悪魔と絵描き
1
「ほう、これは素晴らしい」
ふいに声をかけられて、若い絵描きは振り返った。
「え、あなたは誰ですか?」
振り返ると上品そうなスーツを着た紳士が立っている。ここはアトリエとは名ばかりの、絵描きが借りている古小屋で、絵描き以外には誰もいないはずだった。
「私は、悪魔と申します」
紳士が名乗る。絵描きは、悪い冗談だと思ったが、突然の訪問者に身構えた。
「私に何か用ですか?」
「いや、とても良い絵を描かれていらっしゃる」
悪魔は、絵描きが取り組んでいた作品を眺めている。
「はあ、どうもありがとうございます」
絵描きの描く絵は、人から気味悪がられることが多かった。それで、正体が不明の人からでも、褒められることは嬉しかった。
「この絵には、『魂』が入っていますね」
悪魔が唇の端を上げながら言った。それは、絵描きが寒気を覚える笑みだった。
「そうですか。でもみんなは、あまりよく言いません」
「いつの時代も、芸術を理解できない人間は多いものです」
悪魔は絵を眺めている。こちらが何も言わなければ、ずっと眺めていそうだった。
「ところで、なにか御用ですか?」
「ああ、すいません。突然ですが、あなたは悪魔の仕事をご存知ですか?」
悪魔、と名乗る紳士が言った。まだちらちらと、絵を見ている。
「人を、たぶらかしたりするのではないですか」
「いや、そういうやつもいるようですが、私は違いますよ」
「はあ」
「悪魔の仕事は、ずばり人間の魂を集めることなのです」
悪魔がはっきりと、絵描きの目を見て言った。
「え」
「いや。怖がらなくて大丈夫ですよ。人間を殺して魂を奪うなんてことは決してしないですから」
絵描きは、どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか分からなくなっていた。
「そうなんですね」
「はい。だから、高貴な魂を持つ人間が死ぬときなどは大変ですよ。悪魔同士の奪い合いに天使まで参加してきますから、はっは」
「はあ」
悪魔は軽く咳ばらいをした。
「それでですね。実はあなたにお願いがあるのですよ」
「え、なんですか」
「この絵の『魂』を、私に譲ってほしいのです」
「なんですって?」
「基本的に、人間の魂をいただいているのですが、ごくまれに、こういうことがあるのですよ。あなたの描かれたこの女性。実にきれいな魂です」
「はあ」
絵描きは自分が描いていた絵を見る。それは、この世に存在しない、絵描きの頭の中にしかいない女性だった。絵描きはいつも、その女性を描いていた。
「もちろん、ただとは申しません。見たところ、あなたはあまり裕福な暮らしをしてらっしゃらないように思います」
悪魔が古小屋の内装を見回しながら言った。
「そうですね。私の絵は人気がなくて、売れないですから」
「もし、あなたが描く絵の魂をいただけるのなら、あなたを大金持ちにしてさしあげましょう」
そこで絵描きは、悪魔の言うことを初めて面白いと思った。悪魔には、そんな力があるのだろうか。
「大金持ちになれるのですか。いったいどうやって」
「そんなことは簡単なことです。『魂』をいただけさえすれば」
絵描きは考える。自分は今まで、絵しか描いてこなかった。他にできることは何もなかった。
そして、自分がアトリエ兼住居としている小屋を見回す。自分は絵描きとして、誰にも負けていないつもりだった。それなのに、暮らしは一向に良くならなかった。自分はこれからも、一生誰にも認められずに死んでいくのか。実際、絵を描き続ける余裕さえ、いつまであるか分からなかった。
それに、自分から絵を奪うなんて、悪魔にだってできるものか、絵描きはそう考えた。
「もし、お金持ちになれるなら、なってみたいものです」
絵描きがそう言うと、悪魔の姿は忽然と消えた。部屋のどこを見回しても、悪魔はいなかった。
「悪い夢でも見ていたのか」
絵描きはそうつぶやくと、描いていた絵に向き直った。そこで、おかしなことに気づいた。
どこが変わった、というのは分からない。しかし、明らかに描かれた女性が死んでいるのだ。
2
絵描きの作品が、飛ぶように売れだしたのはそれからだった。
それまでとは比べ物にならない額で取引され、絵描きに入ってくるお金も莫大なものになった。
集まってきたのはお金だけではなく、様々な人も絵描きに寄ってきた。
皆が絵描きを褒めたたえ、絵描きはそれまで手に入れられなかったすべての物を手に入れた。
それから、数年の月日が流れた。
3
「おひさしぶりです」
絵描きは、古小屋にいた。初めて悪魔に出会った場所だった。
その声が聞こえたとき、絵描きは飛び上がるほどに喜んだ。
「ああ、よかった」
絵描きはずっと待っていたのだ。また悪魔に会える日を。
「長い間、絵を描かれてないようですね」
悪魔が周りを見回して言った。部屋の中には、およそ財産と呼べるようなものはなかった。
「ええ、そうすれば、あなたが来てくれると思っていました」
絵描きは、ある日から唐突に絵を描かなくなった。そして、手元にあった財産もほとんど手放してしまったのだ。
絵描きが新たに絵を描かなければ、悪魔が受け取る魂も新たに生まれなかった。
「何があったのです?」
悪魔が絵描きに聞いた。
「実は、魂を返してほしいのです」
「なんですって?」
「私はどうしても、彼女にまた会いたいのです」
彼女、というのが、絵描きが描いていた女性のことだというのは、悪魔にもすぐ分かった。
「それは、困りましたね」
「彼女を失って、私はいろいろなものを手に入れました。しかし、そんなものは全ていらなかったのです。彼女さえ、彼女さえいればそれでよかったんだ」
絵描きは声を振り絞った。目の前にいるのが本当の悪魔だということは、もう分かり切ったことだった。
「そこまで、思いつめているのですね」
悪魔は、少しの間、思案するそぶりを見せた。そして、絵描きに話し始めた。
「どうしても、と言うのなら最後に彼女に会うことはできます。でも、それには条件があります」
「なんですか」
「最後に一度だけ、あなたに魂を返しましょう。でも、もう一度あなたが絵を描き終えたら、そこであなたの魂を代わりにもらいます」
「なんだって」
「あなたはもう一度、魂の入った絵を描くことができます。でもその絵を完成させたら、あなたは私に魂を渡さなくてはなりません。どうしますか」
絵描きには、それが、自分が死んでしまうということなのは十分に理解できた。しかし、自分にはもう未練はなかった。もう一度彼女に会えるのなら、それで悔いは何もないのだ。
「わかりました。私の魂を差し上げましょう」
悪魔は唇の端を吊り上げて笑った。
4
それから、絵描きは何日も飲まず食わずで、眠らずに絵を描いた。
まさに、まるで何かに取り付かれたようにキャンバスに向かった。
そして、とうとう絵は完成した。その瞬間、絵描きは倒れこみ、そのまま帰らぬ人となった。
そこに、悪魔が現れた。
「確かに、あなたの魂をいただきました」
そして悪魔は絵描きが完成させた絵を見た。
「ほう、これは考えましたね」
完成された絵には、美しい女性が、まるで生きているように描かれていた。
そして、その隣には、女性と見つめ合う絵描きの姿が描かれていた。
「素晴らしい、とても素晴らしい作品です」
悪魔はすでに消えていた。部屋には、絵と絵描きの死体が残された。




