2 おしっこするところ
次の日である。突然あの例の女の子が教室に入ってきたので、ぼくは凍りついた。
「えっとその、転校してきました、入野ひなぎです……よろしくお願いしますっ!」
ぼくはこう叫ばずにはいられなかった。
「お前は昨日のゲタ女!?」
「げ……ゲタ女?」
とひなぎは自分を指さしてガビーンとした。
「とぼけても無駄だ、昨日のマジック・ショウは一体どういうつもりだったんだよ!」
「マジック……ショウ?」
とひなぎはキョトンとしている。
「あれっ、もしかして、人違い?」
「なんなのよ、さっきから」
そこに先生が口を挟んだ。
「あれっ、耕作くん、知り合い? それならちょうどよかった! 後でこの学校のことを案内してあげてね。席もちょうど隣だし」
「は、はい」
とぼくが言おうとするのを、
「でも先生! わたし、あんなやつと知り合いじゃないですよお!」
とひなぎがわめいて搔き消した。
「あ……あんなやつ?」
とぼくも自分を指さしてガビーンとした。
もうなんのこっちゃ。
それで、一時間目は、歴史だっけ。
「これが縄文土器で、こっちが弥生土器。それでこんなのが令和土器でーす!」
「先生、間違ってます! 令和土器なんてありませんよ!」
「えっ、そうなの!? あ、これは、えーと、あっはっはっはっは! 知ってた! 冗談です、冗談!」
……大丈夫なのか、この先生?
ぼくはちらっと隣の席を見る。
やっぱり。
どう見ても、昨日のゲタ女だよなあ。
それとも双子?
それから授業中ずっと、ぼくはひなぎが気になって仕方がなかった。
もしかすると、突然立ち上がって、あの時のようにぼくにちょっと微笑んだあと、窓から飛び降りて、そして消滅する、なんてことがあるかもしれない。
いやいや、それはさすがに意味がわからないな。
でもまあ、授業中に馬鹿げた妄想をするのはいつものことだった。
ふと、ひなぎと一瞬目が合う。
「え」
ぼくは即座に、キョロキョロ教室の中を見回して、何かを探しているふりをしてごまかした。
でもぼくは一体何を探してるんだ。
その時ちょうど目の前で、一粒のほこりが輝いたので、
「あった!」
とそれをつかもうとしたら、するりとよけた。
ひなぎはちょっと微笑んだ(後から思えば、ほこりなんか探してどうするんだよ)。
いつの間にかぼくのそばまで来ていた先生が、
「おっほん」
と、わざとらしい咳払いをした。
「はい、ちゃんとしてます!」
とぼくは姿勢を正す。
「え? なに? わしはただ咳をしただけだったのじゃが」
「先生、今のほんとの咳なんですか!?」
「おっほん」
と教壇の前に戻っていく。
……大丈夫なのか、この先生?
だけど、ひなぎのあの雰囲気……やっぱり昨日のゲタ女で間違いないと思う。
じゃ、なんでぼくのことを知らないふりするんだ?
きっとこれにはなにか、深~い事情があるんだろう。
だから深入りしないほうがよさそうだ。
休み時間にぼくはひなぎに声をかけた。
「耕作くん、だよね?」
「うん、はじめまして」
とぼくはウインクした。
これは、昨日のあれのことは全部忘れたよーん、というサインのつもりだったのだけれど、その意に反して、
「え? なあに? 今のウインクは?」
といった、不思議な顔をされた。
ひなぎって鈍いんだあ。
「それで? どうしたの、耕作くん」
とひなぎ。
「学校を案内するよ。先生が言ってただろ」
「あっ、そうか!」
「じゃ、行こう」
「わーい!」
「おっ、なんでそんな嬉しそうなの?」
「なんとなく、嬉しそうにしてみただけ」
とひなぎは真顔に戻って冷たく言った。
「……じゃ、行こう」
「ここがトイレ。おしっこするところ」
とぼくは言った。
「う、うん」
あれっ、ひなぎ? なんでそんなに引いてるの?
まあ気のせいか。
「それで、こっちが男子トイレで、あっちが女子トイレ。間違えちゃダメだよ」
「そんなの見りゃわかるわいっ!」
とぼくは叩かれた。
「ここが屋上。風が気持ちいい」
「いい景色ね~!」
と、ひなぎが開放感を味わいながらくるくる回って踊っている。
ぼくは言った。
「……立ち入り禁止だけど」
「ありゃ~っ!」
と、ひなぎがズッコケる。
「こっからぼくんちも見えるよ」
と言いかけた時、
「じゃなんでわたしたちここにいんのよ~っ!?」
とぼくは叩かれた。
「ここが放送室。ちょうど今放送中らしい」
「ということはその声、放送されてるわよ!?」
「しまった!」
とぼくたちが慌てふためいていると、
「しーっ!」
と、放送委員の人に注意されてしまう。
「どう考えても、ここまで入ってこなくてもよかったわよね!?」
とひなぎが囁きながら、やっぱりぼくを叩く。
おかげで、
「ひゃーおっ!」
というぼくの変な悲鳴が、学校中に響き渡ったのであった。
そしてそれからどうなった♪
結局、ぼくはフルボッコになって教室に戻った。
「な、なんでえ~?」
とよろめいたぼくをひなぎが抱きとめた。
「耕作くん!? どうしたの、ボッコボコじゃない!」
「お前がやったんだろーが!」
ぼくは机にうなだれながら、すでにクラスの人気者になっているひなぎをぼやーっと眺めていた。
ひなぎは質問ぜめにあっている。
「ひなぎちゃんの血液型って何型?」
元気よく手をあげてひなぎが叫ぶ。
「K型!」
なんじゃそりゃ!?
「へーえ! やっぱり! ひなぎちゃんらしいよ」
!?
「それじゃ、好きな食べ物は?」
「ハンバーグ♪」
「好きでも嫌いでもない食べ物は?」
なんだよその微妙な質問。
「うーん……らっきょ?」
そのとき、ひなぎを取り巻いていた一人の女子……らっちゃん、とみんな呼ぶ……が突然泣き始めた。
らっちゃんは言う、
「ひなぎちゃん、好きでも嫌いでもないなんて、ひどいよ! わたしんち、らっきょう農家なのに! ひなぎちゃんの、ばか! ばか! ばか!」
何気ないその一言が、らっきょう農家の娘の心を傷つけたようだった……だけど、「好きでも嫌いでもない」って、言うほど悪く言ってないんじゃないか?
ひなぎは言った。
「ごめんね、らっちゃん。そんなつもりじゃなかったのわたし」
らっちゃん、涙をふいて、
「ううん、いいの。だけど今度絶対遊びに来てね。美味しいらっきょう料理をたくさん食べさせてあげるから」
「らっきょう料理?」
「らっきょうケーキに、らっきょうジュース、らっきょう寿司に、湯らっきょう。らっきょうようかんに、らっきょうスパゲ
「好きな作家は?」
とたまりかねた一人がそこで口を挟んだ。
「そうねえ。ウィリアム・バトラー・イエーツ」
誰だろう。
面白いのかな。
「あっ、イエーツ! いいよね!」
「ぼくもイエーツ好きだよ」
「俺も」
「オラも。『鷹の井戸』は傑作だべさ!」
「わたくしも! イエーツ全集をこの前読破しましたわ! おほほほほほ!」
「朕も」
「イエーツ! イエーッ!」
「イエーツ人気すぎかっ」
と思わずぼくは叫んでしまう。
ひょっとして、イエーツ知らないのクラスでぼくだけなのか?
ぼくはその知らなかった作家の名前を、こっそりとノートの隅にメモしたのだった。