われる率が減っていたような気がしていた。

(おそるべしアンチエイジング)

「ん?」

 我が子の考えなど、お見通しとばかりに、香苗は小首を傾げてみせた。

 もちろん年齢の事を指摘したら、母親の機嫌が悪くなることは知っている。ここは曖昧な微笑みで誤魔化す時だ。

「あははは」

「夏休みの宿題、進んでる?」

 カップスープの配膳を済ませながら香苗が訊いて来た。

 どうやら香苗は、アキラの部屋にヒカルがお邪魔していることに気が付いている節がある。ただアキラの信用が高いのか「女の子のようなもの」同士なら問題ないと思っているのか、特に指摘してこない。こうやって遠回しに確認して来るだけだ。

「あ、えーと」

 いつも座っている席の椅子を引きながら、アキラは話を逸らそうとテーブルの上へ目を走らせた。

「あれ? とうさん帰って来たの?」

 テーブルの上に並んでいる朝食は四人分だった。いま海城家には高校生のアキラとヒカル、母親の香苗しかいないはずだ。大黒柱たる父親、海城(かいじょう)(つよし)氏は、先月までの南米はバルベルデへの出張から帰朝したが、マイホームに腰を据える暇も無く、今度は青森県下北半島の端にある『恐山霊子研究所』なる怪しげなところへ行く事になった。

 三日ほどしか顔をあわせなかった父親が言い残したのは「宮仕えは辛い」の一言。今春から合計しても家にいた日数は数えられる程でしかなかった。

 出張ばかりの父親の体を心配して、転職を勧めようかと思うアキラなのであった。

 そういうわけだから朝食の席に四人分の皿が並んでいるという事は、留守がちな父親の帰宅を意味する物だと考えて当たり前の事であった。

 もちろん母親が知っているのだから、彰がアキラとなってしまった顛末は父親も知っていた。

 彼の感想は「息子ってヤツもいいが、娘ってヤツもいいな」と伴侶と似たような物だった。

「んんん、違うわよ」

 悪戯気にキョロリと瞳を輝かせた香苗は、四杯目のカップスープをアキラから見て斜め前になる席へと置いた。

 ダイニングテーブルで一番トースターに近い席は、いつも香苗の席となる。その反対側がアキラの定位置だ。さらに横に並べられた一式はヒカルの分である。

 対して香苗の隣の席は、主に来客時に使用する席でもあったが、たまに父親が使う事があった。

 父親が帰宅していないとなると、来客があるという事になるが、アキラにはトンと思い当たる節が無かった。

「…おはよう」

 階段に気配がして、ヒカルのぶっきらぼうな挨拶が聞こえてきた。

 振り返れば機嫌悪そうにヒカルが階段口に立っていた。まあ、いつも不機嫌そうにしているヒカルだから、平常運転と言ったところなのだが。

 白いTシャツと、白地に紺色の細かいストライプが入って、一見すると灰色に見える緩いズボンという服装は、自室に布団を戻した時に着替えたのだろう。これだけならば夏休み中の女子高生が朝起きてきたという風情だ。ただ一点、腰にウエストポーチのような物を巻いてある事だけが違和感を出していた。

 口元から生えているように咥えているのは、世界的に有名な柄付きキャンディの先である。

「おはようヒカルちゃん。まあ」

 キリキリと香苗の眉が顰められた。

「?」

「かた」

 香苗に指摘されてヒカルは自分の肩を確認した。Tシャツの肩口がずれて、下に着けたブラの肩紐が覗いていた。

「いいじゃねえか、このくらい」

 それでも服装を修正しながらダイニングへと入って来る。もちろんアキラはソッポを向いて見ていないふりだ。そうでないと一悶着起きる事を経験的に学んでいた。

(上下で同じ色に揃えたのかな)

 そんな思春期男子の思考を読んだのか、なにか言いたそうにキャンディの柄を揺らしながら定位置であるアキラの横へとやってきた。

「お?」

 ヒカルも朝食が四人分並べられていることに気が付いたようだ。

「ツヨシが帰ってきたのか?」

「んんん」

 服装の乱れを注意した時とは変わって、クスクス笑って香苗が答えた。

「アキラちゃんと同じ訊き方をするのね。まったく仲がいいんだから」

 香苗に指摘されて、並んで席に着いた二人が同時に顔を赤くした。

「これはね、アキザネくんの分」

「はあ?」

 隣家に住むアキラの幼馴染の名前が出て来て、二人は同時に目を丸くした。

「ありゃあ無理じゃねえのか?」

 食卓に肘をついたヒカルが、全然心配していない声で指摘した。ピコピコと口元のキャンディの柄が上下に揺れていた。

「研究をすっぱ抜かれて、だいぶキてたぜ?」

 カレンダーが八月に替わったばかりの頃、新しい核酸による生命の合成に成功したという研究論文が発表された。

 国内の芸能ニュースはあれほど騒ぐくせに、科学的な事はさっぱりな日本のマスコミですら少し取り上げられたぐらいだから、世界中がこの研究に注目していることは間違いなかった。

 だがその内容はというと、アキラたちの身体の秘密である『施術』そのものであった。

 この研究はいちおう外部には秘密という事になっていた。

 なぜなら不老不死へ至る秘術である。最悪の場合、社会的倫理観が全世界で引っくり返る程の大発明でもあるし、また再現性がいまいち不安定という事もあった。

 特に問題なのは再現性だ。科学という物の基本である。同じ条件下で同じ事象が観測されなければ、それは事実として認定されない。過酸化水素水を加熱して得られる気体が、ある時は酸素だが、ある時は塩素では困るのだ。

 アキラの身体に施された段階で、『施術』の成功率は五割へわずかに届かない程であった。ただそのままでは死亡する確率の方が高かったからアキラへ『施術』は施されたが、本来ならばそんな不安定な技術を人間に用いたら人体実験と見なされて、最悪学会からの追放だってあり得る話だ。

 そのヤバイ技術がまさか他から公式に発表されるなんて、まったくの想定外であった。

 しかも発表されたのが、どこか国立の研究所などならまだしも…。

「高校生にして天才なんて、珍しい存在じゃないのかねえ」

 頬杖をついたヒカルが、アキラに問うように言った。たまたま幼稚園からの幼馴染が天才だったアキラには、答えようがない質問だった。

 研究論文は、いちおう県立大学の生命工学研究所と連名となっていたが、彼らと同じ世代の高校生が書いた物だったのだ。

「ヒカルちゃん」

 ちょっと咎めるような香苗の声に、ヒカルは口から嘗めかけのキャンディを抜いて、自分用に取り分けられた皿へと置いた。ヒカルのお行儀の悪さによく顔を曇らせる香苗だが、キャンディを咥えながらの食事という最悪のマナーを避けた事で機嫌が良くなったのか、コロリと表情を戻した。

白膏(びゃっこう)学苑って、アレでしょ」

 香苗の指が立てられ、空中にある備忘録を指差し確認するように動いた。

「アキラちゃんたちが通う学校のライバル校」

「らしいな」

 ヒカルの手が後ろ腰に回したウエストポーチのような物のあたりをまさぐっていた。『施術』を扱う者が新しく現れたとなると、その者が敵になるか味方になるか見極めなければならない。新たな争い(ドンパチ)の予感に、手が勝手に動いているのだろう。

 アキラなんかは最近襲われていないので忘れがちになっているが、ヒカルが新たな勢力の登場に神経を尖らせているのであろうことは、容易に想像がついた。

 もちろん幼馴染もそうだ。論文発表以降、幼馴染はあらゆる可能性の精査のため、自室へと閉じこもってしまっていた。

「でも、そろそろかなって」

 悪戯気に香苗がウインク。すると同時に玄関のドアが開かれる気配がした。海城家の玄関を無遠慮に開く存在など、ここに顔を揃えている者以外では数えるほどしかいなかった。

「おー、邪魔するで」

 変なイントネーションの日本語に続いて、廊下から顔を出したのは、長身で色素が薄い少年であった。

「おはよう、アキザネくん」

 夏休みの朝だというのに、清隆学園高等部の夏服の上から白衣に袖を通しているという、いかにも研究者といった風体の幼馴染…、御門(みかど)明実(あきざね)は、香苗の笑顔に対して、眩しそうに瞬きをした。

 純粋な日本人ではあまり見かけない彫の深い顔に、ミルクティーで染めたような髪に淡い色をした瞳。このちょっとした異貌や、変なイントネーションの日本語には理由がある。彼の父親は日本人だが、母親は外国人であった。つまり混血児(ハーフ)という奴だ。本人曰く『道産子とスロバキアの混血でチャキチャキの江戸っ子』らしい。深く考えてはいけない一事が万事こんな調子の変態なのだ。

 だが高校生にして数々のパテントを持っている天才というのは本当である。中学卒業時までに大学までのカリキュラムを終えており、いまは清隆大学の研究所に籍を置いていた。ただ日本では飛び級の条件が厳しいので、アキラと同じ清隆学園高等部にも学籍を持っていた。

 いつもならば精悍な顔つきに、掴みどころのない表情を浮かべている一見好青年が、今は違った。

落ちた肩、曲がった背、そしてポツポツと生えた不精髭。落ちくぼんだ眼孔にはっきりと隈が出来ていた。悪くなった顔色といい、納期がとっくに過ぎたブラック企業に勤める社員といった雰囲気であった。

「酷い顔だな」

 過労を心配する幼馴染を眼中にも入れず、明実は香苗の笑顔を独占するかのように身体を向けた。

「今朝もお美しい、カナエさん」

「まあ、ありがとう」

 両手で自分の頬を包んで喜びを表す香苗。その間に海城家のダイニングを観察した明実はクルリと回れ右をした。

「オイラは邪魔のようだの」

 どうやら四人分の皿が並んでいる事から、どんなに疲労していても常人以上の冴えを見せる明晰な頭脳が、先ほどの二人が発した問いと同じことを推理したようだ。

「いいのよ。これはアキザネくんの分なんだから」

 香苗は笑顔で四番目の席へ手で招き入れた。

「えっと、食欲が…」

 いつも健康に悪そうな生活をしている明実だが、今朝はもっと体に悪いことを重ねたような様子であった。おそらく碌に睡眠も取っていないのであろう事は容易に想像がついた。

「朝は食べなきゃダメでしょ」

 香苗が美しい眉をひそめた。「私に言う事が聞けないの?」とばかりに両拳を腰に当てて不機嫌を表すが、その姿はどう見ても「わがままな兄に文句を言う妹」といった風情だった。

 天才であろうとも、アキラとともに幼い頃からこの顔で躾けられてきた明実である。彼女に逆らえるわけがなかった。

「それでは、いただきます」

 渋々といった態度で用意された席に明実は着いた。



 席に座る前は「食欲が」とか渋っていた割に、トーストやサラダをたらふく胃袋へ詰め込んだ明実は、香苗が淹れてくれた日本茶の湯気をくゆらせていた。

 その余裕が生まれた顔に、ヒカルが遠慮なく言葉をかけた。

「で? どうなんだ?」

 再び柄付きキャンディを咥えたヒカルの問いに、チラリと視線をやった明実は、ズーッと音を立てて湯飲みを啜ってからこたえた。

「今のところは小康状態というやつだな。敵である天使の出現は確認されておらんし、クロガラスは教務を真面目にこなしているようだ。唯一アスカの行方が分からぬが、不自然な小動物の目撃情報が少しあるので、向こうがこちらを監視しているのは間違いない」

「そっちじゃねえよ」

 ヒカルは呆れた声を出した。

「ん? ヒカルには必要な情報だと思ったが?」

「確かにそうだけどよ」

 何度も確認するが、外見がアキラたちと同じ年頃の少女に見えるので忘れがちになるが、ヒカルはアキラと明実の護衛役として海城家に居候しているのである。敵対する可能性があるモノたちの情報は絶えず必要なはずだ。

 とくに天使と名乗った存在は驚異であった。「どんな生命も、生まれてきて伴侶を見つけ、そして子を成す。親となった生命は、子を育て上げ送り出し、やがて老いて死んでいくモノ。この主が定めた生命の約束を『施術』は壊す物だから、秩序を取り戻さなければならない」という理由で、不老不死に近い能力を持つ『クリーチャー』であるアキラたちの生命を奪いに来た存在である。いくら『クリーチャー』が不老不死に近いとは言っても、殺されたら死ぬのである。

 まあ本当に神の使徒ならば、そういった理由で襲ってくることを納得しないでもなかった。が、アキラたちの前に現れた天使というのが、ムキムキのマッチョボディの口髭を生やした厳つい男という姿だったので、いまいち信じられなかった。天使と名乗るのなら、翼が生えているとか、地上の者とは思えない美しさとか、それなりの姿形をしていて欲しかった。

 だが戦いは一方的だった。こちらの攻撃は神の奇跡か何だか知らないが、聖障壁(イコノスタシス)という見えない壁で全て防がれ、対して天使の攻撃は全てこちらに有効だった。

 もしアキラ一人だけだったら、手もなく滅ぼされていたはずだ。

 同じ『施術』を使って肉体を『構築』している者が一時的に同盟を組むことによって、なんとか退かせることができた。クロガラスやアスカといった名前は、その時共闘した者たちである。

 短くも激しい戦いが行われたのは、夏休みが始まった当日の事だった。

 それ以来、用心棒役のヒカルは警戒を解いていない。まあ元々、自分自身を『構築』してくれた『マスター』の仇を追ってきてアキラたちと出会った身である。いつでも本懐を遂げようと準備は怠っていない。いま腰に巻いているウエストポーチのような物だって、正体は拳銃のホルスターであった。

 ヒカルが面白くないのは、同盟を組んだ相手の中に、クロガラスというヒカルが追い求めていた仇が含まれている事だ。

 クロガラスの協力が無ければ天使に対抗する事は難しい。とはいえ自らの仇を見逃すのも悔しい。ヒカルの不機嫌は、このアンビバレンツによるところが大きそうだ。まあ元々機嫌が良い方が少ないのだが。

「今はそれよりも、発表された論文の方が深刻じゃねえのか?」

「ふむ、たしかにな」

 明実は頷くと、自分用の湯飲みをテーブルへ置いて両肘をついた。両手をゆっくりと擦り合わせながら、言葉を選ぶようにして話し始めた。

「あれから…、何日だ?」

「なんだよカレンダー見てねえのかよ…。一週間だ」

 ヒカルは呆れながらも、咥えたキャンディの柄で、冷蔵庫に磁石で貼り付けてある自治体のごみ回収カレンダーを差した。

「あれから一週間か…。なるほど腹が減ったわけだ」

「どうせ寝てもいないんでしょ。あとでお布団用意してあげますからね」

 食器を片付けながら香苗が口を挟んだ。

「惰眠は後で貪るとして、ここのところずっとオイラは発表された論文を精査しておった」

「で? 何か分かったか?」

 ヒカルの誘い水にウムと大きく頷く明実。

「この論文を書いた者が『施術』を分かっていないことが分かった」

「はぁ?」

 ヒカルの口から素っ頓狂な声が出た。あまりにも呆れたせいか、口元からキャンディが零れ落ちそうになっていた。

「正式に発表された論文だよな?」

 ヒカルの確認に、再び頷いて答える明実。ついでに湯飲みを傾けた。

「だが発表されたのは、デオキシリボ核酸を新たな生体高分子に置き換えるという部分だけであって、如何にそれを為したかの部分が非常に弱い。まるで見本を手に入れて、とりあえず手近にあった原核生物で試し、確認できた事象を文面に起こしたような物だ」

「それって…」

 話しが見えてきたような気がしてアキラは呆けた顔を引き締めた。

「そう。オイラは『施術』によってオマエの身体を『クリーチャー』としたが、それに至る方法…、まあ現代科学では信じられないであろう技術の部分がすっぽりと抜けておる」

「まあ、最新技術で『魔法陣』じゃあなあ」

 アキラが呆れた声を漏らす。明実がアキラを『クリーチャー』として『再構築』したのは、彼が勤める研究所の屋上一杯に描かれた『屋上魔法陣』と呼ばれている紋様の中心であった。これが最新技術だと言われて「はいそうですか」と納得できる人物はいないに違いない。それだけ科学と対極な呪術的で魔術的な方法だった。

「論文が述べているのは、特殊な溶液へ浸して、生物のDNAを置き換える事のみであった」

「それは、アレか?」

 アキラは自分たちの身体に、月に一回ほどの割合で打たれる注射を思い出した。

「そう『生命の水』だ」

 明実が口にした『生命の水』というのは、自らが青く発光しているという、とても怪しげな薬であった。しかし『クリーチャー』である二人には、寝食と同じくらい重要な物であった。二人の「女の子のような」体を維持するのには必要な液体で、これを切らすと死んでしまうと教えられていた。いわば『施術』によって不老不死を得るための要の薬と言ってよかった。

「論文は『生命の水』の大量生産が可能となれば、人類は『生老病死(しょうろうびょうし)』に悩まされることは無くなるだろうと締めくくっておったな」

「しょうろうびょうし?」

 キョトンとするアキラに、ちょっと馬鹿にするような態度でヒカルが教えてくれた。

「お釈迦さまが言った、この世の苦しみのこった。四苦八苦って言葉ぐれえオマエも知ってるだろ? その前半分の四苦のこった。生まれる事、歳とる事、病気に、死ぬ事だよ」

「生まれるのが苦しみ?」

 指を折って説明してくれたヒカルに、アキラは首を捻った。それを見てヒカルが忌々しそうに舌打ちをした。

「分かってないぞ」

 非難の矛先と、キャンディの柄の先が、なぜか明実に向けられた。

「すまんのう、アホの子で」

 まるで保護者のように頭を下げた明実は、テーブルを挟んだ相手を正面から見た。

「アキラよ、仏教では魂は輪廻転生すると説いておるじゃろ。ブッダはそこから解脱(げだつ)する事こそが救いであると教えたんじゃ。解脱というのは分かるな?」

 明実の口調が、まるで長老が若者に教えを垂れるようなものになった。ちなみに二人は幼稚園からの同級生で、清隆学園高等部では同じ一年一組に所属していた。

「げだつ?」

首を捻るアキラを見て、大きな溜息をつく二人。

「倫理の授業でやったろうがよ」

「たしかにやっておったな」

 二人の確認にアキラは首を捻るばかりである。

「そうだっけ? おまえカソリックなのによく知っているな」

 明実は科学研究所に籍を置いているぐらいだから、理系である。その彼に文系の授業で遅れを取ったようだ。アキラの確認に明実は胸を張って言い返した。

「オイラが信仰しているのは『科学』という宗教で、キリスト教はついでのような物だがの。まあ宗教学は横に置いておいて、問題は論文だ」

 明実は再び大きくため息をついた。

「発表したのは…」

「ライバル校なんですってねえ」

 後片付けを一段落させた香苗が、椅子を引きながら会話に混じって来た。

「そうですね。我々清隆学園とは長年切磋琢磨してきた白膏学苑の化学部が発表したようです」

 相手が香苗ともなると明実も言葉遣いが丁寧になった。

「その白膏学苑って何だ?」

 アキラの質問に明実がまた呆れた表情を作った。

「知らんのか? 『東の清隆、西の白膏』と言われており、文武両道の進学校として有名なのだぞ」

 清隆学園高等部の学力レベルは低い物ではないというのは、アキラが身をもって体験していることだ。将来の進路を見据えて選んだ高校だが、アキラの頭では、テストで平均点を取るのがやっとである。それでも一学期の成績が恥ずかしい物ではなかったのは、ヒカルがテスト前に色々と教えてくれたからだ。

「両校とも文科省の科学教育重点校の指定を受けておって、そこいらの大学にはない設備まで整っているはずだ。まあ清隆(ウチ)の場合は大学の理学部の設備をまんま使えるので、使える器材の選択肢が多いがな」

「せいりゅうにびゃっこ…」

 ちょっと細い顎に手を当てて考えこんだヒカルが眉を顰めた。キャンディの柄がピコピコと上下に三往復ぐらいしてから訊ねた。

「朱雀と玄武は無いのか?」

「聞くところによると、沖縄の県立高校に、とある模型部が存在するとか」

 怪しげな微笑みを浮かべた明実が人差し指を立てた。

「?」

 何を言いだしたのかトンと分からずにヒカルはキョトンとした。

「その模型部では、史上初の有人操縦式戦闘用人型兵器(モビルスーツ)の模型を素材のままに組み上げることに拘りがあるという。そしてついたアダナが『素ザク部』。これをもって『南の素ザク』とすると…」

 話し半分でヒカルはキョトンとしたまま首を巡らし、アキラを見た。

「まあ簡単に説明すると『ザク』っていうロボットのプラモデルに拘っている部活が、沖縄の高校にあるってことだろ」

 頭から明実の言葉を信用していない苦笑でアキラが説明してくれた。

「なんだ冗談か」

 その笑みで納得するヒカル。

「冗談ではないぞ。実際に、その部活の活動記録がブログに上げられておってなあ…」

「わかったから。話を脱線させたのは謝るから、その白膏学苑とはドコにある高校なんだ?」

「九州だ」

「九州…」

 だいぶ離れているライバル校との距離に、腕組みをしたヒカルは背もたれへ体重を預けて考え始めた。キャンディの柄が天井を向いていた。

「新たな『マスター』が現れたのか、それともクロガラスかアスカが一枚嚙んでいやがるのか…」

「あれ? でも…」

 アキラは小首を傾げた。

「その名前、最近聞いたような…」

「どこでだ?」

 面倒くさそうにチラリとヒカルが横へ視線をやると、真似たように天井を見上げたアキラは、肩こりを感じた主婦のように二、三回首を左右に往復させた。

「どこだっけ?」

「研究所であろう」

 明確な答えを明実が持っていた。

「六月にハカセが研究所に連れて来ていたな」

 明実の指摘に天井を見上げたアキラとヒカルが揃って「あ~」と声を上げて手を打った。

「そう言えばそんなこともあったような」

「ハカセが、白膏学苑化学部総勢十一人を、招待していたのう。たしか『両校のさらなる発展を願って』とかなんとか。まだ二ヶ月ほどしか経っておらんぞい」

 明実は二人の記憶力の無さをバカにするような声を出した。

「あん時は、気持ち悪くてな」とアキラ。明実が籍を置く清隆大学科学研究所の玄関ホールで、白膏学苑の人たちと行き会った時、アキラは体調を崩していた。

「あん時は、車の運転を頼むなんて言うから、そっちで頭がいっぱいでな」これはヒカル。ヒカルは姿形がアキラと同じ年代に見えるから忘れがちだが、立派な成人女性だ。ゆえに自動車運転免許証も所持していた。ただし免許証の名義はアキラの聞いた事が無い人物の物であったが。

「じゃあハカセに訊けばいいじゃないか」

 アキラの脳裏に、一人の成人女性が浮かび上がっていた。

 みんながハカセと呼んでいるのは岸田(きしだ)美亜(みあ)博士のことである。

 背が高くスタイルの良い女性である。いまの明実のように白衣を着たままでうろつくという、一見して研究者と見て取れる人物である。が、白衣の下でもお洒落を欠かさない女性らしい一面もある人だ。

 先月には一緒に海水浴にも出かけた。その時は出ているところが出ていて、引っ込んでいるところが引っ込んでいないと似合わないような、色んな意味でギリギリの水着で夏の浜辺を楽しんでいた。

 それだけならば街でも見かける普通の美人であるが、外見的特徴として見ただけで圧倒される程の量をした髪の持ち主でもあった。

 全ての髪を肩から前に垂らすと、大型犬を抱きかかえているように見える程だ。

 そして明実が籍を置く研究所にいるということは、ただの美人でも無かった。

 大学で数学の教鞭を執っているのはもちろん、カレンダー計算どころか瞬時に五桁同士の掛け算を含む計算を暗算でこなし、素数や円周率、周期表まで暗唱できるほど数字には強い人物だ。

 香苗以外で、明実が丁寧な言葉を使う人物でもあった。

 なにせ岸田博士は、明実の才能を見出して研究所へ迎え入れた、いわば恩師のような立場の人だからである。

「ハカセには、もちろん問い合わせのメールはしてある」

 つまらなそうに明実が腕を組んだ。

「だが、あちらもなかなか忙しいようでな。返事はまだだ」

「でもよお」

 ちょっとヒカルが乗り出した。食いしばった歯でキャンディの柄が折れそうだった。

「どんなバカでも考え付くことだろうが。その研究をやってた場所を見学に来たヤツが、その後に、その研究と似たような論文を発表したとなりゃ、なあ。最低でも覗き見られたか、もしくは…」

「盗んで行ったのであろうな」

 明実も賛成とばかりに頷いた。

「たしかオレの腕が無くなったのも…」

 アキラが、歯切れが悪い調子で尋ねた。

「そうだ。その時期と重なるの」

 これも賛成と明実は頷いた。

「なんだよ、おまえが余計な事したからじゃねえか」

 ヒカルが呆れた声を出した。

 腕が一本無くなったとは比喩でも何でもない。本当に失われたのだ。とは言っても現在のアキラには左右両方の腕は肩にちゃんとついているのだが。

 日本では『施術』の研究を、自分だけが行っていると思い込んでいた明実だが、ソレをどう嗅ぎつけたのか複数の『関係者』が接触してきた。

 一番過激だったのはクロガラスと呼ばれる『マスター』である。あまり『施術』を行う者が増えると天使に目をつけられるという理由で、他の『マスター』を殺して回っていたのだ。クロガラスは松山(まつやま)マーガレットという名前で清隆学園に英語教師として赴任してきたが、天使の登場で、こちらを襲う理由が無くなって、今は休戦して対天使に共同戦線を張る相手だ。

 もう一人過激なモノが居て、みんなには鍵寺(けんじ)明日香(あすか)と名乗っていた。こちらはこちらで、とある事情によりアキラは嫌悪感しか抱いていなかった。

 そしてもう一人。アキラたちと同じように『クリーチャー』としての身体を持つ醍醐(だいご)クマという老女とも知り合いになる事ができた。『生命の水』で維持しているクマの身体は限界が近づいており、新しい身体に作り直して「若返る」ことが必要だった。だがクマの『マスター』もクロガラスに殺されてしまっていた。

 自らの延命の方法と、クロガラスに対しての共同戦線という二つの理由で接触してきたクマは、明実に自分が知っている範囲の『施術』の知識を伝えた。

 その中に「身体の一部を複製し、量産する技術」が含まれていたのだ。

 もちろん新しい技術を手に入れたら試してみたくなるというのが人情だ。よって明実の実験室では、実験生物(アキラ)の四肢が大量に生産されることになった。

 今では実験室に標本用のガラス瓶が乱立していた。ガラス瓶に納められた多数の腕や脚は、安物のホラー映画かよと文句の一つも言いたくなるような眺めであった。

 その大量生産されたアキラの四肢の内、腕が一本、六月に行方不明となっていた。

 無くなったのに気が付いたのは、ハカセが遥々九州から白膏学苑の化学部を見学に招待した日の翌日の事であった。

「でもよお」

 香苗がフキンで拭ったばかりのテーブルに、だらしなく突っ伏したアキラは、力なく言った。

「どの誰が盗んだのか分からないんだろ?」

「あらやだ」

 香苗が驚きの顔を隠さない。

「ちゃんとカギはかけておいたの?」

「研究所の警備体制は知ってるだろ?」

 ヒカルが香苗に訊き返した。春の『再構築』直後で研究所にて養生生活をしていたアキラのために、香苗は着替えや食べ物の差し入れを持って何度も訊ねていた。

 籍を置く明実もそうだが、外部の人間が清隆大学科学研究所に入るのは大変である。入口ロビーにある受付で発行される身分証明書を首から提げていないと、すぐに警備員が飛んで来る。廊下も区画ごとに自動ドアで区切られており、その開閉に非接触型カード端末になっている身分証を壁面にある読み取り機にかざさなければならない。それを怠って強引にドアを突破しようとしても、これまた警備員のお世話になるという寸法だ。

 また、たとえ所属の研究員だとは言え、自分の関係ない部署へ無断に侵入すると、同じく警備員が飛んで来ることになっていた。

 清隆大学科学研究所は、考えられる中で最高のセキュリティで守られているはずであった。

「外部の人間で、あんなトコから盗み出せるなんざ、あたしが知るなかで三人だな。その中の誰かがきっと協力したんだろうよ」

 ヒカルが三本の指を立てた。もちろんヒカルも研究所の警備体制は知っている。裏の世界を生きて来て、専門的な知識も持っているはずのヒカルの言葉は、信じる事ができた。

「ダレとダレとダレだよ」

 訊きたく無さそうに訊ねるアキラに、ニマァっと悪戯気かつ勝気な笑みを浮かべると、立てた三本の指を折りながら教えてくれた。

「まず、あたしだろ…」

 納得できる答えに頷く一同。ヒカルの咥えているキャンディの柄が揺れた。

「それと怪人二十面相と、ホッツェンプロッツ」

「なんだよそれ」

 脱力したアキラが訊き返した。

「知らないのか?」

 キョトンとするヒカルに、香苗が優しい声をかけた。

「いまの高校生だと、快盗天使ツインエンジェルに、怪盗キッドあたりかしら」

「なんだそりゃ」

 今度はヒカルが眉を顰める番だ。テーブルの反対側から腕組みをした明実が教えてやった。

「アニメに出て来る怪盗であるな」

「アニメ? ああマンガかぁ。じゃあルパン三世に…、キャッツアイでどうだ?」

「かあさんだったら、神風怪盗ジャンヌと、怪盗セイント・テールかなあ」

「怪盗ラパンに(あいだ)抜作(ぬけさく)

「それマニアックすぎんだろ。それに抜作先生は怪盗とんちんかんじゃねえの?」

 アキラは幼馴染にツッコミを入れてから、溜息をついてヒカルへ視線を移した。

「な、なんだよ」

「教える気は、ねーの?」

「教えたじゃねーか」

 ニヤニヤ笑いを再び浮かべたヒカルが、余裕たっぷりに身を起こすと、今度は椅子の背もたれに寄りかかった。まるで煙草をくゆらせているかのように、キャンディの柄が口元で揺れていた。

「お話の人物じゃなしにさあ」

「まあ、身近にいるヤツから当たるのが定石だろうな。とりあえず、あたしじゃない」

 これでヒカルを信じられないとは言い出せない。なにせ今までアキラと明実を守るために命を懸けて戦ってくれた過去がある。

 ふと表情を引き締めたヒカルは、腕組みをしてから視線をテーブルの向こうへ走らせた。

「というと、彼か?」

 視線の意味に気が付いて、明実が探るように訊いて来た。

「他に誰がいるよ。もう一人のアテには、あたしから連絡し(きい)てみる」

「おお、そうか。じゃあ、さっそく連絡を…」

 テーブルに手をついて腰を浮かせかけた明実の、その両手が掴まれた。片方が香苗で、片方がヒカルである。

「ダメよアキザネくん」これは香苗だ。「少し寝てからにしなさい」

「だめだ」これはヒカル。「寝不足では判断力が鈍る。行動するなら休んでからだ」

 両側から説得されて目を白黒させていた明実はフッと脱力して微笑みを浮かべた。

「ヒカルはまだしも…」

「なんだって?」

「カナエさんがそう言うならそうしましょう」

 明実の了承に、香苗は彼から手を離すと、さっそくリビングのソファで休めるように毛布を準備し始めた。

「なんだよ、つまんねんなぁ」

 口を尖らせたヒカルが頬杖をついてそっぽを向いてしまった。ついでの様にキャンディの柄をゴミ箱に向けて吹き矢の様に飛ばした。さすが射撃の専門家である、外れることなく見事に入った。

「まあ、そこは長年の付き合いとかもあるしよ」

 アキラがかける慰めの言葉に、凶悪な目線が返って来た。

「うるせ」

 軽くテーブルの下で蹴られてしまった。

「じゃあお昼になったら起こすから」

 自分は日課である洗濯に取り掛かるつもりなのか、香苗は洗濯機の置いてある脱衣場の方へと姿を消した。

「じゃあさっそく」

 ヒカルも腰を浮かせた。チラリと意味ありげな視線をアキラへ送って来た。

「そうだね。おやすみ明実」

「おーう」

 ダイニングから居間へ移動する明実は、眠気が限界に来たのか、唸り声のような返事しかしなかった。



「さてと」

 連れだって二階に上がると、ヒカルは自室の前で腕組みをした。

「どうやって連絡を取るかだな」

「アテがあるんじゃねーの?」

 階段から見て手前がヒカルの部屋となるため、先に上がられて廊下で止まられると自然とアキラの行く先が塞がれることになった。

「まあ、あることにはあるがな。素直に繋がるかどうか…」

 ヒカルは自室の扉を開けて入って行った。とくに閉めないのはアキラを誘っているのだろう。そう判断してアキラはヒカルの部屋へお邪魔する事にした。

 相変わらず殺風景な部屋である。

 右にテーブルと椅子。左にベッドとクローゼット、ベッドの下からジェラルミン製らしい旅行鞄と、黒いナイロン製の大きなケースが顔を出していた。

 テーブルの上もスッキリ片付けられており、置いてあるのはスマートフォンとノートパソコンが一台ずつのみである。

 椅子の背もたれに銀色の銃が放り込んであるホルスターがかけられているのが、唯一「散らかして」ある物だ。

 ヒカルはその椅子に座ると、ノートパソコンを開いた。コンセントにアダプターを差して電源を確保し、スイッチを入れて立ち上がるのを待った。

「わざわざシャットダウンしてるのか?」

 ヒカルの後ろに立って、一緒に画面を覗き込みながらアキラは訊いた。

「外から操作されにくいようにな。電源を抜いておくのもそう」

 どうやらクラッキング対策のようだ。

「こうして充電を最低限にしておけば、いざ外から操ろうと負荷がかかっても、電池切れで落ちるしな」

(警戒しすぎでは?)

 一瞬だけヒカルの神経質さに呆れたが、そうやってきた実績があるのだろうと納得する事にした。

「前の『紳士、淑女の交流場』は覚えているか?」

 画面が立ち上がっても、まだカリカリとハードディスクが動いて何か処理をしているらしいノートパソコンに、焦れたようにヒカルはアキラへ訊ねた。

「あのバイトの時のか?」

 ヒカルが海城家で暮らすことになり始まった新生活。色々と必要な物を揃えるための浪費が重なったため、ヒカルの言うところの「ちょっとしたバイト」を二人でしたことがあった。

 まあバイトの内容は、平和な日本のはずなのに銃弾が飛び、重傷者が出まくるという、とんでもない事件に関わる事だったのだが。この話の凄いところは、アレだけ大騒ぎをしたはずなのに、事件の報道が一切なされなかったことにあった。

(こうやって普通の人には知らされない内に、色んな事態が進んでいくんだろうなあ)

 アキラは自分の左胸の下あたりを無意識にさすっていた。あの時は、まさか自分の心臓に注射針を刺すことになるとは思わなかった。

「ええ~」

 嫌な思い出しか無いので、拒絶する声が出た。

「言っておくが」

 ちょっと冷めた目になったヒカルが宣言した。

「怪我をしたのは、おまえがマヌケだからだ。その証拠に、あん時のあたしゃ、無傷だったろ」

「そうだっけか?」

 ここ最近は、アキラよりもヒカルの方が怪我をする確率が高かった気がして、アキラは天井を振り仰いだ。

「で、だ」

 ヒカルは椅子の背もたれにかけたホルスターのサイドポケットからUSBを取り出した。

「いちおう声はかけてみるが、相手が必ず見ているとは限らない。だから返信もあるかないかも分からない」

「まあ、そうだろうよ」

 ヒカルが連絡手段としてアテにしようとしている物は、裏世界の掲示板のようなサイトである。

 立ち上がったノートパソコンが普通に動いていることを確認してから、ヒカルは取り出したUSBをポートへと差した。

 すぐに「開始」と「保留」しかない不愛想なウインドが開いた。ヒカルは迷わず「開始」を選択した。

「ぶっ」

 アキラが慌てて顔に手を当ててソッポを向いた。画面一杯に金髪美人がバニーガールのコスチュームで投げキッスをしていた。それも胸元をわざわざ強調するように、超がつくほど前かがみだった。

 こんな身体にされて性欲が薄まったとはいえ、そこは思春期(おとしごろ)男子(おとこのこ)である。興味が無いと言えば嘘になるが、マジマジと見ていたらヒカルにどんなお仕置きをされるか分かった物ではなかった。

「毎回おんなじ反応するのな」

 タッチパネルを操作しながらヒカルが呆れた声を出した。

 それにより切り替わった画面は、どこか海外のニュースサイトらしく、巻き毛の黒人男性が早口で英語を喋っていた。流れる字幕と合わせると、東太平洋で行われている米軍の大規模演習を報道している様だった。

 カチリとヒカルが操作すると再び元のエロエロなネーチャンの画像に戻った。しかも今度はバニースーツを腰の位置までずりさげているから、胸元が完全に露わになっていた。

 ヒカルがチラリとアキラの反応を確かめるように視線を送って来た。もちろんアキラは見ないふりをしていた。

 画面をニュースサイトに戻す。今度はアフリカのどこかでテロリスト集団が学校を襲撃して学生を集団誘拐したニュースを報道しているようだ。

 またネーチャンの画像に戻す。今度の画像ではネーチャンは毛足の長いソファに大の字で座っていた。着ていたはずのバニースーツは、画面の端っこで背もたれにかけられていた。つまり一糸まとわぬ姿でそんな姿勢をしているので、全部見えていた。

「うわあ…」

 指で顔を覆っているはずのアキラから声が漏れた。よく見れば指の隙間がだいぶ開いていた。

「自分だって、同じようになってるんだろうに」

 全然動じていない様子のヒカルが少々馬鹿にする声で言うと、三度目のクリックをした。今度はニュースサイトに飛ばず、全面が灰色になってしまった。

「これって、三回見ないと繋げねーの?」

「そうだが?」

 アキラの質問に呆れたように答えるヒカル。ワンテンポ遅れて表示された小さなウインドにパスワードを求められていた。

「ちょっと待ってろ」

 ヒカルはノートパソコンに声をかけると、クローゼットへと立った。

「前のパスワードじゃないのか?」

「月ごとに替わるようになってる。さらにサイト内でも特別なところを覗くにゃ、週ごとに替わるパスワードを別に買わなきゃならん」

 ヒカルはクローゼットに吊るしたままの服のポケットからクレジットカードのような物を抜きだした。同じように反対にポケットからは、まだ包装を解いていないキャンディが出てきた。

「いるか?」

「いや」

「そうか」

 なぜか残念そうに、自分の分だけキャンディを持ってきたヒカルは、アキラの前でクレジットカードのような物をパキリと二つに折った。すると、中から細いリボンが現れる。そこに表示されている英数字が今月のパスワードであるようだ。

「ええと」

 まるで中年事務員の物真似をするように、ヒカルは眉を顰めてリボンと眼の距離を調整した。

「んー」

「読もうか?」

「ああ、頼む」

 面白くなさそうにヒカルがアキラへリボンを渡す。アキラが、結構長めのパスワードを読み上げ、ヒカルがキーボードを叩いた。

 パスワードが認証されると、今度は四桁の番号を求めるウインドが待っていた。そちらの方はヒカルが自分のスマートフォンを操作して、どこからか得た数字を入力した。

 これでやっと認証が終わった。灰色の画面は終わり、液晶一杯に英語で書かれた文章に埋め尽くされた。

「タグとかあるのか?」

 二つに割ったカードをクローゼットの服へ戻しに行ったヒカルに代わり、アキラがノートパソコンのタッチパネルを撫でて画面をスクロールさせた。もちろんアキラだって、毎日の勉強が功を奏して、ある程度の英文は読解可能だ。

「まあな」

 カードを片付けたヒカルが椅子に戻って来た。中腰で画面を覗き込んでいたアキラは、場所を譲って、ヒカルが操作しやすいように後ろへと回った。

「でも、普通のトコに顔出してるかなあ」

 キャンディの包装を剥がしたヒカルの指が走り、主に都市伝説を扱っているようなページへと飛んだ。

 更新履歴を呼び出すと、結構な頻度で為されているらしく、最新は一〇分ほど前に書き込まれた雪男(ビックフッド)に関する物のようだ。

「その捜している相手って、やっぱ怪盗だったりするの?」

 ダイニングでの会話を思い出したアキラは、読み疲れた英文からヒカルの後頭部へ視線を移した。

(あ、また白髪発見)

 最近相棒に増えてきた白髪。それを指摘すると火が点いたように怒るので、アキラは口から出かかった言葉を呑み込んだ。

(きれいな黒髪だったのにな)

 ヒカルの髪に白い物が混ざるようになったのには理由がある。どうやら『生命の水』は『マスター』ごとに細かい成分が違うようなのだ。そしてヒカルの『マスター』は、もうこの世にはいない。いまヒカルの身体を維持しているのは、明実がアキラの身体を維持するために使用している『生命の水』と同じ物だ。

 本来ならば定期的に『生命の水』を接種しないと『クリーチャー』は身体を維持できなくなる。ヒカルの『クリーチャー』としての身体は、明実により『生命の水』が供給されるため、こうして通常の生活には不自由のない状態を保っていた。が、まったく副作用が無かったわけではない。美しかった黒髪に白い物が混じるようになったのも、その一つだ。

 やはりヒカルの『マスター』が作っていた『生命の水』と、明実の物では細かい成分が違うようなのだ。

 他にも二、三以前と変わったところがあるが、まあ切った張ったの修羅場にならなければ問題は無いはずである。

「巷に顔を出した情報は、二年前が最後か…」

 新しいキャンディを口に放り込んだヒカルは、どうやら目当てのタグを見つけたようだ。タイトルを流し読みにしながら、書き込まれた日付をチェックした。

「二年も消息不明って、あるの?」

「ジャングルの奥地を探検してるだとか、やばい組織に潜入中とか、二年ぐらいならあるんじゃねえか?」

 ヒカルも自信なさそうである。

「じゃあ自分のが、どうなってるかで分からないか?」

「じぶん? あたしのか?」

「そう。ヒカルの噂」

 アキラが言い直すと、ヒカルはわざわざ振り返って目を細くしてみせた。キャンディの柄が下段の構えみたいな位置で止まっていた。

「?」

 意味が分からずキョトンとしていると、肩を大きく上下させて溜息をついてみせた。

「ま、そんな難しいことを考えるような頭じゃねえか」

「は?」

 どうやら馬鹿にされたようだ。

「なんだよ?」

「いや、なんでもねえよ」

 そう言いつつ再びヒカルはタッチパネルを撫で始め、画面を大きくスクロールさせ始めた。二、三回クリックして画面を飛ばし、とある文章の塊でやっと止めた。

「ぬ?」

 アキラの口から変な声が出た。なぜなら画面内の文章が読めそうで読めない単語で埋め尽くされていたからだ。

「???」

 首を捻っているアキラを放っておいて、ヒカルは一つのタイトルをクリックした。

「おんやあ?」

「どうした?」

「珍しく仕事の依頼が来てる」

「しごと?」

 キョトンとしたアキラへ一回だけ視線を寄越し、すぐに画面へ向き直った。

「安心しろ。おまえらのことを投げ出して転職なんかしねーよ」

 それでも興味があったのか、キャンディの柄を上下に揺らしながら詳しい内容をチェックし始める。だが、やはりアキラには読めない文章であった。

「なんて書いてあるんだ?」

「ん? コレか?」

 ヒカルはちょっと戸惑ってみせた。またアキラの顔を見ると、困ったような顔をしてから、明るい笑顔を取り戻した。

「あ、おまえドイツ語は読めねーのか」

「読めねーよ」

 アキラが面白くなさそうに言い返すと、ヒカルは人差し指を立てて、得意そうに言った。

「この業界でやってくにゃ、七ヶ国語ぐれー、不自由しねえようにならねーとな」

「七ヶ国?」

 ちょっと眉を顰めて考えてみた。

「英語、ドイツ語、日本語…、あとは…、えー」

 そのまま首を捻って固まってしまった。

「おいおい」

 画面に戻りながらヒカルが、まるで先生のような調子でヒントを出して来た。

「世界で使われている標準語を考えりゃあ、簡単だろ」

「せかい? 標準語? 英語じゃねえの?」

 アキラはヒカルの細い首を見おろした。自分と同じ歳に見えるヒカルが、世界中を渡って来たことは、知識として知っていた。

「標準語って、そういう意味じゃねえ。国ごとの公用語のこった」

「じゃあ公用語って言えよ…。う~ん」

 アキラの唸る声に助け舟を出す気になったのだろう、画面の文面を流しながらヒカルが言った。

「じゃあ、アレだ。大陸で考えろ」

「たいりく?」

「小学校でやらなかったか? 七つの大陸とか七つの海とか」

「ああ、そういう…」

 ポンと手を打ったアキラは、社会の授業で学んだことを捻りだした。

「ユーラシア、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、オーストラリア、南極…、だっけ?」

「そうそう」

 画面を結構な速度で読みながらヒカルが頷いた。調子が出てきたのか、口元のキャンディは楽し気に揺れていた。

「南極は関係ないか」

「そうでもないぜ」

 作業を止めて半分だけ振り返ったヒカルが、片方の眉だけ上げてみせた。

「例えばだな」

 一旦区切ったヒカルは、画面から天井へ視線を移した。

「てめえが乗ってた飛行機が、何かのトラブルで南極に不時着しました。幸い大したケガもしなかったところへ、救助隊が駆け付けてくれました。そん時に、救助隊と何語で話すか考えてみろ」

「そんな…」

 突拍子も無い事を言いだすもんだと思ったが、以前にサハラ砂漠に不時着してサバイバルした話をしてくれたことを思い出した。もしかしたら南極にも墜落したことがあるのかもしれない。

「救助隊が来てくれた時に口にする言語は?」

 念を押すように訊いて来たヒカルに、アキラは自信なさげにこたえた。

「ええと、英語かな?」

「んまあ及第点ってトコか」

 ちょっと唇を尖らせて採点してくれた。画面に戻ったヒカルの咥えたキャンディの柄が右から左へと移動した。

「じゃあ南米のどこかに不時着したら?」

「え…」

 南米と聞いて戸惑うアキラ。

「この前までシゲルが出張してただろ。もしかしたら、コッチから訊ねて行く用事が出来たかもしれねえじゃねえか。そん時は何語しゃべんだよ」

 確かにアキラの父親である茂は、先月まで南米に出張していた。訊ねられたアキラは、父親が撮影してきた記念写真を思い出した。いかにも南米といった日焼けしたお兄さんとのツーショットであった。

「やっぱし英語?」

 脊髄の反射だけでこたえたアキラに、呆れるでなしに片方の肩だけを竦めたヒカルは、自分の考えを口にした。

「でも通じるかもしんねえが、やっぱエスパーニャ…、スペイン語だろ」

「あ、そうか」

 社会は社会でも地理の授業ではなく歴史の授業に記憶が繋がった。

「植民地だったんだっけ」

「そう、それだ」

 再びヒカルは人差し指を立てた。ついでに咥えているキャンディの柄まで立てた。

「そのせいで南米はスペイン語だったりポルトガル語が公用語になってる国が多いんだ」

「じゃあスペイン語とポルトガル語が七ヶ国に入るのか?」

「どっちかだな」

「?」

「その二つは似てるから、どっちかを使えれば片方も何となく分かるようになるんだ」

「へえ」

「さ、南米はそのどちらかとして、後はどこだ」

「北アメリカは英語でいいだろ?」

 探るように訊く。明確に否定されないので正解なのだろう。

「アフリカは…」

 そこで悩んでしまった。アフリカ大陸はかつてヨーロッパ各国の植民地だったのは知っているが、どの国がどこを植民地にしていたのかまでは知らなかったのだ。

「国によるよな?」

 ヒントを求めるとヒカルは画面を読みながら大きく頷いた。

「そうだな。国によるな」

「まず英語」

「意外に使える国が少なくてビックリするぜ」

「そうなんだ…、あと…、ドイツ語?」

「ドイツ語はアフリカじゃ役立たずだな」

「そうなんだ」

 イギリス、ドイツときて、思いついた国の名前を口にした。

「じゃあフランス?」

「そう、フランス語だ」

 一か所の書き込みを何度も読み返しながら口だけでヒカルはこたえた。申し訳程度にキャンディの柄だけがこちらに向けられていた。

「これで後二つ。どことどこだ?」

「オーストラリアも英語だよな…」

 探るように確認してから、返事を待たずに心の中の世界地図を移動させた。

「東南アジアは…」

 はてと首を捻ってしまった。

「英語?」

「より普及してそうな言葉があんだろ」

 再び画面をスクロールさせながらヒカルが言い返して来た。

「ちなみに、意外とフランス語が通じるのはビックリするがな。さ、正解は?」

「シンガポールとかは英語だって聞くぜ」

 早期リタイヤして海外移住なんていう話題をクラスメイトとしたことがあり、アキラはその時の記憶を引っ張り出した。

「シンガポールはな。じゃあベトナムは?」

「ええと…。ベトナム語」

「現地の言葉が全部使えりゃ、こんな問題を出さないだろうが」

 流石に眉を顰めてヒカルが振り返った。

「ベトナム…」

 歴史の勉強でベトナムというと何だろうと考えてみた。

「ベトナム戦争? じゃあアメリカ語…、じゃなくて英語かな?」

「ちなみに植民地にしていたのはフランスだから、フランス語が通じるぞ」

「マジか?」

「知識層だけだがな。でも、それよりもっと通じる言葉がある」

「…ドコの言葉だよ」

「世界で一番使われている言葉だよ」

 ちょっと馬鹿にしたように言うので、アキラの声が固くなった。

「やっぱ英語じゃないのか?」

「違うんだなあ、世界で一番使われているのは」

 意外な答えにアキラは目を丸くしてしまった。

「じゃドコ?」

「中国語」

「あ」

 ポンとアキラは手を打った。

「最近じゃインフラの輸出であちこちに進出してっから、アフリカとかでも中国語が通じたりするぜ」

「言われてみればそうかもな」

 大きく頷いたアキラは指折り数えてみた。

「これで六つ? あと一つは?」

「ユーラシアの東の端でも、西の端でも使われている言葉があんだろうがよ」

「ユーラシアの端っこ?」

 はてと再びアキラは首を捻った。

「まさか日本語?」

日本(ココ)よりも東に張り出してる国があるだろうが」

「張り出して?」

 アキラは頭の中の世界地図を確認してみた。

「ベーリング海峡か。じゃあロシアだから、ロシア語かあ」

「冷戦の時に色々な国に軍事顧問を派遣していたから、ちょっとヤバげな国だとロシア語が使えると便利だぜ」

「ふーん」

 アキラは指折り数えて確認してみた。

「日本語、英語、スペイン語、フランス語、中国語にロシア語。これで七つか?」

「日本語アウトで、ドイツ語をインしろ」

 アキラの読めない言語で何事か打ち込み始めたヒカルが背中で断言した。

「日本語が通じるなんて、日本とパラオぐらいなもんだぞ」

「え? 日本だけじゃ…」

 言い返そうとしてアキラの頭の回路が別の場所に繋がった。

「ドイツ語が入るのはなんでだ?」

「まず、医学用語や薬学用語でドイツ語由来の言葉が多い事」

 ヒカルは指を立てた。

「二つ目は、スイスで使える事」

「あ、スイスねえ」

 二つ目に立てられた指を見て、アキラは漠然とスイスのイメージを思い浮かべた。アキラの貧相な想像力で思いついたのは、白い氷雪に覆われる断崖絶壁に囲まれた湖、そして国際的に有名な銀行だった。

(ヒカルならスイス銀行に口座の一つも持っていておかしくないよな…)

 アキラが、讃美歌十三番で呼び出せる某スナイパーのイメージに辿り着く前に、ヒカルの三本目の指が立てられた。

「三つ目。黒海周辺国で通じる事が多い事」

「そうなのか?」

 純粋に知らなかったので聞き返すと、半分だけヒカルは振り返った。キャンディの柄が反対側からこちらへ向けられた。

「有名なドラキュラ伯爵って、出身地どこだよ」

「ドラキュラ?」

 その質問が今までと繋がらなくてキョトンとするアキラ。

「ドイツじゃねーの?」

「外れ。ワラキアだから、いまのルーマニアの下の方だ」

「ルーマニア…」

「公用語はルーマニア語だが、十字軍の頃にドイツから入植があったとかで、意外とドイツ語が通じたりする。ほら、あれだ。あの~」

 ヒカルはしばらく手を止めて再び天井へ視線を彷徨わせた。まるで視力があるようにキャンディの柄も天井のアチコチを向いた。

「ハーメルンの笛吹とか、ああいう時代の話しだよ。あの話しも東方へ子供たちが移住した事が変化したとか何とか」

「え? アレっておとぎ話じゃねーの?」

「日本だとな。まあ全部が全部真実じゃねーだろうがよ」

「十字軍…」

 アキラの視線がヒカルの視線を追って天井へと向いた。

「せん…、一一〇〇年ぐらい?」

「まあ、そうだろうな」

七九四年(ナクヨ)うぐいす平安京で、一一八五年(イイハコ)つくろう鎌倉幕府だから、平安時代(そのぐらい)かあ」

「そう考えると、日本も歴史が長いよな。イイハコってのが馴染まねーが」

「今はイイハコって習うんだよ」

 この前それでヒカルが衝撃を受けていたのを思い出して、アキラの顔に苦笑のようなものが浮かんだ。

「昔はなんだっけ?」

「イイクニつくろう鎌倉幕府で、一一九二年」

「で?」

「で? 『で?』とは?」

「それで?」

「だから『それで』って何だよ」

「実際見てきたヒカルさんとしては、ドッチが正解なんだよ」

「は?」

 ヒカルの顔がポカンとなった。口元からキャンディが零れかけている。アキラの顔をマジマジと見てから段々と顔が赤くなった。

「いくらあたしでも、そこまで長生きじゃねえからな」

「うそうそ、じょうだんじょうだん」

 アキラはちょっと飛びのいた。

「ふん。おぼえてろ」

 自分の攻撃範囲(リーチ)の外へ退避したアキラを睨んでからヒカルはソッポを向くと、ノートパソコンの蓋を閉じた。




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