一話『契約』
時は遡って数時間前。
僕が死亡した直後のこと。
おかしいな、と気付いたのは、トラックの下敷きになってから数十秒後のことだった。
何がおかしいって、何もないのだ。
何の音も聞こえないし。
痛みもない。
そのまましばらく待ってみても、やはり何も起こらない。
僕が死んだのは間違いないと思うんだけど......じゃあここは、死後の世界?
五感のうち聴覚と触覚が通じない以上......ここはもう、視覚に頼るしかないか。
目を開けるかどうか、僕も一瞬ためらったけど......このまま永劫の時を過ごすわけにもいかない。
もし死後の世界......みたいなものが本当にあるのだとしたら、見てみたいという気持ちもあるし。
意外に死んでしまったことに対して冷静な自分に驚きつつも、僕はゆっくりと目を開いて......
――目を開くってなんだ?
そもそも、目がないぞ?
いやまて、体自体......存在していない?
僕がそれを認識した瞬間......それは視えるようになった。
といっても、目がないのだから、網膜に焼き付いた情報が脳に流れて知覚するような、科学的な見え方をしているわけではない。
なんというか......説明しづらいけど、例えば何かを思い出すときとか、ボンヤリとその光景が頭の中で浮かんでくる......よね?
そんな感じに似てると思う。
場所の情報が直接頭の中に流れて、それを思い出している、みたいな。
そんな感じの視え方。
もっとも、そんな頭自体もないんだけど。
しかし......もっとおかしいのは、それが二つ同時に視えていることなんだ。
二つの場所を、同時に視ていることなんだ。
違う映画を同時に見ているような気持ち悪さがある。
片方は空。
もう片方は荒野。
そして再び、その場所を視ていると認識した瞬間......情報が流れてくる。
今度は場所の情報だけ、なんて生易しいものじゃなかった。
この世界の、ありとあらゆる情報の数々が一気に駆け巡る。
『グラズヘイム』
僕らの存在する宇宙から別次元にある世界。
『契約』
魂や神と呼ばれる超常的存在の力を得ること。
『契約者』
契約を為したものたち。
......なんだ。なんだよこれ。
違う......日本語じゃない。
英語でもない。
僕が知っている言語じゃ......
――いや、違う。分かる。理解できる単語だ。
これは......そうか、僕は学習してるのか。
この流れ出る単語の数々を、僕は学習している。
何も見ていないはずなのに。
この、グラズヘイムという世界で存在するために必要な最低限の情報を、世界から与えられているんだ。
それを世界が望んでいる?
そこまでは分からない。
けれど、脳という容器を失った今や、どれだけの量の情報が入ってこようと、制限はない。
覚えようと思った数だけ、覚えられる。
僕はこれでもかと言わんばかりの情報の数々を、次々と飲み干していくことにした。
そうすれば、僕はこれから何かをすることができる。
死んだはずの命を、何かに使うことができる。
空っぽの青春を、埋めることができる。
そんな予感で満ち溢れていたから。
『魂を駆る者』
魂の契約者。魂を狩り、自らの従僕とする。
――巡る。
『神に従いし者』
神の契約者。神に祈りを捧げ、自ら従者となる。
――巡る、巡る、巡る、巡る。
......どれくらいの時間が経ったのか、正確には分からない。
だけれど多分、それはほんの数秒の間の出来事だったと思う。
しかしその間に僕は、僕がどういう存在で、これからどうなるのかを、何となく予想が付くまでには、学習できていた。
そしてその予想はピッタリと当たることになる。
......荒野の方。
僕は誰かが近付いてくるのを視ていた。
タッタッタッと駆けて来ている。
僕目掛けて。
そして次の瞬間には、僕は斬られていた。
こうなることはさっき理解していたし、逃げるつもりもなかった。
僕ら魂は、こうなるために存在するのだから。
片方の視界がグニャリと歪む。
そのまま暗転した片方の視界をただ視つめていると、次に声が聞こえた。
――名の呈示を。
女の子の声だ。
僕と同じくらい......だと思う。
日本語を使っていない。
だけど、それはさっき僕が学習した言語だ。理解はできる。
――魂隠神。
僕は正直に、喋ろうと思っても口がないので、念じて答えを返した。
日本名ではあるが、これが僕の名前だ。
こちらの言語に変換はできない。
――たまがくれ......しん? 変な名前ね。あたしはアーニャ・ス・ミルドロイ。アーニャお嬢様って呼んで頂戴。いいかしら?
――はい。アーニャお嬢様。
貴族かなにかの生まれなのかな。
とすると、僕はこれから何になるんだろう。
執事......とか?
――それじゃあシン、いくわよ。その身に刻め!
感覚のなかった、存在してすらいなかった肉体の構築。
人間の体を、取り戻していく。
「――契約を!!」
これが、僕にとって一度目の契約。
そして僕は、アーニャお嬢様の僕となった。
◇ ◇ ◇
「へぇ~。シン、あなた、結構いいじゃない」
僕が耳という器官を取り戻してから二番目に聞こえたのが、そんな言葉だった。
結構......いい?
僕は次に、目という器官を使用して、網膜に光の情報を伝達する。
やはり、さっき視ていた荒野だ。
だが今回は、先ほどよりもはっきりと、細部まで確認できる。
およそ人間の限界を超えたところまで、はっきりと。
そして正面に立っていたのが、僕の主。
アーニャ・ス・ミルドロイ。
僕が日本にいた頃では見たことのない、銀髪だ。
鏡のように光を反射するそれをツインテールに結わえている。
服装はまんまお嬢様で、フリフリと動きづらそうな赤いドレスを着ている。
それがまたこの荒野に不似合いな格好だった。
正確なところは分からないが、身長は僕よりも頭一つ分低いくらいだと思う。
そして彼女の外見の最もたる特徴であろう、それ自体が光源であるかのような金色の瞳は、真っ直ぐに僕を捕らえて放さないでいた。
「――いいって......何がですか?」
僕は静かな声で言った。
正直な話をすると、こうやってトラックに轢かれて死んだはずの僕が、こうして違う世界で存在できている(まぁ死んだ状態で、だけど)ことを、僕自身は飛び上がりたいほどに嬉しく思っている。
しかし彼女は、これから彼女自身が死ぬまで僕の主となられる人だ。
慎重に言葉を選ばなければならない。
ここで好感度最悪でスタートしてしまったら......これからが気まずくて仕方がない。
人間関係は慎重に、慎重に、だ。
中学の頃に、その重要性は嫌というほど学んでいる。
「あなたの服装よ。執事服を着てくるなんて、分かってるじゃない。流石はあたしが見込んだ魂なだけはあるってところかしら」
言われて気付いた。
本当に執事服を着ている。
ビシッと締まったこの服、動きづらそうだけど......うん、これはこれでいいかもしれない。
いやでも、どうして執事服を......って、あぁ。
さっき僕が執事になるのかなぁって考えたからか。
想像で服を変えられるのか。想像で創造できる、なんつって。
......こほん。
「お嬢様の魂となった以上、当然のことです」
「ふふっ。その心掛け、気に入ったわ。さっき感じたその力はどんなものかしらね......あなた、魂器にはなれる?」
「婚期? お嬢様が心配されるようなことではないと思いますが......」
「婚期じゃないわよ! こ、ん、き! 魂の器!」
魂の器......
なるほど、それで魂器か。
しかし、それはさっき流れてきた情報にはなかったぞ?
一体どういうものなんだろう。
僕が疑問に思っていると、聞くまでもなく、お嬢様は解説を始めた。
「魂器っていうのは、魂が変化できる......道具っていうのは言い方が悪いわね。やっぱり器、かしら」
「器......ですか」
「そ。その種類は多種多様で、魂によって変化できる器は変わるわ。まぁできる魂とできない魂はいるけどね」
つまりは、武器とかになれるってことなのかな。
これはできる魂とできない魂がいるそうだから、さっき流れてきた最低限の情報には含まれなかったのか。
しかし、うーん......僕にできるとは思えないんだけど......
服を創造できるような魂となった今なら、できるのかな?
「魂器はその魂の能力を最も強く発動できる状態。担い手がいなきゃ使い物にならないけど、魂によっては圧倒的な力を持っていたりするわ。もちろん、魂器の状態よりも、普通に戦った方が強いって魂もいるけど」
戦う......か。
僕も戦うことになるのかな。
さっき流れ込んできた情報の中にあった。
この世界は、魂を駆る者と、神に従いし者という二つの契約者が、互いに思想の違いから争っていると。
その歴史は古く、およそ数百年以上前から、争いは続いているらしい。
僕も魂だから......きっと、戦うことになるんだろうな。
お嬢様を守るために。
我が主の剣として。
......殺すのは嫌だな。
「理屈は分かりました。しかし、どうやればその魂器になれるのか......それが分かりません」
「簡単よ。あたしが呼ぶから、あなたはそれに応えるだけ」
確かに簡単だ。
言うのは。
ちょっと先が心配だなぁ......
「はぁ......じゃあここは一つ、やってみて下さい」
「分かったわ」
お嬢様は気軽にそう言って、二歩、三歩と後退る。
そして僕に向けて片手を向けると......
「――来なさい! 魂器、シン!」
「はい!」
瞬間、僕の体は再び分解される。
構築されていた体が、先ほどの逆再生を行うかのように分解を繰り返す。
徐々に全身の感覚が消えていくというのに、痛みがないからか、何故か僕は安心していた。
最初は指先などの末端から。次に腕、足、腹、頭。
あるはずのない偽りの血液の流れすら、段々と消えていく。
心臓の鼓動も止まった。
全身の器官という器官を失えば、残るは淡く輝くアストラル体の魂。
思考に直接流れ込む、不思議な感覚を再び感じるようになる。
そして、光の粒子となった僕の体は、お嬢様の手の中へと凝縮されていく。
淡い輝きも、集まれば力強く、これでもかと言わんばかりの光を放ち......そして。
「......っ、できたわ!」
自分の情報が流れ込んでくる。
およそ一メートル半はあろうかと思われる長い刀身。
ピシッと引き締まったようにすら見えるそれは、陽光を反射してギラギラと鈍く銀に輝き。
鋭利な切っ先はこの世の全てを切り裂かんと欲し、これが僕の体でできているのかと、自分でも驚愕が止められない。
鞘はなく、ただ扱うだけでも危険極まりなさそうなそれを、お嬢様はしばらく危なげなく振り回すと、ロープをくくりつけ、背中に背負うようにして装備した。
「珍しい剣ね......確か極東の島国に、こんな武器があったかしら......カタナ、とかいったっけ」
そう、僕は刀の姿になっていたのだった。
殺したくないと思ったのに。
殺すための武器となって。
もしかすると、剣道を習っていたことが大きかったのかもしれない。
模擬刀を買っちゃうほど、日本刀が好きだったこともある。
......しかしお嬢様を守る上で、この上なく強力な武器であることも確かだ。
魂器として......お嬢様を守る武器として僕がイメージできたのが、刀だったから......こうして、僕は刀の姿になったのだろうか。
それにしても、本当に呼ばれて応えるだけでできてしまうとは。
言うは易く行うも易しといったところかな。
――お嬢様、刀をそうやって背中に装備するのは危ないですよ。
僕は念じて、そう忠告した。
背中から鞘のない刀を抜くなんて、万が一背中に傷がついたらたまったものじゃない。
危なすぎるし、扱いにくすぎる。これは経験談だ。
「えー、いいわよ。こっちの方が慣れてるわ。それより、さっそく試し切りしてみましょ」
――そうですか......知りませんよ、どうなっても。
「これはあなたなのよ? あなたが斬りたいとでも思わない限り、斬れやしないわ」
――......僕がお嬢様を斬りたいと思う可能性はないと、言い切れるんですか?
「言い切るわよ。あなたはあたしが見込んだ魂なんだから」
信頼されているというよりは、ただ愚直というような気もするけど。
でも多分、優しい方なんだろう。
そんな感覚はないのに、お嬢様の背中の温かみを感じたような気がした。
「この岩なんか、ちょうどいいわね」
荒野をしばらく歩いて見つけた、数メートルはある大きな岩をポンポンと叩きながら、お嬢様は言った。
普通の刀ならばまず斬れないような、硬そうな岩だ。
しかし、僕はただの刀ではない。
魂器と呼ばれる、魂の器なのだ。
「いくわよっ!」
――はい!
斬る......イメージ。
僕が斬るのではない。
僕で斬るのだ。
僕自身が刀となって......斬る!!
キィィィン!! という甲高い金属音の後......その岩は。
「はっ! はっ!! はぁっ!!」
その......キィィィン!! 岩キィィィン!! はキィィィン!!
「――ちょっと!? これ全然斬れないじゃないの!! あなた斬ろうと思ってる!?」
――思ってますよ!
正になまくら。
岩から欠片を出すのが精一杯といったほどの貧弱っぷりであった。
何度も何度も、様々に斬り方を変えて岩を打ち......ようやく諦めたのか、それともただ疲れたのか、お嬢様は刀を背中に直した。
「戻りなさい。魂器、シン」
お嬢様と背中合わせの状態で人の状態に戻った僕は、あまりの気まずさに、振り向くこともできなかった。
「あなた......あれだわ。最弱」
背中越しに、そんな言葉を頂く。
怒りを隠しきれないような、震える声だった。
「すみません」
どうやら僕は、数ある魂の中でも最を乗せて弱いらしい。
何がお嬢様を守れる、だ。
人を殺すことになるかもしれないなんて不安、まったく必要なかった。
「お......お嬢様は、ずいぶんと慣れてるんですね......魂の扱いに」
あまりの気まずさに、僕はつい話を逸らしてしまう。
そんなことをして、お嬢様の気持ちが収まるわけでもないのに。
「まぁ、あなた以外に四体契約してるしね」
「じゃあ、五体もの魂を?」
魂についての情報は、最初に記憶している。
確か、魂を駆る者自身の能力が高ければ高いほど、契約できる魂の数と、魂自体の能力は多く、大きくなるんだとか。
一般的な魂を駆る者が契約する魂の数は一つで、エリートでも三つだそうだから......お嬢様の能力は、一体どれほどのものなんだ......?
「あなたはその中でも最弱よ」
「うっ......」
墓穴を掘ってしまったようだった。
お嬢様は思わず呻いた僕を見かねたのか、続けて言う。
「――いいわ。一度帰って、ステータスクリスタルであなたの能力をしっかり見てみることにしましょう」
「......はい」
ステータスクリスタルってなんなんだろうとか、帰るってこの荒野からどこにとか、疑問は色々あったけれど......そんな疑問を質問にできるほど、僕は肝っ玉の据わった魂じゃない。
素直にお嬢様の言うことに従うのみ。
「ほんと、変なのは見た目だけにして欲しいものだわ......」
「変......ですか?」
見た目が変?
執事服はさっき褒めてくれたから違うだろうし、手足も別に変じゃない。
身長も百六十八センチと、そう高いわけでも低いわけでもないし。
じゃあ顔?
髪の毛が茶髪って、ここではそんなに珍しいのかな?
分かってないの、と言ってお嬢様はこちらを向く。
このまま背中を向け続けるわけにもいかないので、僕も振り向いて、お嬢様と顔を合わせた。
お嬢様はビシ、と僕の顔を指差し、言う。
「――そのあなたのオッドアイ! 右目が金で左目が青なんて、そうそういないわよ!」
......え?
僕は顔に手を当てる。
右目を塞ぐと、そこには......
「なんだ、これ......」
空が......青い空が映っていた。
僕は片目ずつ、違う場所を見ていた。