おじいちゃんの正体
「将人、ご飯食べたら歯を磨くのを忘れないようにね」
「えー、ママ、僕あの新しい歯ブラシ嫌いだよ」
「そんな事言ってると、お祖父ちゃんみたいに入れ歯になっちゃうわよ」
リビングの私を振り返る孫に口を開けて見せると、しぶしぶ歯ブラシを持ってきた――が、磨こうとしない。まだまだ甘えたい年頃だから、母親にして欲しいのだろうか。
私が子供の頃もあんな風に小言を言われたものだが、歯ブラシの方は随分様変わりしてしまった。鏡とセットになった複数のロボットアームの先は歯ブラシになっていて、絶妙な力加減で汚れを落としてくれるという代物だ。
それなりに値は張るが、最近では専らこの手の歯ブラシが主流になっている。メーカーはしのぎを削って開発競争に精を出し、掃除という本来の役割のほかに、口臭対策や美白など様々な効果をうたうことに忙しい。
「ねぇねぇ、お祖父ちゃんが子供の頃はみんな手で動かす歯ブラシを使ってたんでしょ?」
「ああ、そうだよ」
歯ブラシを指でつついている将人に答える。もう電動でない歯ブラシなど、個人が買い求めるのは難しくなってしまった。
「今と違って、柔らかい食べ物や甘いお菓子も沢山あった。お金を払えばいくらでも食べられたんだ」
「いいなぁ……ママのくれるおやつは硬いおせんべいとかするめなんだもん。もっとケーキとか食べたいよ」
「甘いものばかり食べて、歯磨きもしないでいるとこうなってしまうよ?」
「歯が無くなるなんて、ずーっと後の話でしょ」
歯のない口でいーっ、とやって見せると将人は笑った。こんな口でも首もとのスピーカーが発声を助けてくれるので、言葉に不自由はない。まったく、便利な世の中になったものだ。
少子高齢化が進み、医療費抑制のため予防医学に力が注がれるようになってからどれくらいの時が経っただろう。昔は想像もしなかったが、学校では歯磨き指導が制度化され、いかにきれいに磨けたかを競う『歯磨きコンテスト』まであるそうだ。
「そうだ。今度の歯磨きコンテストで一番になったら、ケーキが食べたいとママにねだってみたらどうだ?」
「そっか!」
将人は台所に飛んで行き、水仕事の最中である母親に何か話している。約束を取り付けたのか、にこにこ顔で帰ってきた。
「僕、コンテストでがんばって優勝するね!」
「ああ、その時を楽しみにしているよ。どれ、じいちゃんがお店で買った、とっておきのブラシを使ってみるか?」
「わー、手で動かすやつでしょ? 使わせてー!」
洗面所から子供用の歯ブラシを持ってきて渡すと、将人は熱心に手を動かし始めた。店を何軒も探すのは骨が折れたが、孫に嬉しそうに使ってもらえるなら買った甲斐があった。
ハイテクな一品も結構なのだが、どうも手で磨く感触は捨てがたい。私が昔の人間だからだろうか。
「あら、よく磨けているじゃない。お祖父ちゃんに歯ブラシもらったの?」
「うん! すっきりして気持ちいいんだ」
将人がうがいを終えたところで、水仕事を終えた母親が現れた。
「すっきりしたところで、もう寝る時間よ。パジャマに着替えましょ」
「まだ眠くないもん!」
駄々をこねる将人を宥め、寝室へ送り出す。三十分ほどしてから、母親が戻ってきた。
「いつもすみませんお義父さん、ご迷惑をおかけして」
「いやいや、何が迷惑なものか。孫の健康のためならお安い御用さ。歯磨きも、歯なしのふりをすることも」
私は洗浄剤をコップの水に溶かし、自前の歯から外したカバーを放り込んだ。歯磨きをサボる子供の教育用に、と聞いたときはどうかと思ったのだが、将人を見る限り効果はあるようだ。
「ああ、わたしも年かな。少し疲れてしまったよ。絵美子さん、甘いものでも貰えないかね?」
「でも、お義父さんももうすぐ寝る時間じゃないですか」
「いいじゃないか、少しくらい。私は歯が丈夫なんだ」
齢七十を過ぎても、無傷の歯は私の自慢なのだ。
「ダメですよ。歯は丈夫でも、この前病院で『糖尿病に気をつけてください』って言われていたでしょう」