操車場
ある夜、山陽本線で列車強盗事件が発生した。
西部劇の頃でもあるまいに、列車強盗とは大時代なことだが、事実だから仕方がない。第二次世界大戦からまだ多くの年月はたっておらず、旧軍の銃器がまだまだ密やかに市中を流れていたことも原因の一つではあろう。
広島県内に、河田という駅があるが、急行列車が停車するほどの主要駅ではない。むしろ田舎の小駅というべきだろう。
その深夜、この小駅に貨物列車が停車し、通過する寝台特急に道を譲ろうとしていたのだが、この貨物列車に連結されている貨車の1両が、実は現金輸送車だったのである。
日本国中に、何百という数の銀行が存在するが、これらの銀行に現金を供給するのが日本銀行である。
市中の銀行は、個人や企業を相手に金融取引を行うが、日本銀行は基本的に、銀行を相手にしか仕事をしない。つまり、日本中の大小の銀行と日本銀行の間では、日常的に多額の現金のやり取りが行われているのである。
市中銀行から日本銀行へ向かう現金もある。
その逆に、例えば新しく印刷された新紙幣が行き渡る時のことを考えると分かりやすいが、日本銀行から地方へと向かう現金もある。
その輸送を行っていたのが、国鉄の貨物列車なのだ。もちろん後の時代には、頑丈な金庫室と、警備員の控室を備えた専用の現金輸送車両が製造されるが、この頃にはまだ存在していない。
ただ単に、普通の貨車に現金を積み、日銀職員と警備員が同乗するだけだったのである。
日本銀行の本店がある東京から、例えば鹿児島まで現金を輸送するのが、どれほど大変であるか。しかし航空路は未整備であり、高速道路すらまだ存在しないこの時代であれば、他に選択肢はなかった。
そしてその夜、山陽本線の河田駅で、現金輸送の有蓋車が襲われたのである。
時刻は真夜中。田舎のことで人目はない。それどころか、この時代の町には街灯の設備もなかった。
もとより河田駅の駅員たちは、警戒などしていない。そもそも今、自分たちの駅に現金輸送車が停車していることすら知らされていないのだ。現金輸送のスケジュールは、それほど秘密にされていたのである。
貨物列車を運転する機関手だって、自分が3000万円の札束をけん引していることなど、夢にも知らなかった。
ただ一人、車掌だけは知っていたようである。だがそれも、ついさっき糸崎操車場から常務を開始した際、そっと耳打ちされたというだけのこと。
貨物列車に乗務するとき、車掌は、解結通知書という書類を手渡されるが、その書類にさえ、
『車両番号:ワム90012 行先:西鹿児島 積荷:雑貨品』
と他の何十両もの貨車と同じ調子で書き込んであるにすぎず、前もって知らされなければ、車掌も気づくことはないかもしれない。
そういう現金を大量に乗せた有蓋車であるから、当然ながらドアは厳重に閉じられているべきである。しかしこの暑い季節なのだ。とても閉め切ってなどいられない。
良いことではないが、ドアが10センチばかり開いたままで走っていたのである。
賊の手口は単純だった。寝台特急を退避して、この貨物列車は河田駅で、15分間、停車する。
賊は銃で武装し、まず二手に分かれる。
一手は車掌車へ行き、車掌に銃を突き付け、行動を封じる。
最初はもう一組作って、機関車へ行かせ、機関手たちも抑えるつもりでいたが、行き先が鹿児島と遠いので、現金輸送車は編成の後ろ、最後尾近くに連結されていたため、機関手に物音を聞かれる恐れはないと現場で判断したものと思われた。
そうしておいて、賊の本隊は現金輸送車を襲ったのである。
まず件のドアの隙間から、催涙弾を投げ込んだ。花火のように火がついて、白い煙を出す道具である。
こうなると、車内にいる銀行員たちも、警備員も、何の抵抗もできなかった。
半開きのドアは金具で固定されていたが、そんなものは大型のワイヤーカッターで一発である。
基本的に国鉄の駅というものは、すべて表側と裏側がはっきりしたデザインである。現代のように、例えば駅の北側にも、南側にも入口があるというのではない。北側には入口や改札口があっても、南側には何もないということも珍しくはなかった。
この河田駅も、その典型的な国鉄駅だったのである。駅の北側には住宅や商店街が存在したが、南側には何もなく、ただ田や畑が広がるばかり。
賊は、そこに目をつけたのである。田の間を走る道路もあり、そこにトラックを止め、待たせておくのは簡単なことだった。
そこまでは理解できる。だが問題が残るのだ。
現金輸送車の運行ダイヤは、厳重に秘密にされているのである。何日の何時に、どの貨物列車に連結されて走るか。管理局内でも、それを知るものは少ない。
この事件は大きく報じられ、警察も捜査を開始している。今のところまだ大きな手掛かりはないようだが、それよりも何よりも、賊はどうやって、この日のこの時間の列車と狙いを定めることができたのか。
それはまだ誰にも見当がつかなかったのである。
「つまりこういうことかい?」
と大田警部は、ここまでに聞かされた話をまとめようとした。
「…ドアが完全に閉じられず、数センチだけ開いたままの有蓋車を目撃したら、すぐに連絡してくれ、と見ず知らずの紳士から依頼を受けたというんだね?」
「そうだよ」
そう答える若い男を、大田は眺めなおした。
20代の半ば。多く見積もっても、30には達していない顔つきである。成人のはずが、どこか子供っぽい匂いが残っているのだ。
肌が黒く、日焼けしているのは、日光に長時間当たる職種だからだろう。
氏名と住所は、すでに分かっていた。署で最初にこの男を受け付けた制服警官がメモに書き留め、それが大田の目の前に置かれていたからである。
桑畑健太。住所は東川署の管内だ。職業は国鉄職員で、所属は吹田操車場。
昭和時代には、沖縄県を除く日本中を、貨物列車が走り回っていた。
なにせ国内の貨物輸送シェアは、60パーセントが鉄道によるものであったから、日中はもちろん、真夜中でも貨物列車は轟音を響かせていたのである。
この時代にはコンピューターもまだなく、貨車の行き先別の仕分け作業は、すべて人力で行われていた。
操車場と呼ばれる広大な駅があり、線路がそれこそ何十本も敷かれている。
その一本一本に、例えばこの線路は東京方面、この線路は北陸方面、次のは山陰方面…、というように行き先を割り当て、それに従って貨車を集めて行くのである。
多い日には6000両もの貨車が到着するのだが、それが荷を満載した貨物列車として、順番などムチャクチャに、各方面行きの貨車がゴチャゴチャの状態で、一本の貨物列車として吹田操車場にやってくるのである。
それを、人工的に作ったゆるやかな坂道線路の上へ持ってゆき、連結器を切り離しては、一両ずつ無人で走らせる(まるで流しそうめんのように…)。
地上の係員がポイントをカチカチ切り替え、例えば東京方面へ向かう貨車ならば、その方面の線路へと誘導して流してゆくのである。
そうやって振り分けられるのはよいが、無人の貨車は自動では停車しない。誰かが乗り込み、前方にいる他の貨車に衝突する前にブレーキをかけなくてはならないのだ。
これが連結係、つまり桑畑の役目で、足元にゲートルを巻いた、見るからに身軽で動きやすい服装をし、近づいてくる無人の貨車に、
「いざっ」
と飛び乗るのである。
そのあと連結手は、足でペダルを踏んでブレーキをかけ、すでに前方に止められている貨車の列の最後尾に、ガチャンと無事に連結する。
こんな仕事であるから、もしも事故が起これば、生死にかかわる重大なケガに簡単に結びつく。本当の話、連結手の仕事は、文字通り命がけのものであった。桑畑の同僚に死者が出るのも、珍しくないとまでは言えないが、皆無ではなかった。
桑畑は、貧しい農家の三男に生まれた。
それゆえ家を継ぐ可能性はなく、三男ともなれば、小さな村で婿入り先を見つけるのも簡単ではなかろう。
小学校を出て、桑畑は国鉄に就職した。
そもそも勉強は嫌いであり、中学はもちろん、高等小学校へも進む気はなかった。
そして配属されたのが、この連結手だったのである。鉄道の現場でも、おそらく一、二を争う危険な職場であろう。
働き始めて数年の間に、桑畑は二度の事故を目撃した。どちらも同僚で、特に親しいわけではなかったが、1人は両足を切断し、もう1人は死亡した。
この職を続けるのが、桑畑も怖くなかったわけではない。
しかし国鉄の寮に住んでいる以上、辞職すれば、その日から寝る場所にも困るし、次の職をすぐに見つける自信もなかったのである。
ただ最近は、桑畑も少しずつ貯金を始めている。
やはり、いつまでもこの職にとどまるつもりはない。しかし給料は充分とはいえない。寮生活だから住居費はかからないとはいえ、若い桑畑が酒を飲まないわけでも、ちょっとしたギャンブルに手を出さないわけでもない。
だが桑畑は貯金を始めることができた。それにはきっかけがあった。給料以外の収入が、ある程度、定期的に入り始めたのである。
「それが、その見ず知らずの紳士かい? ドアが少し開いたままの有蓋車を見たら、すぐに教えてくれってのは?」
と大田は言った。
「こういう仕事をしてるから、俺は一日中、貨車と一緒にいるわけさ。日に何百両も目にする」
貨車の半数以上は、有蓋車なのである。『蓋』とは、フタのこと。つまり屋根付きの貨車という意味である。
(逆に、屋根のない貨車は無蓋車と呼ばれる。石炭や砂利、鉱石、材木などを輸送するものが多い)
「有蓋車って、何を運ぶんだい?」
と大田が好奇心に駆られると、
「文字通り何でもさ。機械、米、野菜、紙とかね。化学肥料を積んでいることも意外と多いな。珍しいところじゃ、ダイナマイトなんかも運ぶね」
「そりゃあ物騒だな」
「そうでもないよ。雷管がついてなきゃ爆発しない。土木工事とか、鉱山で使うのさ」
「その有蓋車のドアだが、どんなのだい?」
桑畑は、身振り手ぶりを交えながら、
「貨物の積み下ろしに使うんだから、大きなドアだぜ…。幅は2メートルかそこら。貨車の車体長の3分の1ぐらいある。ガラガラっと横に大きく開くんだ」
「へえ…」
「だけどそのドアも、本当ならきちんと閉めてあるのが当たり前なんだ」
「たった数センチとはいえ、開いたまま走る貨車なんていない?」
「なくはないが、例外的さ」
「それを見かけたら教えてくれと言ってきたんだね? どんな紳士だった? どこで出会った?」
「中肉中背と言いたいところだけど、少し小柄だな。ぜい肉はついてないけど、着ている物から見て、金持ちそうな感じがした。ほら、仕立ての良い背広ってやつさ。年は60くらいかな」
「どこで会ったんだい?」
「行きつけの焼鳥屋があってね。きれいな店じゃないが、うまい鶏を食わせるし、あまり高くない。休みの日には、よく行くんだよ」
「へえ…」
「特に俺は、店主とウマが合ってね。いろいろ話をした。その紳士も店にはよく来ていたみたいで、それで俺の職業を知ったんだろうな。店主といろいろなことをしゃべったから」
「その焼鳥屋、あんたが住んでいる国鉄の独身寮からは遠いのかい?」
その紳士とやらは、国鉄職員と知り合いたくて、その焼鳥屋に通っていたのかもしれないな、と大田は考えたのである。
「うん、近くだよ。ある時、その紳士が話しかけてきて、いつも俺はカウンターで飲むんだけど、店の奥のテーブルへ行こうと誘われた。おごるっていうからさ…」
「ふうん…」
その紳士の名は藤沢といった。桑畑に自己紹介をしたのである。若い桑畑は、相手に対し、何の警戒心も抱かなかったようで、そして藤沢は、
『吹田操車場で働いているときに、ドアが10センチほど開いたままでいる有蓋車をもしも見かけたなら、すぐに連絡してほしい』
と依頼してきたのである。
「その紳士…、藤沢さんだっけ? 藤沢さんは、どうしてそんなことを知りたがるのか、理由を説明したかい?」
「ああ、理由は言ってたよ。なんでも藤沢さんは、競馬の関係者なんだ。刑事さんは知ってるかい? 競馬場って、日本中あちこちにあるだろう? その日本中の競馬場で毎日毎日、たくさんの馬が走ってる。じゃあその馬たちは、一つの競馬場から別の地方の競馬場へ、どうやって運ばれるのか」
「知らないなあ、考えたこともないよ」
「鉄道の貨車で運ばれるんだ。牛だったら、牛輸送専用の貨車があるから、それに乗せるんだけど、馬はそうはいかない」
「どうしてだい?」
「牛用の貨車は、壁がスノコみたいになって、まわりの風景がよく見えるけど、馬は怖がりなんだ。だから家畜車じゃなくて、普通の有蓋車に乗せて運ぶんだよ」
「へえ、知らなかったよ」
と言う大田の言葉に、桑畑も満足そうである。こういうところ、まだまだ無邪気な若者なのだろう。
「だけど…」
と大田は続けた。
「…窓も何もない有蓋車に馬を積んで、本当にいいのかい? 息が詰まったりしないかな? それに、馬の世話をする厩務員は、どうするんだい?」
「馬には、外の風景が見えないほうが、かえっていいんだよ。息が詰まるから、ドアは少し開けておく。厩務員は、この有蓋車に馬と一緒に乗るのさ。水や馬草を山ほど積み込んでね。めったにないことだけど、もしも輸送中に馬の体調が崩れて、病気になったりしたら、途中の駅で止めて馬貨車だけを切り離し、大急ぎで獣医を呼んだりもするんだぜ」
「へえ。それで藤沢は競馬関係者で…、馬主かい?」
思い出そうとするかのように、桑畑は額にしわを寄せた。
「いや、馬主には見えなかったなあ。いい洋服を着ていても、どこか胡散くささのあるオヤジでね」
「その藤沢がかい?」
「うん」
「それで?」
「藤沢さんの言うには、関係者は関係者でも、どうやら金を賭ける方の人間らしい。おそらく予想屋だろうと、俺はにらんだね」
「ふうん」
つまり予想屋風の紳士、藤沢は、
『競走馬がいつ移動したのかが知りたいから、協力してくれ』
と言ったのであるが、当然の疑問として、
「有蓋車を見つけて、馬がいつ移動したかは分かっても、どの馬がどこへ向かったのか、までは分からないじゃないか」
と桑畑が尋ねると、
「いや、いつかが分かればいい。どの馬がどこへ行ったかは、また別に調べる方法があるから」
という回答であった。
「そうかい。ならいいけど…」
こうやって取引が成立したのである。ドアが開いたままの有蓋車を操車場で見かけるたび、桑畑は藤沢に連絡をする。連絡1回ごとに、報酬は500円であると聞き、大田は目を丸くした。
「500円とは、また太っ腹だな…。でも桑畑君、そういう有蓋車を見かけて、君はどうやって連絡するんだい?」
「電報さ。藤沢さんの教えてくれた住所あてに、ウナ電を打つんだ」
ウナ電とは、特にスピードを要求される場合に打つ至急電報のことである。
「仕事の帰りにそれを打つのかい? どうやって?」
「いやだな刑事さん、忘れたのかい? 大きな駅からなら、どこでも電報を打つことができるじゃないか…。用紙をもらって、鉛筆で記入してさ」
「ああ、そうか。あて先の住所は?」
「これだよ」
と桑畑は、ポケットから紙を取り出して見せた。長い間、サイフの中にでも入れてあったらしく、折り目が入って、薄汚れている。
『大阪市 東川区 ○○町 ○○アパート 2号室』
その紙をいじくりながら大田は、
『調べてみてもいいが、どうせ偽名で借りた部屋だろうな』
と思っていた。
顔を上げて大田は若者を見つめ、口を開いた。
「それで、これまで何回ぐらい電報を打ったんだい?」
「2か月ぐらいの間に、3回か4回だよ。そのたびに数日後、100円札が5枚入った封筒が届いた」
「ドアを少し開いたままの有蓋車が、そのくらいの数、吹田操車場を通り抜けていったということだね…。だけど不思議だな。この話で、君は何の損もしていないじゃないか。2000円ほどの臨時収入を得たわけで、文句はないだろう?」
すると、桑畑の表情が変化したのである。顔を赤くし、怒りと不安のようなものが感じられた。
「どうしたね、桑畑君?」
「刑事さんは分かっちゃいないんだよ。俺は新聞を読んだんだから」
「新聞? どんな記事だね?」
ここで、桑畑がもう一度ポケットから取り出したものがある。新聞記事の切り抜きであった。
大田は受け取って眺めたが、日付は2週間ほど前。だが大きな活字の見出しに目を走らせるまでもなく、どんな記事なのかは、読むまでもなかった。冒頭で述べた列車強盗事件の記事だったのである。
「刑事さんは、この事件のことを知ってるかい?」
と桑畑が言った。
「うん、まあね…」
と大田はごまかした。忙しさにかまけ、新聞にも、軽く目を通す以上のことはしていなかったのである。事件現場である広島県警から、協力要請があったわけでもない。
「…その事件のことは知っているよ。警察官だもの…」
大田の声はいかにも自信なさげであるが、桑畑は気が付かなかったようだ。
「最初に新聞記事を読んだ時には、俺もなんとも思わなかったんだ。だけど昨日、風呂の中で考え事をしていて、急に気が付いた…。実は1週間ばかり前にもまた、ドア半開き貨車を目撃して、電報を打ったんだけど、もう500円は送られてこなかった。これってさ…」
「藤沢という男はもはや、ドア半開き貨車には興味がないということさ…。なるほどね、競馬馬を乗せている貨車と、現金を乗せている貨車とは、見かけがまったく同じということか」
もう一度、始めから詳しく桑畑に事情を話させた後、大田は課長に面会を求めた。大田が会いたがるなど前例のないことだから、最初は課長も警戒していたが、すぐに事情をのみこんだようである。
「大田君、資料を持って、すぐに広島県警へ出かけてくれたまえ。事情は今すぐ、私が電話して伝えておくよ」
こういったぐあいに、大田の思いがけない広島出張が持ち上がってしまったのである。
『機会があっても、これ以上は絶対に藤沢には接触しないように』
と念を押され、桑畑は家に帰された。
大田はその夜の夜行列車で大阪をたち、翌日は非常に忙しい一日であった。広島県警も、大田の話をバカにせず、まじめに取り上げてくれたのである。上中・警部補の働きにより、桑畑が何回か電報を打った宛先のアパートは、やはり偽名で借りられていたと判明していた。
毎回、500円ずつを届けた封筒も、すでに桑畑が保存しておらず、消印を調べることはできなかった。
大田は広島に2泊し、朝早くの列車で大阪へ戻ってきた。
こういうトンボ返りの長距離旅行など、ひどく疲れそうなものだが、大阪駅のホームに降り立った大田はそうでもなく、あと一日ぐらいなら、帰宅せずとも十分に働くことができそうな気がした。事件捜査が前進しつつあり、気力が充実していたのだろう。
ホームで公衆電話を見つけ、大田は署へ電話をかけた。電話に出てくれたのは、上中であった。
「ああ大田さん、お帰りですか?」
「その後、何か変化はあったかい?」
すると上中は、急に声をひそめたのである。
「…それが、奇妙なことになってきました」
「どうしたね?」
「先日の事情聴取の後、桑畑君は僕がパトカーで国鉄の独身寮まで送ってゆき、寮の管理人とも少し話しておいたんです。何か変事があったら、すぐに署へ連絡をくれるようにって」
「それで?」
「桑畑君の居場所が分からなくなりました…」
といっても、いわゆる行方不明とは少し異なる。桑畑は操車場の上司に、数日の休暇届を提出していたのである。
「その休暇って、旅行にでも行ったのかな?」
と、まだ大田の表情はのんびりしている。
「旅行というか、法事のために実家へ帰ったのだそうで…。それはまあ構わないんですが、昨日の昼頃、その桑畑君から、僕のところへ電話がありました」
「帰省先からかけてきたのかな?」
「そのようです。桑畑君は大阪に住んでいますが、実家は兵庫県の神戸だそうで。法事のためだから不思議でも何でもないんですが、電話の内容はこうでした。公衆電話からかけていて、少し興奮した様子で…」
『帰省してきた神戸市内で、藤沢の姿を見つけた…』
と桑畑は言ったのである。
桑畑の実家は、神戸市内でも垂水区というところにあり。そこの駅前通りを歩く藤沢を偶然に見かけたというのである。上中への電話は、その報告であった。
「危険だからそんなことはするな、と僕は止めたんですが、若く血気盛んなのか、言うことをきいてくれなくて…」
「藤沢のあとをつけてみる、と桑畑君は主張したのだね?」
「そうなんです。メガネと付けヒゲはないが、顔の輪郭と歩き方は藤沢に違いないと」
「それで?」
「いいえ、それだけです。『じゃあ後で』と電話は一方的に切れ、僕もずいぶん夜遅くまで次の電話を待ったのですが、結局ナシのつぶてでした」
「それが昨日のことだね? 今日になっても連絡は?」
「ありません…」
「国鉄の寮には問い合わせてみたかい?」
「あそこには電話がないので、朝一番に行ってみました。でも、桑畑君はまだ帰っていない、と管理人は言うのです」
「桑畑君は、いつまで休暇を取ったのかな?」
「今日いっぱいです。明日からは出勤することになっているとか」
「ふうん…」
ホームの上で受話器を握りしめたまま、大田は考えた。
『一体、どういうことなのだろう? 道を行く藤沢のあとをつけ、桑畑は藤沢の正体なり、住居なりを突き止めたのだろうか? あるいは…』
あるいは藤沢に気づかれ、逆襲されたということも考えられる。
現金輸送車の事件は、新聞やラジオで大きなニュースになった。慎重な犯人であれば、『自分は何に手を貸していたのか』と桑畑は気付いたかもしれないと、考えておくだろう。
そんな時に藤沢と出会った桑畑の運命を想像するのはたやすい。
「上中君…」
精一杯、頭脳を回転させつつ、大田は指示を出すことにした。
「はい」
「ワシは今すぐ署へ戻るよ」
「こんなことになって、すみません」
「君が悪いんじゃないさ。神戸市の…、垂水だっけ? そこの警察には連絡したかい?」
「しておきました。昨日の午後以降、事件らしいものは一件も報告されていないという返事でしたが…」
「まあ元気を出すさ。とにかくワシは、一度戻るよ…」
と受話器を置いたとたん、あるものを目撃して、大田は眉を上げたのである。
同じホームの上、20メートルばかり先であるが、なんとそこを桑畑が歩いていたのだ。
大田には背中を向けているが、桑畑に間違いはない。
「おや?」
行きにはそれなりの量の資料を入れていたが、広島県警へ提出したせいですっかり軽くなったカバンを持ち上げ、大田は歩き始めた。もちろん桑畑のあとをつけるのである。
なぜそんなことをするのか、どうして、ヤアとでも声をかけないのか、その理由は大田本人にも分からなかった。『カンのようなもの』としか表現のしようがない。
大阪駅の広い階段を、若い桑畑は、トントンとリズミカルに歩いてゆく。大田のほうは、そっと足音を消してついてゆくのだ。といっても人の多い、混雑した駅だから、難しい仕事ではなかった。
改札口を出て、桑畑はデパートへと向かったようである。
この時代の大阪駅前には、バスだけでなく、まだ市電の停留所も存在していて、人いきれやエンジンの音、ビューゲルのスパークなどで騒がしい場所である。
大阪駅前には、大手私鉄が経営するデパートが二つある。迷う様子もなく、桑畑はその一つへと入っていったのである。もちろん大田も続いた。
大阪駅で思いがけなく桑畑を見かけたことで、大田が東川署へ帰り付いたのは、もう夕方だったが、上中はまだ待っていた。
「大田さん、ご苦労様でした…。だけど、えらく遅くなりましたね」
「うん、待っていてくれたのかい? すまないね。実はあの後すぐ、桑畑を見かけてね…」
とその後の出来事を、大田は説明したのである。
「…桑畑のやつ、どこでそんな金を手に入れたのか、デパートで高級腕時計を買っていたよ」
「高級って、どのくらいなんです?」
買い物を済ませ、商品を受け取り、桑畑がほくほく顔で売り場を離れた後、目を盗むようにして、大田は店員に質問したのである。いつものように、警察手帳をチラリと見せたのだ。
「それが驚くじゃないか。5万円もするんだってさ」
「5万円の腕時計?」
と上中は目を丸くするが、それも無理はない。大卒の初任給がまだ1万円そこそこの時代である。
「桑畑はその腕時計を、自分で使うんですかね?」
「それはそうだろう。購入した後、自分の腕にはめて売り場を離れたからね」
「へえ…」
「桑畑め、どこでそんな金を手に入れたのかな」
「大田さん、このことは広島県警へ連絡したほうがいいんじゃありませんか?」
上中の提案は当然のことであるが、ここで大田の悪い虫が騒ぎ始めるのである。
大田という男、特に出世を望んでいるわけではない。むしろのんびりと、定年まで普通に過ごせればいいと願っている。
しかしそれと、子供じみた悪戯っぽさや、人を出し抜いて鼻を明かしてやりたい気持ちとは別物であろう。
「いや上中君、少し待ってくれ。桑畑については、もう少し固まってから、広島へ連絡を入れようじゃないか」
上中も、大田との付き合いは長い。またいつもの癖が出たな、とは思ったが、
「わかりました」
とだけ答えて、話題を変えることにしたのである。
「それはそうと大田さん、間違ってたらすみません…。その金のことですけど、桑畑は、藤沢を脅迫したんじゃないですかね? 『お前の正体を警察にバラすぞ』と」
すると、今度は大田も素直なのである。
「おや君もそう思うかい? 君が昨日受けた電話な。あれは藤沢の目の前でかけたのだと思うぜ」
「どういうことなんです?」
「自分が桑畑の立場に立ってみるといいさ。藤沢のところへ行き、『あんたが列車強盗犯だね。俺は知ってるぜ』と告げる」
「ええ」
「もちろん桑畑も用心している。桑畑にしてみれば、口ふさぎで藤沢に殺されてしまっては、元も子もない。だから、あらかじめ保険をかけていた。『警察には、すでに相談済みだぜ』ってね」
「だけど警察に相談しただなんて、藤沢は信じないかもしれませんよ」
それでも大田は平気な顔で、
「その場合、ワシが桑畑ならこう告げるね。『そうかい? じゃあ今から警察へ電話をしてみようじゃないか。隣にいて、警察官の反応を聞いているがいいぜ』とね」
「ははあ。そうなったら、藤沢は金をやるしかなくなりますね」
「藤沢の仲間が何人いるのか知らんが、3000万円奪ったんだ。10万や20万をくれてやっても、痛くはないさ」
「ふうむ…」
難しい顔で上中が考え込むので、大田は面白そうに笑った。
「どうしたね?」
「ねえ大田さん、そんなことになったら、桑畑もただじゃすまないんじゃないですか? 藤沢は、桑畑の命を狙うかもしれません」
「なぜ?…」
「なぜって、桑畑は藤沢のシッポを握っているんですよ。いつ桑畑が警察に本当のことを話す気になるか、知れたもんじゃない」
「いやいや、そんなことをしたら桑畑は、自分も分け前をもらったことを白状しなくてはならなくなるよ。それは理屈に合わん。これ以上、藤沢は何もせんさ。桑畑の身に何かあれば、警察が最初に疑いをかけるのは藤沢だからね」
と大田は自信満々だが、その表情が崩れるのに時間はかからなかった。
「でも大田さん、我々は藤沢の顔も知らないのですよ。住所どころか、本名もわからない。もしも桑畑が殺されても、藤沢を追う手がかりはないんです」
「ああそうか…」
大田も、やっと気が付いたようである。
「ねえ大田さん…」
「ちょっと待ってくれ。今や列車強盗の共犯者となった桑畑が殺されようがどうなろうが、ワシは一向にかまわんが…」
「大田さん…」
と上中は顔色を変えるが、大田は気にしない。大田には、いかにも警察官らしからぬところがある。
「上中君、まあ聞きなさい。今の桑畑は、藤沢が逮捕されると困るのではないかね? 共犯者ということで、自分まで芋づる式じゃないか」
「それはまあ、そうですが…」
「それをうまく使おう。桑畑のやつに、何か嘘を吹き込んでやろうよ」
「嘘なんかついて、どうなるんです?」
「あわてた桑畑は、藤沢に連絡を取るだろう? そこを押さえればいいじゃないか」
「そんなうまい嘘があるんですか?」
「それを今から考えるのさ。明日になったら、桑畑に会いに行こう。野郎、どんな顔してやがるかな?…」
あいにくと、翌日は雨であった。桑畑は吹田操車場へ出勤しているはずである。きっと雨ガッパを着て仕事をするのだろう。
操車場の上司の協力を得て、桑畑が何時に仕事を終えて退勤するか、その時刻はすでに調べてあった。18時だそうだから、まだ少し時間がある。
だが吹田操車場には退勤路が複数あり、桑畑がそのどこから出てくるかが分からない。だから大田と上中は、二人で手分けをすることにしたのである。
もちろん操車場は24時間営業である。夜間には、野球場にあるような背の高い照明塔がいくつも点灯するのだが、今日の桑畑は昼間の勤務なのである。
退勤後、桑畑がすぐに寮へ戻るか、それともどこかへ寄り道するかは見当もつかなかった。
「もしかしたら、あの焼鳥屋へ寄るかもしれないな…」
「どうします?」
傘をさして雨の通りに立ち、大田と上中は相談したのである。
「仕方がない。じゃんけんでもするか」
勝ったのは大田である。だから大田が、焼鳥屋へ向かうことになった。
「じゃあ僕は、寮の門前で待機しますよ」
「うん、頼むよ」
焼鳥屋は今日も営業していた。店内はまだすいており、大田が2番目の客だった。大田以外には、会社帰りらしいジャンパー姿の男が、一人でちびりちびりとビールを飲んでいるだけである。
「親父さん、ちょっと…」
と、すみのテーブルに座るなり、大田は店主を呼んだ。
ほとんど白くなった髪の、やせたマッチ棒のような男である。メガネのレンズがくもるのが気になるのか、しょっちゅうエプロンでふいている。
「なんです?」
いつものように、大田は警察手帳をチラリと見せ、
「桑畑君は、いつも何時に顔を見せるのかな? 今日はまだ来ていないね」
メガネの向こうの目玉を、店主は大きく丸くした。
「あの人がどうかしたんですか?」
「いや違うよ。事件の捜査に協力してもらってるんだ。その捜査も山を越えたからね。お礼がわりに、一杯おごろうかと思ってさ」
「でも刑事さん、桑畑さんは、お休みの日にしか来られませんよ。今日がご出勤だというのなら、ここじゃなくて、風呂屋へでも寄られるのではないですかね」
大田がようやく桑畑の顔を見たのは、店主の言う通り、銭湯の前であった。店主に道を教えられ、その入口の前に着いたとたん、『ゆ』と大きく書かれたのれんを押して、桑畑が出てきたのである。いかにも入浴直後らしい、まだ湿気の残った髪をしている。
「やあ、桑畑君じゃないか」
気楽そうに声をかけたものだが、その声の主を認めたとたん、桑畑がさりげなく腕時計を外し、ズボンのポケットに隠すのを大田は見逃さなかった。
「なんですか、刑事さん? 何か御用ですか? 犯人は見つかったんですか?…」
以前とは違い、桑畑は敬語を使った。思わず緊張しているのだろう。
「…そうだ刑事さん。先日はすみませんでした。実家へ帰っていて、確かに藤沢を見かけたんですが…」
「それは本当に藤沢本人だったのかい?」
「メガネをかけてなくて、付けヒゲもなかったけれど、顔の輪郭や歩き方は間違いありません。ところが跡をつけようとして、人ごみにまぎれて、見失ってしまったんです」
「それは上中君に電話をかけた直後のことかい?」
「そうです。大きなことを言ったのにうまくいかなくて、かっこ悪くて、失敗は報告しませんでした。すみません…」
「そんなことはいいんだよ。尾行なんか、おまわりさんに任せておきなさい。君がケガでもしたら大変だからね」
「はい、すみません…。それで、今日は何か御用ですか?」
「いや、大したことじゃないんだ。うまくいかなかった尾行のことは置いといて、事件について、何か思い出したことはないかと思ってね」
「思い出すなんて、何もありませんよ」
「そうかい? ワシもあれから広島へ行ってね。昨日、帰ってきたところさ。風呂は済んだのだね。寮へ帰るのかな。ちょっと歩きながら話そうか…」
当たり障りのないことから始め、大田が話の本題に入ったのは、道がちょうど地元のちょっとした神社の前に差し掛かったころだった。
「あっ刑事さん、こっちの道が近道なんです」
と桑畑に言われるまま、薄暗い境内へと続く小道に、大田も歩みを進めたのである。
大田は言葉をつづけた。
「いやあ、広島県警の刑事さんから耳打ちされたことなんだけどね。まあ君も関係者だから、話してあげるよ。寝覚めが悪かろう?」
大田という人物も、警察官に似合わぬ役者なのかもしれない。その気になれば心の中とは裏腹に、にっこりとほほ笑むことができるのである。
もちろんその笑顔たるや、本人は精いっぱいやっているのだが、部下の婦人警官などの間で評判は良くなく、『気味が悪い』とまでささやかれていることは、知らぬが仏であろう。
しかし大田のその笑顔も、今日はうまく働いたようだ。少しは桑畑の警戒心を解くことに成功したのである。
「刑事さん、それって何の話です?」
「犯人の逮捕ももうすぐ近いということさ。新聞やラジオの記者たちには伏せてあるんだが、奪われた3000万円な」
「それがどうかしたんですか?」
「紙幣だろ? すべての札には、それぞれ番号が印刷してあることは知っているね?」
「はあ…」
と、話がどちらに向かうのか、桑畑には見当もつかない様子だ。
「奪われた3000万円の全部じゃないが、そのうちの番号が『B』から始まるやつだけは…」
「Bって、ローマ字のBですか?」
「そうさ。番号がBで始まる札だけは、日本銀行が事前に番号を記録していたんだよ。それが3000万円のうちの何枚にあたるかまでは、広島県警も教えてくれなかったがね。そのうちの一枚でも、賊が市中で使ってくれりゃあ、もう逮捕したようなものさ…」
いつの間にか雨はやんでいたが、国鉄の独身寮の門前で、上中は手持ちぶさたであった。いくら待っても、桑畑は姿を見せないのである。
「やはり桑畑は焼鳥屋へ行ったのかな?」
考えてみればおかしな話である。大田と相談した時には疑問に思わなかったが、なにも大田と二手に分かれる必要はなかったではないか。
「二人して焼鳥屋へ行って、桑畑がいなければ、また二人でここへ来ればよかったんだ」
本当の話、1分1秒を争って桑畑と面会しなくてはならない理由などない。
「あれあれ? 僕を出し抜いて、大田さんだけ一人で一杯やるために、だまされたかな?」
むろん上中も、『だまされた』と本気で思ったわけではない。上中自身もよく知っていることだが、大田という男は、そんな策略の使える人間ではない。
それにしても、もう1時間にもなるのに、桑畑の『く』の字もないではないか。大田を追い、上中も焼鳥屋へ行くことに決めたのである。
ところが焼鳥屋へ行っても、大田の姿は見えなかった。のれんを押して店内に入り、グルリと見まわしたが、そもそも大きな店ではない。大田はここにはいないのである。
「親父さん…」
と声をかけると、店主は親切に答えてくれた。
「あの刑事さんなら、桑畑さんを探して、風呂屋のほうへ行かれましたよ」
そしてもちろん、上中にも道を教えてくれたのである。
その上中が焼鳥屋を離れ、ある神社の前を通り過ぎようとしたときのことである。
大きなものではないが、地元のそれなりの信仰を集めているのだろう。境内は木々に覆われ、外からでは社殿も見えないほどだが、ただ鳥居の存在で神社だと分かる。
秋祭りが近いのか、布製ののぼりが地面に建てられているが、今は雨にぬれ、垂れ下がっている。
どこの町にもあるありふれた風景だが、このとき何かが上中の注意をひいたのだ。急ぎ足でいたのが、自分でも気づかぬうちに、上中は立ち止まってしまった。
「何かの声が聞こえたように思ったが…」
話されている言葉の意味が分かるほど、はっきりと耳に届いたのではない。男の声のようではあった。ここから見透かしても何も見えないが、境内の茂みの中からのようである。
立ち止まったまま、上中は観察を続けた。そして気が付いたことがある。
「この鳥居を入り、あの茂みを抜けて、境内を横切るようにして、なんとなく人の歩いた跡が地面についているな…」
桑畑の言い草ではないが、この境内は実際に、地元の近道として機能していたのだろう。信仰心とは関係なく、ただ時間と歩行距離を節約するため、毎日たくさんの人間が神社を横切ってゆくようだ。
「そういえば、焼鳥屋のおやじから教えられた風呂屋というのは、ちょうどこの神社を横切った先あたりにあるんじゃないか?」
そうなると、大田も桑畑も見つからずに、上中も多少はあせりを感じる身だ。深く考えることなく、神社の中へと進行方向を変えたのである。
境内の抜け道をたどるのは簡単だった。ぬれた落ち葉や石を踏みしめて進んだ。
道は鎮守の森の中心近く、木陰の最も濃いあたりを通り抜けていくようだが、もう日は暮れてしまい、あたりは相当に暗い。ただまだ、懐中電灯がないと何も見えないというほどではなかった。
近道は、途中でカクンとひじのように曲がり、何か予感を感じて、上中はそっと立ち止まった。予感に従い、足音は数メートル手前からひそめている。
少し前方、暗い中に、3人の男がいるのが見えた。木の幹に隠れるようにして、上中はそっと顔を出したのである。
おかしな3人組であった。3メートルほどの距離を開けて、1人対2人で向かい合っているのである。1人でいる方の男は、相手2人を交互ににらんでいるが、雰囲気は良くない。
よく見ると、その男の手には銃が握られている。その銃口を相手2人に突き付けているのだ。
「あれは旧軍の14年式銃かな? あの銃と、貨車の車体にめり込んでいた弾丸を比較すればいいわけか…。だけど面倒なことだ」
それは上中の見る通りであった。銃を持っているのは、上中のまったく知らぬ男だが、他の二人はそうではない。
「くそっ、大田さんもヘマをやったもんだ。人がいいだけでは、刑事は務まらんのだよ」
もちろん大田も銃を持っているはずだが、こう突きつけられていては、取り出す暇がないのだろう。
そして、残りの一人は桑畑である。桑畑の口が動いた。その声は、見るからに震えている。
「ふ、藤沢さん、俺はあんたの仲間だぜ」
しかし藤沢は、そっけない。
「何を言う? 私から金をゆすり取ったくせに…。お前のような若造が一番信用できないのだ」
勇気があるのだか、ないのだか。その言葉に大田は、ハハアと納得した顔をする。
「…やっぱりあの高級腕時計かい?」
藤沢には意味が分からないらしいが、だからといってニコリともしない。
「刑事さん、私はあの焼鳥屋から、ずっとあんたをつけてきたのだよ。そこにいる桑畑に会いたくてね。あんたなら、きっと道案内してくれると思った」
「あっ…」
やっと大田は思い出したようである。焼鳥屋を訪ねた時に、ビールをちびちびと飲んでいた先客の男なのだ。
自分の手の中にある銃を、男はほれぼれと眺めた。
「私には、この引き金を引く勇気があるだろうか? それが問題だね…。まさか私を、ただのコソ泥とは思っておるまいね。先日の事件ばかりじゃない。その前からいろいろとやっている男さ」
もうそこまで聞けば十分であった。意を決し、上中は歩き始めたのである。
もちろん足音は、極限まで抑えている。軽くしゃがんで、これもコトリとも音を立てないよう、傘を地面に置いた。
上着の下に、そっと右手を伸ばす。曲がり角の向こうで気配を感じた瞬間から、指はまるで自動装置のように動いて、背広のボタンをゆるめていた。警察から支給されている銃は、左のわきの下につってあるのである。
もう何十センチというところまで近寄り、白髪の出かけた後頭部にゆっくりと銃口を押し当てた時、なぜか上中自身も驚くほど野太い声が出た。
「どうせ偽名だろうが、藤沢さんよ。頭の後ろにも目玉をつけてないから、こういうことになるんだよ」
3メートル離れていても耳に届く大きさで、大田がホッと息をつくのが聞こえた。
「上中君、助かったよ。地獄に仏とはこのことだ」
「大田さん、そいつの銃を取り上げてください。手錠はありますか?」
「もちろんさ」
手錠をとめる音は、刑事たちの耳にはカチリと心地よいが、桑畑は別の感想を持ったようである。
銃を突きつけられていた間は真っ白だった桑畑の顔も、もう赤みを取り戻し始めているが、ふと気づいて、また青くなったようだ。
「あのう刑事さんたち…、俺はどうなるんです?」
もはや観念した様子の藤沢の顔を面白そうに眺め、大田は機嫌よく答えた。
「もちろん君も署に来てもらうさ。それが列車強盗事件の参考人としてなのか、共犯としてなのかは、こちらの紳士のご意向次第だけどね…。そうだ、藤沢さんとやら。10万円か20万円、この桑畑に取られたんだろう? ユスリにあったということで、被害届を出す気はないかい? 出してくれりゃ、しっかり捜査するがね…」




