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蘇生の魔導書  作者: 涼音奏
たった一つの願い事
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第三話 六

 なめらかな頬を流れ落ちていくのは一筋の雫だった。

 濃紫色に染め上げられたノリアス平原を透き通るような青い瞳に収めたフィリアが、緊張のあまり冷汗を流したのだ。魔導光だけでも特異であるというのに、さらに注視すべきはフィリアを圧倒して見せた少女が、見た事も無い魔導によって手足を絡め取られているという事だろう。

 蓄積式の魔導を発動させる事で何とか注意を引く事は出来たが、問題はここからだ。

(……リーヴァが苦戦する相手なら)

 余程の理由があると判断したフィリアは、まずは祈る様に瞳を閉ざした。魔導適正が低い自身の魔導では太刀打ちできないと即座に判断し、詠唱式を発動させる事にしたのだ。

「――貫きたい意志をこの胸に。ただひたすらに真っ直ぐに」

 己が信じる道をひたすらに突き進むために奏でる解放序詞。

 紡がれた想いを聖歌に込めて、フィリアは何万回、何十万回と練習した魔導を周囲へと展開せしめる。蓄積式を扱う時は物量に任せるが、詠唱式を扱う時は必要最低限の矢しか形成しない。今回の場合で言えば、リーヴァを捕らえている濃紫色の蔦を貫くために四本と、敵と認識した老齢な男を狙うために一本だ。

 幾重にも渡る反復練習が折れそうになる心を鼓舞し、術者を守るような光の輪が地へと描かれていく。詠唱式の発動を確認したフィリアは、聖なる歌を力強く奏でて言葉の一つ一つを形として顕現させる。

 生み出された言葉は連結される事で無数の輪を作り、射出を待つ矢へと力を送っていく。

「ほう、詠唱式ですか。蓄積式よりかはましなのでしょうが……我が魔導を断ち切れますかな?」

 対する礼服を身に纏った男は優雅な所作で振り向くのみだった。

 まるで詠唱式の魔導ではリーヴァを絡め取った蔦を壊せないというかのように。

(自信があるのだろうけど……『無理』だと教える事は問題かな)

 安い挑発を受けたフィリアは怒らず、柔らかい笑みを浮かべて閉じていた瞳を開く。

 一瞬老齢な男が息を呑んだような気がしたが、あえて無視をして左手に淡い黄金色の長剣を形成する。

 生み出した剣は相手を切り裂くためにも、または防御のためにも扱わない。とある禁じられた魔導を発動させるために使用するのだ。

「まさか――!」

 遅れてフィリアが成すべき事に気づいたようで、男の声から余裕が消え去った。

 しかし、もう遅い。

「蓄積式、詠唱式。そして、儀式式。三種の魔導を組み合わせた最底辺の矢――受けて見なさい!」

 痛みを覚悟して左手に握った剣を右腕へと振り下ろす。

 思った以上の痛みが右腕を焼くが、騎士アルフォンスに腹部を斬られた時を思えば掠り傷のようなものだ。それに身体的な痛みが何だというのだろう。

 主を失い、なおも突き進むリーヴァは掠り傷程度では比較にならない程の心の痛みを抱えている筈なのだ。同じ地平に立って想いをぶつけるためには、フィリアも無理をしなければならない。

 危機を救ったからといって、言葉が届くなどと甘い事は考えていないのだから当然だ。

 そうこう考えている内に右腕から流れ出た血は純白の修道服を赤く穢し、地へと滴り落ちていく。

 贄を捧げる事で初めて発動する『儀式式』の魔導は、詠唱式によって地へと描かれた光の輪へと溶け込んで、輪を鮮血色へと染め上げていく。

 それだけでなく、詠唱式によって生み出された言葉の一つ一つも、射出を待つ矢でさえも眩いばかりの赤へと変貌していた。魔導光は黄、青、赤と順に力を増していくが、厳密には人によって濃淡などの違いがあるために一概には言えない。フィリアの魔導光が黄色という区分に入りながらも淡い黄金色である事や、リーヴァの魔導が赤という区分でありながらも淡い桜色である事がいい例だろう。

 最底辺から最上位まで引き上げられた魔導の矢だが、フィリアは胸を張って射出する。放たれた矢は禁忌の力を用いているが、救うために放った力であるのだから。

 純粋なる想いが込められた矢が平原を駆けたのは、時間にして数秒。

 どれだけ足掻いても強風程度の矢しか放つ事が出来なかった事が嘘であるかのように、駆け抜けた矢は地へと刺さった剣を粉々に破砕して吹き飛ばし、リーヴァを絡め取っていた蔦を騎馬に乗った騎士が突き出した突撃槍ランスのように突き破る。

 抗う者全てを強制的に吹き飛ばす暴風のような魔導。それはあまりにも圧倒的で、無慈悲な力だった。

 だが、なぜだか懐かしいと思ってしまう。

「……姉さんの魔導と同じ?」

 懐かしさの理由はフィリアが放った魔導が、姉が放つ力に似ていたからだ。

 あまりにも力があり過ぎるために力を抑えて戦う事を余儀なくされた姉。まさに先ほど駆け抜けた矢のような暴風を思わせる矢を、フィリアは憧れと呆れを含んだ目で見ていた覚えがある。

 としても、フィリアは追いついたとは思わない。そう思っていいのは全てを終わらせてからだから。

「やりますね。姉は天才で……その妹は才がないと聞いていたのですが」

 それを説明するかのように、暴風が駆け抜ける中で平然と立ち尽くしている男がいた。

 狙いは正確で、彼の腹部へと矢は吸い込まれるように進んでいった筈だ。

 だというのに、彼は無傷だった。当然ではあるが、見るからに怪しい蔦を形成させて防いだ訳でもない。

「魔導を拡散させる道具を……?」

「さすがは神官の卵。頭を使う方が得意のようですね。あなたの読み通りです。ですが、まさか使う羽目になるとは思いませんでした。私の他に儀式式を使う者がいないと考えた油断でしょうね。授業料だと思って諦めますよ」

 やはりというべきか。

 老齢な男は優雅な仕草で左腕を掲げ、細い手首を覆う銀色に輝く腕輪を見せた。

 一目見ただけでは個人の好みで付ける装身具と変わらないように見えるが、実際にフィリアが発動させた力を消したところを見ると本物だろう。

 幸いだと思うのは彼が「授業料」と述べたように、魔導を拡散させた腕輪に亀裂が入り、音を立てて砕けた事か。魔導を拡散させるとしても回数に限りがあるという訳だ。

「……観念して。アルストールを贄として発動させた魔導の効果は消えたよ」

 そして、もう一つ。

 先ほどまで身動きが取れなかったリーヴァが蔦から解放された事で、臨戦態勢へと移行した事だ。味方と言っていいのかどうかは分からないけれど、今の状況でフィリアを攻撃してくる事はないだろう。

 仮定を確信へと変えるために、フィリアは自身の瞳をリーヴァの深い青色の瞳へと重ねる。すると、彼女は一瞬だけ頬を緩めて頷いてくれた。

 前方と後方で、挟む形をとって男を睨みつけるフィリアとリーヴァ。

 眼前に立つ男はかなりの実力者である事は容易に想像出来るが、ここは逃げの一手を取るだろう。

 防戦に徹してやり過ごすか、無理をしてでも捕らえるか。

 男が次の行動へと移行するまでの間に、フィリアは答えを出せねばならない。

 実際に与えられたのは二、三秒で。

 この場を離れるために男は地を蹴ると、彼の後方に立つリーヴァに向けて疾走を開始した。見るからに弱っている方を狙ったのか、それとも隣国に用があるのか。

 理由は定かではないが、接近戦を無難にこなすリーヴァに向かっていく事は無謀だと思える。ここは足を討ち抜いて援護すべきかと思った瞬間に。

「――フィリア。私に力を貸して!」

 青銀の髪を揺らす少女が声を張り上げた。

 リーヴァは男が特異な魔導を扱う以上は、用心をするべきだと判断したようだ。

 もはや躊躇している暇はないフィリアは――

「――貫きたい意志をこの胸に。ただひたすらに真っ直ぐに」

 再び解放序詞を紡ぐ。

 受けた指示は曖昧ではあったが、おそらくリーヴァは手にした長剣を強化してほしいのだろう。すでに男とリーヴァとの距離は歩数にして五歩にも満たない距離だが、力を貸してと頼まれたならば、間に合わせて見せる必要がある。

 冷え冷えとした空気を吸って、祈りを捧げてくれた全ての人に感謝したフィリアは聖歌を再び奏でる。

 腕から止めどなく溢れる血が詠唱式の力を飛躍的に向上させて、この世界に顕現した言葉の輪が目標に向けて駆け抜けていく。

「――受け取ったよ。フィリアの想い。だから、私が彼を止める!」

 両者の剣が重なる刹那の直前。

 鮮血色の輪が桜色の刀身を包み込む。切断力と強度の両方が強化された事を確認したリーヴァは、迷わず右手に持った剣を横薙ぎに振るっていた。

 管理者権限の書き換えという、リーヴァからすれば許し難い行いをした男を生かしておくつもりはないようで、振るわれた剣に慈悲などはない。男が振り下ろした剣をへし折り、腹部すら両断する勢いで駆け抜けた刃を見つめたフィリアは、これで終わると確信してしまう程だ。

「ひれ伏しなさい、リヴァイブ」

 だが、男はまるで彼女の主であるかのように、淡々とした口調で命令を下した。

 その瞬間、リーヴァは背中に重りでも載せられたように態勢を崩す。彼女が抗う事が出来たのは一瞬で、すぐさま両膝を崩して地へと倒れていた。

(――管理者権限! そんな)

 道具である魔導書が、権限を保有している主を傷つけないように予め用意されている絶対的な命令を用いた事は確かなのだろう。だが、彼の魔導は途中で中止された筈だ。

 どうにも腑に落ちないフィリアではあるが、完全に書き換えが完了していないのならば魔導書であるリーヴァも保有する力を使えるだろう。

「リーヴァ! 一度、アルフォンスさんの元に戻って!」

 確信はないが、試すだけならば無駄ではないと思ったフィリアは力の限りに叫ぶ。

 彼女を救うためではあるのだが、反面としてここまで一体何をしにきたのかと思う。

(でも、これでいい。力でねじ伏せても……リーヴァは心を開いてくれないから)

 利を求める自分を心中で殺したフィリアは、男の気を逸らすために蓄積式の魔導を狙いもつけずに放ち続ける。

「ありがとう、フィリア」

 男が一瞬だけ背後を振り返った瞬間に、リーヴァは全身を淡い桜色の粒子へと変貌させていた。予想通りに完全な書き換えは終わってはいないらしい。

「構わないから、行って。でも、覚えていて。あなたを捕まえたら――たっくさんお説教してあげるから!」

 消え行く魔導書に言葉を送ったフィリアは、目的を果たせずに撤退する男の背中を一度視界に収める。淡々としていて余裕に満ちた背中は、静かに震えているように見えるのは気のせいではないだろう。

「もう一度仕掛けてくるんだよね。でも、リーヴァは渡さないから」

 届くとは思わないが、それでもフィリアは遠のいていく背中に向けて、静かに宣戦布告したのだった。


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