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蘇生の魔導書  作者: 涼音奏
たった一つの願い事
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第二話 三

 商都フィルメリアの商区を東へと抜けて、一つ溜息を吐き出したのはフィリア。

 なぜ溜息を吐き出したのかと言えば、それは日を浴びて煌めきを増した淡い黄金色の髪を見れば分かるだろう。

 商区に入る前は腰まで届く髪は愚直なまでに真っ直ぐに降りていたのだ。だが、道行く人を避けたつもりが別の人に衝突し、はたまた道端に無造作に転がっていた商品を踏んで転倒してしまうなど、ここに来て運動神経の無さが発揮されたという訳だ。

 結果が自身の髪。まるで癖がついた髪のように、所々が無造作に跳ねてしまっている。

(……酷い目にあった。二人が一緒でなくて、良かったな)

 人には見せられない醜態を晒したフィリアは、証拠を隠蔽するために忙しなく手櫛を通していく。幸いな事にフィリアの髪は頑固ではなくて、従順な子供のように素直だ。数回指を通すだけで、元通りとなる事だろう。

(これで良いかな。それにしても、何度見ても圧倒されるよね)

 ようやく落ち着きを取り戻したフィリアは、商都の中心に位置する住区の家々へと青い瞳を差し向けていく。効率を重視するために新しい建築様式を取り入れた神都とは違い、商都の住居は古くからの伝統を頑なに守り通している。

 豪雪に対応するために三角屋根である事は同じだが、とりわけ目を引くのは等間隔に並んだ家々の壁面だろうか。

 右を見れば茶色の木々が幾重にも斜めに交差される事で壁面を補強し、左を見れば濃い紅色と淡い紅色の木々が交互に並ぶ縞模様を見せてくれる。単体で見れば統一感がないように思うのかもしれない。しかし、等間隔に並ぶ家々は、一定の法則で並ぶ事で独特の景観を表現し、見る者を楽しませてくれる。

 商都を訪れるのは初めてではないが、フィリアは住区を訪れる度に心が躍る。この辺りは自分でも子供みたいだと思うが、まだ二十歳にも満たない小娘なのだ。これくらいならば神も許してくれるだろう。

 一分、二分。

 ゆっくりと周囲を見渡す事で景観を満喫したフィリアが、視線を前方へと向け直した時。

 まるで心を引き締めろと警鐘を鳴らすかのように、忙しない音が鳴り響いた。

「――頼む、見逃してくれ。頼むから!」

 否、届いたのは懇願に満ちた男性の声だろうか。

 よくよく見ると、灰色の煉瓦が敷き詰められた道で、痩せ細った男が地面に頭部をこすりつけるようにして許しを乞うていた。それも一度、二度ではない。額から血が出る事も気にした様子はない痩せた男は、眼前で腕を組んでいる恰幅のいい男性に向けて何度も何度も頭を下げていたのだ。

(……何かの事件? でも、様子が)

 窃盗でもして捕まったのかと思ったが、男の謝り様は尋常ではない。躊躇している暇も惜しいと感じたフィリアは、早足で現場へと急行する。神都の修道女であるフィリアが商都の事件に介入する事は、あまり好ましくはないが、放置出来るような問題ではないと判断したのだ。

「ルシオールへ行く前に――きっちりと払ってもらわないと困るんだよ!」

 どうやらフィリアの直感は正しかったようで。

 恰幅のいい男性は声を荒げて、許しを乞う男を一喝した。会話など不可能な事は明白であり、誰かが間に入らなければ事態はより複雑となるだろう。

(最悪はどちらかが……)

 極限まで追い詰められた者は、時として強者へと牙を向ける時がある。この場合で言えば、痩せた男が刃物を取り出す事も想定されるのだ。

(――間に合って!)

 フィリアと彼らとの距離は、歩数にして十歩。

 叫べば声だけは届くが、声だけで静止出来る確証はない。むしろ教会所属の者が介入する事は痩せた男をさらに追い込んでしまう可能性もある。現状は刃を止められる位置で、より冷静な対応が求められていると言えるだろうか。

 遠距離から魔導で威嚇しても良かったのだが、それは論外だろう。しかし、その論外をすべきだったという事を遅れて理解する。

 なぜかと言えば――

「ずっと、ここにいるくらいなら」

 今の今まで土下座に徹していた男が、腰のポケットに隠し持っていた刃物ナイフを取り出しながら立ち上がったからだ。足元はおぼつかないが、彼の眼は飢えた獣のように怪しい光を帯びているように見える。その光の正体は怒りと憎しみだろうか。

 彼の内側に収めてはおけない憎しみが多分に込められた刃物。

 訓練を受けている者であれば容易に防げるのだろうが、痩せた男同様に恰幅の良い男も素人だ。体格差は確かにあるけれども、刃物を持っている方が有利である事は容易に想像出来る。

「止められない!」

 目の前で殺傷事件が起きようとしている。

 それを止める事が修道女たるフィリアの役目であるというのに、どれだけ自身は無力なのだろうか。どれだけ走っても、今から魔導を発動しても間に合いはしない。

 これがフィリアの限界。

 元々不向きな事をしているのだから、訪れるべくして訪れた結果なのかもしれない。

 だとしても、フィリアは足を止めない。才のない者が足を止めてしまえば、追いつきたいと願う人に追いつく事など出来ないのだから。

 ゆえに、フィリアは疾走しながらも魔導を発動する準備を進める。

 狙いは痩せた男が握っているナイフの刀身。長剣と違って面積が少ないために狙うのは難しいが、それでも成さねばならない。

 諦めなければ、まだ可能性はあるのだから。その想いが伝わったのだろうか。

「――たった一つの願いのために。主がそう願うように」

 凍てついた風と共に届いたのは解放序詞だった。

 詠唱士の決意を込めた力ある言葉は、人によって千差万別だ。

 同じ修道女であっても胸に秘めた理想は違うのだから当然であるだろう。だが、今はそんな事はどうでもいい。紡がれた解放序詞が聞いた事のあるもの、という事の方が重要だ。

 姉の願い叶えるためにひたむきに歩み続ける蘇生の魔導書、リーヴァ。

 フィリアを狙うために再び現れたと思ったが、彼女の実力を思えば奇襲など不要だろう。では、なぜ彼女は聖歌を奏でているのか。

「矢を放ちなさい、フィリアロッテ。後はリーヴァが何とかしてくれます」

 内に浮かんだ疑問に応えてくれたのは、心を包んで温めてくれるかのような優しい声だった。状況はよく分からないが、放つ以外に道はないフィリアは迷わず力を解き放つ。

 矢が解き放たれる、刹那の直前。

 言葉の一つ一つを連結させて作った淡い桜色の輪は、フィリアが顕現させた矢を中心にして高速で回転する。力を受け取った矢は一つ瞬きをする間に住区を駆け抜けて、目標であるナイフを粉々に破砕して見せた。

「そこまでです!」

 何とか最悪の事態を回避する事に成功したフィリアは、耳にうるさくはない天から授かったよく通る声を力の限りに飛ばす。

 しかし、反応が返ってくる事はなかった。

 魔導の矢が放たれ、それだけでなく突然の介入者が現れたのだ。反応が返ってこないのは無理からぬ事だろう。

(……むしろ好都合かな)

 相手が何も出来ないならば、こちらの進めたいように出来る。

 一つ呼吸をする間に考えをまとめたフィリアは、静寂を切り裂くように歩み始める。だが、その歩みを快く思わない者もいるようで。

「フィリア、止まって。今回の件はアルフが引き継ぐから」

 拙い声が静止を呼び掛けると共に、魔導の輝きが住区を照らしだした。

 視線だけで左側を確認すると、住区の屋根上に青銀の髪を揺らす少女が、右側には白を基調とした分厚い甲冑を身に纏った青年がフィリアに向かって歩み寄ってくる。

 身長はアーネストと変わらないくらいの長身ではあるが、端正な顔立ちに浮かべる柔和な微笑みのおかげで威圧的には見えない。むしろ、髪と同色の茶色の瞳は温かさすら感じさせて、友好的に見えるだろうか。

「あなたがアルフォンスですか? 教会の修道女を止める、その意味を理解していますか?」

 如何に友好的に見えたとしても、彼らは味方とは呼べない。

 むしろこれから幾度となく刃を交えて、止めなければならない相手だ。教会という権力に頼ってでも対等な立場で接するべきだろう。

「アーネストから聞いたようですね。そうです、私がアルフォンスです。本来であればゆっくりと己の素性を語りたい所ですが……まずは問いに答えましょう。魔導と宗教が国を治めているフェーリア神国内であっても、私達は教会あなたたちの権力には屈しません。自身の心を磨き……己の意志に従って行動する者が騎士。現状を知り、なおも放置するあなた方とは違います」

 対するアルフォンスは言葉だけでなく、左腰に吊った鞘から長剣を抜く事を返答とした。

 これ以上邪魔をするならば実力で排除するという事だろう。実力の程は不明だが、アーネストの話では騎士を率いる権限を持っている隊長だ。そこまで上り詰めた背景には複雑な事情があるようだが、実力が皆無の者が隊長を名乗る事はないだろう。

 彼だけでも脅威に値するが、次は容赦しないと宣言したリーヴァも臨戦態勢に入っている。冷静に考えれば退くべき状況だろう。

(それでも、私は……)

 冷静な自分が心の温度を急激に冷やしていくが、フィリアは右手に権杖を顕現させる事で心を震わせる。

 教会は確かに法による正義と隣国との競争の狭間に置かれ、正しい判決が出来ない事もある。とりわけ、この商都は裁かなければならない貴族が平気な顔をして歩いているのがいい例だ。

 それを許せないと語るのは、確かに理解出来る。

 しかし、教会の神官は皆が皆、心を引き裂かれるような想いをしながらも国の安泰を祈っているのだ。その痛みを知らずに非難するのは間違っていると思う。

「――抗います!」

 だからこそ、フィリアは屈しない。

 敵わない事は理解しているけれども、心の内にある想いだけは曲げたくはないから。

 揺らがない想いに応えた魔導書は、宙へと数える事も馬鹿らしい数千に渡る矢を顕現せしめる。質よりも量を優先したのは、蓄積式の魔導を用いたからだ。

 フィリアという媒介を経由する事で魔導の質が低下する事は周知の通り。ならば、豪雨さながらに降り注ぐ矢によって防壁を設ける事で、左斜め上から駆ける桜色の矢を防ぐという訳だ。

 空中に浮遊出来る相手であっても、屋根上から地上まで降りるのは時間が掛かる。これで数十秒か、数分の間はアルフォンスと一騎打ちをする事が可能だ。

 一秒にも満たない間に考えをまとめたフィリアは、青い瞳に確かな意志の輝きを燈して地を蹴りつける。

「修道女にしておくには惜しい人材ですね。リーゼの妹というのも納得です」

 対するアルフォンスはまさか抗うとは思っていなかったのか、柔和な表情を徐々に引き締めていく。その瞬間に彼の全身から放たれたのは、氷が張っている湖に落とされたかのような冷え冷えとした殺気。

 恐怖に従順な体は一瞬だけ鈍ったが、フィリアは意味のない叫び声を上げる事で自身の心を奮い立たせる。しかし、その過程が無意味であった事を瞬時に思い知らされてしまう。

「私の殺気を感じても屈しませんか。本当に残念です」

 なぜかと言えば、彼の声が届いた瞬間に、フィリアの体は糸が切れた操り人形のように崩れていたからだ。一瞬訳が分からなかったが、腹部が焼けるように熱い事で自身が斬られた事を理解する。

 剣筋が見えないとか、そんな問題ではない。斬られた事すら分からないフィリアでは敵う訳がないのだ。いや、こんな人間離れした剣技を扱える相手に勝てる者がいるのだろうか。

 まるで底なし沼に足を踏み入れたかのように、沈んでいくフィリアの心。ここで諦める事が出来るならば、どれだけ楽かと思う自分もいる。

 だとしても、フィリアは――

「諦めない。私は救うと決めたんだから」

 折れそうになる心を、あえて決意を口に出す事で鼓舞していく。

 それだけでなく、癒しの魔導を発動する事で最後の足掻きをする。魔導適正の低いフィリアは魔導書から力を引き出せないだけでなく、魔導の影響も受けにくい。それは癒しの魔導も例外ではなくて、通常の者よりも傷が癒えるには時間がかかるだろう。

 それはよく分かっているけれど、フィリアは生きて意志を貫くために魔導の発動を止めない。地べたに転がり、なおも諦めないフィリアは滑稽で無様に見えるだろう。

 だとしても、諦めたくはないのだ。リーヴァには伝えたい想いと言葉があるのだから。

 だが、想いだけでは何も出来ない事は事実で。

「教会にもあなたのような方がいるのですね。ですが、これ以上は抵抗しないで下さい。これから先は命の保証は出来ません」

 フィリアの腹部を真一文字に切り裂いた騎士は警告を放った。

 リーヴァ同様に抵抗をしなければ命までは取らないのだろう。彼らの攻撃対象は罪を犯した者。またはフィリアのように幾度となく眼前に立ち塞がる者なのだから。

 ならば、このまま動かずに癒しの魔導を使用していれば死ぬ事はない。それはよく分かっている。だとしても、フィリアは希望が途絶えるまでは諦める訳にはいかない。

「騎士団は彼をどうするつもり……ですか? 返答次第では、私は何度でも立ち上がります」

 動く事が出来ない事は一目で分かるだろうが、フィリアは鉄の味を感じながらも言葉を紡いでいく。冷えた地面はフィリアの体温を否応なく下げて、深い眠りへと誘う。

 もはや体は限界を迎えているが、それでも内側から溢れる熱い気持ちのみで意識を強引に繋ぎ止めていく。どこまでも意固地なフィリアに差し向けられたものは、日を浴びて煌めいた剣ではなくて銀製の篭手。

 どうやら彼は騎士の誇りたる剣をしまい、手を差し伸べてきたようだ。

「私達は彼を騎士の都ロースティアに迎え入れようと思っています。ここにいても商都の貴族達によって税を貪り取られるだけですから。特に現在はフロム・フォン・アルストールと名乗る貴族の動きが活発で……隣国へと逃亡する者が後を絶ちません。それではこの国の未来は絶望的でしょう。ですから、私は彼を導きます。隣国ルシオールを討つ刃として、または力無き者を守る盾となれるように」

 フィリアは突然に手を差し伸べられたために意味が分からなかったが、遅れて騎士の隊長を務める彼は自身を勧誘している事に気づく。騎士が修道女を勧誘するなど馬鹿らしいと思うのかもしれないが、フィリアは魔導の才に恵まれない者だ。あながち見当が外れた事をしている訳ではないのかもしれない。

 それを証明するかのように、フィリアの胸には熱い気持ちが溢れている。フィリアという個を認めてくれた嬉しさと、騎士が抱えている国を想う気持ちに感銘を受けたのだ。

 もし教会に入る前に彼に出会っていれば人生は違っていたのかもしれない。いや、姉であるリーゼを失い、走り出す前であれば付いて行ってしまっただろう。

 だが、今のフィリアは違う。アルフォンスが語る言葉が間違っていないという事は分かるけれども、正しくない事も分かるのだ。

「教会も騎士も……そして、商都も。全てが力を合わせなければルシオール共和国に飲み込まれてしまうでしょう。私はリーヴァを止めて、神官になります。そして、いつか皆が手を取り合える国を作ってみたいんです。だから、私はあなたを否定します」

 フィリアが語るのは、騎士が語る理想とは別のもの。

 もはや夢物語に近い絵空事だ。正直、笑われるのかと思っていた。

「これは私の負けですね。フィリアロッテ……あなたの勧誘を一旦は諦めます。ですが、今回は私が描いた物語の通りに進ませていただきます」

 だが、彼は笑う事は無く。むしろフィリアの考えを認めてくれた。

 笑わず受け止めてくれる人が世界には存在する。しかし、まだ手を取り合うには早すぎるのだろう。そう判断したのは、動けないフィリアを置き去りにした騎士は、先ほど語った事を実行に移そうとしているからだ。

 許しを乞うていた痩せた男が、騎士の都ロースティアに付いて行くのかどうかは分からない。だが、付いていくのだろうという確信がフィリアの中にはある。

 アルフォンスが語った事を信じるならば、ここにいても税を納めるだけで救いなど存在しないからだ。ならば、新天地に賭けてみようと思うのは自然だろう。

 それも隣国に行くという危ない橋を渡らずに、アルフォンスという導き手がいるのだから願ったり叶ったりだ。痩せた男から見れば、救いの手を差し出し騎士は神にも等しい存在に見えてしまうのかもしれない。

(これが止めなければならない相手。私は……あまりにも小さすぎるよ)

 自身の弱さ、未熟さ。

 フィリアという小さき器では収まりきらない悔しさが胸中を覆い尽くす。だが、ぶつける先はあまりにも遠い。姉であれば対等の位置に立てたのだろうが、今のフィリアにはアルフォンスとリーヴァは遠すぎるのだ。

 しかし、再び立ち上がる事が許されるのであれば、必ず辿り着いてみせる。例え無様と言われようとも、必ず。

 そう心に誓ったフィリアは、目標となるべき相手の背中をずっと見つめ続けたのだった。


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