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蘇生の魔導書  作者: 涼音奏
たった一つの願い事
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最終話 四

 時が経つ度に苛烈さを増していくノリアス平原で。

(……さすがに多すぎるか)

 頬を伝う汗を拭う間もなく、引き金に指をかけたのはアーネスト。

 裁きの書が生み出した鎖に縛られたハウゼンを撃ってから、どれだけ時間が経ったのか定かではないが、すでに限界が近づいている事は確かだ。

 二列目にいたアーネストでも鉛を付けられたかのような疲労を感じるのだから、一列目で大楯を構えている者の状況は語るまでもないだろう。

 戦いが始まった段階は城壁を思わせた楯も、今は地面に体を縫い付ける重りにしか見えない。極限の状態で盾を持った事があるアーネストは、彼らの気持ちは痛い程に分かる。

 このままでは依然として兵力の衰えを感じさせないルシオール共和国によって、飲み込まれてしまうだろう。

「――左翼で支えるから。一旦下がって!」

 騎士の皆が絶望する中で。

 声変わり前の少年の声が駆け抜けた。その瞬間に、左翼へと展開していた商都の神父達が鋭い一歩を踏みしめて、真紅に輝く魔導を解き放つ。

 中央を進むルシオール側の主力部隊。総数二万の軍勢は中心が前方に張り出し両翼が後退した陣形を組んで、東から西に向かって突撃してくる。仮に上空から戦場を見たのならば、三角形の形に陣を整えた敵が、横三列に並んだフェーリア神国側を突き破ろうとしているように見えるだろう。

 陣の名前は、魚鱗ぎょりんの陣という筈だ。

 部隊の全てが密集するのではなくて、魚の鱗のように数百単位の兵が個別に密集する事が特徴的だろうか。一応は攻撃に特化した陣ではあるが、情報の伝達の早さを活かして戦場の中で陣を変更したい時にも組む事が多い筈だ。

(――まさか変えるのか!)

 主力を前面に集中すると見せかけて、左右へと散開する可能性も十分に考えられる。

 いや、違う。こちら側に選択肢を与える事で混乱させるつもりなのだ。

 そう判断した理由は二つある。一つは、ただ突撃するだけならば、さらに威力が高い陣があるからだ。例を挙げるならば、矢印型を成す蜂矢の陣、または指揮官突撃の陣として知られる偃月えんげつの陣だ。

 そして、もう一つの理由は、主力部隊の動きに合わせて、後詰めの部隊が右翼と左翼を攻撃するために動き出したからである。これは何かあると考えるのが自然だろう。

「アーネスト。一度は恨んだ私を……信じてくれますか?」

 皆が隊を率いる者の声を待つ中で、隊長はなぜかアーネスト一人に声を掛けてきた。

 声に惹かれて灰色の瞳を右側へと向けると、アルフォンスは穏やかな茶色の瞳を眼前に固定しているようだ。疲弊した一列目と、その先に見える万を超える軍勢。

 さらにその奥を見ているような気がする。

「……大将狙いかい?」

 魚鱗の陣は、総大将を三角形の底辺の中央に。

 最も敵と遠い場所に置く事が多い事は周知の事実で、彼はどうやらそこまで駆け抜けるつもりらしい。

「はい。私の直感ですが……敵は陣を変えてきます。もはや私達騎士は疲弊しきっているのは遠目でも分かる筈。ならば、主力である神父達を倒す事を考えるでしょう。私達を倒したところで勝利を掴む事は出来ませんからね」

 一瞬止めようかと思ったが、アルフォンスは冷静だった。

 自分の命を度外視している事は問題だと思うが、このまま教会側の戦力まで削られてしまえば勝敗は決してしまう。その前に大将を討ち取って、勝敗を決するという事だ。

 さすがにルシオール本人が率いている事はないのだろうが、彼に値する人物が率いている事は、後詰めの兵力を含めて総勢三万という規模で判断出来る。

「――たぶん数分後に陣が動くだろうねぇ。一気に駆け抜けようか」

 数百の兵でも息を切らしているというのに、数万を超える中に飛び込もうというのだ。

 怖くないと言えば嘘になるが、なぜだかアルフォンスと一緒ならば何とかなってしまうような気がする。

「全ての騎士よ! 盾を捨てて――我に続け! 目標は敵将の首のみ」

 命令は曖昧なものだったが、騎士は先頭を駆け抜ける隊長の後を追う。

 最後の希望を託したのは、偃月えんげつの陣。

 教会の勢力と共に組んでいた鶴翼の陣とは反対に、中央が先行して両翼が遅れて続くという陣だ。

 作戦は至って単純で。

 指揮官であり一番の剣の使い手であるアルフォンスが道を切り開き、全体の士気を上げるという事だ。開戦も後半に差し掛かり、現在の騎士の兵力は八千を下回っているだろうが、相手が陣を変えた瞬間ならば貫ける。

 いや、そう信じなければ前には進めない。

「今です! 中央を切り開きます!」

 皆が同じ想いを抱えていたのだろうか。

 守りに徹していた騎士がまさか突撃してくるとは思っていなかったらしい敵が、一瞬だけ動きを鈍らせたのを見計らって、騎士達は駆け抜ける。神の眼でも持っているかのように、陣が裂けた瞬間を狙って突き進むアルフォンスの背中は不思議と大きくて。

「……敵わねえなぁ」

 アーネストは自然と独語していた。

 言葉が届いたのか、進路を塞ぐ敵兵を切り裂く騎士の第二位の剣はまるで疲労を感じさせない。むしろ、さらに速くなっているような気さえした。

 負けてはいられないと思ったアーネストは小銃を腰に固定すると、地に刺さっていた長剣を左手で引き抜く。剣と銃を扱えるのならば、双剣くらいは扱ってみせる。

 根拠のない自信に支えられたアーネストは、先頭を進む隊長が倒しきれなかった兵の胴を容赦なく切り裂いていく。

 ――二十、三十。

 もはや数える事も諦めて、徐々に左右からの圧力が増してきた時に。

「――見えた」

 唐突に先頭を進むアルフォンスが口を開いた。

 彼の分厚い甲冑が視界を塞いでいるために状況はよく分からないが、どうやら突撃は成功したらしい。さすがに後ろを振り向く勇気はないが、最悪は二人でも何とかなるだろう。

 そうして、安堵の息を吐こうとした時に。

「……これは?」

 なぜだか生温かい血がアーネストの頬を汚した。

 左右で誰かが斬られたのかと一瞬思ったが、血は正面から飛んで来たような気がする。何があっても倒れないと、誰であっても倒せる訳はないと信じている人が前にいるというのに。

「おい、嘘だろ。お前が斬られる訳……ないだろうが!」

 しかし、現実は残酷なもので。

 彼の色でもある白き甲冑は砕けて、朱に染まっていた。

 さすがの彼も数には勝てないというのか。冷静に考えれば当然の事なのだが、だとしても信じられないアーネストは吠える。

「行きなさい、アーネスト。皆の命……あなたに預けます。それは騎士の第三位の務めです」

 だが、彼は感情に任せて泣く事を許してはくれなかった。

 すでに捨てた騎士の第三位という役目を果たせと、そう述べたのだ。当然に反発する気持ちもある。アーネストは傭兵で、彼をまだ許せていないのだから。

「――続け。ただの一回だけでいい。元騎士、ゼラルド・アーネストが皆を……アルフォンスを勝利に導く!」

 それでもアーネストは地を蹴った。

 亡き友と誇りに殉じた騎士の誇りを守るために。同じ騎士ならば言葉だけで、いや、心を埋め尽くす想いだけで伝わると信じているから。

 胸中を駆け抜けた想いは、背に伝わる騎士達の雄叫びが肯定してくれた。皆倒れてしまったと思ったが、案外元気な事に一瞬だけ安堵したアーネストは、倒れ行くアルフォンスを横切って前面へと躍り出る。

 開けた視界に映ったのは、豪奢な甲冑に身を包んだ騎士。

 いや、彼を騎士などとは呼ばない。騎士は己の心と技を磨く、真っ直ぐな者達を呼ぶのだから。愚直なまでに真っ直ぐで、時には不器用で。

 そんなどうしようもない者達を言うのだ。外見だけ着飾っても、心に広がる誇りだけは似せる事が出来ないのだ。

 それを証明するために、アーネストは剣を振るう。

 何度もランスターと剣を打ち合わせた時を、アルフォンスに負けて悔しかった事を思い出して。

 数多の想いが込められた一閃は、吸い込まれるように豪奢な甲冑を切り裂く。

 と同時に、戦場に轟いたのは騎士達の雄叫びと、どこまでも澄んだ歌声。戦場に歌声が届くなんて、不思議ではあるが誰が歌っているのかはすぐに分かってしまう。

「……お疲れ様、相棒」

 聞こえない事は分かっているが、アーネストは一人静かに祝福の言葉を送ったのだった。


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