トマトジュースの港
「ただいま」
それはいつも私がこの店のドアを開いた時に口にする言葉だった。仕事帰りに時折立ち寄るこのお店。それはいつしか私の日課のようにもなっていた。すると間もなく店の奥から聞き慣れた声が耳に届く。
「いらっしゃい」
マスターのその言葉が空気の中で泳ぐ間に、カウンターの丁度真ん中。いつもの椅子に私は手を掛ける。思えば二十四歳になってたまたま立ち寄ったあの日から、ここが私の特等席だった。何故ならこの席が誰かに座られている事は今まで一度も無かったからだ。
住宅街のはずれにある小さな喫茶店。きっと学校でも近くにあれば、学生が帰りに立ち寄るだろう。いやいや、もっと言えばテレビの情報番組でも二度三度取り上げられそうな、木目調で落ち着いた雰囲気の良いおしゃれなお店だ。
……なのに、やっぱり今日も客は私一人みたい。
「今日はちょっと早くない?」
マスターが不思議そうに声を掛けてきた。
「うん、まぁちょっとね」
いつもより少し重たいバッグを隣の椅子にドサッと置くと、私はまるで家に帰ったようにふーっと息をついた。
「お疲れさま」
何も言わなくても、私の前にそれは当たり前のように差し出される。店内の白色灯に照らされ、穏やかに光るグラスに注がれたそれは、鮮やかな赤を彩っている。透き通るような美しさなのに、決して水っぽく無く、ひとくち嗜むと濃厚でほどよい酸味。だが喉を通るとスッキリとした後味のトマトジュース。
「今日はねー、なんか語りたくなったから早めに来た」
私がそう言うと、マスターは「いつも喋ってるじゃん」と笑う。そうなのだ。いつも私はこの店に来ると饒舌になってしまう。訊かれなくてもあれこれ答えている。「そんな事言ってたっけ?」ってくらい、今日あったこと、楽しかったこと、嬉しかったこと、会社での愚痴や不満やのストレスも喋っていた。
「実はね……」
そのグラスに注がれたトマトジュースを見つめて漏らした私の声色は、いつもと感じが違うとマスターも察したようだった。
「何かあった?」
「うん、今日会社辞めてきた」
小脇に置いたバッグをポンポンと叩きながら私は「この中、デスクに残ってた私物なんだ」と笑う。
「えっ……ほんとに辞めたの?」
いつも私の話に驚いたリアクションを取るマスター。この時ばかりはさらに輪をかけてオーバーに驚いている。私にとって彼のその反応がどこか可笑しくて、ちょっとしたアトラクションの一つになっていた。
「うん、辞めた! で、辞めてきてやったらなんだかスッキリした!」
ほら、またとんでもない表情で驚く。私はただ普通の話をしているだけなのに、どうも彼にとっては不思議な事だらけなのだろう。どちらかと言えばそんな彼の驚きの連発こそ、私にとって不思議な事でもある。
不思議と言えばこのグラスに注がれたトマトジュースがそうだ。私が初めてこの店に訪れた時、メニューを開いて注文を決めかねていると、マスターが「もし、良かったら」と、それを差し出したのだ。
それはメニューに載っていない試作品だった。何となくジューサーで試行錯誤の末に作ったのは良いものの、気軽に試飲を頼める客が居らず。誰にも評価を得られなかった所、たまたま迷い込んでしまった私に白羽の矢が立ったらしい。そして、それ以来私はこの店のメニューを開いた事は一度も無い。
「いつもながら美味しい」
「どうも」
あの日、私が試飲して絶賛したことから、お店のメニューの一つに加わったと聞いていた。
「これ、結構注文されるでしょ?」
「んー。ないね」
そう言い切って苦笑いするマスター。刀でバッサリと藁を斬ったかの反応に、私はちょっとショックだった。そんな素っ気なく言われると私もちょっとムキになってしまう。
「じゃあさ、いっその事これを目玉にして繁華街に店を移転しちゃえば? お客さんきっと増えるよ」
「だから、今時、トマトジュースなんか流行らないって」
「そうかなぁ……。もっと目立つように大きくポスターでも作って店の前に貼っちゃうとか」
「だから、喫茶店の看板メニューがトマトジュースっておかしいでしょ」
「あぁ、確かに。『喫茶店』とは言えないよね」
「どんだけ野菜好きなんだよここの店主って言われるのがオチだよ。まぁその時は、喫茶店なんか辞めてサラダバー専門店やってるかもな」
「あっ、それいいね! サラダバー専門店やっちゃえば?」
「……軽く言うなよな」
「あはは」
こうして他愛も無い話をしているうちに時は過ぎてゆく。いつもそうだ。ここに居ると時間という感覚が無くなってしまって困る。
「じゃあ、ごちそうさま」
「はい、いつもありがとう」
私はマスターに軽く手を振りながら店の外に出た。もうすっかり暗くなったその街並みも、今日で暫くお別れだ。ついに私はそれをマスターに告げることはなかった。
私は明日、この街から旅立つ。嫌な事もあったけど、楽しいこともそれ以上にあった。だから、そんな驚きをまたどこかの街で得られる事があるならそれもいい。限られた人生の中で。
でも、きっとまたマスターの驚いた顔を見に来るような、そんな気がする。突然来なくなった私の話を聞いて、どんな顔で驚くだろう。そして、そんな彼を見つめながら、あの全く人気の無いトマトジュースを私は口にしているのだろう。そう思うと少し可笑しくて一人ニヤニヤしてしまう。
だから私はこう言って店を出たんだ。
「行ってきます」
マスターは知らない。私にとってそこは『帰る』事が出来る場所になっている事を。もちろん、私がまた訪れるその日まで、そこで待っていてくれるとは限らないけど。
そして、私はまだ知らない。一度しか開いた事の無いお店のメニューは、私が訪れたあの日から一度も変わっていないことを。そのトマトジュースの味を知っている客は、これまでも、これからも、私一人だけだということを。