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急行列車


 あと1時間の間、この急行列車はどこにも停車しない…。

 座席にゆったりと身を落ち着け、そう大田が思ったのと、不意に目の前に現れた車掌が帽子に手を当て、ヒョイと挨拶してきたのは、ほとんど同時だった。

 走行中の列車の車内でのことである。

 大田はいつもと同じ、くたびれたコゲ茶の背広姿だが、荷物や着替えを詰めたトランクが一つ、頭上の網棚に載せられているのは、どこか小旅行にでも出かけるのか。

 意外な相手の意外な挨拶に、

「おやっ?」

 とは大田も思ったが、その先がいけない。

「警部さん、お久しぶりです」

 との車掌の言葉に2度驚いたが、やっと大田は気が付いた。よく見ればこの車掌、顔見知りの男なのだ。

「ああ車掌さん…、お久しぶり」

 この頃には大田も思い出していた。

 何週間か前、ある容疑者を護送して、岡山から大阪まで乗車した際、車内で世話になった車掌だったのだ。考えてみると、乗っている列車も、あの時と同じ時間帯の急行ではないか。

「警部さん、今日も誰かの護送ですか?」

 見るところ、この車掌は40歳過ぎぐらい。中肉中背で特徴のない顔つきだが、制服と制帽をすきなく身に着け、しかし笑うと子供のように人懐っこい表情になる。

 こりゃあ客商売向きの男だ、と大田は思った。

「護送ではないが公用の旅です。いま送検準備を進めている容疑者の故郷が九州なもので、裏付け捜査の一環の出張ですよ。いやいや、この事件には苦労させられます」

 事件の詳細はわざと口に出さなかったのだが、それだけで車掌は何かを察したふうである。というのはこの頃、大阪市内では、世論を二分しかねない事件が起こっていたのだ。


 ひと月ほど前のこと、大阪市内のある銀行に、銃を持った強盗が白昼堂々と押し入り、行員と客一人を射殺し、現金を奪って逃走するという事件が発生した。

 すぐさま警察の非常線が張られたが、すでに犯人の姿は市中に消え、見つけ出すことはできなかった。

 後日に判明したことだが、犯人は銀行を出てすぐ下水道に入り込み、そこから暗がりのトンネルを抜け、意外な場所の意外な出口から地上へ出て、そのまま雑踏の中に身を隠したのだった。

 下水道には黒い覆面と銃が残されていたが、指紋はまったく検出されず、文字通り手がかりは何一つない状態だった。

 数週間後にもまだ犯人は捕まらず、このまま迷宮入りかと思われた。だが事件から一ヶ月たとうとしたころ、ひょんなことから容疑者が逮捕された。それが林和夫という男なのである。

 奪われた物の一部ではあったが、紙幣の番号を銀行が記録していた。おりしも林は、自動車を現金で購入しようとしており、その支払いに使われた紙幣の中に、奪われたものと一致する番号の数枚が含まれていたのだ。

 林には第二次世界大戦の従軍経験があり、銃の取り扱いには慣れていた。犯人の顔は覆面で見えなかったが、体格も目撃者の証言と一致している。銀行強盗が行われた日のアリバイも、林は示すことができなかったのである。

 だが逮捕されても、林は犯行を認めようとはしなかった。

「自分は銀行強盗のことなど何も知らない。番号の一致する紙幣は、事件後に強盗が市内で使用したものが偶然まぎれ込んだのに過ぎない」

 と主張したのだ。

 しかし大阪府警は見解を変えなかった。新聞記者を集め、銀行強盗犯を逮捕したと発表した。

 これは翌朝の紙面で大きな記事になったが、ここからがおかしなことになってくる。新聞記者たちが、林の逮捕に疑問を持ったのだ。物的証拠のまったくない、状況証拠だけによる逮捕だったからだ。

 いくつかの新聞は声高に疑問を表明した。

「林氏は本当に犯人なのか? 無実の者の誤認逮捕ではないのか?」

 警察は反論した。大学で数学を教えている男を引っ張り出し、

「奪った紙幣を強盗がすべて大阪市内で使用したとしても、それが林の所持金の中に複数枚混じる確率はゼロに等しい」

 と長々と数式を使って説明させたのだ。

 だが新聞社も負けてはいなかった。別の数学者を引っ張り出し、

「真犯人と林氏がたまたま同じ店で買い物をしたとすれば、複数の紙幣が混じることも十分ありえる」

 と証明してみせたのである。

 この先は水かけ論だった。林が真犯人であるにしろ、ないにしろ、これ以上の証拠は何も出なかった。この事件は連日紙面を飾り、ついに複数の新聞社が協力して、

「有力な証拠のない林氏はすぐさま釈放されるべきである」

 との論陣を張るにいたった。

 この事件は市民の関心を呼び、街角でも職場でも、家庭でも学校でも、様々な人の口にのぼり、議論がされ、論争が巻き起こっていた。

 もちろん大田もその渦中におり、日々、頭を悩ませていたのである。

 林はまだ送検はされず、府警に留置中だが、そんな折、林の郷里が九州であることが判明し、そこに何かの手掛かりがあるのではと、ワラにもすがるような思いで、大田は向かうところだったのである。

 この世論を二分する銀行強盗事件については、もちろん聞き及び、あるいは国鉄の職場内でも話題にされていたのだろう。

「ほう…」

 と言ったきり、車掌はしばらくの間、黙ってしまった。

「どうかしましたか?」

 そう大田がうながすので、車掌は一瞬ためらったが、

「そういうお忙しい旅行中に、あいすいませんが、ちょっと来ていただけますか?」

「車内でトラブルですか?」

「はあ…、そのようなものかと」

 そもそも大田には連れもない。その場に荷物を残したまま立ち上がった。

 大田をつれ、車掌は歩き始めた。座席がずらりと並ぶ狭い通路を抜け、出入口のデッキに出たのである。

 そこには男が一人いて、タバコを吸っていたが、車掌と大田の姿に気が付くとすぐに火を消し、灰皿に放り込んだ。

「大田さん、こちらもあなたとご同業のようですよ」

 と車掌がささやくと、その男はさっと胸から警察手帳を出して見せた。

「兵庫県警のものです」

 このとき、大田の前でこの男はもちろん正式に名乗ったのだが、本筋とは関わらないので、その名は出さないことにしよう。

 兵庫県警ならば、大田が働く大阪府警とは隣同士だ。しかも今、この急行列車はその兵庫県内を走行中だ。ついさっき神戸を出て、次の姫路で停車するのが約1時間後。

 大田は兵庫県警の刑事を眺めたが、これがまたいささかに、くたびれた年寄りで、まさか定年を過ぎてはいまいが、背は低く背中は曲がり、ハンチング帽の下に見える髪はもうほとんど真っ白なのだ。

 あのブルブル震える手で手錠や銃が扱えるのだろうか、と大田は感じたが、口には出さなかった。

 その代わりに大田も警察手帳を見せ、

「公用で旅行中ですが、大阪府警の大田です」

「大田さん、大変恐縮だが、少しお手伝いいただけないだろうか」

 と老刑事は言う。

「どうしたんです?」

「ちょっと面倒になりそうなんです。この車掌さんにまず協力を求めたら、車内でもう一人警察の方を見かけたということなので、勝手ながら呼び出してもらいました」

 そう言いつつ、老刑事は頭を深く下げる。明らかに大田よりも年上だが、腰の低い人物のようだ。

 大田は声をひそめ、

「どういう事情です?」

「この列車に、手配中の容疑者が乗車しているのです。神戸駅のホームにいましたら、車内にいるのが偶然、窓ガラス越しに見えました。あわてて私も飛び乗り、この車掌さんに事情を話したのです」

「どんなホシですか? ワシにどんなお手伝いができますかな?」

「ホシの名は猿田良吉といい、罪状は巾着きんちゃく切り、つまりスリなのですよ」

「ほう…」

「それが名うての名人でして。業界では『魔法指の猿田』で通るほどです」

「魔法指ねえ…」

「私たちも何年も前からメボシをつけていたが、いざ逮捕というときになって逃げられてしまいました。それを今日、やっと再び見つけたわけです。無精ひげをそり、ちゃんとした背広姿に変装していますが、私の目はごまかせません」

「なるほど…。応援は求めましたか?」

「ええ…」老刑事は車掌を振り返った。「この車掌さんにお願いして、姫路署に応援を頼みました。間に合ってくれさえすれば、姫路のホームで制服警官たちが待ち構えているはずです」

「そういう連絡、どうやったんです?」

 大田の疑問ももっともなのである。第二次世界大戦が終わってまだ10年しかたたないこの時代、列車からかけることのできる電話など存在しない。

 もちろん無線機も積み込まれてはいない。列車から地上へ無線通信が可能になるのは、もっと後の時代のことだ。

 大田の疑問に答えたのは車掌だった。

「通信筒を使ったんです」

「通信筒って?」

 車掌は少し笑い、

「名前を聞くと大げさですが、ただの布袋です。重りにするための砂が底に入れてありましてね。これに手紙を入れて、通過する駅のホームで落とすんです。須磨すま駅でしたかな…。すると駅員が拾って、必要な手配をしてくれるわけでして」

「それで姫路駅ホームに制服警官の待機を要請したわけですな…」

 しかし車掌も、いつまでも刑事たちに付き合ってはおれない。列車の走行中も、車掌は極めて多忙である。切符なしで乗車してくる乗客への急行券の販売、指定席の割り当て、下車する乗客への乗り換え案内など、やることはいくらでもある。

 帽子に手を当てて挨拶し、何かあったらまた連絡してください、とのみ言い、車掌は姿を消した。

 そして、そのあとのことである。

 あろうことか5分後には、魔法指の猿田がいる客車内へと大田は足を運んでいた。

 老刑事がせかしたこともあるが、自分の荷物を取りに一度座席に戻り、ままよ、と足を踏み入れたのである。

「姫路に到着するまでの間、誰かが猿田を間近に見張っていないといけません。しかも私は、もう奴に顔を知られておりましてな」

 と老刑事が強硬に主張したからだが、隣県の刑事の頼みとあらば、大田もむげに断ることはできなかった。警察同士、協力し合わなくてはならないし、県境をまたぐ犯罪など珍しくはなく、持ちつ持たれつだからである。

 いざ目の前にしてみると、猿田は想像以上に若い男だった。すらりとした体格にハンサムで、まず男前と言ってよい。黒い髪を短く刈り、ポマードで光らせている。

 老刑事の言う通り、猿田は背広姿で、しかしこんな暑い日であるから、いまその上着は脱いで、壁のフックに引っ掛けてある。

 夜行列車の車内、しかも時刻は相当に遅いから、混んではいなかった。箱のように四角い4人掛けの座席がいくつも並び、そのいくつかに一人の割合で、乗客がポツンポツンと座っているのだ。

 だから大田も、猿田の真正面に腰掛けるわけにはいかなかった。それでも最も近くということで、通路をはさみ、隣の区画の座席を選んだのである。

 ところがその瞬間、猿田が話しかけてきた。まだ荷物を網棚に載せてもおらず、エッと小さな声をあげて大田は振り返った。

「刑事さん、あんたは冤罪えんざいを出したことはありますかい?」

「なんだって?」

 会話の届きそうな範囲に他の乗客の姿はなく、おくする様子もなく、猿田は大田の顔をまっすぐに見上げている。そして付け加えた。

「無実の人間を逮捕し、刑務所へ送ったことがあるか、ときいてるんですよ」

「何もあんた、ワシは別に警察官じゃ…」

 猿田は鼻を鳴らし、

「お芝居はやめましょうや。あのジジイ刑事がこの列車まで追ってきたことは最前から知っているし、車掌は車掌で、さっきから変な顔をして目の前を通っていきやがるし…。だから、次に来る奴が本命の警察官に違いねえとメボシをつけてたんで」

「いや、ワシは…」

「ねえ刑事さん」

 ついに大田もあきらめた。この猿田という男、なかなか食えない相手である。

「刑事は刑事でも、ワシは兵庫県警ではないよ。大阪府警の人間さ。ちょうどこの列車に乗り合わせてね」

「おや、そうですかい? すると同業のよしみ、兵庫県警のために一肌脱いだってところかあ。そりゃあ構いませんがね、旦那が大阪府警とはちょうどいい。それでさっきの質問なんだが…」

「冤罪のことかね? ワシは冤罪を作ったことはない…。いや、ないと信じたいな」

「いいえ、あんたは今、その冤罪の間違いを犯そうとしてるんですよ。あんたと大阪府警はね」

「どういうことだね?」

「大阪府警は、ある事件のことで、いま大きく揺れているよね」

 猿田の口元には、かすかな微笑みが浮かんでいる。だがその目は、まったく笑いもせずに大田へ向けて視線を突き立ててくるのだ。

 大田は少し気味悪く感じたが、

「府警が揺れてるって、何だね?」

「先日から銀行強盗の容疑で逮捕されてる林のことですよ。林和夫。まさか、世論を二分するあの大事件をご存じないわけじゃないでしょう?」

 大田はあきらめた。この猿田という男、大田よりも一枚上手のようである。まだ30そこそこの若さだが、名のある大学でも出ているのか、言うことがいちいち論理的で正確ではないか。

「まあ、林和夫の件は知っていると答えておこうよ」

 とは、半分大田の苦しまぎれである。

 猿田は大田を斜に眺め、

「逮捕された林が、銀行強盗があった当日のアリバイを証明できなかったってのは、どういうイキサツでしたっけね?」

「林は当日、大阪市内の運転免許試験場へ自動車の免許を取りに、つまり試験を受けに行ったと言っとるな。だから銀行強盗などできるはずがないと」

「府警では、その裏付けが取れなかったんですかね? そもそも林が自動車を買おうとし、その時に支払った紙幣からタグられて逮捕されたわけだが、自動車を買うんだから、免許を取りに行くのは当然なわけでしょう? 林の免許証を見れば、何月何日に試験を受け、合格したとはっきり書いてあるはず。林の言う通りなら、それが銀行強盗があった日にちでしょうが」

「ところがその免許証を、混雑する地下鉄車内でサイフごとスラれた、と林は言うんだ」

「その裏付けは取れましたかい?」

「いいや」大田は首を横に振った。「確かに林は、サイフと免許証がスラれたようだと自宅近くの交番に届けてはいる。しかしそれは銀行強盗の翌日のことで、スラれたことに前日中は気づかなかったので日をまたいだと言っておる」

 タバコに火をつけ、猿田は大田にも一服勧めたが、大田は断った。

 猿田は言葉をつづけ、

「つまりまだ誰も、林の免許証の作成日付を確認していないわけだね…。だけどデカさん、自動車試験場のほうには、何月何日に誰が受験した。合格だった、不合格だった。そんな記録が書類で残してあるんじゃないですかい?」

「ところが運悪く、銀行強盗があったのと同じ日の夜に自動車試験場で火災があり、書類は全部焼けてしまった。この火災は施設の老朽化による漏電だったと原因ははっきりしているから、事件性はない」

「ところがどっこい。林のアリバイを確かめる方法も同時に失われたというわけさね?」

「そのとおりだ」

 と大田はうなずいたが、そのとき、

「いや違うね」 

 と猿田がいやに自信たっぷりなので、大田は目を丸くしたのである。

 大田は呼吸をととのえ、

「魔法指さんよ、あんたえらく林の件にご執心じゃないか。どうかしたのかい?」

「そりゃあね、林の免許証が俺の切り札になるからでさあ」

「切り札? 何の切り札だね?」

「これは急行列車だ。姫路まで、あと何十分かは停車しない。俺も人生で正しいことばかりして生きてきたわけじゃねえ。少々の修羅場なら慣れっこだし、逃げ切る自信もある。ただしね、走行中の列車内ときては…」

「ヒョイと窓から飛び降りるわけにもいかんわな。姫路のホームには制服警官が一個小隊、待ち構えているしな」

「それで相談なんだ。デカさん、あんた名前は?」

「大田だよ。大阪府警の」

「大田の旦那、俺は今から、背広のポケットからあるものを取り出す。でも銃やナイフじゃないから安心してくれ。勘違いして、銃を抜いて俺を射殺なんかするんじゃないぜ。わかるな?」

「ああ」

 その言葉通り、猿田はポケットから何かを取り出した。

 大きなものではない。手のひらにすっぽりと入る程度のものだが、紙の書類のようである。

「それは何だ?」

 と大田の疑問も当然であろう。

「運転免許証さ」

「おまえのか?」

 猿田は首を横に振った。

「いいや違うね。俺のじゃない」

 それでもまだ、猿田はその書類を手の中に隠している。

「じゃあ誰のだね」

「今からこの免許証の氏名欄を見せるから、感想を聞かせてくれよ? ええ大田さん」

 そしてもったいをつけ、猿田は指の隙間から、免許証の氏名欄だけをチラリとのぞくように見せたのである。まるで手品師のようなしぐさで、大田は目をこらしたが、その瞬間、息が止まるような思いがした。

「お前、その免許証は林和夫のではないか」

 氏名欄には間違いなく、林和夫と書かれているのだ。読みだけでなく、漢字も完全に同じである。大田の両目がドングリよりも大きくなったのも無理はなかろう。

 その表情にウフフと猿田は笑い、

「そのとおりさ。兵庫県警のジジイ刑事は、俺の容疑を何と言ってたね?」

「魔法指のスリだと…、あっ」

「そのとおり、地下鉄の車内で林和夫のサイフと免許証をスッたのは、この俺なんだよ」

「なんとお前が? すると林の奴…」

「いやいや大田さん、そう結論に飛びついちゃいけない。あんたはまだ、この免許証の作成日付を確かめちゃいないのだからさ」

「そりゃそうだ」

「だけどさ、さあどうぞ、とこれを渡すほど俺も間抜けじゃねえや。取引をしないかい?」

「取引?」

 スリというのは、相当に手先が器用でないとできないものなのだろう。いつのまに、と大田は思ったが、まるで手品のように、猿田は免許証だけでなく、その指の先にライターを持っているのだった。

「それで何に火をつける? タバコか?」

「大田さん、冗談言っちゃいけねえや。列車はあと…」

 猿田は腕時計をのぞきこみ、

「あと5分ほどで姫路に到着する。その前に列車は姫路の操車場に差し掛かるから、もうそろそろブレーキをかけ、減速を始めるはずだ。その直前に、この列車は市川の鉄橋を渡る」

「それがどうした?」

「へへへ、俺はガキの頃から水泳が得意でね。こんな暑い日だから、水浴びも気持ちよかろうよ」

「この車内から市川へ飛び込むつもりか? やめとけやめとけ。ケガをするのがおちだ。死ぬかもしれんぞ」

「いやいや、あんた市川を知らんだろう。水深は十分にあるさ。十分に安全な飛び込みだよ。どっちにしろ、あんたは邪魔できない。でないと…」

 ここでカチンと、猿田はライターに火をつけたのである。

「やめろっ」

「あんたが妨害さえしなきゃ、俺も免許証に火をつけたりはしないよ。さあ、動くなよ大田さん…」

 奇妙なことに、猿田は初めから進行方向へ背中を向けて座っていたのだ。最初からわざわざそうしていたのだろう。

 一般に、列車の乗客は進行方向に顔を向けて着席することを好むが、車内は全く混んでないにもかかわらず、猿田がそれとは反対向きであるのを、大田も奇妙に思ってはいた。

 だが大田は、その意味に気づいてはいなかったのである。

 しばらく前から猿田は、客車の出入口と自分の間の距離をはかり、駆け出す用意をしていたのだろう。

 しかもこの客車は、列車の最後尾だったのである。ここよりも後ろには車両は連結されていない。つまり、隣の車両から誰かが歩いてくるのと出くわして、脱出を妨害されることがないわけだ。

「くそっ」

 と大田は思ったが、もう遅い。すべて猿田は計算済みなのだ。

「そうさ、悪いね大田さん、俺が今いるこの座席から出口まで、6メートルとない。少し前に何かの用事で車掌のやつがそっちへ行ったが、すぐに戻ってきて、列車の前方へ姿を消した。この客車の出入口あたりは、今は完全に無人なんだよ…。おっと、先頭の機関車が鉄橋を渡る音が聞こえてきた。それじゃあ失礼するぜ」

 あろうことか、文字通り脱兎だっとのごとく立ち上がりざま、猿田は免許証に火をつけたのである。現代のカード風のものとは違い、この時代の免許証はそれこそ本当に紙なのだ。ライターの炎になめられ、免許証の端にはすぐに火がついた。

 それを猿田は、客車の前方、つまりこれから自分が脱出しようとしているのとは反対の方向へ、力の限り投げた。

 大田には考えている余裕はなかった。免許証が燃えてしまえば、あるいは完全に燃えないまでも、交付日付の部分が燃えて読めなくなっては一大事だ。

 もちろん大田は現職の警察官であり、容疑者を逮捕するのが仕事である。その容疑者は送検されるのだが、それが本当に間違いなく真犯人であるのか、可能な限り調べ、もしも真犯人でないのなら、無罪を晴らすことも仕事のうちに含まれている。

 少なくとも、大田はそう信じていた。だからこそ迷いはなく、猿田に逃げられ、あの兵庫県警の老刑事には申し訳ないことになってしまうが、ここは免許証を追うことを選んだのである。

「うわあぁ」

 と声を上げつつ免許証を追いかけ、大田は立ち上がり、駆け出した。

 猿田の言う通り、夜なのに暑い日で、客車はすべての窓が開け放たれていた。そこから流れ込む風に乗り、免許証は思わぬ遠くまで飛んでいこうとしていた。しかも火がついている。

 だが親切な乗客がいた。中年の男だが、風に乗って免許証はその男の近くまで飛び、パタリと足元に落ちたのである。

 もちろんまだ火は燃えている。しかし男は足で踏み消してくれた。

「やあ、ありがとう」

 わけのわからない紙切れが突然燃えながら、ひらひらと蝶のように目の前に現れ、それを追って背広姿の大男がまた顔を出すものだから、その男も驚いたのに違いない。だが何も言わず、免許証を拾い上げて大田に手渡してくれたのだ。

「やあ、本当にありがとう」

 ここまで老刑事は、猿田が逃げたのとは反対側の出入口デッキに隠れ、様子をうかがっていたのだが、ドタバタを聞きつけて、ついに顔を出した。

 それで大田も気が付いたのである。列車の床下から聞こえてくる音はすでに変化し、もう鉄橋を渡り切ってしまったことを告げている。

「猿田の奴はどうした?」

 火が消えたことをろくに確認もしないまま、大田は免許証を大切にポケットの中にしまったが、老刑事と視線が合うと、もう一度顔色を変えた。

 だが結論を先に言うと、老刑事の前で大田が面目を失うことは避けられた。すでに列車は操車場も抜け、姫路駅ホームに差し掛かっている。猿田が姿を消したデッキへと駆け出す大田の目のすみに、制服警官たちの姿がガラス越しに見えた。

 そしてデッキに飛び込んだ大田と老刑事を待っていたのは、猿田の姿だったのである。猿田は市川に飛び込んだりせず、そこにそのままいた。憎々しげに大田と老刑事をにらみ返すが、その手はまだ名残惜しく、ドアの取っ手をつかんでいるのだ。

 どうやらそのドアが、なぜか開かなかったようである。ロックされ、ガンとして開こうとはしない。

 この時代の客車のドアはすべてが手動、つまり手で自由に開け閉めすることができるタイプだったから、もちろん大田も不思議に思った。そのドアが開かなかったから、猿田は市川へ飛び込むことができず、車内にとどまるしかなかったのである。

 なぜか開くことができなかったのは左側のドアだけで、そのあとで不思議そうな表情で大田が試しても、右側のドアは正常で、取っ手をつかむと簡単に開くことができた。

 だけど右側のドアからは、猿田も飛び降りることができなかったのである。山陽本線は幹線で、線路は複線になっている。もしも右側へ飛び降りたら、水に達するどころか、上り線路の上に転落して、まず死亡していただろう。さすがの猿田も、それはできなかったようだ。

 猿田が何両めの客車に乗車しているのか、老刑事は通信筒で抜かりなく連絡していたようだ。列車が完全に停止するのももどかしく、大田たちがいる客車には、制服警官たちがドヤドヤと乗り込んできたのである。

 もちろん猿田はその場で逮捕、とりあえず姫路署へ連行されることになった。手配中であるから、これは緊急逮捕にあたり、逮捕状を提示する必要もなかった。

 証拠品ということで、件の免許証も老刑事に引き渡されたが、大田にとって、もう用は済んでいたのである。

 こういう捕物とりものがあったにもかかわらず、急行は姫路駅を定時に発車することができた。大田は下車せず、九州への旅をつづけたのである。

 もちろん後日、兵庫県警へ出向き、いくらか証言や説明をしなくてはならないだろう。しかし一日二日を争う用ではない。

 姫路を発車しながら、フウと大田は座席に体を持たせかけた。不意に持ち上がった難儀なんぎな仕事ではあった。疲れを感じないではいられない。

 しかし、逮捕されるべき者が逮捕され、兵庫県警に対しても義理を果たせたという満足感はある。

 列車がいよいよ姫路駅ホームを離れる時、あの老刑事が気付き、大田に渡してくれたものがある。

「お礼の代わりにはなりませんが、まあこれでも一つ…」

 駅弁と、茶色の土瓶どびんに入った茶だった。

「なんだ、酒じゃないのか」

 などとは言わず、

「やあ、これはお気遣いいただきまして」

 と大田も受け取っておいた。

 姫路を離れ、月の光を受ける背の高い姫路城の姿がケシ粒ほどのサイズにも見えなくなったとき、やっと大田も何か口に入れる気になった。

 次の停車駅は岡山である。播州平野を横切り、網干あぼし駅を過ぎたあたりから、車外の風景は山がちになった。

 その時再び、あの車掌が姿を現したのである。

「大田さん、逮捕はうまくいったみたいでよかったですね」

 姫路発車直後の仕事が片付き、車掌もやっと時間ができたのだろう。

 大田も立ち上がり、

「おやおや、これはどうもお騒がせいたしまして」

「チラリと小耳にはさんだんですが、あの猿田という男、大阪の例の銀行強盗とかかわりがあったんですって?」

「林和夫ですか? いやいや…」車掌の目の前で、大田は大きく手を左右に振った。

「関係なかったんですか?」

「いえね、あなただから話しますけどね…」

 大田から事情を聴き、車掌は目を丸くした。

「じゃあ、林は無実?」

「そうじゃありませんよ」

「なぜです? 免許証の交付日付からアリバイが証明されたんでしょう?」

「猿田というのもずるがしこい男です。こうやって指の間にはさんで、免許証の氏名欄だけを見せられた時には、ワシも心臓が止まりそうになりました」

「でしょう?」

 と車掌は不思議そうである。

「林和夫は林和夫でも、同姓同名の別人の免許証だったんです。猿田の奴、それを承知でワシをひっかけようとしやがった。魔法指にサイフをスラれた被害者の中に偶然、同姓同名の人がいたんでしょう。火をつけて投げられたのをようやっと拾い上げ、ワシの口がポカンと開きましたもん。名前は同じだが住所も違う。顔写真は別人…」

「ははあ」

「何かの役に立つかもと、猿田は肌身に着けて持ってやがったんですな。頭のいい野郎だ。おや、それはそうと車掌さん…」

「なんでしょう?」

「さっきのドア。あれは手動でしょう? どうして左側だけ開かなかったのかなあ?」

「開いていれば、猿田は逃げ出したでしょうね」

「ええ」

「これですよ」

 そう言って、ポケットから取り出して車掌が見せたものがある。

 といっても、大げさな物でも大きな物でもなく、手の中にすっぽりと隠れる程度のもの。真鍮しんちゅうでできていて、5円玉と同じような色をして光る小さなキーなのだ。

「なんです、そりゃあ?」

 と大田が言った。

「これは忍び錠と言いましてね…」

「忍び錠?」

 大田には耳慣れない言葉なのだろう。忍び錠と書いて、シノビジョウと読む。ラッチキーという呼び名もあるようだ。先にも述べたように、真鍮製の簡単な形のキーである。

「その忍び錠で、あのドアに鍵をかけたんですか? こんなに簡単な形のキーで?」

 と大田はあきれた声を出すが、その言葉通り、忍び錠の先端には四角い突起が一つあるきりなのである。これ以上簡単な形のキーは、想像しようもない。

「そうですよ」

「へえー」

「この忍び錠があれば、客車のドアなら、どこだって開けることができるんです。鉄道乗務員の必需品ですがね。普段だったら、用のない者やお客さんが入り込まないよう、空っぽの客車に鍵をかけるだけなんですが、こうやって人を車内に閉じ込めることもできるわけですよね」

「へえ」

「検札をするためにあの車両へ行ったとき、ふと思いついて、左側のドアだけロックしておいたんです。姫路駅のホームは右側ですから、問題はありませんでしたね」

「なんとまあ…」

 コトンコトンと、急行列車は西へと走り続けた。

 だが、もちろん物語はこれだけでは終わらない。まだ本命の林和夫が残っているのだ。

 結論だけを述べよう。林和夫は、このあと留置場から脱走してしまった。その行方は今もって知れないのである。

 もちろん『脱走』というのは警察側が使用した言葉であり、林の無実を紙面で訴え続けた新聞記者たちに言わせればそもそも無実なのだから、林氏は単に留置場から『立ち去った』だけなのだが、そのどちらが正しいにせよ、起こったのはこういうことだった。

「体調が悪い」

 と林が訴え始めたのだ。

 これは以前からある持病で、すぐに専門医の診察を受けないと命に関わると林は主張した。

 もちろん警察は仮病ではないかと疑ったが、新聞社によるキャンペーンのせいで慎重になっていたのは事実だろう。念のため専門医のいる大きな病院へ連れて行くことにした。

 留置場から出され、手錠をかけられ、4人の警察官に付き添われて、林は地下鉄に乗せられた。病院は警察から4つ目の駅にあった。

 日中のことだから、地下鉄は混んではいなかった。

 市民にはよく知られていることだが、この地下鉄は駅の手前でよく信号待ちをすることがある。赤信号で止められ、青になるのを1分ばかり待つのだ。

 ちょうどそこには渡り線と呼ばれる線路があり、停車の仕方にもよるのだが、停車した瞬間に電気の供給が止まり、車内の電灯がすべて消えて真っ暗になってしまうことがある。

 電車が動き出せばまた点灯するのだから、大した問題ではなかった。だがこのとき、林を乗せている電車でこれが起こってしまったのだ。

 林に付き添っていた4人の警察官たちは、どうも平常心ではなかったようである。

 しかし、それも無理はあるまい。あれほどにまで世間の耳目を集めた事件なのだ。

「あれが林だ」

「あれが噂の容疑者だ」

 などと、駅や車内でささやかれ指さされれば、多少は緊張もしよう。

 実際、地下鉄の車内でも林は周囲の同情的な注目を集め、

「林さん、がんばってね」

「無実なのに気の毒に…」

 などと言葉をかけられもした。

 警察官たちも、普段とは異なる緊張状態にあった。不意の消灯の意味に気づかず、うろたえてしまったのである。

 落ち着こう落ち着こうとはするが、そのせいでかえってあせり、林に逃げられてしまったのだ。

 車内は一旦、鼻をつままれてもわからない暗闇となり、やがて何事もなかったかのように電車が動き始め、車内に明かりが戻ってきたときには、林の姿はもうなかったのだ。暗闇の中で非常スイッチを操作し、ドアを開けて姿をくらませてしまっていた。

 そこから大急ぎで非常線が張られ、全市で検問が行われたが、それ以後、林の行方はようとして知れなかった。

 そのまま時が過ぎて、結局事件は迷宮入りとなり、ついに新しい容疑者が浮かび上がることもないままに終わった。そして何年かのち、大田の定年退職と前後して、ついに時効の日を迎えたのである。



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