天使の住む世界
雨が降っている。後頭部や背中に激しく雨が当たっている。それで、自分はうつ伏せに倒れているということがわかる。
どうやら、石畳の上に倒れているようだ。体は重く、首を動かすだけで一苦労だった。
俺はなんとか上体を起こそうとする。両手で地面を押し、四つん這いの姿勢になる。
何か声が聞こえだした。叫び声だ。若い女の声。
なんとか顔を向ける。若い女がこちらに走ってくる。土砂降りの雨の音で、何を叫んでいるのかわからない。
女は地面に膝をつき、俺のことを両腕で抱きしめた。ああ、この女は天使だ。
抱きしめられたからそう思ったんじゃない。俺の顔の前に、彼女の背中から生えた翼があったからだ。
「大丈夫ですか! ああ、なんてこと」
彼女は俺のことを心配していた。
「すぐに人を呼んできます」
彼女はそう言って駆け出す。俺は地面にうずくまりながら意識が薄れていくのを感じた。
次に目が覚めたとき、俺はベッドに寝かされていた。
一部屋だけの小さな家だった。ソファに座っている、俺を助けてくれた女と目が合う。
「良かった。目が覚めたのですね」
彼女は本心から喜んでくれていたようだった。俺は美しい翼に目を奪われた。
「助けてくれてありがとう。でも、ここはいったいどこなんだ?」
「ここは、私たちの住む村ですわ」
彼女は台所から、皿に乗せた果物のようなものを持ってきてくれた。
「村に名前はないのかい?」
「だって、他の村を知りませんもの」
彼女が俺を見つめる。それはとても、慈愛に満ちた瞳だった。
「村長に、話をしてきます」
そう言って、彼女は出ていった。出て行ってから、彼女の名前を聞きそびれていたことに俺は気付いた。
彼女が出て行ってから、二人の子供が家に入ってきた。
子供たちはまっすぐに俺が寝ているベッドの側までやって来る。
「ねえ、あなたはどこから来たの?」
子供たちは目を輝かせて俺に聞く。俺は、子供たちの背中の翼を見ていた。
それを察した子供たちは、少し気まずい顔になった。
「どこから来たのかわからない。ここがどこかもわからない。でも、俺がもともといた世界じゃ、翼が生えてるやつはいなかったんだ」
「そ、そうなんだ……」
子供たちがすまなそうにしているのが、俺にはおかしく思えた。今まで、翼が生えてないことに劣等感を覚えたことはない。
「背中を、見てみるかい?」
「え、いいの!」
二人の子供は目を輝かせた。この世界の住人は、翼を出すために背中が大きくあいた服を着ているらしい。だから、俺も背中を出すことに恥ずかしさはなかった。
「うわあ……」
俺が後ろを向いて服を上げてやると、子供たちの驚く声が聞こえた。
「すごい、僕、初めて見たよ」
「僕だってそうだよ」
首だけ振り返ると、子供はまじまじと俺の背中を見続けていた。
その時、扉が開く音がした。どうやら、俺を助けてくれた女が帰ってきたようだった。
女は、背中を見せている俺と、背中を見ている子供たちを見た。
「ちょっと、何やってるの」
その時の女の顔は、とても冷えていた。何か、とてつもない悪事を目撃したような顔だった。
いま思えば、その時の違和感を俺はもっと深く掘り下げて考えるべきだったのだ。
「ぼ、僕たちは何もしてないよ」
「そうだよ、背中を見せてもらってただけだよ」
子供たちの様子もおかしかった。そんな必死で言い訳するようなことなのだろうか。
彼女はすぐに俺の近くまで来た。
「申し訳ありません。子供たちがとても失礼なことを。あなたたちも、早く謝ってください」
「ちょっと待ってくれ。俺は別に何も」
「ごめんなさい……」
子供たちは、泣きそうな表情で俺に誤った。そして、女性に促されるように家から出ていった。
「本当に、子供たちがすみませんでした」
「いや、俺は君たちが何をそんなに気にしているかわからない」
しかし、彼女の顔は晴れなかった。俺が何を言っても、罪悪感を募らせていくようだった。
「村長は、何と言ってたんだ」
俺は、話題を変えることにした。すると、彼女の顔は急に笑顔になった。
「はい、もちろん、いつまでもこの村にいていいということでした」
彼女は目を輝かせて言った。
「ちょっと待ってくれ」
「はい」
「俺のこと、名前も素性も何も知らないだろう?」
「はい」
俺は急に、それ以上、話をすることができなくなった。何の疑いも持たない彼女の顔を見ていると、何を言っても無駄な気持ちにさせられたのだ。
「とにかく、助けてくれてとても感謝している」
俺はベッドから降りて立った。多少ふらつくようだが、歩くことはできそうだ。
「でも、いつまでもここにいれない」
彼女はそれを聞くと、顔を曇らせた。
「やはり、私たちが失礼なことをしてしまったからですか?」
「いや、そうじゃない。何も失礼なことはしていない。言っておくが、俺は自分に翼がないことは何とも思っていない」
俺は少なからず恐怖を感じていた。この村の天使たちは、やはりどこかおかしい。
「やはり、私たちに翼があるから、あなたに悲しい思いをさせてしまったのですね」
彼女は台所の方に歩いて行った。そして、果物を切るためのナイフを手に取った。
「違う、違うんだ」
俺はこの家から出ようと扉へ向かう。鍵はかかっていない。
「いやあああ!」
扉を開け、外へ出ようとしたところで、悲鳴が響き渡った。
振り返ると、彼女が器用にナイフを持った手を後ろへ回し、片方の翼を切り落としていたのだ。
「何をしてるんだ!」
俺は叫んだ。
「誰か、誰か来てくれ!」
俺は大声で外に向かって叫んだ。
すぐに大人たちが集まってきた。
「あなたが、この村にやってきた旅人ですか」
初老の男性が俺に聞いた。何人かは、彼女の手当てをしてくれているようだった。
「そうです。彼女に助けてもらった。でも彼女は……」
男性は、話さなくていいというふうに俺の言葉をさえぎった。
「私は村長をしています。彼女から話を聞いています。どうかしばらく、私の家で待っていてもらえませんか」
すぐにこの村を出たかったが、何もわからない状況では難しかった。俺は村長の言うことに従った。
「大丈夫。何も心配いりませんよ」
村長の家で、おそらく村長の夫人である女性が俺に言った。
女性が嘘をついているようには見えない。あんなことがあっても、俺のことを信頼しているようだ。
「私たちは、本当に、あなたにこの村を気に入ってもらいたいだけなんです」
「あなたたちは、そればっかりだな」
俺は俺の中に、不快な感情が芽生えていることに気づいた。いや、不快な感情はずっとあったのだ。
しばらくして、村長が家に帰ってきた。
「あなたにお伝えしたいことがあります。広場へ来てもらえませんか」
「わかった」
俺は先に家を出て、来る途中にあった村の広場へ向かった。村長は、夫人に何か伝えると、すぐに後を追ってきた。
「私たちは、考えたのです。そして、話し合いました」
村長が言った。最初に出会った女と同じ、何も疑うことのない目で。
「私たちに、この翼がある限り、あなたを傷つけてしまうのだと」
「ちょっと待ってくれ。どうしてそうなる。俺は傷ついてなんかいない」
「今はそうかもしれません。でも、あなたにだけ翼がなければ、必ず疎外感を覚えるようになるでしょう」
「俺は出ていく。俺がこの村を出れば問題ないだろう」
「今さら帰れるのですか。あなたのいた世界に」
「それは、お前らには関係のないことだ」
いつの間にか、村人たちが広場に集まってきている。手には、斧や鉈などの刃物をそれぞれが持っている。
「それではこの村はどうなります?」
「何だって?」
「あなたを受け入れることができなかった、ということになるのではないですか」
「そんなことは知らない。俺には関係ない」
「あなたを受け入れられなかった私たちは、とても生きてはいけません」
村長の夫人が、手に包丁を持って来ていた。
「そんな馬鹿な。なぜお前たちは、翼のない俺を受け入れてくれないんだ」
「私たちは受け入れているのです。だから、あなたと同じになろうとしているのです」
悲鳴が響き始める。村人たちは自分で、時に協力しながら翼を切り落とし始めている。
「間違っている。お前らは間違っている」
俺は村の出口に向かって走り始める。
「私たちは、一人の人を不幸にするのなら、みんなで不幸になると決めたのです」
背後から、村長の声が聞こえた。
俺は走った。弱った体はすぐに悲鳴を上げた。しかし、休むわけにはいかなかった。
石畳は続いている。村を出てからも、一本の道として続いていた
村の外は霧が出ている。村から離れるほど、それは濃くなっていった。
だから俺は、危うくそれを踏みつけそうになった。
一人の男が、石畳の道の上に倒れていたのだ。
俺は、息を整えるのも忘れ、男を抱きかかえた。
この男と必ず話をしなくてはならなかった。この男には、最初から翼がなかったからだ。
「おい、大丈夫か。目を覚ましてくれ」
「う、うーん」
男は気付いた。
「おい、いったいここは何なんだ!」
俺は男に聞いた。
「わ、私はどうしてしまったんだ。ここはいったいどこなんです?」
くそっ、どうやらこの男も俺と同じ状態のようだった。
しかも、男の目線は定まらない。まだ、混乱しているようだ。
俺は途方に暮れた。この男を抱えて村に帰る? そんなことはできない。しかし、この男を連れてこのまま進めるのだろうか。
男は顔色こそ悪くなかったが、まだ視線が定まらないようだった。
しかし、男が言った言葉が俺を凍りつかせた。
「とにかく、どなたかわかりませんが、どうか私を助けてください」
男は俺と視線を合わせず言った。
「私は目が見えないのです」