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急に重力が戻り、私は地面に叩き付けられました。硬すぎず、かといって柔らかくもない感触。反射的に私は立ち上がりました。そして周りを見て、絶句しました。
周囲は完璧な暗黒でした。足下も黒く、奈落の底へと落ちている錯覚を覚えますが、地面は確かにあるらしく足の裏がそれを捉えています。地球上のどれにも該当しない不気味な感触の正体はこれだったのです。
何処にも光源など見当たらないのに、自分の体は鮮明に見て取れます。近くに気絶したままの拓斗さんと櫻井さんを発見しました。その二人の体もそこだけが光っている様に輪郭がはっっきりとしているのです。
二人に息があるのを確認してから、この空間を考察しました。ですがこれといった事は解らず、この異空間の正体は見当も付きません。自然の一切の摂理から隔離された別世界。恐らくこの空間は、この世のどの世界にも属さない亀裂の様なものでしょうか。それすら推測の域を出ませんが。
考えること数十秒、いきなり目の前から靴音が響き、私は短い悲鳴をあげてしまいました。足音のする方向を凝視していると、水の中から浮かび上がってくるように一人の男性が闇の壁の中から姿を現しました。考えるより早く身構えた私を見て、彼は微笑みました。
高身長、黒髪に似合う漆黒の目をした美形の男性。歳は二十歳くらいでしょうか。紺色の礼服に身を包み、優雅な足取りで近づいてきます。
「そう緊張しないで貰えるかな。別に危害を加えようって訳じゃあない」
流暢な日本語で語りかけてきました。私は警戒を解かずに答えました。
「信じられると、思います?」
「信じて貰わなきゃ困る。血は苦手なんだ」彼はかしこまって礼をしました。「越界の邪魔をして済まなかったね。それは素直に謝るよ。あれ以外に方法が無かったんだ」
私は眉間に皺を寄せました。
「あなた、一体誰なんです?」
彼は答える代わりに腕をこちらへと向けました。その瞬間、私の喉元に青いかぎ爪の先が当たりました。それは彼の指から伸びています。
「何って、私は覚醒者だよ。君達が追い求めている、ね」
私は一瞬の出来事に息を詰まらせつつも続けました。
「覚醒者はあなたではありません。既にそこに存在しているのですから」
「九重拓斗の事かい? あんな出来損ないを覚醒者と呼ぶんじゃあ、私達の立場が無いじゃないか。神託も無ければ変異も無い。満足に空も飛べない。そんな覚醒者が存在するとでも?」
「それは……これから開花していくんです」
「苦しい言い訳だね。まあ良いさ」
彼は爪を引っ込めると、気絶して転がっている拓斗さんの所へと歩み寄りました。私はその背中に叫びましたが、それは彼の声に遮られてしまいました。
「待ちなさ――」
「――うるさいよ。静かにしてくれないか? あの人が感づくまでは」
うるさいのはそちらの方です。拓斗さんに近づくな。彼は、世界を救う希望なのだから。私は尚も彼の元へと歩く男の背中に手をかざし、魔導を展開しました。しようとしました。
私の手の先で魔導が展開するのと同時に、右腕全体に鈍い衝撃が走りました。先程の長いかぎ爪が宙に浮いて私の手の平から肩までを貫いていたのです。血が腕から噴き出しましたが、痛みはありませんでした。ですが腕は杭を打ち込まれたかのように動かなくなってしまいました。
突然の出来事に唖然としてしまった私はすぐに詠唱による魔導の行使を選びました。彼を拓斗さんに近づけてはいけないと本能が叫んでいました。ですが、詠唱もまた未然に防がれてしまったのです。
「……ごっ、ぼ」
私が口を開いた刹那喉の奥から血の塊が押し寄せて溢れてきました。それを吐き捨てて言葉を紡ごうとしましたが、声がうまく出ませんでした。そうしている内に二度目の吐血。パニックになっていた私はその時やっと、首にかぎ爪が刺さって声帯を潰していることに気付きました。やはり痛みはありませんでしたが、首から血に濡れた青い爪が伸びている様は生理的な嫌悪感がありました。
「黙れと、言っただろう」
彼は私を睨んでいました。私の体に複数の衝撃が走りました。左腕、右肺、腹、両足を一瞬の内に貫かれたのです。私の服は自らの血で赤黒く染まりました。
喉の奥から止めどなく血液が逆流してきている為息をすることすら満足に出来ませんが、息苦しさは感じませんでした。傷の痛みもありません。苦痛という概念が存在していないかのように。
彼は私の方に体を向けると、ふわりと宙を浮き、漂いながら私の近くへと移動してきました。
「痛みは無いだろう? 私の変異が君の体から苦痛を感じる神経を殺したからね。これで、私が覚醒者であることを信じて貰えたかな」
声の出せない私は首を横に振りました。
「強情だな。ま、良いさ。私が覚醒者だろうが無かろうが、彼が英雄であることに変わりはない。酷く儚い、覚醒者とも呼べない英雄だがね」
私は彼の奥で寝ている拓斗さんの方を見、驚愕に大きく血を吐きました。彼の体は黒い霧の様なものに包まれていたのです。いいえ、霧は拓斗さんの体へとどんどん入り込んでいきます。それが禍々しいものにしか思えなかった私は目の前に立つ彼を睨みました。彼はそれを受けて軽く笑いました。
「やっと気が付いたか。どうだい、良い食べっぷりだろう? 流石に腹が空いていたんだね。……この調子で満腹になるまで食わせるのは流石にまずいかな。そろそろ魔導界へと送ってあげよう」
魔導界へ? どうして?
「だから言ったじゃないか。危害を加えるつもりはないってね。ただちょっと辺境に飛ばさせて貰うよ。彼にはもう少し冒険が必要だ」
彼は私の思っていることを感じているのか、そう語りかけてきました。危害を加えるつもりが無いのなら、今私がおかれている現状はどう説明するつもりなのでしょうか。
「ああ、君はね、ここに迷い込んだ時点でどの道一度死ななくてはならなかったからね。そろそろ意識も朦朧としてくる頃だろう? 安心しな、痛い思いはさせないからさ」
……死ぬ?
彼の口がにやりと曲がりました。
「そうだ、死ぬんだ。あ、どうせ死ぬなら、私が君にひとつ使命を与えてあげるよ。確かにいきなり殺すのも可哀想だしね。人の使命は魂の奥底に刷り込まれるものだ。一回殺したくらいで消えるものではないだろうからな」
言い終わると、彼は手をポケットに突っ込んで口を私の耳元へと近づけました。死の実感の湧かない私はどうすることも出来ず串刺しになった状態でただ全身から血を流していました。
言われてみれば、確かに先程から思考が鈍ってきているような気がします。意識がぼうっとして何も考えられないのです。
彼は私の耳に一度息を吹きかけてから、囁きました。
「お休み、お嬢様」
その途端私の視界が反転しました。あらぬ方向へ飛んだかと思うと視界に赤黒く首の無い少女の体が見えました。それは全身から血を流し、飛ばされた首からは血が間歇泉の様に噴き出していました。その返り血を浴びた美形の男性は私と目を合わせ、静かに手を振りました。
ゴトリと音がして私の頭が地面に落ち、そこでやっと自分の首が切られた事に気付きました。
気付くと同時に、私は絶命しました。




