4 あなたのことは忘れないよ
ある階段をぼくは登っていく……。
「げっ、しまった! ついいつもの慣性で!」
とぼくは頭をもたげた。
それは、昨日もう通らないと決めたはずの、歩道橋の階段だったのだ。
「でもまあいいか。目をつむって通ったらこわくないよな」
と真っ暗闇の中を進んでいく。
よく考えたら、こうする方が別の意味でこわいような気がするけれど、それは気にしない。
そしたら、
「あだっ!?」
と、案の定、ぼくは転んでしまった。いてて。
そのときの衝撃で、ばかみたいだけどぼくは、さっき県立図書館で借りたウィリアム・バトラー・イエーツの『鷹の井戸』を放り投げてしまう。
「い、イエーツさん!?」
ぼくはあわてて起き上がったけど、時すでに遅かった。
「イエーツさあああああああん!」
ウィリアム・バトラー・イエーツの『鷹の井戸』が、天使のように、歩道橋から降りていく。
レアな光景だ。
未だかつて、ウィリアム・バトラー・イエーツの『鷹の井戸』が、天使のように、歩道橋から降りていくなんてことが、この地球上であっただろうか?
さようなら、イエーツさん。
あなたのことは忘れないよ。
まだ読んでないけど。
その時だった。
ウィリアム・バトラー・イエーツの『鷹の井戸』が空中で消滅した!
思わずぼくは目をこすった。
見た。
ウィリアム・バトラー・イエーツの『鷹の井戸』はやっぱりない。
そこでぼくはもう一度目をこすった。
見た。
ウィリアム・バトラー・イエーツの『鷹の井戸』はやっぱりない。
それを何度も繰り返した。
やがて目が赤くなってきた気がするのでやめた。
んんん?
「待てよ……」
昨日、ひなぎもここから飛び降りて消えたよな?
ということは!
ぼくの中で何かが閃いたのだった。
ぼくは試しに、筆箱を出して、今日の授業中になんとなく作っておいた練り消しを、ここから落としてみることにする。
ここから落としてみることにする。
落としてみることに……。
そう言いながら、ぼくはなかなか練り消しを落とさずにそのまま指でつまんでいた。
これは頑張って作ったものなのだ。
歩道橋の上に突風が吹いた。
「はよ落とさんかいっ!」
と風に突っ込まれたような気がする。
そのせいで、
「ああ!」
と、ぼくはとうとう練り消しを落としてしまった。
練り消しもまた、空中で消滅した。
ぼくは叫ぶ。
「やっぱり!」
「ふふふ、気づいたようね」
と背後で何者かの声がした。
カラン……コロン……という足音が近づいてくる。
この足音は……ゲタ、だよな。
ということは?
ぼくは、自分の頭の中で、様々なパズルのピースの断片が、組み合わさっていくのを感じた。
今、ぼくの後ろに立っているのは……。
「ひなぎ!」
とぼくは振り向いた。
「ご名答! 超天才! かっこいいぞ! ひゅーひゅー!」
となんかひなぎがめっちゃ褒めてくれている(でもなんでゲタなんかはいているんだ?)。
「いやあ、そうかなあ!」
だがまんざらでもない。
「というわけで、わたしのお願いを聞いて欲しいのっ! うるしの耕作くん!」
うるし?
それを言うなら「うるわしの」では!?
だがまんざらでもない。
「うん、いいよ!」
とぼくはまだお願いの内容も聞いてないのに快諾した。
「……」
「……」
ひなぎは、ぼくがそのお願いとやらを引き受けた途端に、ぴたっと褒めるのをやめた(上手くおだてられたのだ)。
歩道橋の上に、空っ風が吹いた。
これが日本のわびさびである(違う気もする)。