スマトラのトラ
「私は最初から反対だったのよ。でも、子供が出来る前だったのは不幸中の幸いかもね」
荷ほどきが終わっていない段ボールに囲まれた部屋で、先ほどの母が電話口で言った言葉を反芻した。何が不幸で、何が幸いなのだろうか。「君はいつだって、冷めていたじゃないか」という言葉同様、忘れられない言葉になりそうだ。
土地勘を得るために、町を散歩した。ドラッグストアや、コンビニの場所を記憶していく。駅前の、旅行会社の店先に置いてあるチラシが目に留まった。
『スマトラ島』
シーズンではないからか、安かった。家に戻り、結局使わないままだったパスポートを取り出し、旅行会社の店内に入った。明明後日出発なら、更に値引きしますよ、という事だったので、それにした。
「最小催行人数が集まってよかったです。助かりました」と、手続きをしてくれた品良く太った中年の男性からお礼を言われた。ネームプレートから察すると、この会社の社長なんだろう。
「中止になるところだったのですか? 」
「いや、赤字でもやりましたよ。気持ちの問題です」
「そのお気落ち、分かります」
申込者氏名欄は、パスポートの名前に合わせた。強制加入の旅行保険の、保険金受取人の名前を書き間違え、新しい用紙をもらった。そこには母の名前を書いた。
ジャカルタ経由で、スマトラ島のメダンに到着した。空港の到着ロビーで、私の名前がローマ字で書かれた紙を両手で掲げているインドネシア人らしき男と合流した。彼の持っている紙に書かれた私の名前は、パスポートに記載しているヘボン式表記じゃないけれど、それはそれで南国らしい大らかさを感じさせてくれた。「Ms.」と書かれているのも、素敵。
彼の持っている紙には、男性と思われる別の名前も書いてあった。
男性だった。私と同じ年くらいだろう。大きな茶色の真新しいトランクを引っ張って、その人はやって来た。この人は、テキサス行きの飛行機を乗り間違えて、ここに来たのではないか。
ツアーは、私とこの男だけな様で、インドネシア人らしき男は私と彼のトランクを強引に取ると、「Let's go」と言って、空港の出口へと向かった。私と彼は、その後に着いて行き、そしてワゴン車に乗った。
彼は少し迷ってから、私と同じ前列に座った。私は、三人掛けの席の真ん中の空いたスペースにハンドバックを置き、旅行ガイドブックを取り出した。
「すみません。彼は今、私達になんと言ったのですか? 」
彼は尋ねてきた。
「ホテルまで二十分で着きますと、仰っていましたよ」
「ああ、それでトウェンティか。ありがとうございます」
ワゴン車は、ひどく揺れた。牛乳をこの車に置いておけば、バターができそう。綺麗に舗装された道路でこれほど揺れることのできるワゴン車に乗れただけでも、来た甲斐があったと私は思った。
「素敵な帽子ですね」
私は、ガイドブックを読むことを諦め、隣の男に話しかけた。
「あ、ありがとうございます。この旅行に行くために買ったようなものです。ところで、さっきから彼は、何を話しているのですか。言葉なんて、現地に行けばなんとかなると思っていたのですが、どうにもならないですね」
彼は、そう言って笑った。
「明日、行く予定のグヌンレウセル国立公園について説明してくださってます。野生のスマトラトラは滅多に見れないそうです。どうしてもトラを見たいのなら、動物園に行った方がいいと」
「そうなのかぁ。野生の、見れるといいですね」
「ええ」
スマトラトラが、私達の前に姿を現すという、予感めいたものを私は感じた。膝の上に移動させたハンドバックが、車の揺れで少し飛び跳ねた。
読んでくださり、ありがとうございます。
短い作品で大変恐縮ですが、感想を戴ければ幸甚です。