赤帽
庄兵衛は大阪駅の赤帽である。
名前にあわせてか古めかしい商売を選んだものだが、それは現代の眼でのこと。
この時代、大きな駅であれば必ず、制服姿の赤帽の姿を見ることができた。
旅行に出るために駅へやってきた客からカバンやトランクを預かり、ホームを歩いて、列車の車内まで運び入れる仕事なのだ。
また逆に、列車で到着した客の荷物を降ろし、駅の玄関まで運び、迎えの車やタクシーに積み込むまでを請け負うこともある。
一日中歩きっぱなし。物を抱えっぱなしの仕事である。
しかし庄兵衛は、この商売を嫌と感じたことはない。
運び賃は、カバン一つにつきいくらと決して高額ではないが、真面目に働いていればこそ、次第になじみの客もできる。
人によっては、仕事上の旅行を頻繁に繰り返す。
例えば映画女優の何某などは、駅へ来るたびに庄兵衛を指名してくれるようになった。
庄兵衛は小柄で、とても力持ちには見えない。
しかしそれは見かけだけのこと。
長くこの商売を続けたことが、庄兵衛の体を、いつの間にか筋肉質で丈夫に作り変えていた。
事実庄兵衛は、若い時分は少し虚弱であった。
冬などよく風邪を引いたが、初老の今になって、すこぶる健康体なのである。
駅の朝は早い。
しかし庄兵衛の仕事が忙しくなるのは、朝ラッシュが済み、長距離の夜行列車が到着を始める9時半過ぎからである。
九州、山陰、宇高連絡船を経由しての四国。あるいは逆方向の北陸や信州から。
そして忘れてはならないのは、もちろん東京からやってくる列車である。
その中に一つ、庄兵衛には気になる列車があった。
正確に言えば、その列車からいつも降りてくる一人の客である。
年齢は20台半ばの優男。
いかにも金持ち風で、散髪した髪はさっぱりと、着ている物も趣味よく金がかかっている。
季節は冬なので、明るい色のウールのコートと、灰色のハンチングという姿だが、それが妙によい感じなのである。
顔は、実は庄兵衛もよく見たことはない。商売柄、客の顔をじろじろ見ることなどできないからである。
「やあ、ありがとう」
と、その優男はいつも東京弁で庄兵衛に言う。関西の多くの客のように、
「おおきに」
ではない。料金の払いもよく、釣りは受け取らない。
荷物は、黒く四角いトランクが一つきりである。これはいつも変わらない。
本当にこれ一つきりだから、庄兵衛は片手でさげて歩き始める。
ホームは長く、あの時代のことだからエスカレーターなどない。
優男はいつも南口からタクシーに乗るが、長距離列車が出る1番線は遠い。
もちろんこれは、現在よりも2代前の古い駅舎である。トランクをさげ、庄兵衛はいつも長い距離を歩いた。
その時に気がついたのである。
このトランク、重みがどうも変だぞ。
庄兵衛も、これまでに何万個とも知れないカバンを運んできた男である。両手の感覚は非常に鋭い。
トランクの見かけに、変わったところはない。
言ってみれば使い込まれ、よく古びたボロである。いかにも旅慣れた旅行カバンという風情だ。
確かに重いトランクである。しかしその重さが、いかにもトランクの底部に集中しているのだ。
まるで空っぽのトランクの底に、レンガを一つか二つ、わざとらしく貼り付けたかのような…。
試しに優男の眼を盗み、庄兵衛はトランクを少し振り回した。
ああ、間違いない。
このトランクは、なぜか底部のみに重さが集中しているのだ。
ある日の昼休み、駅の中にある食堂で、顔見知りの駅員が食事をしているのを庄兵衛は見つけた。
コーヒーカップを手に、庄兵衛はさっそくその隣に腰かけたのである。
「やあ」
と駅員は挨拶をする。
もちろん庄兵衛も挨拶を返した。
「やあ…。ねえ、ちょっとききにくいことなんですが…」
「どうしたね?」
「この食堂に入る直前、改札口であんたが切符を受け取った若い男ね…」
「若い男?」
「ほらハンチング姿の、いつものお客ですよ」
駅員はうなずいた。
「ああ、あの優男ね」
「週に1、2回見かけるけど、どこから切符を買ってました?」
あまりの詮索に駅員は不審そうな顔をしたが、答えてくれた。庄兵衛は、悪い評判のない男なのである。
「あの客は、いつも東京から来るのさ。大きなトランクをさげているから、どこかの商店にでも勤めて、届け物をしているのかな」
それで庄兵衛の疑念が晴れたわけではない。
赤帽とは雇われ人ではなく、個人事業主である。
職場は大阪駅と決められているものの、そこを離れたら処罰されるというものでもない。
あるとき、客のたっての願いで、その客の荷物と共に庄兵衛は京都まで出張した。
この客とは例の映画女優だったが、山陰地方のある場所で撮影があったのだが、寝坊してしまい、それでも大量のカバンやトランクと共になんとか大阪駅へ着いたのはよいが、目的の列車には乗り遅れてしまったのである。
本来ならそれに乗り、京都駅でまた乗り換えなくてはならなかった。しかし乗り遅れた。
大阪を出発するのが次の列車になった。
すると、京都で山陰本線に乗り換えるのがたったの数分間になってしまうのだ。
京都はあの大きな駅である。京都に着いてから赤帽を探し集めたのでは、到底間に合わない。
「ねえ赤帽さん、チップをはずむわ。助けると思って、京都まで一緒に来てよ」
人気の絶頂期にあり、銀幕の女王と呼ばれる女優のお願いでは、庄兵衛も首を横に振ることはできなかった。もう一人の若い赤帽と共に、京都行き列車の客となったのである。
京都での乗り換えは、幸い無事に済んだ。女優は、撮影スケジュールに穴を開けずにすんだのである。
庄兵衛も若い赤帽も、たっぷりチップをはずんでもらい、笑い顔で顔を見合わせた。
そこまではいい。
「さあ鈴木君、帰るぞ」
女優を乗せた列車が煙だけを残し、すっかり姿を消したあと、庄兵衛が声をかけると、若い赤帽は情けなそうな顔をした。
「せっかくだから、もっとゆっくりして帰りましょうよ」
「なんだ? 京都見物でもしたいのか? その制服姿でかい?」
「だけど…」
痺れを切らし、庄兵衛は一人で駆け出した。
階段を駆け上がり、走りに走って、ちょうど姿を見せた大阪行きの普通列車に飛び乗ることができたのである。
この普通列車は一本遅れで、特急の後ろをついて走る。先行の特急列車は、いつもあの優男が大阪駅で下車するあの列車なのだ。
もちろん追いつくわけがない。
しかし、普通列車が大阪駅のホームに完全に停車するのを待ちきれずに飛び降り、庄兵衛は再び駆け出した。
そして、例の優男が今しも改札口を通り抜けて外へ出る後ろ姿を、ギリギリで見ることができたのである。
「あのお客、今日もいつものように特急から降りてきたが…。しかし…」
京都駅のホームで、庄兵衛はついさっき目撃したばかりなのだ。
それが庄兵衛を走らせ、大阪行きの列車に飛び乗らせた。
優男は、確かに京都駅のホームにいた。そこからあの特急に乗り込むのを庄兵衛は見たのだ。
しかも乗り込む直前、優男は奇妙な行動をとった。
年恰好も似て、同じような服装をした別の男が、停車した東京発の特急から下車してきたのである。
本当に優男とよく似た感じの男だったが、この男も同じような古いトランクを手に下げていた。
言葉は交わさないが、この2人は互いに見知ったふうに視線を合わせ、そして互いに切符を交換したのである。自分の切符をやり、相手の切符を受け取り、ポケットに入れた。
「そうか。つまりあの優男、本当は京都から大阪へ来るんだな。実際に東京から乗ってきたのは、もう一人の別人の男か…。優男め、わざとらしく東京弁で話すのは、それをごまかすためだな」
庄兵衛の幼馴染に大田という男がいて、大阪府警の刑事だった。
ある公休日、庄兵衛は大田の家を訪ねた。
大田は子供の頃から運動が得意で、特に中学では水泳選手をしていたことがある。背も高く胸板も厚いが、年齢相応に髪の毛は薄い。顔にしわは少なく、実際の年よりも若々しく見えた。
勤務を終え、府警から戻ったばかりだったが、座敷へ通された庄兵衛の前に、大田はドサリと腰を下ろした。
「どうしたね、庄ちゃん。あんたが俺の家に来るなんて珍しいじゃないか」
そして庄兵衛は、優男のことを大田に話したのである。
「ふうん…」
始めは気のないふうだったが、次第に大田の表情は変わった。
「…庄ちゃん、これは一度、その優男の顔をじかに拝まんことには、どうにも決められんわ」
「あんたが駅へ来るのかい?」
「その優男が来るのは、いつも水曜だといったかな?」
「うん」
「じゃあ次の水曜、大阪駅で会おう。その特急は10時30分着だったね」
さて、その水曜のことである。
大阪駅の大時計の下で、庄兵衛は大田と待ち合わせていた。
10時ちょうどの約束が、すでに10時20分まで押し、庄兵衛はやきもきしたが、やっと大田の姿が人ごみの向こうに見えたときには、ほっと息をついた。
「すまん、庄ちゃん。急な野暮用があってな」
「急ごう。もうすぐ特急がつくよ」
「ほいきた」
今日は休みを取って、私服姿だが、庄兵衛は顔パスだ。大田は警察手帳の力で、駅の従業員入口を通り抜けることができた。
都会の中心駅とは、その建物のサイズだけではなく、実は組織としても巨大なのである。
夜行列車の発着があるから、大きな駅は24時間営業している。
旅客の案内、車両の清掃整備、切符の販売、改札、荷物や郵便の取り扱い、構内の売店や食堂と仕事はいくらでもあるし、それが8時間ごとの3交代制だから、関係企業の社員まで含めれば、1000人を超す人間が働いている計算になる。
だから大きな駅には、必ず従業員専用の出入口が設けられている。
庄兵衛は時計を見た。もう10時28分である。
「あと2分で特急が来るよ」
「何番線だ?」
「1番」
二人が1番線に駆けつけたときには、遠くから汽笛が聞こえた。
「…来たぞ。こっちだ」
そでを引き、大田は庄兵衛と共に売店の影へ隠れたのだ。二人して、そこからのぞき見ようというのだ。
「どうしたね?」
と庄兵衛の疑問は当然だが、大田は何も答えず、
「しぃっ」
と言うばかり。前方を探っている。
大田の視線は、少し離れた場所を歩く若い男に注がれている。
本当に年は若く、せいぜい二十歳そこそこ。この時代に和装など珍しくないが、身なりは貧しく、帯はほころび、着物のすそはほつれている。
とても金持ちには見えないが、小柄な体はキビキビと動き、目つきは鋭いのである。
そして特急が姿を見せ、ホームに停車した。いつもと変わらぬ風景である。
例の優男も姿を見せ、ホームの上を歩き始めている。その手にあの黒いとランクがあるのも、普段とまったく同じだ。
だが、
「あっ」
庄兵衛と大田が小さな叫びを上げたのは、ほとんど同時だった。
すれ違いざま、着物姿の小男の手がサッと伸びたかと思うと、優男の手から例のトランクを奪い取ったのである。
「何をする!」
優男はすぐさま反応するが、やはり色の白い男は普段からあまり運動もしないのであろう。駆け出すのも遅く、あっという間に小男から引き離されてしまった。
「庄ちゃん」
声をかけられる前に、庄兵衛も大田と並んで駆け出していたが、何しろ敵は遠い。庄兵衛たちがいて、優男がいて、さらにその向こうなのである。
トランクを抱える小男の姿は、見る見る小さくなる。
とその時、小男が走る方向を変えた。
これまではホームの上を徒競走のように全力疾走だったのが、何を思ったか、線路の側へと突然ジャンプしたのである。
今しもそこを、発車しようとする列車があった。優男が下車し、東京からやってきたあの特急なのである。
この当時の列車に、自動ドアなどない。しかも乗客が下車したあと、開いたままのドアも多い。
小男の姿はその車内に消え、庄兵衛たちからは完全に見えなくなった。
「くそっ、庄ちゃん、やられた…」
うまく計算していたのであろう。小男が飛び乗ったのは、最後尾の車両であった。太田たちがいくら地団駄踏んでも、もはや手は届かないのである。
ホームの上でついに立ち止まり、大田は肩で息をした。
そこへ庄兵衛が追いつく。
「庄ちゃん、今のはどこ行きの列車だい?」
「ありゃあ回送だよ。東京から来て、ここが終点さ」
「じゃあどこへ行ったんだ?」
「車庫さ」
「車庫?」
「車庫で車内を清掃して、夕方また東京行きになって、帰っていくんだ」
「あの列車、その車庫までは止まらないのか?… ああ、あんた、ちょいとお待ちよ」
見ると大田は少し駆け出し、あの優男のそでを捕まえている。
「あ、あの男、私のトランクを…」
大田は首を横に振った。
「知ってるよ。ちゃんと見ていたからな」
「あれは大事なものなんです。あれがないと…」
と優男の言葉は途中で途切れたが、大田が警察手帳を見せると、顔色が変わった。
「…お巡りさん?」
「正義の味方さ。あんたのあのトランク、なんとか取り返してみるよ」
「だけど…」
「だから協力してくれ。あんたはすぐに駅長室へ行って、迎えの警察官が来るまで、おとなしくチーンと待っていてくれ。いいね? わかるね?」
「でも、お店にこのことを知らせないと…」
「それは駅の電話を借りればいいさ」
そして大田は庄兵衛を振り返り、
「さあ庄ちゃん、追跡劇の始まりだぜ。今すぐ俺を、その車庫へ連れて行ってくれ」
なんと大田は、駅玄関にパトカーを待たせていたのである。庄兵衛との待ち合わせ時刻に遅れかけたのは、その手配に手間がかかったからだ。
庄兵衛と大田が乗り込むと、けたたましいサイレンを響かせ、パトカーは全速で走り始めた。
自家用車さえまだ普及していない時代、もちろんパトカーになど縁のあろうはずがなく、庄兵衛は眼を白黒させているが、大田は気にする様子もない。
「庄ちゃん、その車庫へ行く道を教えてくれ」
車庫というのは大阪駅の北側、ほんの数キロのところにあり、宮原操車場と呼ばれ、ずっと後年、東海道新幹線の新大阪駅が建設される場所である。
エンジンをうならせ、貨物駅の脇を抜け、パトカーは進んでいった。
大阪駅前を左折するときには、交通整理のために交差点の中央にいた警察官が、敬礼で見送ってくれた。
大阪駅が存在する住所を梅田というが、これはもともと埋田が変化したものといわれている。
埋田からわかるとおり、元は湿地帯であったらしい。
明治初期、すでに大都会だった大阪に残された数少ない大きな敷地であり、そこに大阪駅が作られたわけである。
「おお、あそこに煙が見える」
宮原操車場に到着し、開いたままの正門へパトカーは飛び込んでいった。
内部は思ったよりも広い。
機関車の点検をする細長い建物に並んで、客車を洗うための台が並んでいる。
そこには男たちがいて、この寒空にバケツの水を使っているのだ。
敷地の端には赤い鳥居と共に、鉄道神社の社が目に入る。
この時代(実は現代でもそうだが)、鉄道の大きな設備なら、そういう社はどこでも見ることができた。
パトカーはその鳥居をかすめた。
「庄ちゃん、あの特急はどこだい?」
宮原操車場という地名は知っていても、庄兵衛も実際に来るのは始めてである。わかるわけがない。
ところが、それを教えてくれたものがある。西の方角から煙と共に近づく、一本の列車があったのだ。
特急用の客車の姿には、庄兵衛もしっかり見覚えがある。
「あっ、あれだよ」
「ほう、なんとか間に合ったな」
次の瞬間には、大田はまわりの男たちを見回していたのである。みな、仕事の手を休めてこちらを見ている。
どんな人間にも好奇心がある。サイレンのままパトカーが飛び込んでくることなど、毎日あることではない。
パトカーから飛び降り、大田は男たちに呼びかけた。
「あんたたち、すまんが警察の仕事を手伝ってくれ。急ぎなんだ」
「警察の仕事って、公然猥褻の取り締まりでもするんですかい?」
とぼけた声で一人が言うと、全員がどっと笑った。
「今あそこを近づいてくる回送列車に、引ったくり男が乗っている。大阪駅でトランクを奪って、飛び乗りやがった」
「じゃあそいつは、尼崎方向から、ぐるっと回ってここに着くのかい?」
線路の地理のわからない大田に代わって、庄兵衛が答えた。
「そういうことです」
「へええ、あっしらがお手伝いするのはいいとして、どうやってやるんです、警察の旦那?」
「全員で何人いるね?」
「12、3というとこですか」
「それだけいれば十分さ。さあ、あの列車がブレーキをかけたぞ」
しかし列車は長く、ドアがいくつもある。たかが十数人で囲みきれるものではない。
だが大田には運が味方したようである。
まさか追っ手に追いつかれているとは思わず、トランクの小男が、突然ドアの一つから飛び出してきた。
それが庄兵衛のまん前だったのである。
操車場にはレールがいくつも敷かれている。
慣れない者にとっては、ひどく歩きにくい。慣れている者なら、足が自然と枕木の間隔を覚え、一歩の長さをうまく調整してくれる。
しかしトランクの小男には、その慣れはなかった。
数歩行きかけ、まわりの男たちの尋常でない雰囲気に気がついたのだろう。とっさに駆け出した。
だが足が慣れていないのである。あっという間にけつまずき、したたか転んでしまった。
弾き飛ばされる砂利の音が大きく響くが、そこへ男たちの怒号と足音が混じる。
「おい、そいつを捕まえろ」
「逃がすな」
「そこだ、腕を押さえろ」
両腕をとられ、肩を押さえられ、小男はすぐに砂利の上に座らされた。
「けっ、なんだってんだい…」
それでも小男はうそぶく。
「…人をこんな目に合わせやがって、逮捕だってんなら、逮捕状を見せやがれ」
ポケットから手錠を取り出し、大田が小男の両手首にかけた。
「逮捕状なんかないが、現行犯逮捕というやつさ」
「操車場敷地への不法侵入ってのもありやすぜ。刑事さん」
と鉄道職員の一人が言う。
「おお、それも付けたしとこう」
小男の手からトランクを取り上げ、大田は眺めた。
「おや庄ちゃん、残念だな。中身を見てやろうと思ったが、鍵がかかってるよ」
そばへ来て、鶴のように首を伸ばし、庄兵衛ものぞき込んだ。
「キーはあの優男が持ってるのかな?」
「いや、持ってはおるまいよ…。とにかく大阪駅へ戻ろう。優男が、電話で店の人間を呼んでおいていてくれるといいがね。そうなら話が早い」
協力してくれた職員たちに礼を言い、庄兵衛たちは操車場を離れた。
万が一の逃亡を恐れ、電話で呼んで人員を増やし、2台のパトカーに分乗したのである。一台は小男を乗せ、そのまま大阪府警へと向かった。
本人の口から、小男の名は沢村敬三とすでに判明していた。
大田の指示に従い、優男は駅長室でおとなしく待っていた。
「トランクは? 私のトランクはどうなりました?」
ドアを開け、庄兵衛たちが入ってゆくと、優男はすぐに立ち上がった。
手を振り、大田はもう一度座らせた。
「ちゃんと取り返したよ。安心するがいいさ。証拠品として、府警へ送ったがね」
優男は、庄兵衛の耳にも息の音が届くほどの、ほっとした表情を浮かべた。
「あのトランクの中身はなんなんだね?… いや、その前に名前を聞こうか?」
このあとは、もう決まりきった問答でしかない。優男の名は佐々木一といい、銀山堂時計店に勤務している。
銀山堂といえば、外国から高価な腕時計を輸入する店として知られているのだ。主にスイスやドイツから、はるばる運ばれてくる。
一個だけでも、小さな家なら一軒が買えるほどの高価なものだが、陸揚げされるのは東京港で、正式な通関もそこで行われる。
届いた腕時計は、一時は銀山堂の東京本店で保管されるが、その後、日本各地の支店へと運ばれるのだ。関西では、京都と大阪に支店がある。
そこまで聞かされたとき、大田がひざを叩いた。
「ははあ、だから東京発の特急に乗り、京都で下車するのだな」
佐々木はうなずいた。
「週に一度、定期便のようにして、腕時計が東京から京都に届きます。関西むけの荷は、一度京都ですべて受け、そのあと、その一部が大阪へ再配送されるんです」
「それがあんたの役目か?」
「はい、それも週に一度ですから、東京から京都へ荷が届くのと同じ曜日にしてあるんです」
「京都駅のホームで、同僚と切符を交換するんだな…」
佐々木は驚いた顔をした。
「そんなことまでご存知なんですか?… ええ、そのほうが運賃がずっと安くなるんです」
「するとあのトランクの中身は、数個の腕時計だけだね」
「たった数個でも、お巡りさんの年収10年分でも買えない値段がしますよ」
「ふうん、大きなお世話さ…。ところで、沢村敬三というあの小男に見覚えがあるかい?」
佐々木は苦々しそうな顔をした。
「あいつは、銀山堂の元店員です。手癖が悪く、店の金をちょろまかしたことがあって、警察沙汰にはしなかったけれど、首になりました」
「元店員なら、荷を運ぶルートや時間を知っていても不思議はないなあ…。なああんた、大阪駅に着いて、なぜいつも赤帽にトランクを運ばせたんだね?」
「そのほうがいかにも普通の荷物らしくに見え、かえって人目を引きにくくなるという上司の指示だったんです」
「だが腕時計が数個しか入っていないのでは、旅行トランクとして軽すぎる。そこで重く見せかけるため…、何を使った? レンガか? 何個だ?」
「3個です。トランクの底に動かないよう固定し、旅行カバンにふさわしい重さにしました」
「ふうん、なかなかいい作戦だが、今度からはもう少し工夫したほうがいいぞ。トランクの重さのかたよりから、中身に疑問を持ったお人がいたのでね…」




