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今日の内に返信が来ることは予想していましたし、その内容も想像していたものと大体あっていましたから、事実だけを見るならそんなに驚き喜ぶことではありません。
ですが自分達が助かるという確信と、助かるという現実とではそれらが眼前に置かれたときの重みは違うようで、やはり実物があると安堵感があります。本部から返信の届いた後の私は振り返ってみてもかなり上機嫌だったと思います。
私にとってはこの城下町にいること自体が苦痛となります。やっとここから離れられるという気持ちが興奮を後押しした事は否めません。日陰の森に来てしまったことは人生最大の不運だと考えたこともありましたが、よくよく思い出してみればあの状況で魔導界、しかも本部からそう遠くない街の近くに越界出来たことが奇跡に近いのです。
やはり彼は英雄なのでしょうか。その恩恵というか、神の見えざる手が私達を導いてくれているように感じました。不可解な魔導の回復もそれの一環だと考えました。
その夜はとても寝心地が良かったです。早く明日が来ないかと子供のように祈ったほどです。
果たして夜が明け、私は日の出とともに起床しました。外では名も知らぬ鳥が鳴いています。拓斗さんは朝が早いらしく私より早く起きていました。
「遅寝早起きだな。夜は十二時くらいに寝て、六時半に起きる。その就寝リズムで体が動いているみたいでさ、睡眠時間だけは譲れないらしくって、早く寝るとその分早く目が覚めるんだよな」
背伸びをしながら彼は答えました。櫻井さんは未だに幸せそうな顔で寝ています。
「今日一日が平和だと良いんだけどな」
「全くです。取り敢えず迎えが来るまでは襲撃も何も無く過ごしたいですね」
「そう……だな」
彼の声色が普段より沈んでいる事に気付いた私はどうしたのかと尋ねましたが、彼は首を横に振るだけでそれには応じませんでした。ただ、一言、無ければ良いんだけどな、と呟いただけでした。
朝食の場には見知らぬ外人が増えていましたが、互いに会話することはありませんでした。後で宿主に話を聞いたところここに泊まる人の大半は午前中の内にここを出ていくそうです。私達も今日中には宿を発つ事を伝えると彼等は少し寂しそうに笑いました。
陽も上がり十時くらいになった頃でしょうか。丸二日部屋の中でじっとしていた櫻井さんの我慢にも限界が来たらしく、外に出たいと騒いで仕方がなかったので、未だに渋い顔をしている拓斗さんを連れて少し散歩することにしました。
道を行き交う人は私達がここへ来たときに比べて確実に増えていました。その誰もがやや俯いて急ぎ足になっています。街を往来する人の殆どは帰省する人でした。外の空気を吸って背伸びをした櫻井さんは彼等には目もくれず、市場に行きたいと言いました。
「久し振りだからさ。色々と見たいんだよね」
「随分と暢気なものですね。まあ、良いでしょう。どうせ行く当てもありませんし」
彼女の後ろで拓斗さんが心配そうな視線でこちらを見ていました。視線に含まれた意図を察した私は彼に大丈夫ですよ、と言いました。もうあんな恥ずかしい姿は見せないと、自分にも言い聞かせて。
市場は概ね繁盛していました。帰省する人々が色々と調達するために寄っているそうで、先程の町中とは打って変わって大人達が声を張り上げています。賑わいを見せる市場を見て櫻井さんは大きな目を輝かせて、幼児の様に飛び跳ねんとしながら走ってその中へと消えてしまいました。
「幼稚園児め」
「そんな面白い光景でもないでしょうに」
私達は溜め息を付くと、頬を紅潮させて商品を見て回る栗毛の少女の方へと走っていきました。
程なくして彼女は私達に捕まりました。何が可笑しいのか走ってくる私達を認めた彼女は顔をにやりと笑わせると一目散に走って逃げようとしたのです。
人混みを巧みにすり抜けた私は街道に並ぶ林檎に目を奪われた彼女の隙を突いて背中から羽交い締めにし、拓斗さんは暴れ出した彼女の脳天に拳骨を降らせました。骨が響くいい音がした所で野生児たる櫻井雪風の逃亡は幕を下ろしました。
「野に解き放った瞬間これか。お前さんはジャングルにでも住んでいたのか?」
「一緒にいる私達の方が恥ずかしくなりますから金輪際あの様な事は止めてくださいね」
二人から叱られた彼女は殴られた所をさすりながら呟きました。
「痛い。酷い」
「遂に言語を忘れたか。末期だな」
「本気で殴ったでしょ、拓斗」
「当然だ。調教とは殴って教える事だと聞いた事がある」
「次やったら承知しませんからね。ちょっと痛い目見て貰いますからね」
彼女が具体的には、と問うてきたので、私は笑ってやりました。
「全身串刺しです」
櫻井さんは私の笑顔を見て短い悲鳴をあげると、それ以降大人しくなりました。
大人しくなった野生児を連れて市場を練り歩くこと数分、不意に拓斗さんが独りごちました。
「待ってくれ」
私達は立ち止まり、彼を見上げました。彼の目は前方を向いたまま動きません。
人々の声が終始往来する中彼の視線は静かでした。それを見ていた私達の周りから音が消えました。いいえ、遠ざかったといった方が正しいでしょうか。
急にその目が険しくなり、舌打ちしました。
「――きやがった」
彼の呟きと同時に背後で甲高い悲鳴が轟きました。ぎょっとして振り返ると前方約五メートル程先でしょうか、天高く血潮が噴き上がっていました。
その光景を見た時、一体何が起きているのか判りませんでした。更に血しぶきが宙を舞ったとき私は我に返り、身構えました。最悪なタイミングで起こった襲撃。悲鳴で寸断された市場の空気も生々しい血に溶かされたのか、一拍おいて場はパニックに陥りました。
私と櫻井さんは押し寄せる人波に流されてはぐれないように、大人が右往左往して逃げ惑う中、互いに抱き合ってやり過ごしました。波に流されてしまっては身動きが取れなくて自衛が出来ないからです。そう、二人で。
「拓斗さんがいません!」
私は阿鼻叫喚の中目の前の櫻井さんに向けて大声で告げました。彼女は目を丸くしました。




