人車
その昔、明治から大正にかけて、人車という鉄道が存在した。
人車とは、『人が乗る車』という意味ではなく、『人が動力になる車』という意味で、まったくその通り、機関車の代わりに人間が押して走行していたのである。
まるで馬車の人間版というところで、もちろん速度はごく遅い。動力、つまり人車夫の歩行速度と同一なのだから当然のこと。
その人車夫といっても特別な人々ではなく、ごく普通の男が(女の人車夫は存在しなかったようだ)手で車体を押す。あの時代のことだから、ふんどしにハッピ姿だったことだろう。
犬小屋のようとは卑下しすぎた言い方であろうが、もとより人力で推進する車両がそれほど巨大であるはずもなく、車輪や車軸の鉄材、窓のガラス以外はすべて木でできていた。
これを2人の人車夫で押すのだから大変な仕事で、上り坂の急なところでは2人の人車夫が4人になり、終点に達するまでに途中の交代要員も必要であり、ゆえに人件費ばかりがかかって、必ずしもエコノミーな鉄道ではなかった。
経営者側も、最初は安価な建設費に目がくらんだが、営業を始めてみると、コストの8割以上が人車夫の人件費という事実に音を上げつつあり、かといって、トロッコ同然の車両しか走ることのできない、か弱い線路では、電車や機関車の導入もためらわれて、ならばと馬車化しようにも問題があった。馬は馬で、その餌代がバカにならないからである。
人車とはこういう交通機関であったが、それが全国でただ一箇所だけ、猫坂温泉へ通じるルートのみが戦後まで存続していたというのは、この温泉場がそれだけ山深いフトコロに抱かれていたことの証拠なのだろう。
そして猫坂温泉こそが知る人ぞ知る秘湯であり、なんでも鎌倉時代の文献にはもうその名が見えているそうである。しかしそこへ至るには、ちゃんとした鉄道もバス便もなく、この人車が一つきりの輸送手段なのだった。
今その人車に、大田警部は揺られているのである。
あまり乗り心地がいいとはいえんな…、とは思うが、この陽の下でハッピなどとっくに脱ぎ捨て、汗まみれでふんどし姿の人車夫たちを見ると、大田もそんなことは口にできなかった。
それにしてもひどい乗り心地である。下から突き上げるようというのではないが、レールの継ぎ目が来るたびに、ガコンガコンと揺すぶられるのだ。
こりゃあ、腸ねん転にもなりかねんぞ…。
しかも夏の盛り、暑いのである。窓ガラスなど、とっくにすべて開け放たれている。汽車の駅がある町を離れ、人車の線路はやっと山道にかかったところだ。
別に大田が湯治に行くのではない。
ある人物に面会するための旅なのだが、その人物がなんの酔狂か物好きか、猫坂温泉の一角に小さな家を借り、家族ともどもそこへ引っ越してしまった。世知辛い世間の風の当たらない別天地、とは本人の弁だが、訪ねて行く大田には何のことはない。人車に揺られる面倒で遠い道なのである。
とはいえ人車に乗らなければ、自分の足で山道を歩いて越えるしかない。それが嫌さに切符を買い、大田は乗客となったのだ。
それにしても、車内に乗客は大田以外に誰もいない。ただ1人きりである。たった6人しか乗ることのできない狭さではあるが。
線路に上り坂があるということは、下り坂もあるということだ。そんな下り坂では、人車夫はもはや車体を押すようなことはせず、すみのほうにチョンと作り付けになったステップに飛び乗り、楽をする。
そばには手動式の小さなブレーキレバーがあり、速度がつきすぎるとそれを使用する。そうやって下り坂を降りてゆくのだが、このときの人車夫は2人組みで、初老の男と若者。
若い方はいかにも無口だが、年上の方はそうでもなかった。というよりも、おしゃべりだったのである。
今や、ようやっと峠を越え、坂が終わって線路がなだらかな下りになったところだ。あまりの乗客の少なさに、今はシーズンオフなのか、と大田は質問しようとしたが、その前に人車夫が口を開いた。年かさのほうである。
窓はすべて全開。いかに車輪とレールの音が騒がしくても、話しかけられて大田が気づかないわけがない。
「お客さんは警察官のようじゃが、アンタも事件の捜査で来られたんかの?」
「どうしてワシが警察官だと分かるね?」
と大田は少し目を丸くした。
「そのお顔で分かるさ。いかにも警察の旦那くさい顔じゃ」
「おやそうかい?」
そんなこと、大田は夢にも思ったことがなく、
「事件って、何か起こったのかい? 猫坂温泉で?」
「ご存じないので? …おやおや、こりゃあ変なことを言い始めちまった…」
「何の事件だい? 言いかけたものを、途中でやめるという方はないぜ。ワシは本当に警察官さ。さあ話してごらんよ…」
「いえね、まだ誘拐とも家出とも、神隠しとも決まっておらんのですが…」
「誘拐とは穏やかじゃないね。誰がいなくなった?」
「へえ、一番館という温泉旅館の娘です。ご存知の通り、猫坂には温泉旅館が多い。それで、この一番館は真田一郎という男が経営してるんですが、この真田の娘です」
「娘はまだ小さいのかい?」
「名前は和代といって、小さい子じゃありません。この春に女学校を卒業したから18ですかね。それがあんた、娘はまだまだ進学して勉強したいというのを、どこかの家へ嫁入りさせると言って、首に縄でもつけるようにして、この3月、両親が無理やり連れ戻したんでさ」
「よく知ってるな」
よく吸うのか、煙草のヤニで黄色くなった歯を見せ、人車夫はニヤリと笑い、
「だって旦那、猫坂温泉へは、この人車がまず唯一の交通機関なんですぜ。車内のお客たちがしゃべっている内容は、みんなアッシたちの耳に届きますよ」
「なるほどね…。それで、その和代という娘が不意にいなくなったと?」
「なんでも姿が見えなくなったのは、かれこれ2、3日前のことらしいですがね。しかも旦那、警察へ届けがあったのは、やっと今朝の早朝だそうで、今朝がた、山道をジープに分乗して、お巡りさん方が猛スピードで上って行きました。この人車よりは速いと思ったのかもしれないが、あの山道は途中までしか車は行けなくて、そこからは徒歩になるんですがね」
「和代という娘、まさか家出して、この人車に乗って町へ下ったんじゃあるまいね?」
「それはありえませんな。もしそうなら、とっくにアッシらが届け出てますよ」
「そりゃそうだね。まあいい。警察が来たのなら、誘拐だか家出だか知らんが、事件はいずれ解決するね…」
ゴトン、ゴトンと人車はゆるい坂道を下り続けている。
「それはそうと旦那、旦那は目方がいかほどありますかい?」と人車夫は続けた。
もう何度目かになるが、大田は目を丸くし、
「ワシの体重かい? どうしてそんなことをきくね?」
「いえね、お見掛けの割には重い。上り坂で車を押すのがいやに重かったと思いましてね」
「ワシの体重は、あんたとあまり変わらんと思うがね」
「じゃあお持ちの荷物が重いのかね?」
「そんなことはあるまいよ」大田は自分の足元を見下ろした。着替えや書類を入れたトランクが一つと、あとは土産にする菓子折りだけで、
「…荷物はこの2つだけさ」
「おやおや…」
と人車夫は目を丸くする。
「どうしたね?」
「すると、また出やがったな…」
何が出たのか大田には見当もつかないが、初老の人車夫は、若い方に目で合図を送った。若い方も目で答える。そして突然、ブレーキレバーを思い切り引いたのである。
「おいおい…」
と大田は声を上げ、人車は文字通り急停車したが、人車夫たちの行動は早かった。目にも留まらぬ早業で飛び降り、人車の前方、つまり進行方向へと飛び出したのである。
「そうれみろ、思ったとおりだ」
初老の人車夫は声を上げ、両手で何かを捕まえたようである。
なんだ、と大田が首を伸ばすと、人車の窓の真下、そこに小学生の子供の姿があるのだ。男の子で、窓下に隠れ、車体につかまっていたらしいが、それが人車夫に腕をつかまれ、逃げ出そうともがいている。
「放せ放せ…」
学年は3年生ぐらいか。大人用のものをつぶして作ったらしい、それでもあまり体に合っていない洋服を着て、あちこちにカギ裂きやシミ、汚れがある。あまり親から手をかけてもらっていないようだ。
窓越しに、大田は声をかけた。
「その子供は誰だね? そんなにきつく、つかまなくても…」
「いやいや警察の旦那、これは雪雄といいましてな。このあたりじゃ有名な悪戯者で、今だってほら、この人車にタダ乗りしておったんですよ」
「タダ乗りじゃないやい。人車の車内に入ってないじゃないか。ちょっと外側に、つかまってただけさ」
そう大声で雪雄はわめくのである。それだけでなく、雪雄はワナに捕まったサルのように暴れた。
爪で引っかかれたり、ろくに歯磨きもしていなさそうな歯で噛み付かれてもつまらない。人車夫たちは思わず手を離してしまい、その隙に身をかわして駆け出し、それこそサルのように走り出して、そこらの斜面の茂みを登り、雪雄の姿はあっという間に見えなくなってしまった。
「どうしたんだね、今の子供は?」と大田が言うと、
「あれは、有名な悪ガキなんですよ。そこらの庭に生っている柿は盗むは、いけすの魚を釣るは、ハハハハ、どうしようもありませんわ…。そうそう、真夜中に勝手に人車を持ち出し、乗り回して放置するなんてのもありました」
「この人車をかい?」
「温泉場の駅からは、しばらくの間ずっと下り坂になりますんで、子供一人の力でも簡単に動かせるんですよ」
「さっきの子供がそんなことをしたという証拠でもあるのかい?」
「そんなものありゃしませんが、誰も疑いはしません。雪雄のやつに決まってますよ…」
人車が猫坂温泉に到着した。
大田がはるばるここまで訪ねてきた相手というのは、半田某という老人で、町の人に聞くと、その住まいはすぐに分かった。家を訪ねると、すぐに大田は部屋へ通され、畳の上に正座して、老人と向かい合うことになったのである。大田の目の前には、茶と菓子が出されている。
半田老人は和服姿で、髪はすでに真っ白になっている。そうなって不思議のない年齢だが、身振りも口ぶりもいかにも品がよく、知らない人なら、どこかの金持ち商人の引退後の姿か、とでも思うかもしれない。
ところが、半田老人は元は大阪府警の刑事であり、もちろんすでに退職、引退している。現役時代の経歴は優れていたが、ただの名刑事、万能刑事というのではなかった。
要するに半田老人は、ムチャをしないまともな刑事だったのである。もちろん関わった事件は数多い。しかしどの事件においても、物的証拠のかっちりしたものしか逮捕状を請求することはなく、どこか少しでも疑問の残るケースでは、あえて迷宮入りをためらわないところがあった。
それゆえに、検挙数だけからみれば大した事はなく、ライバルたちに大きく水をあけられているが、「とにかく私は、冤罪だけは出したくないのです」と常々語るような人であった。
半田老人の捜査手腕には見るべきもの、学ぶべきものが多く、複雑な事件が起こったときには、現在でも大阪府警がその知恵を借りるほどで、最近も、そうやって老人の知恵を手がかりに一件が落着したものだから、その礼がてら、大田は挨拶にきたのである。
一通りの挨拶と時候の話題が済んだところで大田は、行方不明の娘の話題を振ってみた。もちろん、人車夫の口から聞いたと申し添えたのである。
一瞬の間、半田老人は上品そうな眉をへの字に近く曲げたが、すぐに元に戻し、
「まあ、お前さんの耳になら、入れても問題はないじゃろう…。ついさっきも、県警の連中が顔を見せに来たよ。なんでも、一番館の2階を借りて、捜査本部を設置するのだとか」
有名だが小さな温泉場だから、猫坂温泉には大規模な旅館はたった2軒しかない。それが、一番館と二番館である。
「では半田さん、県警の刑事は、この事件の捜査や解決に向けて、半田さんの意見を聞き、知恵を借りにきたのですな」
すると半田老人は、面白そうに笑うのだ。
「いやいや、最近の若い刑事が、年寄りの意見など欲しがるわけがありません。上司から言われて、形ばかり挨拶に来ただけでした。ここは大阪じゃない。大阪府警の退職刑事など何するものぞ、という感じですかな。それでも刑事は、和代の行方不明の概要だけは教えてくれましたがね…」
「ははあ…」
大田は半田老人の顔を見つめ、その表情が意味するところに気がついたようだ。
「…では半田さん、この誘拐事件について、何かご意見がおありなのですね?」
半田老人は、フッとおかしそうに笑い、
「…そうですね。あの若い刑事はいささか無礼でした。その鼻を明かしてやるのも面白いかもしれません。ねえ大田さん、お前さん少し、この事件に鼻を突っ込んでみる気はありませんかね?」
半田老人の家を出たあと、大田は大阪府警に、ちょっとした問い合わせの電報を打つことにした。この時代、このような山奥にはまだ電話が通じていなかったのだ。それでも郵便局へ行けば、電報なら打つことができた。
この電報は、もちろん半田老人の差し金である。
予定では日帰り旅行だったが、大田はそれを変え、電報の返事が返ってくるまで、この温泉場にとどまることにした。ただし県警の連中と顔を合わせても面白くない。一番館はやめ、二番館に宿をとることにした。
電報の返事が返ってくるまで、一日二日はかかるだろうと思われた。
夕食を終え、もう寝巻きに着替えて部屋の中にごろりと横になり、大田は天井を見上げた。なぜだか、そうすると頭がうまく働くような気がするのである。
半田老人から聞かされたことを手がかりに、大田は頭の中で事件の整理をした。
(要点その1)
和代は、この3月に女学校を卒業。本人は進学希望なのを、嫁入りのためと、両親が無理やり大阪から連れ戻した。すでに嫁入り先も決まり、結納もこの秋に予定されている。ただし本人は、その嫁入りが嫌で仕方がないらしい。
(要点その2)
和代は夕方、誰にも何も言わず、ふらりと一番館を出、そのまま戻らなかった。夕食時の忙しさにまぎれ、和代が外出するところは誰も目撃していない。和代の服装は普段着の着物姿。自室を調べても、特に荷物を持って出たようには見えないが、サイフだけは見当たらない。
(要点その3)
猫坂温泉から町へ出るには、徒歩で峠を越えるか、人車を使うしか方法がない。ぞうり履き、着物姿の娘が一人で峠を越えられるかどうか。峠を越えると、ようやく車道に出るが、そこに迎えの自動車が来ていたかどうか。人車夫の証言により、加代が人車に乗っていないのは確実と思われる。
(要点その4)
翌朝、一番館に脅迫状が届く。切手の貼られない状態で、郵便ポストに封筒が届いているのを和代の兄が発見する。兄は新二郎といい、和代よりも3歳年上。大阪の大学生だが、夏季休暇で家に戻っていた。脅迫状の内容はお決まりのもので、身代金は150万円。警察には知らせず、この日の夜、兄の新二郎が一人で金を届けにこいとのこと。
(要点その5)
一日かけ、和代の両親は銀行と郵便局をめぐり、身代金の150万円を作る。深夜11時、それを持って新二郎が出かける。届けるべき先は、峠へむかう途中の『曲松』の木。これは人気のない山中である。時刻は夜中の12時を指定。新二郎は金を持って出かけたが、松の木の根元にいたところ、突然背後から殴られて前後不覚。気がつくと金は消えていたという。夜が開ける頃、ほうほうの体で新二郎は一番館へ戻る。この時点で、ついに警察への通報が決定された。
そして、大田が先ほど打った電報の内容である。
『○○大学の学生、真田新二郎の身辺を調査されたい。特に交友、金銭関係などを詳しく願う』
翌日になっても、めぼしい手がかりを、まだ県警はつかんでいないようである。
大田は暇で、することがないから、さほど広くもない温泉場の中を散歩することにした。半田老人の顔を見に出かけてもよいが、電報の返事がまだない以上、話題はない。
昼過ぎになって歩き疲れ、大田は一軒の店で食事をすることにした。どんな町にでもありそうな一膳飯屋で、大田はこういう気の置けない場所が好きだった。飲む酒にしろ食い物にしろ、あまり好みのうるさいほうではない。
昼を過ぎて、飯屋の中はすいていた。大田はウドンを注文したが、気がついたことがある。すぐそばのテーブルで、どう見ても小学生に過ぎない男の子が、一人で食事をしていたのだ。
「おやおや…」
大田はその顔に見覚えがあった。
「悪戯者の雪雄じゃないか…」
本当にそうだったのである。いかにもずるそうで信用できない顔つき、ボサボサの髪。服装まで昨日と同じだ。
その雪雄が、あろうことか天ぷらウドンにかぶりついている。あまりしつけのよくないハシの使い方だが、麺に乗っかっているのは、大人の手のひらほどの長さのあるエビが2匹。
ひょいと振り向き、大田は壁のメニューを眺め、そして驚いた。特大エビ天ぷらウドンには、目の玉が飛び出るような値がつけてあったのである。
「こりゃあまた…」
その値付けには、大田も納得できなくはない。海の遠いこんな山中である。しかも交通機関が人車きりなのでは、新鮮なエビの輸送には金もかかるだろう。
悪ガキが高価なウドンを食べることを禁じる法律はない。しかしウドンを食べ終え、代金を払うために雪雄がポケットから引っ張り出したサイフが、さらに大田の目を引いた。
そのサイフは、ピンク色をした花柄の女物なのだ。どうにもチグハグではないか。
雪雄は、いかにもそれが自分のサイフであるかのように金を引き出し、代金を払い、店を出て行ってしまった。
雪雄については、昨日も半田老人との間で少し話題になった。やがて自分の目の前に置かれたウドンの中に割りバシの先を入れながら、そのときに聞いた半田老人の言葉を大田は思い出した。
「ああ、あの子の家は大した林業家で、近在でも江戸時代から明治、大正にかけては名の知れた家柄でしたが、昭和に入るとなぜか振るわず、次第に傾いていきましてね…」
その没落した家が、今は家業といっても特に何をしているふうでもないが、現在でも所有する土地は広く、いくばくかは人に貸しているほどであり、地代だけでも生活は、カツカツなんとかなるそうである。
雪雄は、小学校の3年であった。
母親はすでに死に、父親と2人きりであったが、家事は近所の女が雇われて切り回していたので、父親も忙しくはなかった。これがなんとも風雅な人物で、一日中、本を読むか、近所を一回り散歩するだけが日課だったのである。
「そんな父親なら、子供に構わず放任しているということもあるかもしれんなあ…」
気がつくと、店内に客の姿は太田一人だった。店主は中年の女で、今はむこうの流しで茶碗を洗っているようである。カウンター越しに、大田は声をかけた。
「あんた、今の子供はこの近所の子かい?」
「そうですよ」
「雪雄といったかな?」
「ええ」
「雪雄は、ウドンの代金を小銭で払ったのかい? いかにも小遣いをかき集めたふうに、5円玉、10円玉とかでさ」
ひょいと首をすくめ、女主人は調理場から出てきた。
「それがお客さん、1000円札なんですよ。おつりが足りるかしらと思った」
「へえ、そりゃあ豪儀なことだ。親戚から小遣いでももらったかな?」
「まさか、人様のお金をちょろまかしたりしてなきゃいいですけどね…。うちの家だって、1000円札をそうそう拝めるような生活はしてない。それにね、お客さん…」
元来が話好きなようで、女主人は大田の隣に座り込み、
「それも1枚だけじゃないんですよ。財布の中にまだ1、2枚入ってるのが見えましたからね。あのピンクのサイフ。あんな女物、どこで手に入れたんだろう?」
食事を終え、大田は店を出た。
県警の刑事たちは一番館に詰め、あるいは捜査のために飛び回っているだろう。それに同道しているかもしれないとは思ったが、そんなことはなかった。飯屋のすぐそばに見えていた駐在所を大田が訪ねると、巡査はちゃんといたのである。
「こりゃあどうも、ちょっとお邪魔します…」
如才なく、大田は始めから警察手帳を見せた。
「はい、これはご苦労様です」
いかにも慣れていないふうに敬礼をしたのは、中年の巡査である。もう定年までいくらもない、と言うほうがいいかもしれない。やせぎすで、制服もまるで合ってはいない。
「いたずら小僧ってんですかね。雪雄の家を教えてもらえませんかね?」
地図を描くまでもなく、教えられたとおりに歩いて、雪雄の家はすぐに見つけることができた。なるほど、かつては栄えたらしい屋敷である。
しかし今、屋根は壊れ、門の戸は外れかかって傾いている。大風の日にゆるんだのか、壁の羽目板にも隙間が見えるのだ。
「はてさて、どう言って呼び出したもんかな。ワシはただのよそ者じゃし…」
大田は悩んだが、偶然にもそのとき、玄関の戸が開いたのである。トントンと、つま先で地面を叩いて靴を履きながら、子供が外へ出てきた。もちろん雪雄である。
どうやって話しかけたもんかな、と大田はまだ悩んでいたが、行き当たりばったり。とにかく口を開くことにした。
「坊や、おじさんの警察手帳が見たくはないかね?」
どうもこの大田という人物、警察手帳を世界最大の権威と思っているらしい。これさえあれば何でもできる、というような。
そんなもの、子供にしか通用しない考えであろうが、今日はラッキーだった。なにしろ相手は子供なのである。
「へえ、これが本物の警察手帳かい?」
雪雄は目を輝かせるが、
「いいだろう?」と大田もまんざらではない。
「ねえおじさん、手錠も見せておくれよ。それからピストルもだ」
「えっ?」
「手錠とピストルだよ。おじさんは刑事なんだろう?」
「いやいや、今日は捜査の公務じゃないから、手帳しか持っていないよ」
「なんだあ、つまらないの…」
あきてしまい、雪雄はそばを離れようとした。そこで大田はあわてて腕をつかみ、
「雪雄、お前が持っているサイフなあ…」
サイフという言葉が出たとたん表情が変わるので、大田も自信を持った。
「なんだい、オイラの財布がどうしたって言うんだい? あれはオイラのだよ」
「とにかく、ちょっと見せてみろ」
「どうして?」
ここで少し問答が行われたが、大人の強い意志に子供が逆らえるわけがない。ポケットから取り出し、しぶしぶながら雪雄は大田に手渡した。
「雪雄、これはお前のサイフじゃないだろう? どうみたって女物。若い娘っこが持つようなものじゃないか。どこで手に入れた?」
「それはオイラのだよ。返してくれよ」
「ああああ、どこで手に入れたのだか、正直に話せば、返してやる」
「そんなのウソでしょう。場所を教えたら、取り上げるつもりじゃろう?」
「…いやいや、お前のサイフでいい。取り上げたりしないから、拾った場所へちょっと連れて行ってくれ」
何しろ頑固で、一筋縄ではいかない子供なのだ。なだめたり、すかしたり、何度も同じ話を蒸し返して、やっと雪雄が同意したのは、30分後のことであった。
不承不承、雪雄が太田を連れて行ったのは、温泉場から遠くはないけれど、それでも意外なほど深い山中の小道だった。だいたいがこの温泉場自体、背後を山脈に押さえられており、どの方向へ歩いても、すぐに木々と緑だらけの山中なのである。
「ここだよ、おじさん」
立ち止まり、ふてくされた顔で雪雄は地面を指差したが、そこには何もなかった。ただの小道、山道の一角に過ぎない。
道幅は細く、人が通るのがやっとだろう。道の左右も、見上げる空も、木々と枝に覆われている。
「本当にここか? この場所でそのピンクのサイフを拾ったんだな?」
「そうだよ。もう帰っていいかい?」
「ああ、帰っていいが、サイフは置いていってくれ」
「どうしてだよ」
「どうしてもだ。中身はまあいい。持ってゆけ」
サイフの中にあった紙幣と小銭を雪雄がポケットに移すのを見届け、そのままあっけなく解放してやったものだが、それから少しの間、大田は忙しかった。あたりの木々を見上げ、枝ぶりを確かめるのに余念がなかったのである。
「拾った場所について、雪雄がうそを言っているとは思わんが…」
雪雄が勘違いをしている可能性はある。小道の前後、何メートルかにわたって、大田は木々を調べた。そしてついに、満足そうな表情を浮かべたのである。
その足で大田は人車の駅へと向かい、少し話をして、さらに機嫌のよい表情に変わって、訪れたのが半田老人の家だった。
「おや大田さん…」
半田老人は、昨日と同じ調子で歓迎してくれた。大田を座敷へあげた。
「そうそう…」細君の手で茶が出される前に、半田老人は口を開き、
「大阪府警から、電報の返事が届いていますよ。お泊りの二番館ではなく、ここを返事のあて先に指定していたんですね」
「恐縮です。二番館だと、ワシが外出している可能性がありますもんで…。電報の封は切られましたか?」
「いいえ、まだ切っておりません」
さっそく封は切られた。電文に目を通し、大田はニヤリと笑ったのである。
「半田さん、あなたのお考えが正しかったようですよ」
「といいますと?」
「和代の兄、新二郎は確かに大阪の大学生ですが、これが相当な放蕩者で、学問にはさっぱり身が入らず、遊びほうけているようですな。かなりのギャンブル好きとのことです」
「ははあ」
「その借金もかなりあるようで…」
「言わないでくださいよ。その金額は150万円でしょう?」
「その通りです。しかも半田さん、市中の貸金業者ばかりじゃなく、相当にやばいところからも借りておるようで、帰省したのは夏休みだからというばかりじゃなく、怖い怖い取立て屋から身を隠すという意味もあったに違いありません」
「なるほど…」
「やれやれという感じですよ」
大田に習って2回か3回、半田老人もため息をついたが、不意に表情を変え、
「それで大田さん、これからどうなさいます?」
「半田さん、ご存知ですか? 和代が行方不明になった翌朝、本当なら駅にあるはずの人車が勝手に動き出し、何百メートルか山を下ったあたりまで勝手に移動しておったというのですが」
「おや、それは知りませんでした」
「人車夫たちは気楽に、あれもまた雪雄の仕業だなどと言っておりますが、そうではありますまい」
「ははあ、新二郎がやったことですな」
「ワシは今からわくわくするのですが、これからこの足で一番館へ行き、捜査本部の連中に見せてやろうと思うのです。半田さんも、ご一緒にいらっしゃいませんか?」
「いやいや、年寄りの出る幕じゃありません。でも県警の連中に何を見せてやろうというのです?」
控えめではあるが、それでも興味深そうに半田老人がひざを進めるので、大田は一品ずつ、畳の上に置いて並べた。
「まずはこのサイフです。両親に見せれば、和代のものだとすぐに確認してくれるでしょう」
「なるほど」
「2点目は、この電報です。新二郎の借金150万円と身代金の金額が同じというのは、偶然じゃありますまい」
「いやいや、それでもあの若い刑事たちは納得しないでしょう。とにかく私のことをうさんくさい目で見る、猜疑心の固まりのような人々でしたからな」
「では、これが決め手ですかね…」
そう言って、3つ目の品を大田は畳の上に置いたのである。それを目にして、半田老人の眉が上がった。手を伸ばして取り、ためつすがめつした。
「ははあ、ロープですな。結んだあとがある。木の枝にでも結んでありましたかな?」
「雪雄がサイフを見つけた場所の真上です。嫁入りするのがどうしても嫌で、かわいそうに和代は首をくくったのでしょう。町の噂で聞きましたが、一番館は今、あまり商売がうまくいっていないそうで…。だからこそ、和代を金持ちの家へ嫁にやり、そこから融資を引き出そうという魂胆だったらしいです」
「ほう…」
「ほらそのロープ、こっちの端とあっちの端では、切れ方が違うでしょう? たぶん和代は、きちんとしたナイフを用いて、必要な長さだけ切り出し、家から持ち出したのでしょう」
「なるほど…」
「しかし、反対側の切断面はひどく荒れて、もうほとんどギザギザになっています。刃物を持たぬ者が、手近にあった石でも利用して、何回も何回もこすって、やっとやっと切断した感じです」
「新二郎はナイフを持っていなかったのですな?」
「和代がいなくなったと家中が大騒ぎになり、新二郎も一人で捜索に出た。そして山中で、変わり果てた妹の姿を発見したのでしょう。もちろん新二郎は驚き、呆然としたでしょうが、次の瞬間、新二郎の心の中で悪魔がささやいた」
「和代の死体を隠し、誘拐事件をでっち上げれば、ギャンブルの借金を一気に返すことができる、とね」
「そのとおりです。手近なところにあった鋭い石を利用してロープを切り、新二郎は和代の死体を降ろした。このときに和代のフトコロからサイフが落ちたが、新二郎は気づかなかった」
「時刻は、いつごろだったのでしょうね?」
「もう暗くなっていたはずです。懐中電灯を手に、新二郎は和代を捜索していたのです。さて、誘拐事件をでっち上げるのはよいとして、さしあたっての問題があります」
「和代の死体を、どこかに隠さねばならない」
「ええ、でも狭い温泉場の中です。新二郎は相当に頭を悩ませたに違いないが、ついに思いつきました。夜が早く、日が暮れる頃には人車は、早くもその日の運行を終えてしまうのです」
「それは私も知っていますよ。あまりに早寝なので、不便に感じることもないではない…」
「でも半田さん、新二郎はそれを利用したんです。宿直員以外は誰もおらず、その宿直員ですらとっくに布団に入ってしまい、もはや真っ暗で人気のない駅へ行き、和代の死体を人車に乗せました。そして、一人で人車を押し始めたんです」
「駅を出てしばらくは、人車の線路は下り坂が続きますからね」
「下り坂が終わるのは、ちょうど沼のあるあたりです」
「あの沼は、地元では人食い沼と呼ぶのですよ。あまり大きくはないが深く、しかも底には分厚い泥が積もっている。生きている人間でも、下手に足を踏み入れたら命が危ない。おまけにアシに覆われ、見通しもききません。死体の隠し場所としては結構ですな」
「しかも死体は、永久に隠れている必要はない。一週間かそこらたって見つかるのは構わないわけです。新二郎の目的は、身代金が誘拐魔の手に渡ったと警察に納得させればすむのですから」
「ふうむ…」
2人は少しの間黙っていた。
「…おや、お茶が冷えてしまいましたな」
鉄びんを取り、茶をいれ替えながら、半田老人はため息をついた。
「県警の人々は、大田さんの話を聞いてくれるでしょうかね? まったく、府県をまたいだ警察のいがみ合いとは、見苦しいものです」
実は大田も、同じことを感じていたのである。だが証拠がそろった以上、ダンマリを決め込むわけにもいかない。二杯目の茶を楽しんだ後、大田は立ち上がり、半田老人の家をあとにした。もちろんその手の中には、例の三つの品があったのである。
県警を相手に大田がどんな演説をぶったのか、半田老人の知るところではない。しかし大田は、すべてを自分の手柄にせず、半田老人の指導のもと、自分は証拠品を集めることができたのだ、とはきちんと伝えていた。
捜査の進展はニュースになる。一週間後、すでに府警に戻っていたが、大田は半田老人から、一枚のはがきを受け取った。
そこには、数日前、県警の例の若い刑事が半田老人を訪れ、事件解決の協力について礼を述べてきた、と書かれていたのである。




