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雨が僕を濡らしていく。
耳に入ってくるのは雨粒がコンクリートを穿つけたたましい音だけ、視界は無数の雨で白くぼやけてしまっている。足が道を覚えていなければ、今頃僕は迷子になっていただろう。雨が口の中に入ってくるのも気にせず僕は嘆息した。
急に豪雨が襲ってきたのは終業式の中頃であった。お天道様の輝いていた空が、校長先生が体育館の壇上に上がった瞬間灰色に染まった。機関銃でも撃っているのだろうかと思う程の轟音が天井から響き、体育館の中は一瞬にしてパニックになった。教師が声を張り上げてざわめきを抑えたが、その後の校長先生の話を聞いていた人が何人もいないのは想像に難くない。
僕はいつも鞄の底に折り畳み傘を携帯していたが、折り畳み傘の細い骨はこの豪雨にあっけなく粉砕し、今はその役目を三割も果たせていない。靴の中も水浸しになっているらしく、歩く度に中敷きから背筋が寒くなるような不快な感触が襲ってくる。服も水を吸い込んで肌に纏わり付いてしまって重し同然である。出来る事ならいっそ全て脱いでしまいたいが、それをすると今度はパトカーがお迎えに来てくれるのでそれも出来ない。八方塞がりとはこのことか。
一歩が重い。今自分はどれだけ進んだだろうか。雨が矢の如く降り注いでいる為顔を上げることも出来ない。辛うじて見える足下を頼りに歩道を進んでいく。鞄の中身は既に全滅であろうが、構っている暇は無かった。
その時、横から一陣の風が吹き抜けた。突風に煽られ倒れそうになる体を、ガードレールに捕まって何とか持ちこたえさせる。
「こりゃあ、酷い」
言葉が口の端から漏れると同時に横から鈍い音がした。何かが倒れる音。ガードレールに身を預けたままそちらを見やると、対向車線で人が倒れていた。それは起き上がろうとしたが、濡れた地面に手を掬われ再び転んでしまう。
僕は最初それを無視しようと思った。だがそう思って足を動かすと、倒れた人の有様が脳裏に浮かんでくる。他人を気にする暇があるなら家に帰りたいが、どうしても気になってしまうのだ。
迷ったまま、それでも帰ろうとすると、今度は真正面から突風が吹いた。そして横でまた音がした。
遂に僕は耐えきれず、頭をがしがしと掻いてからその人の所へと向かった。
この時無視していたら、きっと僕は平和な日常を送り他者と変わらない死に方を選べただろう。平和でなくとも、きっと無難な日々になったはずだ。どちらが僕にとって幸福だったか、それは今でも解らないし、きっといつまでも解らないだろう。これが僕の選んだ運命でありそれは誰にも変える事は出来ない。後戻り出来ず、吟味する事も出来ず、その上で難題を振りかけてくる。それが運命だ。
運命とはつくづく、皮肉なものである。
風が止んだのを確認してから僕はその人に近寄った。倒れているのは少女だった。歳は僕と余り大差無いだろうか。彼女に近寄った僕は思わず足を止めてしまった。その少女の姿が余りに異質だったからである。
俯せに倒れる少女の髪は宝石を延ばして作ったかのような美しい水色だった。それが背中に掛かっている。僕はこの世界の色と思えないそれに驚いてしまった。
ややあって少女は唸ると、また立ち上がり始めた。伸ばした肘が赤く染まっている。転んだときに擦り剥いたらしい。僕の気配に気付いたのか、ガードレールを支えに立った彼女は僕の方に振り返った。白い肌に整った可愛らしい顔をしているが、その藍色の瞳は対照的にどんよりと曇っていて、およそ生気というものが感じられなかった。華奢な体付きをしている線の細い、少しでも加減を間違えばすぐに崩れてしまいそうな少女だった。
彼女は僕に一瞥をくれると、その場を立ち去ろうとした。
「ちょっと」
慌てた僕は日本語で声を掛けていた。果たして言葉が通じるか自信は無かったが、彼女は振り向いてくれた。
「大丈夫なのか?」
僕は肘の怪我を見ながら言った。少女は無言で首肯した。水色の髪は背中に張り付いて、その先端から水滴を間断なく垂らしていた。
「どこか、行く当てがあるのか?」
少し間を置いてから、首を横に振った。
「どうしてこんな所に居るんだ」
少女は視線を反らした。答えたくないらしい。
「……良かったら、うちに来るか? どうせ誰もいないし。ここから後五分くらいで着くはずだ」
言ってから急に恥ずかしくなった。一応善意のつもりで言っているが、これはナンパと取られても仕方が無い言い方ではあるまいか。少女は何かを考え込むように俯いてしまった。雨音だけが聞こえる。お互いに次の言葉が見つからなかった。
決まりが悪くなってしまった僕は早々に帰ってしまおうと思った。踵を返し、歩き出す。すると隣にその少女が付いてきた。驚いて彼女を見る。彼女も僕を見ていた。感情の読み取れない掠れた藍色の瞳が僕を見上げている。
しばし見つめ合ってから、彼女は口を開いた。
「お願いします」
激しい雨音の中で、それだけは聞き取れた。
少女と出会ってから家までの距離は実際に五分程度であった。知らぬうちに近くまで来ていたらしい。家に着く頃には雨足も多少弱まっていたのは僥倖だった。僕は少しだけ上機嫌になって家の鍵を開けた。
「ちょっと待っててくれ」
僕は彼女を玄関に待たせ、バスタオルを持ってきた。
「これで拭いて」
彼女は一つ頷いて受け取り、濡れ鼠になった体を丁寧に拭き始めた。
「これはもう駄目だな」
僕は自分の制服を摘まみながら呟いた。いくら拭いても水滴が落ちてくる。多少家の中が濡れるのは致し方無さそうである。少女は着ていたロングスカートをたくし上げ、絞っていた。肉付きの良い綺麗な足が露わになった。一瞬目を奪われたが、少女がこちらを見たような気がした僕はすぐに視線を逸らした。
「そのくらいで十分だ。気にしないで上がっていい。後で拭くから」
そう言って玄関を後にする。バスタオルと制服を洗濯機の中に放り込み、リビングの隣にある日本間の箪笥から適当な私服を取り出して着た。返す刀で台所にある救急箱を取り出し、同時に殆ど使われない母の箪笥を漁り、一番小さいサイズのロングスカートとシャツ、パーカーを出して少女の所へと向かった。
幸い肘の傷はそこまで大きいものではなかった。消毒液を掛けてから大きめの絆創膏を貼る。少女は痛がる素振りもせず、傷が処置される光景を物珍しそうに眺めていた。
手当てが済むと、彼女は小さく頭を下げた。僕は用意しておいた着替えを少女に渡した。
「これに着替えて。多分、サイズは合っていると思う。脱いだ奴は洗濯機の中に入れておけばいい」
無言で頷き浴室の方へと歩いて行った。僕は台所に入ってマグカップを二つ取り出し、ホットミルクを作り始める。少しして、着替え終わった少女が台所の前で手持ち無沙汰にこちらを見上げていた。
「適当にくつろいでいてくれ」
「そういう訳にも」
「手伝うような事も無いしな」
彼女は諦めた風に立ち去り、リビングの座布団の上で正座をした。物珍しそうに辺りを眺めている。僕は二人分のホットミルクを持って彼女の所へ向かった。少女は深く頭を下げてそれを受け取った。
「何のお礼も出来ませんのに、済みません」
「そんな物、ハナから期待していないさ」
少女は一度僕を見てから、無言でミルクを啜った。小さな喉がこくこくと動く。
「それで、どうするんだ?」
訊いたが、少女はコップに目を向けたままだった。僕は続けた。
「何か目的があるんだろう。どうして、あんな所にいたんだ」
「……人捜しです」しばしの沈黙の後、少女は言った。「ある人に用があるんです。それだけです」
「それは誰なんだ?」
「言えません」
「そうか」
僕が素っ気なく返すと、彼女は僕を一瞥した。
「それ以上は訊かないんですね」
「僕はここに住んでいる。この周辺の事も大体知っている。名前を言ってくれれば多少は助けになれる。それを踏まえて、敢えて隠そうと言うのなら僕は何も言わない。それだけだ」
「あなた、かなりへそ曲がりでしょう」
「そう言うお前さんだって、皮肉を言うときだけは饒舌になるじゃないか」
拗ねたのか少女はそっぽを向いてしまった。言い過ぎたか、と少し後悔した。
お互いに無言のままミルクを傾けた。窓の外からは未だに雨音がしている。雨足はかなり弱くなったが、傘を持たない彼女ではどの道一緒なのだろう、外に出ようとはしない。沈黙の帳が僕達の間に降りた。
それを破ったのは一本の電話だった。僕は一度少女を見やってから受話器を取った。
「もしもし」
「あ、今大丈夫?」
明朗な声は櫻井という友人の少女のものだった。
「櫻井か。どうした?」
「いやあ、ほら、冬休みの宿題さ。あの土砂降りで見事に死んじゃって……。どうにかならないかな? 持っていたらコピーしてくれない?」
「あの大雨の中で無事な訳がないだろう。僕のだって全滅だ」
「あってま。じゃあもう諦めるか」
あってま、とはあらまあ、という意味らしい。彼女の口癖である。何処かの方言らしいが、興味が無いので僕は良く知らない。
「どうせ少ししたら学校側から何らかの通知がくるだろうさ。それまで待機だな」
僕が受話器を置こうとすると、その肩を叩く者があった。振り返った瞬間背後に控えていたその少女に受話器を奪い取られる。僕が止める間もなく、彼女は受話器に向かって叫んだ。
「今すぐあなたの所に行きますから首洗って待っていなさいこの大馬鹿者」
そう吐き捨てると受話器を叩き付けた。僕は唖然としてしまって声も出せなかった。
「前言撤回です」少女は僕に頭を下げた。「私を櫻井さんの所に連れて行ってください。お願いします」




