1-9 デスレース
……ガササ。
……ん?
ウトウトとし始めていた時、ふとそんな音が聞こえてきて意識が引き戻される。
獣の類か? 近くでこれだけの騒ぎがあっているんだから、もう遠くに逃げているか巣穴に引きこもっているかと思ったんだが。
俺は一応確認のため、ぼんやりとする頭をゆっくりと上げて、音のした方に顔を向ける。
「グルル……」
暗闇に沈んだ森の中に、爛々と輝く紅炎色の双眼。
ゆっくりと近付いてくるその黒に近い青色の体躯を、昇ってきた満月が微かに、それでいて確かに照らし出していた。
俺はそれを見るが早いか、飲みかけの酒瓶を放り投げると二つの袋を引っ掴んで走り出した。
「ウソだろ⁉︎ まさかこんなところにまで!」
「グルアアァァァアアッ‼」
全速力で俺が森の中に駆け込めば、背後から明らかに怒気を孕んだ咆哮と木々をへし折って追いかける音が聞こえてくる。
何故だ……。
何故だ何故だっ!
どうしてこうなった!
「クソッ、とことんついてないっ!」
「グガァア!」
俺はちらりと後ろを確認して追ってくるドラゴンを確認する。
左目あたりの大きな傷痕に、左だけ欠けたツノ。
……間違いない、このオスドラゴン、今日の昼にやりあったドラゴンだ。
でも、一体どうしてここが⁉︎
俺は全力で森の中を走り抜けながら、何処で間違ったかを考える。
作戦は完璧だったはずだ。
匂いも消したし、オトリも用意した。
まさか、それだけじゃ不十分だったなんてことはないはずだ。
俺が今運んでいるこの仔竜が、おそらくこいつの仔であったとしても、それだけ対策すれば十分のはずなのだ。
どうして? 何処で狂った?
俺は走りながら、道具袋を漁って竜の血薬の入った小瓶を取り出す。
そして出来るだけ平坦な通り道を見つけると、そこで小瓶のコルクの蓋を勢いよく開けた。
「ふぅ……、ん? あ、あれは?」
そしてそれを飲もうとした時に、俺の視界がいつかの黄色いオーラを捉えていた。
あれは、たしか。
そう思って、その方向をよく見てみれば、その中心に彩幻蝶がふわりと舞っている。
今日二回目の遭遇に何かしらの感想を感じたいところだが、今はそれどころではないのだ。
俺は一気にその鱗粉のような、きらきらと黄金色に輝く空間を突き抜けると、そのまま開けていた瓶の中の血薬を飲み干した。
全身に熱が駆け巡り、全身にエネルギーが溢れてくるのが実感できた。
「はっ、はっ、……ちょっと、待てよ?」
と、同時にその赤い液体を見つめていると、あることが気になって俺はもう一度振り返り、追いかけるドラゴンをちらりと観察した。
さっきよりも間合いを詰めてきているそいつの左のツノは、根元の方からポッキリと折れてしまっている。
そうだ、あの折れたツノや傷跡が、あいつの特徴。
折れた、ツノ……ツノ?
「あぁ……マジかよ」
まさか、そんな。
俺は道具袋に小瓶を仕舞うと同時に、あのガキの持っていたツノを取り出す。
このドラゴンのツノが、前にあの村にやってきたドラゴンのものだったとしたら。
そして、今追いかけているこいつが、その時のドラゴンだとしたら。
当時若いつがいだったということならば、ちょうど今俺が運んでいるような大きさの仔竜がいるのは何の不思議でもない。
こいつが、その時に村で助けたというドラゴンである可能性は、十分にある。
そして、そうだと考えた場合──。
「クソッたれがっ!」
──あの竜の血薬の原料が、こいつの血ってことになる。
それが何を意味するのか。
竜の血……どうして気が付かなかったんだ。
まさか、匂いを発する元凶を自ら体内に取り込んでいたとは。
さらに運の無いことに、使ってあるのがこいつの血だった影響で、まるで俺がこいつの返り血を浴びているかのような状態になっていたというわけだ。
そうなれば、あんなに対策をしていてもすぐに追いつかれたことに説明がつく。
あぁもう! あんなところで油を売ってないで、さっさともっと遠くに逃げればよかった!
そうしていれば、たとえ返り血を浴びていた状態と同じだとしても、臭い消しの粉塵である程度かき消された匂いは村にまでは届かなかっただろうに!
「グゥガアアアッ!」
しかし、今更後悔したところで、この状況はどうしようもない。
こうなってしまった以上、ここからベストを尽くしていくしか無いんだ。
「は、ふぅ、ふぅ……!」
まっすぐに逃げたら追いつかれちまう……!
俺は木々の隙間を、木の根に躓かないように気を付けながら縦横無尽に駆け回る。
そうしていると、少しずつだがドラゴンとの間に距離が生まれてきたようだ。
さらには、さっき飲んだ竜の血薬の効果なのか、疲労というものは何処かに行ってしまった感覚がして、どんどんとスピードを上げて走れる。
ドラゴンの足音も次第に遠くになってきて、ついには振り返ってもその姿を確認することが出来なくなった。
よし、いけるぞ! このままの調子でいけば……!
「うおあ⁉︎」
ほっとしたのも束の間、いきなり正面に足の竦むような深さの谷が現れて、全力で足を踏ん張って減速する。
崖への死のダイブを決行するすんでのところで、なんとか止まることに成功した。
ふう、と胸をなでおろして、小さく息を吐く。
「グラアァァア!」
「はっ、しまった!」
必死で逃げ回って稼いだ距離を一瞬で詰めて、ドラゴンが俺を追いかけてくる。
俺は何かを考える間も無く、弾かれたかのように再び崖沿いを走り出した。