第一話 三
全身に感じるのは小刻みな振動。
まるで小規模な地震でも起きたのかと、そう錯覚してしまう揺れの正体は何かと言えば。全身黒尽くめの傭兵と、白を基調とした修道服の上に防寒用の藍色のローブを身に纏った修道女という異色の二人組を運ぶ馬車の振動だ。
(……何度乗っても慣れないな)
小波のように落ち着いたものから、大波に打ち上げられたかのような激しいもの。
不定期に訪れる二つの振動に対して、フィリアは表情には出さないが若干具合が悪いような気がする。
実務部隊に所属する者は、他の都市に向かう際に馬車を利用する機会はある。
としても、全身が揺れるという体験は体が受け付けないのだ。
対する相棒と呼べばいいのか、仕事仲間と呼べばいいのか判断に困るアーネストは、両腕を組んで俯いた姿勢のまま固まっている。最初はフィリアと同じように調子でも悪いのかと思ったのだが、どうやらそうではなくて、ただ暇を持て余しているだけらしい。
「馬車にはよく乗るのですか?」
無言の空間で居続ける事に耐えられないフィリアは、気晴らしの意味も含めて当たり障りのない話題を振ってみる。無視されたならば、彼に倣って小休止をするつもりだ。
数秒が経って、会話をする事は無理かと思い始めた時に。
「よく乗る方なのかもしれないな。騎士の時は滅多に使わなかったけど……傭兵になってからは各地を回る事も多いから。今回の目的地である商都フィルメリアに行く時なんかは毎回使ってるしねぇ」
まるで狙っているような時機に、アーネストは顔を上げた。
もしかすれば寝ているのかと訝しんでいたが、彼の渇いた墨を思わせる灰色の瞳には確かな力が宿っている。
「そうですか。商都では傭兵の仕事は多いのですか?」
ならば、知りたい事を訊いても差し支えはないと判断するフィリア。
質問の意図は「傭兵」という異世界と言ってもいい程にかけ離れた世界を知りたいと思ったからではなく、彼が目的地に指定した商都をどう思っているのかを知りたかったのだ。
「どこに行っても仕事はあるが……あそこは確かに多いな。なにせ、宗教にも武力にも縛られていない自由な場所だからな。全ては財力が語る、俺らにとっては聖地だね」
さすがに一回り年上のアーネストは、質問の意図を正確に把握したようで。
彼が抱いている商都のイメージを語ってくれた。修道女の前で軽々しく『聖地』とまで言ってしまうのは問題があるように思う。
しかし、彼が正直者であるという点は評価出来るだろう。特にこれから命を預け合うと思えば、なおの事。
「その自由な都市を目的地としたのは……事件が起きると予想して?」
とりあえず地盤を固めたフィリアは、向かいに座る彼の影を思わせる瞳に自らの瞳を重ね合わせる。相手から本音を聞き出したいと思ったならば、しっかりと瞳を見て訊くべき。
姉であり、母親でもあったリーゼの教えを忠実に守ったフィリアは、静かに言葉を待つ。
「こういうところも似てるんだな。ま、いいか。リーヴァっていう子が極端な正義感を持っているならば……とある人物が狙われる可能性が高いと思っている。そいつの名は……フロム。フロム・フォン・アルストール。名前で予想出来ると思うが、蓄えた財を用いて貴族になった男だ。今までは雇った私兵をちらつかせて他の権力を牽制していたけど、今は状況が違うからな」
すると、アーネストは重ねた瞳から逃げるように視線を外した。
フィリアから見て左に逃げた瞳を追いかけても良かったけれど、今は彼が語った内容の方が気になってしまう。
確かに商都では教会の権力に対して、私兵で抵抗する者もいる。その多くは語る事も憚られるような事をしているのだろうけど、確かな証拠がないのであれば魔導の力を行使して締め上げる訳にもいかない。
扱えない者から見れば奇跡の技に見えてしまう、絶対たるものが魔導と呼ばれる力。
だが、力で他者を屈服させれば必ず歪みが生じてしまう。ゆえに、教会も表立って商都の貴族を捕らえる事は出来ないのだ。また、裏側の事情としては、神都ルーティシアへの物資が制限される事を危惧しているという事もある。悔しくはあるけれど、世界はそう簡単には出来ていないという事だ。
だが、世界には権力とは無縁の者達も存在する。
「リーヴァと騎士団の介入ですね」
その両者をあえて口に出したフィリアは、窺うような視線を彼へと投げる。
「ああ。俺の予想ではリーヴァっていう子は騎士団に協力していると思う。もっと正確に言うならば、騎士団の中にいる特定の『誰か』と手を組んでいるのだろうな」
間を置かずにアーネストは一度逸らした瞳を戻して、一つの仮説を述べた。
仮説と表現したが、フィリアは否定しようとは思わない。なぜかと言えば、如何にリーヴァが魔導書だとしても、一人で二年間も逃げ回る事は出来ないと思ったからだ。
何も行動せずにひたすら逃げ回るのであれば、姿を消す事が出来るという特性もあって捕まえる事は容易ではないだろう。だが、あまりいい噂を聞かない者達を消しながら進むのであれば必ず何らかの痕跡は残る。
その痕跡の全てが残らないというのであれば、誰かが協力していると考えるのが自然だ。
「その『誰か』というのが、あなたが狙っている方という訳ですか? 正直な感想を言っていいなら――」
「言っとくが、私怨で目が曇っている訳ではない。ランスターが死んでから奴が隊長になったのは事実なんでね。としても、真相は俺も分からない。だから……確かめたいんだよ」
一応は釘を差しておこうと思ったフィリアだったが、彼は彼なりに考え尽くした後のようだ。ならば、後は何も語らなくてもいいのかもしれない。
あえて何か言っても良かったけれど、黙する事を答えとして返すフィリア。
「――お客さん!」
しばし待てばアーネストが何か言うのかと思ったが、意外にも声を掛けてきたのは別の人物だった。茶色の毛並みをした馬に乗り、フィリア達が乗っている木製の四輪車をけん引していた乗馬従者だ。
何かあったのかと整った眉を歪めたフィリアではあったが、雨風を凌ぐ目的で作られた帆が邪魔で外の景色は見えない。
しかし、アーネストは訪れた事態を一つの可能性として予想していたようで。
「行くぞ。どうやら口で説明するよりも、手っ取り早いみたいだからな」
今も馬車は移動中であるにも関わらずに、腰に吊った鞘から剣を引き抜くと共に帆から飛び出した。一瞬判断に窮したフィリアではあったが、追う他に選択肢は存在しない。
「後できっちりと説明してもらうんだから」
一言不満を口に出したフィリアは、遠のいていく漆黒の背中を追うように静止していた体を弾かれたように動かす。
歩数にして、三歩。
特に最後の一歩は踏み抜く様な鋭さで地を蹴って、帆の外へと飛び出すフィリア。
数瞬の内に閉ざされていた視界は、時を経る事に強さを増していく日の光に照らされて各々の彩りを伝える。馬車が通行する事を考慮して作られた神都と商都を結ぶ整備された北東へと伸びる道。そして、その左右を覆うのは短い草と、極寒の季節に強く咲き誇る数輪の花々だった。
それだけならば、常日頃と何も変わらない光景だろう。
だが、その常日頃を汚すかのように不純な輩が存在していた。
――不純な輩。
見た目だけで判断するのは危険だと思うけれども、身に纏う防具は動物の毛皮で作られ、その下に着る衣服は小奇麗とは言えない。一目で世界の秩序から爪弾きにされた者達である事は分かるだろう。
しかし、フィリアは彼らに対して油断する事はない。
それもその筈だ。まずこちらの手勢は二人である事に対して、相手は十名。尚且つ一点に集まるのではなくて、全方位から圧力をかけるために散開し、徐々に距離を詰めてくる様子は素人とは思えない。
仮に上空から状況を見たならば、フィリアの前方と後方から二人ずつ。そして、左右からは三人ずつ迫っているだろうか。
山賊紛いだと油断すれば、殺されるのはフィリア達だ。
「油断しなかったのは褒めてやるよ。けど、奴らを山賊だと思わない事だ。悪いけど……守ってやる余裕はない。自力で切り抜けてくれよ、相棒」
さすがと言うべきか。
敵の動きだけで手練れと判断したらしいアーネストは、右手に長剣、左手には長剣と同等の長さを誇る筒状の武器――小銃を手にして地面を蹴った。
口では「守ってやる余裕はない」と言いながらも、前線に出る事で自身を狙うように動いてくれるようだ。それを証明するように。右と左に展開している敵は、アーネストの動きに引き寄せられるかのように一度目配せをした。結果として動いたのは、左右から一人ずつ。
つまりは、アーネストが担当するのは前方からの二人と、左右から一人ずつ。当然ではあるが残りは全てフィリアの担当となる。
(……もう守られているばかりは嫌だから。そのための力だよね)
としても、守られてばかりでは納得出来ないフィリアは、右腕で祈りの書を抱え直して一つ深呼吸をする。
「――貫きたい意志をこの胸に。ただひたすらに真っ直ぐに」
凍てついた冷気を含んだ空気が肺に満ちたのを感じたフィリアは、力ある言葉として吐き出す。紡がれた言葉は詩のようでいて、また一種の歌であるかのように聞こえるかもしれない。魔導と呼ばれる力は、一般的には一定の条件において『蓄積』した力を外へと解き放つもの。
フィリアが手にしている祈りの書を例にすれば、神へと捧げられた無垢なる祈りを力として蓄え、他者を穿つ光の矢として、または傷を癒す力として発動させる。
ゆえに、魔導と言えば『蓄積式』と思われるのが一般的だ。だが、一度蓄えた力を新たな力として変換して発動する、という行為は変換の際に無駄が生じてしまう。
強引に数値化したならば、百の祈りを蓄えたとしても、実際に魔導として解放出来る力は八十程度ではないだろうか。としても、力を変換する媒体が優秀であるならば話は別だ。
そういう意味では、魔導を扱う神父と修道女は、如何に魔導書から力を無駄なく引き出せるのかが重要な素質であると言っても過言ではないだろう。
では、今まさに魔導を発動しようとしているフィリアはどうなのか。
恥ずかしい話ではあるが、フィリアの素質は底辺と言ってもいい程だ。百ある力を変換すれば三十程度の力として発動出来る事がやっとという有り様。ゆえに、フィリアは自身を『凡人』だと語るのだ。
だが、凡人にも戦う術は用意されている。
それがもう一つの魔導の発動形式。蓄えた魔導の力を最も適した空間にて発動させる形式である。詠唱式とも呼ばれる異端の魔導は、その名の通りに戦場にて聖歌を奏でる事で魔導を発動させる。
なぜ聖歌であるのかは、至極簡単な話だ。
フィリアの持つ魔導書は教会に捧げられた力を発動させるもの。よって、最も適した場所は教会であり、教会で奏でられるのが聖歌なのだ。
としても、戦いの中で立ち止まり歌に集中するという行為は、大変に危険な行為である事は言うまでもない。そのために扱う者が少ない魔導の発動形式である詠唱式。
しかし、他に戦う術がないのであればフィリアは迷わず異端の魔導を奏でて見せる。詠唱式に発動者の体を『破壊する』という重大な欠陥があるとしても。
解放序詞とも言うべき決意ある言葉が形成したのは、フィリアを囲むような淡い黄金色の輝き。まるで詠唱士を守るように展開した魔導の輝きに照らされたフィリアは、力強く聖歌を奏でていく。
――力の発動に有した時間は、僅かに二秒。
発動者の意思を受け取った魔導書は、長さ百センチ程の魔導光と同色の矢をフィリアの右、左、後方に一本ずつ。そして、防御のために上空へと五本顕現せしめたのだ。
同時にフィリアは、奏でた力ある言葉の一つ一つを形として紡ぎ出していく。各々の文字が好き勝手に世界を舞ったのは一瞬の事で、即座に無数の輪として連結されていく。
連結された輪が向かうのは、今まさに射出されようとしている光の矢だ。
「――貫いて!」
詠唱によって生み出された輪が、矢を中心として視認できない速度で回転した事を感じ取ったフィリアは、抱えた魔導書を強く握り締める。
それを合図にして、フィリア達を囲む山賊達に放たれたのは、小銃の弾丸を思わせる速度で空を切り裂く、淡い黄金色の閃光。発動者ですら視認する事は叶わない高速の矢は、一度、二度と瞬きする間に目標の右膝を正確に貫いてみせた。
アーネストが担当している相手を数に入れなくてもいいとするならば、残りは左右と後方から一人ずつ。合計で三人を行動不能にすれば事なきを得る事が可能だ。
(……落ち着いて狙えば大丈夫。私は姉さんの妹で、神官長の弟子なんだから)
実戦に対して高揚するどころか震えてしまう弱い心を鼓舞したフィリアは、凍てついた空気を肺へと収める。
再び奏でたのは、穢れとは無縁な聖なる歌。
だが、今回はより慎重に詠唱をせねばならないだろう。というのは、こちらの切り札とも言うべき攻撃手段を見せてしまったからだ。そして、傭兵とは違って、命までは奪わないという事まで教えてしまった。
ならば、相手はどんな手段を選んでくるのか分からない。最悪は片足を犠牲にしてでも突っ込んで来る、そこまで予想したフィリアは青い瞳をゆっくりと閉ざして、届く足音を拾っていく。
短い草を乱暴に踏み抜く音が二つと、乱暴に土を蹴る音。
徐々に音が大きくなり、そして、音の律動が変化した瞬間に。
「――降り注いで!」
フィリアは瞳を見開いて、上空に待機している矢へと合図を送る。
刹那。
言葉の通りに、ほぼ真下へと降り注いだのは、眩いばかりの光を放つ五本の矢。
その内の三本は、今まさにフィリアの身を切り裂こうとしている長剣の芯を正確に貫いて破砕せしめた。だが、これで終わりではない。
余った二本の矢が左右から迫る相手の右膝を貫いて、標本の如く縫い付けたのだ。
残りは後方から迫る一人のみ。
今も剣の破片が煌めく中で。フィリアは詠唱を停止させると同時に、左回りに振り向く。
腰まで届く淡い黄金色の髪が収まるよりも速く、長剣を失った事で新たな武器であるナイフを腰から引き抜こうとしている相手よりも速く。
フィリアは左手に十字架を頂いた権杖を魔導の力で形成すると共に、右から左に薙ぎ払う。毛皮で作られた軽装に守られていない腹部を殴打する事に成功したフィリアではあったが、鍛えているとは言っても所詮は女性の力。
相手を数歩後方へと下がらせる程度の効果しかない事は、初めから分かっていた事だ。
ならば、手を休める事無く、相手が行動不能になるまで魔導の力を振るうのみである。
「――魔導の形は密集陣形。一斉射で貫いて!」
しかし、今から詠唱をしては間に合わない。
ならば、祈りの書に溜まった力を正規の方法で発動すればいいだけの事だ。相手を殺すのではなくて行動不能にする事が目的であれば、変換率が低いフィリアの蓄積式でも効果はあるのだから。
魔導の形、密集陣形。
語源は大の男よりも背の高い大楯を隙間なく構えて、その間から二メートルを超える長槍を突き出す防御の陣からきている。
魔導を戦争に用いる事を前提に編み出された蓄積式の形は、与えられた名の通りに無数の光の矢を前方と上空に顕現させる。前方に向いた矢は長槍、上空で待機した矢は大楯という訳だ。
「化け物が!」
矢を向けられた男は表情を青ざめながらも、心許ないナイフの柄を握り締めた。
正直な事を言えば、聞くに堪えない言葉が届いた気もする。しかし、化け物でもいいと思う。深い海を思わせる青い瞳を有した『あの子』を止められるのならば、何だっていい。
例え悪魔と呼ばれても。
揺るがない決意を胸に抱き直したフィリアは、件の相手の肘と膝を狙って矢を射出する。
――一響、二響。
魔導の矢と金属のナイフが重なり、響き合った音色が戦いの場へと鳴り響く。
ここが人を殺める場でないならば、瞳を閉ざして聴き入っていたいと思えるような澄んだ音色。しかし、音色に混じって舞う火花は、嫌でも戦いという現実へとフィリアの心を縛り付ける。
(彼らは何者なの? これだけ防ぐなんて)
縛り付けられた心は、一度冷静な思考を脳裏へと走らせていく。
その瞬間に思い出されたのは、アーネストが述べていた事だ。リーヴァが騎士団の特定の誰かと協力体制を構築している。ならば、彼らは山賊の姿をしているが騎士団からの刺客と考えるのが自然なのか。しかし、自身の技と心を磨く騎士団の中に、利己的な考えを持って動く者がいるとは考えられない。
だが、思考を進める事が出来たのはそこまでだった。
「この程度では止められないぞ、小娘!」
予備の長剣を右腰から引き抜いた山賊が、放たれる矢の尽くを弾いて見せたからだ。
やはり蓄積式では速度も威力も足りない。
改めて自身の魔導に対する適性の低さを思い知らされた時に。
「なら、こいつはどうだい?」
轟音と共に張り詰めた場には似合わない、軽やかな声が届く。
フィリアが驚いて目を見開いた時には全てが終わっていた。容赦も慈悲もない高速の弾丸が、意気込んだ男の脳天を貫いたからだ。即死したのは言うまでもないだろう。
戦いを生業としている男に「殺すな」と言う事は出来ない。むしろ、殺さずに場を収めようとしていたフィリアの方が甘いのだ。しかし、罪人かそうでないかを決めるのは「神官」の務め。実務部隊であるフィリア達「修道女」が、罪人と断定して罰を与える訳にはいかないのだ。
特に将来は神官になりたいと願うフィリアにとっては、譲れない一線だと言う事も出来るだろう。
だが、どれだけ譲れない事でも、傭兵を務める彼には関係のない事で。
「情報は欲しいから生かしておく事には賛成だ。でも、そんな戦い方をしていると――死ぬよ?」
灰色の瞳を細めたアーネストは、フィリアを鋭く睨みつけた。
彼が怒っている事はさすがに分かる。それでも、なぜだか『怖い』と思う事はなかった。おそらく彼がフィリアを想って怒ってくれているからだろう。
「私は死にません。姉さんの犯した罪を終わらせるまで。そして、あの子を止めるまでは」
「あっそ。強情なところまで一緒かよ。本当に姉妹というやつは……」
生意気だと思われるかもしれないけれど言い返したフィリアに向けて、彼は隙なく小銃を身動きが取れない者達に向けながら溜息を吐いた。
「さて、あんた達は誰の指示を受けて……俺達を狙った?」
もう何を言っても無駄だと判断したらしいアーネストは、今やるべき事に思考を切り替えたようで、山賊紛いの男達へと問いを投げた。
フィリアとしては納得いくまで話し合いと思ったけれど、今は襲われた理由の方が気になるために口を閉ざす事にする。
――一秒、二秒。
耳に痛い程の静寂が場を支配する中で。鳴り響いたのは言葉ではなくて、澄んだ金属音だった。
「おい、待てって!」
音だけでナイフを引き抜いたと判断したアーネストは、慌てた声を発した。
だが、声だけで静止出来る訳もなく。また彼が手にしている小銃でナイフだけを射抜く事は難しい。それは、魔導が扱えるフィリアでさえも、ある程度は狙いを定めなければ不可能だ。
そうこうしている内に。
平原へと舞い上がったのは鮮血色の液体だった。
どこか遠回しな表現となってしまったのは、フィリアがこの状況についていけなかったからだ。
「どうして? 罪を認めて投降すれば命までは奪わないというのに。教会は……私が目指す神官は罪人を裁くけれど、人の心に光を燈す仕事だというのに」
血を見ることなど、この二年の内で何度もあった。
けれど、自分で自分の首を斬るという死に方を見るのは初めてだ。確かに両国間の戦争が激化している時は、自決した者がいた事は知っている。
しかし、今は戦争など起きてはいない。神都ルーティシアを中心として、教会の権力が国中に広まっている事もあって、『平和』であると表現するのが適切だ。
だというのに、自決をする者達がいる。その理由がフィリアには分からない。
対するアーネストは落ち着いたもので。
「ちっ……商都か騎士なのか。どっちの刺客か分からないというのは痛いな。それか第三者かねぇ」
剣と小銃を両腰へと固定しながらも独り言を述べた。
一度、揺れた瞳を彼へと投げてみたが、彼はこちらを見ようともせずに馬車に預けた荷物を取るために一歩を踏み出した。どうやら「それくらいは自分で考えろ」と言いたいのだろう。お互いに助け合う事はあっても、どちらか一方に寄り添うべきではない。
寄り添ってしまえば、それはただの重荷でしかないのだから。重荷となるならば、個人で動いた方が格段に動きやすい事は言うまでもない。
(……しっかりしないと。私は弱いままではいけないんだから)
ならば、胸を張って彼の背を追おうと思う。
今の彼がフィリアを『相棒』と呼んでくれるかは分からない。それでも、まだフィリアは成すべき事を成してはいないのだから。
しかし、胸を覆った懸念は、余裕のあるアーネストが吹き飛ばしてくれた。
「日が暮れる前に野営地点までは行く。遅れるなよ、相棒」
照れたような恥ずかしいような。そんな不器用な笑みを浮かべた彼は、どうやらフィリアを気遣ってくれたようだ。
「分かっています。ありがとう、アーネスト」
好意を素直に受け取ったフィリアは、自己評価では満点の笑顔を彼へと送ったのだった。




