星空の約束 ④
そして、明日が結婚式当日。
私は城から逃げ出してきたのだ。どうするかなんて考えもせず、自分の居場所へと戻って来た。
だけど、家を見ても大切にしていた本を手にしても、帰ってきた気持ちになれなかった。
そこにはもう私を迎えてくれる人はいないのだ。
私は家を出ると、森の中にある湖へと向かった。エルヴァと行ったあの湖に。
何度も通った道を懐かしく思いながら私は湖へとたどり着いた。
もう日は沈み、広がるのは一面の星空だった。湖にも星々が映り込んで、エルヴァが言っていた景色が私の目の間に広がっている。
だけど、前に感じた感動はなかった。
私は水の上を歩くイメージをして、湖へと足を着けた。いままで一度もできなかったのに、初めて水の上に浮いてもやはり嬉しくもなんとも感じない。
まるで、浮いているようなふわふわした不思議な感覚の中、歩いて湖の真ん中まで行ってみる。
本当に夜空の中を歩いているような錯覚がして、涙が流れた。
それを教えてくれた彼はもういないのだと。私の前から消えてしまった。私の魔法によって。
「なんじゃ?泣いておるのか?」
突然声が降ってきて私は驚き見上げる。
「ふぇ?」
変な声が出てしまう。だって目の前にエルヴァがいるのだ。漆黒の髪に、瞳がルビーのような赤色に染まっている。彼は宙に浮いていた。
「お主がわしを呼んだのか?」
造作もないことのように、水面に着地して屈託のない笑みを浮かべた。
あっ…そうか…自分が魔法で呼んでしまったのだと理解する。
彼の他人行儀な表情や声色から記憶がないことを痛感した。
「そう…なのかな。ご、ごめんなさい。すぐにもとの場所に…」
涙が溢れる。
それを見られたくなくて、彼の方を振り向いて手を付き出し距離を置こうとしたが、その手をエルヴァが掴んだ。心臓がドクンと脈打つ。
「待つんじゃ。」
呼び止められて、ドクンとさらに胸が痛んだ。涙を隠すようにうつ向くが、止まらず湖に落ちていく。
「主が記憶を奪ったのじゃろう?」
「え?」
思いもよらない問いに、顔をあげてしまった。その顔を見てエルヴァがどう思ったのかは分からなかった。
彼は少し困った様子で頬をかく。
「いやな、どうもぽっかりと記憶の抜けた時間があるみたいでのう。心がモヤモヤしているんじゃよ。思い出せるのは、温かいと思った気持ちだけじゃ。」
「思い出したいの?」
「もちろんじゃ。分からないことというのはモヤモヤしていかん。」
「なら…」
私は空いていた方の手でエルヴァの頬にそっと触れる。彼は特に抵抗もしないで様子を見守っている。
ゆっくりと顔を近づけると、まるで何をされるのか分かっているかの様に瞳を閉じた。
唇が触れる寸前で私は止めた。その顔が何だか楽しそうに見えたのだ。それは、何かを企んでいる時の顔だった。
「なんじゃ、愛のキスで記憶が戻るかもしれんのじゃぞ。」
「…戻っている人には無効なんじゃない?」
フフと、笑うエルヴァは嬉しそうに見えた。
「そうじゃな。だが、わしがそれを望んでいるんじゃよ。」
エルヴァはそう言って私を引き寄せると唇を重ねた。温かさが伝わって、締め付けられていた心が解かれる。脈打つのを全身に感じて、頬が高揚する。
涙が溢れて止まらなくなる。唇を離したエルヴァがそんな私を見てからかうように笑った。
頬に伝う涙をすくい取るように頬にキスをするエルヴァ。それがくすぐったくて、でも嬉しくて微笑みが溢れた。
「い、いつ…記憶が戻ったの?」
「さっきじゃよ。ルネの顔を見て思い出せたんじゃ。じゃなきゃ、もっと早く迎えに行ったじゃろうて。すまなかったのう。」
「謝らないで。」
謝られて首を左右に振る。エルヴァは悪くないのだと。
「わしが迂闊だったんじゃ。ルネが王女なのを知っていたのに、何も対策しなかったからのう。」
「…やっぱり知ってたのね。」
「最初の時だけ心を読む魔法をかけていたからのう。その時にルネの心から読み取っていたんじゃよ。」
頭を優しく撫でられると何だかホッとする。それが口を緩ませる。
「私、明日嫁ぐのよ。隣国の王子のもとに。」
涙目で見上げると歪むエルヴァが映る。よく見えなかったが、悪戯な笑みを浮かべているように見えた。
「わしは捨てられてしまうのかのぅ…」
しくしくと悲しそうなフリをするエルヴァに、私は視線を反らさずに言葉を紡ぐ。勇気を振り絞って。
「わ、私は…エルヴァと一緒にいたいの。だから…」
じっと彼を見つめて、心から願うように言葉を続けた。
「私を連れ去って。」
エルヴァは満面の笑みを見せると、再び口づけをする。
「もちろんじゃ。」
そう言いつつ、エルヴァは私の手をしっかりと握る。
「…じゃが、その前に約束だったからの」
星空の中を二つの影が一つに重なり楽しそうに踊っている。
くるくると回る彼らのリズムやステップはいい加減なものだったし、その幻想的な景色とは不釣り合いだったが、そんなこと全てがどうでも良くて、彼らは今という時間を楽しんでいた。
そして、温かな口付けを交わす。そこに想う相手がいることを確かめるように。
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