六話『偵察』
――どうして突然、怒ったりしたんですか?
......と、フュンフさんの極限強化で空を飛びはじめてからしばらくして、僕はそう切り出した。
もうあれから十数分は経っている。
そろそろ気持ちも落ち着いて、聞けば教えてくれる頃合いなんじゃないかと思った......のだが。
「......」
お嬢様はこのアストラル状態の僕が見えているのやら見えていないのやら、せっかくの美しい金色の目をギロリと鋭い目付きにして僕のいる方を睨み付けた。
まだ腹の虫は治まらないらしい......けど、そろそろ理由の一つでも教えてもらわないと。
なんだか僕までもやもやする。
さっきはあんなに凄い家族愛を演じていたというのに、納得がいかない。
再び、教えてくださいと質問をしようとしたとき......お嬢様は吹き付ける突風のなか正面を向き、僕に顔を見られないようにして口を開いた。
「......喧嘩よ、喧嘩。あたしが実戦に出してくれって言ったら、駄目だっていうから......あのクソジジイ」
今言葉の最後にすっごい聞こえちゃ駄目な言葉が聞こえた気がするんだけど。
クソジジイって。
さっきまでお父様って呼んでたのに......落差激しくないですか?
まぁそれはひとまず置いておけるような問題じゃないような気がするけど置いておいて。
――でもそれは、お嬢様の身を案じて言われたことなんでしょう?
僕は至極当然の答いを返す。
言われずとも、お嬢様は分かっているだろう。
こんなこと、本人が一番よく分かっていることなのだ。
ただ認められないから、知らないフリをしているだけで。
え? そうだったの? そんな、お父様はそんなことを考えて......なんて浅はかなことを言う人間じゃないことは、僕だって知っている。
お嬢様にだって色々と葛藤があって、こうして拗ねているというだけのはずなのだから。
「......」
無言は全部肯定、とかいう無茶苦茶を言うわけではないが、この場合のお嬢様の無言は肯定と見なしてもいいようだった。
無言といえば、さっきからフュンフさんも無言を貫いたまま空中を蹴り続けているのだけど......ある意味、お嬢様の心に深く関わらないで無言を通すというのは、執事の鑑とも言える行動なのかもしれなかった。
しかし別に、僕は執事の鑑になりたいわけじゃない......ただ、お嬢様の支えになりたいのだ。
そのためにも、関わることは必要だった。
――お嬢様は確かに......とてもお強いです。毎日特訓もしていますし、お勉強もなされています。しかしお嬢様は、あくまでお嬢様なのであって、一兵士とは命の重さが違うということを、覚えておいて欲しいのです。
「......そんなこと分かってるわよ。けど、その命の重さという枷のせいで、一兵士が死んでいくのを黙って見てられないわ。あたしは魂を駆る者の次の王なのよ。王なら、民の前に誇れる姿を見せなきゃいけないじゃない」
――まだアーニャお嬢様は、お嬢様です。総統でも陛下でも王でもない。まだお嬢様なんですから......王の役目はルルド総統に任せて、もう少し、ゆっくりと......
「そんな悠長なことは言ってられないのよ!」
僕の説得の言葉に、お嬢様は過剰に反応した。
強い否定の意が汲み取れる、強烈な言葉だった。
そんなに何か、急がなければならない理由でもあるのだろうか。
「......シン、といったな」
フュンフさんはここで、空を飛びはじめてから初めて口を開く。
まるで、自分の主を守るように。
僕という敵から、守るように。
「それ以上言うな。アーニャお嬢様も、過去に辛い経験をされた上での結論だ」
僕にその、過去とやらに何があったのかを聞く勇気はなかった。
それだけ、フュンフさんの口から出た言葉には重みがあって......悲惨な過去を思わせるだけの、悲壮さがあった。
踏み込んではならない一線が、そこにあったように思う。
僕はこれ以上は何も聞くまいと黙りこくって、お嬢様の肩越しに見える横顔を、ただ視つめていた。
その横顔は、ここからではどんな表情をしているのか......詳しくは判別できなかったけれど。
とにかく、悲しそうな顔をしていたように思えた。
◇ ◇ ◇
アウス山脈を越えて、マグナ荒野。
普段ならば、そこの上空からマグナ戦線の奥を偵察するのだけど......今日のお嬢様は、機嫌が悪い。
マグナ荒野を無視して......そのままマグナ山脈上空へと赴いた。
もうあと少し進めば、実戦が行われている地帯である。
マグナ戦線......そこは先程の荒野というよりも、どちらかというと砂漠といった方が正しいような、開けっ広げな景色だった。
見渡す限り砂地が続き、視界は黄土色一色に染まっている。
一応流れ弾の心配からは無縁とはいえ、ちょっとした望遠鏡を使われれば、下手をすれば見られてしまうほどの距離しかない上空で、フュンフさんは止まった。
真下の山脈には兵たちが控えており、現在進行形で行われている戦争のための休養をとっていたり、補給をしていたりしている。
お嬢様はそこからお姫様抱っこのまま、取り出した双眼鏡で戦況を眺めはじめた。
「......やっぱり戦況は少し落ち着いたみたいね。押して引いてじゃなくて、拮抗した戦いになってるわ......」
――思ったんですけど、こっちは後ろに山脈、相手は海でこっちは圧倒的に有利なのに、どうしてこう拮抗するんですか? もっとこっちが圧勝してもいいはずじゃあ......
「オーディンよ。現在神に従いし者軍最強の神と謳われている、あたしたちの天敵。それがこの戦場にも投入されてるらしいわ......」
――オーディン......
実体化していない今では視界はぼやっとしたままなので、この広い戦場は見通せないけど......どころか、戦闘の光すらもほとんど見えないのだけど......お嬢様が天敵とまで言われる神が、このなかにいるなんて。
僕は身震いした。
いや、身はないのだから、心震いというべきか。
とにかく、その神とお嬢様を会わせてはいけない......そういう使命感にも似た思いが、僕のなかに湧き上がってきていたのだ。
それができるかどうかはまた、別問題として。
「――こうして偵察をすることに、意味があるなんて思えない」
お嬢様は双眼鏡から目を離さないまま、独り言のように呟く。
実際、独り言なのだろう......誰かに聞かせたいわけじゃなくて、自分自身で、再確認を行っているだけ。
だってそれは、僕を含めたみんなが分かっていることなのだから。
「お父様は、あたしに戦場を見せることだけで、満足させようとしてるのね。偵察っていうのはあくまでただの名目よ............あたしは、オモチャを買ってもらえないから、ガラスの外で見てるだけの子供ってことかしら」
それは言わば、血気盛んな幼い少年が、ヒーローもののテレビを見ているのと同じ。
できないけどやりたいことを、外から見るだけで満足しようとしているという......ただそれだけ。
偵察だって、もっと他に信頼できる筋があるのは確かだろう。
ルルド総統にとっては、お嬢様という存在はどれだけ年を取っても、子供のままなのかもしれなかった。
「......あれは」
と、お嬢様は双眼鏡を下に向けて、驚くような声を出した。
驚く......といっても驚愕ではなく、疑問の意が強く含まれたような声だった。
――どうしたんですか?
「敵よ。数は少ない......三人。分隊もないわ。はぐれたのかしら......あ、でもこの山脈に入っていく......いや、迂回してるわね。確かこの山脈には使われていない坑道があったはず......そこから後ろに回って攻撃を仕掛ける気かしら。壊滅とまでは言わないまでも、それなりの打撃が出る可能性はあるわ......」
――え、ちょっとお嬢様?
分隊とか言われても、戦争に対して知識のない僕には分からないのですが。
一応説明してる気なんだろうけど......その光景が見えない僕には、ちょっと分かりづらい。
つまるところそれは一体、どういうことなのだ?
「つまり敵が来ていて、それに気付いてるのはあたしだけってこと。ねぇ、これはどうするべきだと思う?」
お嬢様はさっきとは打って変わって、満面の笑みを浮かべながら僕に問いかける。
銀色のツインテールが可愛らしく揺れた。
......なんだろう。すごく、すごく嫌な予感がする。
さっきまであんなに不機嫌だったお嬢様が、敵を見つけてこんなに笑顔な理由。
まさか、まさかとは思うけど......
――......お嬢様? まさか、戦うつもりじゃ......
僕はかけない冷や汗を存分にかきながら、あまりの心配で震えるような言葉を念じた。
お嬢様は僕のその言葉を聞くと、自販機の下にお札を見つけた少年のように目をキラキラと輝かせながら答える。
もちろんそれは僕の予感通りの答えで。
僕の聞きたくなかった答えでもあった。
「――当たり前よっ! ここであいつらを拿捕すれば、お父様もきっとあたしを認めざるを得ないわ! 行くわよ、フュンフ!」
「承知」
――フュンフさん!?
承知しないで......って言っても、僕たち魂に、主に逆らう権利はない。
あるのは、従う義務だけだ。
お嬢様が行くと決意してしまった時点で、止める術はないのである。
しかし僕は、それでも説得を続ける。
別にあとになって、あのときああ言ったのに......といって自分を保身するために言うわけではない。
ましてや、アリスと同じ国の人間だから......なんていう優しさに満ち溢れた理由から、お嬢様を止めようとしているわけでもない。
彼らだって、お嬢様のところの兵士を殺しているなら、それは当然の報いだと僕は断言できる。
ただ純粋に、僕はお嬢様が心配でならなかったのだ。
何かがあってからでは遅いのだから。
――お嬢様っ、ここは下にいる兵に連絡を回した方が安全では......
「そうしてる間に攻められるかもしれないでしょ!? 今がチャンスなのよ! ......あ、今坑道に入ってったわ! 追いかけるわよ!」
死人に口なし、ということなのか。いや、それだとまた若干意味合いが異なるけど。
どちらかというと完膚なきまでに、といったほうが正しいのか。
まぁどちらにしろ、お嬢様は僕の言うことを一蹴して、フュンフさんはお嬢様を抱っこしたまま、一気に急降下を始めた。
上空数千メートルからの急降下というのは、現代のテーマパークのジェットコースターとは格段にレベルの違う恐怖感がある。
いやしかし、あちらと違って今の僕にはふわっとする気持ち悪い感覚の原因である内臓がなく、人によってはその感覚のせいで怖いと感じている人もいるそうなので、そういうことでは今の僕はそこまで恐怖を感じていないのかもしれないのだけど。
それに、どうせ僕はこのまま地面に衝突しようとも、アストラル体である以上まず死にはしない。
そんな計算もあるから、考えてみればそう怖くは......
......いや、訂正する。
すごく怖い。
やっぱりレベルが違った。
内臓なんてどうでもいいくらいに、視える景色の恐怖が圧倒的だ。
だって、山のゴツゴツした岩々の横を、すり抜けるように通り過ぎていくのだ......当たっても死なないと分かっていても、怖いものは怖い。
もっと言えば、フュンフさんはこの下の方向に向けて、極限強化を行ったジャンプを行ったのだから。
速度は光速を軽く超えるんじゃないかとすら思うようなレベルだった。
そもそも、どうして重力という下に向かって引っ張られる力があるのに、更に加速するのか。
無駄なエネルギーの浪費ではないかと、今回ばかりはフュンフさんを問い詰めたくなった。
こんな状況、お嬢様は大丈夫なのかと思って顔を視てみれば......
「......っ......」
口を真一文字に結んで、必死に声は出すまいとしていたけど......
顔は青ざめてるし、目は涙目だしで。
本人も怖がっているようだった......
いやまぁ、そもそもお嬢様はこんなこと命令してないし、別に怖がろうと不思議ではないのだけど。
ただ、普段からずっと強気で、完璧のように思えたお嬢様が、こういうのは苦手なんだと分かると、少し安心するというか、親近感がわくというか。
クスリとも笑えない状況ではあるのだけど、少しばかり僕の恐怖も薄れた気がした。
......いや。
――うわあああああああああああ!!
やっぱり気のせいでした。