2-1
やっと第二章です。
最初に感じたのは地面の冷たさだった。もやの掛かった頭の中に小鳥のさえずりが入ってくる。目を開けたが、視界は白濁してしまっていた。鈍い頭痛もする。手で頭を押さえ、よろめきながら立ち上がった。
鼻から吸い込んだ空気が澄んでいてうまい。だが季節は真冬である。身を切るような寒さから身を守るために来ていた黒いウィンドブレイカーの前を掻き合わせた。
次第に視界が元の色を取り戻すと同時に、頭痛も引いていった。呼吸を整えながらそれらが完全に収まるのを待つと、足下で少女の呻き声がした。
焦点の合わない目でそれを見る。可愛らしい栗色の頭に厚手のピンク色のパーカー、ミニスカートを履いた少女だった。視力が完全に戻ったところでそいつの頭を軽く蹴った。彼女はぐぅ、とくぐもった声を出すと、目を擦りながら上体を起こした。
「おはよう」
ぼさぼさと頭を掻きながら僕は足下に座っている櫻井を見た。目を頻りに擦っているから視力は戻っていないのだろう。ややあって、返事があった。
「……ん、拓斗?」
「そうだ」
「ルクナは?」
「そっちにいるぞ」
ルクナは僕達から少しだけ離れた所に横たわっていた。目を開かない以上彼女も気絶しているらしい。
「ルクナは起きていないの?」
「まだ寝ているな」
「やっぱり負担が大きかったのかな。異常だもんね」
「普通ならどうなるんだ」
「えっとね、越界は世界をまたぐ時に、その魔導の行使者しか通れない別世界を使うの。そこをその魔導以外の人が通ると体が耐えられなくって本能的に気絶するのさ。逆に言えば行使者は意識を保てるはずなんだけど」
重ね着した上に水色のジャンパーを着て白いロングスカートをはいた青髪の美少女は未だに瞳を閉じている。糸の切れた西洋人形のようである。
光魔導の越界に必要不可欠な月輝石なるものを突然の屑の襲来によって破壊されてしまい、非常に不安定のまま無理矢理魔導を発動させたのだから、確かに負担は大きいはずである。その状況でしっかりと魔導界に渡れたこと自体実は奇跡なのかも知れない。
僕は辺りを見渡した。周囲には大木が林立している。地面が斜めっている事からここは山の森の中だと推測できる。おおよそ見た限りではどれも科学界で見たことのある草木ばかりである。木々の隙間から見える空も科学界のそれに酷似していた。
空は別世界が天蓋となり、その内側で太陽が輝いている。魔導界と見て間違いは無いだろう。遂に僕は来てしまったのだ、別世界に。
櫻井の視界が治るのを待って僕達はルクナを揺り起こした。まるで死人のように瞳を閉じたままだった彼女はゆっくりを目を開けると、僕達を見るなり曇った藍色の目を丸くして飛び起きた。そしてすぐに周囲を見渡すと胸を撫で下ろした。
「ルクナ、ここは」
「間違いなく魔導界です」
彼女は頷きながら僕の問いに答えた。だがすぐにその表情を曇らせてしまった。
「ただ、ここが魔導界の何処なのかが判りません。本部から近ければ良いのですが」
「確かめる手段はないのか?」
「近くに村があれば聞き込みが出来るのですが……ちょっと見回ってきますね。櫻井さん、ここをお願いします」
「あ、うん。解った」
そう言うなりルクナは歩き始めた。僕がその後を追おうとすると櫻井がそれを阻んだ。まあ見ていなって、そう言う彼女に首を傾げた時、ルクナが何かをぶつぶつと呟き始めた。
「――光の羽衣(Robe of Light)」
そう言うなり彼女は空気を掴んだ。掴み、布を広げんとするようにそれを大きく一回転させると、それを頭から被った。その途端彼女の姿は僕の視界から消え失せてしまった。唖然とする僕に彼女の声だけが聞こえた。
「夜までには戻りますから、ここを動かないでください」
「……そこにいるのか?」
はい、と明瞭な返事が虚空から返って来た。よく目を凝らしてみれば、ルクナの消えた辺りの風景が少しだけ歪んで見える。
「光学迷彩みたいなものなのか?」
「というか、そのものですかね。あくまで見えなくしているだけですから視覚以外の方法で探されるとすぐにバレますし、万能ではありませんよ」
「いや、十分だろう」
「凡人相手なら。じゃあ、行ってきます」
声はそこで切れてしまった。足音すら無く消えてしまった超常現象を目の前で披露された僕は軽く頭痛を感じた。こんな芸当が出来る人間が僕達科学界と同じ奴等だとどうしても信じられなかった。
「行っちゃったね」
隣の櫻井が呟いた。僕は頭を掻きながら問うた。
「解るのか?」
「あたしは熱源探知も出来るからルクナの姿は見えているよ。ルクナのアレが光学迷彩なら、あたしのこれはサーモグラフィーかな」
どいつもこいつも人間離れしている。僕は文句を言う代わりに舌打ちをした。
櫻井はそれを見て小首を傾げた。
「なして怒っているのさ、拓斗?」
「魔導界にはこんな能力者がうじゃうじゃいるんだろう。そう思うと何だかな」
「別に全員がルクナくらい馬鹿強い訳じゃないって。生まれ持った魔導の才能と努力が実った結果さ。自分の魔導を一つも使えない人から、全部の属性の魔導を使える人まで色々いるんだよ。それは科学界だって一緒でしょ。あんたみたいに頭の良い奴もいれば、あたしみたいな馬鹿もいる。あたしの熱源探知の魔導はサーモグラフィーと同じだし、ルクナの羽衣は光学迷彩だし、結局やっている事は一緒なんだよ」
「それでも腑に落ちないんだよ」
「その気持ちは解るよ」彼女は苦笑しながら座った。「あたしがどんなに魔導を鍛えてもルクナには敵わない。勿論状況にもよるけど全盛期のあの子に勝った試しが無いね、あたしは。そこら辺が才能の限界なんじゃないかな」
「そんなにあいつは強いのか」
ただ者では無いとは解っていたが、そこまで言うほど強いとは思っていなかった。生まれ持った才能。誰もが持っているわけではないそれを前にして人は平等などと言えるのだろうか。
僕はふと自分の手の平を見た。覚醒者の力は才能なのだろうか。それに限界はあるのか。考えれば考えるほど解らなくなる。最終的に相手をするのは神という絶対的な存在であり、勿論ルクナよりずっと強いだろう。だがどうしてもその実感が湧かない。
僕の考えを見透かしたように櫻井はコロコロと笑った。
「あんまり深く考えない方が良いって。あんたの力は目覚めたばっかりなんだからさ。無限の可能性があるんだよ、あんたには」
「馬鹿馬鹿しい」
そう吐き捨てた僕はふと一緒に持ってきたはずのトランクを思い出した。櫻井と手分けして探すと少し離れた茂みの所に落ちていた。目立った傷もなく、中身は無事だった。
この中には衣服と暇つぶしのための本、非常時用の水の入ったペットボトルが入っている。ルクナが帰ってくるまで暇であった僕はそこから一冊本を取り出して読み始めた。櫻井はポケットに入れていたらしい携帯オーディオを使っている。先程読書を勧めたが活字は嫌いだと一蹴された。
森の中だからか辺りは怖くなるほど静かである。時折何処かで鳥の声が聞こえる以外は特に音も無い空間。櫻井のイヤホンから漏れた音すら聞こえてきそうだった。その静寂が僕の胸を適度に締め付ける。仰向けに寝ると、地面の冷たさが伝わってくる。
生まれ育った世界が映った空を眺めていると締め付けが強くなった。名状し難い感情が胸の奥底でくしゃくしゃになっていく。そのせいでなのか本を読んでいても文字を頭が読んでくれなかった。僕は読書を止めて隣で静かに音楽を聴いている櫻井を見た。
「櫻井」
僕が声を掛けると彼女は片方だけイヤホンを外して小首を傾げた。
「うん、どうかした?」
別に何の用があって呼んだ訳ではなかったから返答に困った。適当に考えて僕は言った。
「お前さんは科学界から離れて寂しくないのか。お前さんにとってはやっぱり、帰って来たって感覚になるのか?」
「どっちも、かな。あたしの生まれ故郷は確かに魔導界だけど、あっちにいた時間も結構長いし、あんまりこっちに良い思い出が無いからね。でもそうだな、寂しくはないかな。今は拓斗もいるしね」
僕の方を見て愛らしく笑う少女から僕は視線を反らした。
「そういうものなのか」
「どっちかっていうとあたしは唯の事が心配だね」
「あいつはそうそう簡単に死ぬ奴じゃあないさ」
僕がそう言うと、彼女は声をあげて笑った。
「この親バカ」
「張り倒すぞ」




