第三話 七
夜空に煌めく星々が照らし出す平原に鳴り響くのは、数多の剣響。
奏でられた音色は人と人とが殺し合う音だというのに、不思議とアーネストには澄んだ音に聞こえてしまう。おそらく傭兵という薄汚れた自分ではなくて、騎士として耳に心地良い理想を胸に抱いていた頃を思い出したからだろう。
(……どうしてこうなっちまったのか。あの時は三人で前だけを見て進めたってのに)
どうにも眼前で長剣を振るう、懐かしい顔を見ると調子が狂う。
全身を燃やし尽くすような熱が体中から溢れているというのに、本気で怒る気が起きないのだ。としても、アーネストには理由が分かっている。
だが、分かっていてもどうにも出来ない事もあるのだ。いや、案外自分で思った通りにならない事の方が多いのだ常だろう。
だからこそ、アーネストは右手に握った長剣へと想いを乗せて振るう。どこまでも不器用だと思いながらも、ひたすらに。
「腕を上げているのは確かなようですが……私に届きませんか」
剣に込められた想いを知ってか、知らずか。
アーネストが振り下ろした剣を、無表情のまま受け止めた騎士は淡々と言葉を紡ぐ。彼は先ほどから表情は変えてはいないが、アルフォンスはなぜだか落胆しているように見える。
彼の方が有利であるというのに、なぜ残念がる必要があるのか。
不利であるアーネストには分かる訳はないのだが、自身の内から溢れてくる感情は手に取る様に分かる。彼はアーネストの中で燻っている熱へと油を注いでしまったのだ。
まるで怒りの炎が天高くまで立ち昇る事を待ち望んでいるかのように。
「なめんな! いつまでも俺が『三番』でない事を教えてやる!」
ならば、応えるのみだと判断したアーネストは一心不乱に剣を振るう。
剣を打ち合わせて、すでに三十分以上が経過しているが、今も両者の剣速は鈍ってはいない。むしろアーネストの怒りに呼応するかのように、速度を増していく剣閃を勘と反射のみで防ぎ続ける。
刹那の時でも動きが止まれば、死へと直結する両者の攻防。余裕などない事は誰の目にも明らかなのだろうが、アーネストは後ろに目が付いているかのように、後方で待機する『仲間』の動きも捉えている。
お互いに何かしら打ち合わせをした訳でもなく、明確な合図を送っている訳ではないのだが、アーネストは極自然な動作で重心を左へと逸らす。
刹那、今の今までアーネストの右腕があった場所を鮮血色の矢が駆け抜けた。歩数にして二十歩程開けた距離で魔導書を広げているラスティが、援護の魔導を発動させたのだ。
真後ろから割って入られる事はアーネストの動きを阻害する事もあるが、仮に矢が触れたとしても傷が付く前に拡散してくれるために脅威だとは思わない。
むしろアーネストの影から突如出現した矢を凌がなければならない、相手の方が負担は大きいだろう。
「良い連携ですね。あなたが騎士であった頃を思い出します」
だというのに、アルフォンスは涼しい顔で接近した矢を切り払って見せた。
もはやどんな攻撃をしても、届かないのではないかと思ってしまう程の剣技。だが、彼はこれでもアーネストが騎士として都市に務めていた時の順位は『二番』だった。
もはや説明する必要はないのかもしれないが、騎士の頂点に立っていたのは隊長候補として名前が挙がっていた「ランスター」だった。一度戦場に出れば、一人で百人は斬るとまで言われた最強の騎士が、リーゼロッテの恋人でアーネストの親友だったのだ。
二人の強さは、ずっと三番という地位を甘んじていた自分が一番よく知っている。
だからこそ、アーネストは納得出来ない。
「そこまでの腕がありながら……どうして! どうして真っ向から挑まなかったんだ」
もう次の機会がないかもしれないと思ったアーネストは、見苦しいかもしれないが心に浮かんだ言葉を選ばずに彼へとぶつけていた。
確信はないのだが、落胆をしたように見える今のアルフォンスならば答えてくれるような気がするのだ。
「ランスターが死んだ真相ですか。そうですね……あなたはその理由が知りたくてここにいるのでしたね」
どうやら予想は正しかったようで、アルフォンスはまるで伝える事が役目であるかのように静かに語り出した。一瞬油断させるための演技かと思ったが、殺気すら消して剣を下ろした騎士の姿はあまりにも隙が多すぎる。
今は対話の時だと言いたいのか、それともあえて隙を見せる事で信頼を勝ち取りたいのか。理由は定かではないが、真相を知りたいと願うアーネストが断る理由はない。
むしろ、全てを知った後に判断しても遅くはないだろう。
「言えよ。騎士の中で俺だけが真相を知らないなんて……明らかにおかしいだろう!」
「やはり何も聞かされてはいませんか。ならば、私を憎むのも納得がいきますね。いえ、知ったところで許しはしないのでしょうが。お互いに剣を手にしたまま長々と話したくはありまんので……出来る限り簡潔に述べます。ランスター一人を戦場に残したのは『彼』が望んだからです。あなたもご存じの通りに彼が戦死した日は、常に痛み分けという戦果が続く中では珍しいくらいに神国側が不利でした。ハウゼンと名乗る男の特異な魔導によって神父達が圧倒されたと後に報告を受けましたが……それは不確定な情報ですね。結果として、私達騎士は予想以上に多くの兵と戦う事になりました。あなたは一人の騎士として戦場を駆け回っていたために知らないのかもしれませんが……あのまま戦いを継続していれば騎士は全滅していたでしょう。尊い犠牲と言えば聞こえはいいですが……私達は殿という形で、彼と彼を慕う数名の騎士を見殺しにしたのです」
怒るアーネストとは対照的に、真相を知る騎士は淡々と語った。
アルフォンスが常に浮かべている柔和な笑顔は微塵も無く、何かが憑依したかのように説明的な口調で語る姿は寒気を覚える程だ。
「……確かにあの日の戦場は陣すらまともに組む事が出来なかった。どこに味方が居て、どいつが敵だったかも分からないくらいだったからな。あそこまでの乱戦を経験したのは初めてだ。確信はないけど、俺は誤って味方も斬ったと思う。でも、不思議とあんたの声はしっかりと聞こえたんだ。ランスターだけを残して『撤退』しろという命令がな!」
しかし、それが何だというのだろうか。
目の前に立つ騎士が過去の出来事をどう考えようとも、友を見捨てた事を許す事は出来ないと思う。いや、それだけではない。ランスター共に死ぬ事が出来ずに、誇りさえも失って生き長らえている自分が彼以上に許せない。
「――どうしてだ。答えろ、アルフォンス!」
ゆえに、アーネストは獣のように吠えていた。
彼は神国と同胞の騎士達のために決断を下しただけだという事は分かっている。だとしても、納得する事は出来ない。仮に納得してしまえば、国益を優先して判決を歪める神官と同じなのだから。
騎士は自身の心と技を磨き、何にも屈しない存在であらねばならない。愚直なまでに正しく生きるという事は、時には不利益を被る時もある。しかし、継続された『正しさ』はいつか国のためになると信じてきた。
それがアーネストとランスターが追い求めた騎士という存在だったのだ。
「あなたは変わりませんね。傭兵になるためにどれだけ苦労したのか……友となる事は叶わなかった私でも分かります。話が逸れましたね。あなたが語る事には何の間違いもありはしません。アーネスト――あなたは真っ直ぐ過ぎるが故に真相を語りませんでした。全てを知らせれば、あなたはランスターと共に死ぬ事を選んだでしょうから。ですが、ランスターは当然ながら、あなたの死を望みませんでした。私を……仲間を見捨てた騎士という存在を恨むなら恨んでください。ですが、どうか一度だけ私に機会をくれませんか? 私が犯した過ちを正す機会を。それが私の……リーヴァの言葉を借りるならば『たった一つの願い』です」
アーネストの全身から放たれる怒りも、何を思っているのかも全て知っているかのようにアルフォンスは言葉を紡ぐ。実際に大半は正解だ。
あの時、あの戦場で全てを知っていたのならばアーネストは命を落としていただろうから。実際に命を失う事は、深呼吸をすれば肺まで凍てついてしまうような極寒の地にいるよりも恐ろしくて、同時に寒気がするものだと思う。
友と一緒に死ぬと語った者が死を恐れて逃げ帰ってしまった、という話は戦場にいれば幾度と聞く話だ。ゆえに、アーネストも死の直前になれば逃げ出してしまった可能性も十分にある。
そう思うと人という存在の弱さは許し難いものだ。事ある事に気を抜きそうになる相棒を注意してしまうのは、結局はアーネスト自身の弱さが原因なのかもしれない。
「……一体何を考えてんだが」
どこか危なげな相棒の姿が脳裏に浮かんだ瞬間に、アーネストは呟いていた。
漏れ出た言葉はアルフォンスへ向けて述べたのか、それとも自分自身に向けた言葉なのか。アーネスト自身が述べたというのに、まるで分からなかった。
何か反応があるのかと思ったが、眼前で立ち尽くす騎士も後方で様子を窺っている神官も何も言わずに、アーネストが答えへと辿り着くのを待ってくれるようだ。
ならば、どんな形でもいいから自然と心に浮かんだ言葉を届けようと思ったアーネストは、相棒に倣って冷えた空気を肺へと送り込む。
「まずあんたに機会を与える事だが……簡潔に結論だけ言う。俺はあんたを野放しにはしない。死者を蘇生させて無かった事にするなんて誰が納得するんだ。いや、違うな。あんたの行いに意味があるとは思えない。俺はランスターが戻ってきても騎士には戻らないし、ずっと傭兵という仕事をしていると思うから。ちょうど世話の焼ける相棒が見つかった事だしな。皆だって、そうだろう? 今さらランスターが戻ってきても、隊長はあんたのままだ。誰も失った人を求めてなんていないんだよ。リーヴァという魔導者だって、ただ主の願いを叶えたいだけなんだろう?」
冷え冷えとした空気は思った以上にアーネストを冷静にしてくれて、自分でも驚く様な落ち着いた言葉を述べる事が出来た。
「そうですか。もとより誰かに理解してもらおうとは思っていません。私は一度道を違えました。おそらく今も違えたままなのでしょう。もしかすれば、私は……いえ、これ以上語るのはいけませんね」
言葉を受けたアルフォンスがどんな反応をするのかと窺っていると、なぜだか彼は一人で納得しまったらしく、長剣を左腰の位置まで持ち上げた。
彼が得意とする横薙ぎの一閃を放つつもりなのだろう。
人の数だけ考え方がある事は納得しているが、あと一歩のところで対話が成立しないというのは、問答無用で斬りかかられるよりも性質が悪い。しかも、相手だけ納得しているという状況は、気分が悪いと思うのはアーネストだけではないだろう。
「違えたままだっていうんなら……俺が正してやる。俺があんたを倒してでもな」
もはや対話が出来る雰囲気ではないと悟ったアーネストは、騎士同士の戦いでは禁じ手だと思われる武器を静かに持ち上げる。だが、今のアーネストは騎士ではなくて傭兵だ。
勝算が上がるのならば、小銃という禁じ手くらい平気な顔をして扱ってみせる。
「……それでいいのです」
アーネストの覚悟を受け取った騎士は、彼らしい柔和な笑顔を浮かべて弾丸が射出される時を静かに待っているように見える。
まるで「殺してくれ」と述べるかのように。
(どいつも、こいつも……俺にばかり背負わせるんじゃねぇよ)
一瞬躊躇しそうになるが、アーネストは全てを背負う覚悟を心へと刻んで、左腕で掲げた小銃の引き金に伸ばした指へと力を込めていく。
鳴り響いた轟音は耳を塞ぎたくなるくらいにうるさい音の筈だが、なぜだか遥か遠方で聞いたような気がした。そう、まるでアーネストが放ったものではないかのように。
しかし、現実は感覚とは違って。
今も確かに射出された弾丸はアルフォンスの額を貫くために進んでいた。もしかすればアルフォンスであれば避ける事も出来るのかもしれない。だが、今の彼は願いを叶えたいと思うと同時に、全てを終わらせる事を渇望しているように見える。
もう誰にも止められはしなくて、残り一秒にも満たない時間で全てが終わってしまう。
そう思った瞬間――
「魔導の光? この色は……」
桜色の輝きが平原全体を照らしていた。
実際に見る事は二回目となるが、平原全体を覆う淡い輝きを視認したアーネストは救われたような、解放されたような。何とも言葉では表現出来ない気持ちが心を埋め尽くす。
そんなアーネストを置き去りにして、桜色の輝きに照らされた少女は協力者である騎士を守るために手にした長剣を煌めかせたのだった。




