三話『優しさの決意』
「そういえば今日のこと、お礼がまだ言えてませんでした......お助けいただき、本当にありがとうございます」
......と、アリスは目の前に出されたシチューに手を付ける前に、そう感謝の言葉を述べた。
ご丁寧にも頭を下げて、である。
僕の方はというと、もうスプーンに手を伸ばしかけていたタイミングだったもので、それを空中で止めることになり、少し気恥ずかしい思いをすることになってしまった。
僕は直ぐ様手を引っ込めて、少し迷いながら言う。
「え、えーと、ありがとう?」
「どうして神様がお礼を言うんですか?」
「......なんでだろう。嬉しかったから......かな」
あまりの恥ずかしさに、穴があったら入りたい思いだ。
そのまま惑星の裏側まで掘り進みたいとすら思った。
アリスが僕の言葉にくすっと笑ったのを見て、僕の顔は更に赤くなる。
その光景を見ていたお母さんが、少し笑った。
やっぱり、その奥には悲しそうな感情が垣間見えるのだけど。
「そういえば私も、自己紹介がまだでした......私はアリスの母、ミーシャです」
「あ、えーと、僕は魂隠神です」
お母さん......ミーシャさんが頭を下げたのを見て、僕も頭を下げる。
一応僕は神様なので、そんな風な礼儀正しい態度をとる必要はないと分かっているのだが、なんというか、儒教の教えが死んだ今でも染み付いてしまっているようで。
年上の人には礼儀正しく。
「いい神様ね、アリス」
そんな僕の反応を見て、アリスの隣に座るミーシャさんが、アリスを慈しむような目で見ながら言った。
しかし、どこか遠くを見るような......まるで過去を思い出すような、そんな目だ。
本当に一体どうしたのだろう。アリスは気付いていないようだけど......ミーシャさんの様子は、明らかにおかしい。
やっぱり僕が関与しているのだろうけど、迂闊に聞けやしないし......どうしたものか。
「うん」
と頷いたアリスの頭を撫でて、ミーシャさんはアリスに何かを言おうと口を開きかけて......閉じた。
そのまま僕の方を見て、さっきまでの表情を隠しつつ、代わりに言う。
「さあさ、シチューが冷めてしまいますから。早くみんなでいただきましょう」
「は、はい。いただきます」
「いただきます!」
僕はスプーンを手に取り、野菜多めの真っ白なシチューをすくう。
一口食べてみると、そこには母の味があった。
心の奥にしみるような......質素で素朴ながらも、子供の舌に合わせて作られた工夫の味。
それは僕じゃなくて、彼女......アリスの口に合わせられた味なのだろう。
アリスは、頬を片手でおさえて、一口一口味を噛み締めるようにシチューを食べていた。
だから、僕がこれを母の味と感じているのはただの錯覚だ。
だけど......素直に思う。
「......おいしい、です」
また家族に会いたいという感情が湧き出すが、僕は必死にその感情を圧し殺し、笑顔を取り繕いながら呟いた。
自然、スプーンを動かす速度が速まっていく。
本当においしい。
気付くと僕は、二人がまだ半分近くも残しているというのに、先にシチューを平らげてしまっていた。
がっついてしまったみたいで、すごく恥ずかしい。
「おかわり、いりますか?」
「......お願いします」
また僕は赤面して、ミーシャさんに皿を差し出す。
まだ二人とも会ったばかりだというのに、二人の優しさに包まれて......
僕は、家族を感じていた。
◇ ◇ ◇
温かい家庭の食事が終わり......僕はミーシャさんに、お話があるんですけど、いいですかと呼び出され、アリスを家のなかに待たせて外に出た。
きっと、さっきからちらちらと見せている憂鬱そうな表情の理由を話してくれるのだろう。
それはアリスには聞かせられない話らしい......気が付かない間に僕は身を固くして、緊張した面持ちになっていた。
ミーシャさんはというと、まだ少し迷っているかのように、顔をうつむけたままだ。
しばらく待とうと思っていたが、らちが明かないので、僕はついに、自分から切り出すことにする。
「話って、なんですか?」
なるべく優しい声で言ったつもりだったけれど、ミーシャさんは少し肩を跳ねさせた。
そこまで話しにくいことなのか。
僕は困ったように少し頭をかいて、ミーシャさんを見つめる。
「......僕は何を言われても怒ったりしませんから......」
僕の方が年下だというのに、子供をあやすようなことを言ってしまった。
さっきの発言は流石に失礼だったかもしれない。
しかしその効果は確かだったようで、ようやく顔を上げたミーシャさんは、青い瞳でしっかりと僕を見て、一言一言絞り出すように話し始めた。
「......あ、アリスとの......契約を、切って......は、くれませんか......!」
「――え?」
契約を......切る?
決してできないわけじゃないけど......でも、そうすることがいいとは思えない。
また何か危険な目に遭ったときに、僕が居た方が安全なのは確かなはずだ。
どうしてそんなことを言うのか、理解できない。
しかしお母さんの表情は真剣そのもので、そこには自分が死んでもいいとすら思っているような覚悟があるように思えた。
「一応、どうしてそんなことを言うのか......聞いてもいいですか」
「......この国では、神に従いし者になった者は、貴重な戦力として軍に強制召集されます。どんな理由があっても......! 私は、あの子を戦いに出したくないんです!」
理解までは一瞬だった。
そして、今すぐそうするべきなのだとも思った。
ここは森の中だ。
そう人が来るような場所には思えない。
しかし、まったく人と関わらずに生活しているわけではないはずだろう。
どんなにアリスのことを隠し続けていても、限界はある。
その限界が来たとき......この家庭は崩壊する。
僕のせいで。
僕がアリスを助けるために契約を行ったせいで、アリスの家庭は壊れるのだ。
それでは、助けようとして殺すのと同じだ。
自殺しようとしている人の首を掴んで助けようとしているのと同じ。
僕は僕のせいで、守ると誓った者を守れない。
本当に彼女の幸せを願うなら、どうするべきか。
そんなことは分かりきっていることだ。
「私がどうなってもいいんです! だけどあの子だけは......お願いします......!」
涙ながらに頭を下げるミーシャさんを見て、僕はため息を吐いた。
「アリスには言わない方が......いいです、よね」
憂鬱だ。
繋がりを断つというのは、本当に。
僕を知ってもらった人間を、一方的に切り捨てるなんて......どう誤解されるかも分からない。
それを教えることもできない。
彼女は優しすぎるから......こんなのを聞けば、契約を切らないと、頑なに言い張るだろう。
僕だって契約の切り方なんて分からないけど......しかし、魂と違って主である神ならば、一方的に契約を切ることだって可能なはずだ。
重い石を肩に乗せたような気分になりながらも、僕は覚悟を決めて、契約を切る。
「......分かりました。契約を......」
いや、正しくは切ろうとした、だ。
僕が半ばまでその言葉を言いかけたとき......それを妨げるような声が、僕とミーシャさんとの間に分け入ったのだから。
「――駄目!!」
家の戸の方から聞こえた、力強い否定の言葉。
美しく澄んだ声はその場の主導権を一瞬で握り、僕たちは口を塞ぐことを余儀なくされる。
僕は驚いて、その声がする戸の方を見つめた。
「――駄目、駄目です、そんなの......私の気持ちも分からないままに、勝手に決めないでください!」
声の主は言うまでもない。
アリスだった。
金の髪を揺らしながら、アリスは僕とお母さんの間に分け入る。
お母さんは驚いて目を丸くし、僕はやってしまったと、頭を抱えた。
会ったばかりのミーシャさんが、僕に話があるだなんて、どこからどうみても怪しいじゃないか。
いくら優しいアリスとはいえ、気にならないわけがない。
どうして家の戸から少し離れた場所だなんていう、盗み聞きが可能な場所で話してしまっていたんだ。
もっと場所を変えようと提案するべきだった......なんて、今さら後悔しても遅いのだけど。
責めるような青い瞳が僕を見つめ、アリスは一方的に巻くしてたてる。
彼女らしくない。
いや、だからこそ、彼女らしいのか。
「私、さっきの話全部聞いてました! どうしてですか!? 私に相談くらいしてくれたっていいじゃないですか! 私は嫌ですよ。せっかく神様と契約して、契約者になれたっていうのに......お母さんもお母さんだよ!」
......と、アリスは僕に背を見せて、今度はミーシャさんを見る。
三つ編みの金髪が激しく揺れ動き、彼女の必死さを雄弁に物語っているように見えた。
「私知ってるんだよ! お父さんは出稼ぎに出たんじゃなくて、軍に行ったんだって! そうでもないと、ずっと私がお父さんと会えない理由にならないもん! 私はお父さんに会えるかもしれないチャンスを逃したくない! それに、神に従いし者の特別生で軍に行けば、奨励金だって貰える! お母さんに楽をさせてあげられるんだよ!」
ミーシャさんの目からは、涙がポロポロと流れていた。
まばたきもせずに、自分の娘の決意を黙って聞いている。
もしかすると、こうなることもある程度予測していたのかもしれない。
ミーシャさんは何も言わずに、ただポロポロと。
そしてここでも、やはり思うのだ、僕は。
彼女は優しすぎる、と。
「アリス、でもね。軍に行けば、君は戦うことになる。戦場っていうのは、君みたいな優しい子が行くところじゃないんだ......殺すか殺されるかなんだよ。殺さなくちゃ、殺される。そういう場所なんだ」
無駄だと分かっていながらも、僕はアリスの肩に手を乗せて、こちらを向かせて言った。
やはりアリスはその程度の言葉で決意は揺らがないようで、再び僕をしっかりと見据えたまま、言葉を吐き出す。
「私は殺すのも殺されるのも嫌です。それどころか、戦うことだって......だけど、私が戦わないことで死ぬ人がいるかもしれない。今日の私だって、神様が来なくちゃ死んでいたかもしれないんです。だから、私はそんな人のために戦いたい。その誰かを守りたい......その力になってくれませんか!」
彼女は自分よりも他人を優先する。
今日という日に、彼女は自分の命がこれ以上ないほどに大切だと知ったはずなのに。
それでも尚、誰かのためなら戦えるという......しかし、本望ではないのだろう。
決して、戦って誰かを助けるために軍に入りたいんじゃない。
本当の何よりもの望みは、母に楽をさせてあげること......
誰かを守りたいというのは、理由であって本望じゃない。
そんなことは分かっている。
だけど僕は、それでも彼女に戦ってほしくないのだ。
どんなに僕が強くて、絶対に彼女を守れるとしても......僕は彼女に、殺しを経験させたくないのだ。
僕だって、殺しは嫌だ。
なるべく殺さないように手心は加えるけど......それで絶対に大丈夫という保証など、どこにもない。
いつかきっと、何処かの誰かを殺して......そのとき、彼女が彼女のままでいられるはずがない。
僕は最後に問う。
「本当にいいんだね? 今ここで僕が契約を切れば、君は今まで通りの、何も変わらない生活を続けていける......それを放棄してまで、君は戦うことを望む?」
それは運命の選択。
選択によっては、人生はそこで大きな転換を迎えることになる。
彼女の今後の人生を大きく変える問い......それに、彼女が出した答えは。
「――......はい。変わらないままじゃなくて、変わりたいと思うから」
――それから数日後......アリスは、特別スクワイヤー生軍学校に、入学することになる。