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蘇生の魔導書  作者: 涼音奏
たった一つの願い事
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儚い記憶 (三) ずっと変わらない気持ち

 儚い記憶 (三) ずっと変わらない気持ち


 商都フィルメリアから南西に一時間程歩いた先にあるのは、一つの森。

 薄っすらと茂った草に、まるで天に向かって突き進みたいと願うかのような真っ直ぐな木々が乱立する場所にて。

(……幸せだな)

 夜空を彩る星々の輝きに照らされて、主の淡い黄金色の髪に指を通しているのは真っ白なベレー帽と水色の貫頭衣が目印のリーヴァ。

 先日の一件で住む家を失ってしまったけれど、リーゼさえいればそれで構わない。ここが雨風を凌ぐ事が出来ない場所であっても、リーヴァの心は常に温かいのだから。

「……リーヴァちゃん」

 どうやらそれは主も同じようで。

 寝袋に体を収めたリーゼは、枕代わりにしているリーヴァの膝の上でまどろんだ声を上げた。主が寝言で人の名前を呼ぶ事が多い事は、睡眠を必要としていないリーヴァはよく知っている。以前は恋人であった『ランスター』の名前を呼ぶ事が多かったけれども、ここ最近はリーヴァの事も呼んでくれるのだ。

 些細な事ではあるのだが、それが嬉しくて堪らない。叶うならば、ずっと一緒にいたいと願ってしまう。しかし、それは叶わない願いなのだ。

 ただ主の髪に触れるだけの小さな幸せすら満喫する時間はないのだから。

 ――時間にして、二秒間。

 青い瞳を閉ざしたリーヴァは、草をかき分ける音と落ちた枯葉を踏む音を正確に捉えて、周囲の状況を把握していく。

(……八かな。いや、離れてもう二人近づいてくる。数は多くないけど……)

 今まで十人以上の相手に襲われた経験があるために、脅威と感じる事はない。

 しかし、遅れて近づいてくるのは、ある程度の位がある者ではないだろうか。一人であるのならばマウリッツ司祭だと予想するが、二人となれば場合によってはイゼリア神官長も一緒なのかもしれない。

「今回で終わりにするつもりなんだね。でも、最後まで抗うから」

 相手がどれだけ強大でも、リーヴァはただ一人のために戦うのだ。

 唯一信じられる人のために、たった一つの願いを叶えるために。主には悪いと思うけれど、揺らがない想いを貫くために、リーヴァは膝にのせていた主の頭を壊れ物でも扱うように丁寧に置いてから、ゆっくりと立ち上がる。

 膝に触れていた温もりは、無慈悲な風が瞬く間に冷やしていく。しかし、忘れる訳はない。忘れる事なんて出来る訳がないのだ。

(――諦めない!)

 だからこそ、リーヴァは桜色の刀身を形成すると共に地を蹴りつける。

 それを合図として、闇を眩いばかりの赤が埋め尽くしていた。

 その中でも群を抜いて速い矢が二本。いや、速いなんていう次元の物ではない。小さな光が瞬いたと思った瞬間には、リーヴァの目と鼻の先にまで接近していたというのだから。

 慌てて屈もうとしたけれど、当然間に合う訳もない。

(……嫌だ。まだ終わりたくない)

 それでもリーヴァは奥歯を噛み締めて、青い瞳に大粒の涙を溜めながらも迫る矢を凝視する。

「うちの子を泣かせたら容赦しないよ、イゼリア?」

 視界が涙で霞んで、周囲の景色が歪んだ瞬間。

 対話の片手間で主がリーヴァに迫る矢を破壊して見せた。信じられない事に天に矢を形成したリーゼは、地面に対して垂直に魔導を射出する事で破壊して見せたのだ。

 遅れて放っても間に合わせてしまう速度は見慣れていても驚いてしまうが、それよりもリーヴァの顔に掠る事無く射出出来てしまう技量の高さには、さすがの一言しか思いつかない。

 この技量があれば、どんな相手でも圧倒出来てしまえるような気がするのだが。

「これで最後です、リーゼ。素直に捕まるなら……最後の慈悲を与えます」

「神官長。気持ちは分かるが……手を抜く事だけはないように」

 さすがに相手が悪すぎるとリーヴァは思う。

 嫌な予想というものはよく当たるというが、本当に司祭と神官長が揃っている状況をどう切り抜ければいいのか。

「昔馴染みだからって……罪を軽くしたら駄目だよ。優しいイゼリアは大好きだけど、あなたは神官長であるべきだと思う。だけど、私にも諦められない願いがあるんだ。だから、最後の我が儘を聞いてほしい。私の命を掛けた――最後の勝負を受けてほしい」

 皆が固唾を飲んで状況を見守る中で、リーゼはただ一つの矢を形成して見せた。

 矢が狙う先は、獣道をかき分けながら近づいてきたイゼリア神官長の額。魔導適正の高い彼女に直撃したならば即死する事は間違いない部位だ。当然ではあるが、主も神官長と条件は同じである。

 お互いがお互いを認め合っているからこその最後の勝負。教会側は数の有利があるのだから力押しをすればいいと思うのかもしれないけれど、それでは納得出来ない理由が両者の中にはあるらしく。

「……勝負事は苦手なのですが。いいでしょう、あなたの願いを聞き入れます」

 首肯したイゼリアは、主に倣うように一本の矢を顕現してみせた。

 両者を止めるべきかと思ったが、リーヴァはすぐに内心で頭を振るう。現状を切り開く力がない者が下手な行動をするよりも、信じたいと願った人を信じてみようと思ったのだ。

 だからこそ、リーヴァは両の手に握った柄を強く握り締めて、無限にも思える緊迫とした時の中で静かに両者を見守り続ける。

「――これが私の想い! 受け取って、イゼリア!」

 最初に動いたのは力の限りに声を張り上げた主だった。

 明確な開始の合図を決めていない状況であれば、先に動いた方が有利なのは言うまでもない。とりわけ実力が同じであれば、なおの事だ。

 だが、まだ油断は出来ない。遅れてイゼリアが矢を放ったとしても、主に直撃する可能性があるからだ。最悪は相討ちとなるだろう。

(……違う。二人が矢を放ったら、確実に相討ちになるんだ)

 そこまで考えが及んだ瞬間に、リーヴァは振り向いていた。

 と同時に、主を止めなかった自身の浅はかさに苛立ちを覚える。しかし、燃え上がるような怒りは、リーヴァの頬へと触れた生温かい液体のせいで急激に冷えていく。

「……ごめんね、リーヴァちゃん。ここでお別れなんだ」

 目に見えない速度で駆け抜けた矢が主の腹部を貫き、結果として血を吐いたのだという事を遅れて知ったが、今のリーヴァは上手く頭が回る事はない。むしろ、今見ている光景が悪い夢なのではないかと思ってしまう程だ。

「嘘だ。リーゼが私を置いていくなんて。行くなら……私も一緒でないと」

 それでも冷静な自分が現実だと教えてくれる。頬についた血が何よりの証拠なのだと語るのだ。

「私がどれだけ無敵でも……イゼリアの矢は防げないよ。正直、もう立ってるのも辛い。でも、伝えないといけない事があるんだ。馬鹿なお姉ちゃんが妹にしてあげられる……最後の事。だから、力を貸して」

 対する主は聞き分けのない子供を見るように微笑んで、よろめく体をリーヴァに預けてくれた。

「蘇生の魔導書はずっと主と共にいるよ。だから、何でも言って。今なら溜め込んだ力を使って、リーゼを――」

「それは駄目。あなたの力は『愛しい人』のために使うと決めたんだから」

 すぐさま主の体を抱き止めたリーヴァは、内にある力を解放しようとする。

 だが、有無を言わせない鋭い声が後に続く言葉を止めてしまう。

(……主のたった一つの願い。これだけは歪めてはいけないんだ。何があっても)

 一瞬抗おうかと思ったけれども、リーヴァは力を失った主の細い体を抱く力を強めると。

 癒しの魔導を用いて、命を繋ぎ止める事に全力を尽くす事を返答として返した。どうやら気持ちは伝わったようで、リーゼは一瞬だけ微笑んだ気がしたが。

「イゼリア。もう一個だけ……我が儘を聞いて」

「……あなたは酷い方ですね。共に逝くしか、私に償える事はなかったというのに」

 間を置かずに主は鋭さを増した青い瞳を、唯一のイゼリアへと向けていた。

 対するイゼリアは、涙を零す事を堪えて言葉を紡ぐ。彼女の望みが相討ちだった事を想うと寒気を覚えるが、同時に不器用で真面目な人なのだと、関わりが薄いリーヴァにも分かった。

 だからこそ、主は我が儘を言えるのだろう。そして、必ず叶えてくれると信じられるのかもしれない。

「友人は殺せないよ。大丈夫、イゼリアは立派に神官長だった。対する私は……本当に自分の事ばかりで……」

 途中までは癒しの術式の効果で話す事が出来たリーゼではあるが、次第に過呼吸になったかのように息が荒くなっていく。それでも、主は息を吸って、再び語り出す。

「妹であるフィリアの成長を最後まで見届ける事が出来なかった。お願いするのは筋違いだって分かってるけど……。でも、あの子はいつも、いっつも真剣だったんだ。私に追いつきたいって言って――がむしゃらに頑張ってた。だから、だから!」

「もういいです。全部分かりましたから。私が責任を持って……あなたの妹を導きます。多少厳しくなるかもしれませんが」

 論理的というよりは感情をぶつける事が多いリーゼらしい言葉。友人であるイゼリアは耳にする事が多かったのか、呆れたような笑顔を浮かべて頷いて見せる。

 しかし、リーヴァは振り向き様に神官長の表情を見た時は言葉が見つからなかった。確かに彼女は友を見送るように微笑んでいる。しかし、堪えきれなかった涙は止めどなく流れて、神官長の大人びた頬を濡らしていたのだ。

 人は喜びと悲しみを同時に抱える事は出来ないというけれど、リーヴァが瞳に収めた女性は同時にそれを成していた。痛々しいという言葉だけでは説明できない神官長をこれ以上見続ける事が出来ないリーヴァは、静かに主へと視線を移す。

「……リーゼ?」

 しかし、リーゼは役目を終えたとばかりに瞳を閉ざしていた。

 まるで先ほど眠っていた時のような安らかな笑顔を浮かべて眠っていたのだ。

「リーゼ。起きて、リーゼ」

 もう言葉は届かないのか。最後のお別れすらも言えないのかと、リーヴァは迫る恐怖に抗いながらも主を揺らす。

 だが、リーゼは魂が抜けた人形のように反応を見せない。そして、悟る。ずっと一緒にいたいと願った主はもうこの世界にはいなくて。人を蘇生する、という役目を持った魔導書に残されたものは『たった一つの願い事』だけだった。


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