第三話 五
短い草花と戦場の名残が覆い尽くすノリアス平原を、まるで鳥であるかのように飛翔を続けているのは、水色の貫頭衣を身に纏った少女。まだあどけなさが抜けきっていない幼い顔立ちに、確かな意志を宿した深い海を思わせる青き瞳が印象的なリーヴァだ。
先ほど飛翔という言葉を使ったが、現在のリーヴァは背に氷色の羽を形成して羽ばたきと滑空を繰り返す事で、目標となる人物を追っている。当然ではあるが、物理現象を緩和させる魔導は常時発動させている事は言うまでもない。そうでもしなければ、少女の体を成していても、数回の羽ばたきだけで飛翔出来る訳はないのだから。
(もう少し。理由はどうあれ……見逃すわけにはいかないから)
全力で疾走した訳でなく、空中を文字通り自由に駆け抜けたリーヴァは、漆黒のローブを身に纏った男を補足した瞬間に心中で呟いた。
と、同時に背に形成していた羽を、まるで霧で出来ていたかのように霧散させながらも斜め四十五度の角度で降下を開始する。もはや軍馬の速度すら超越したリーヴァは、現状ではこの世界におけるどんな物体よりも速いのではないだろうか。
まさに『人外』という事が似合うリーヴァではあるが、当の本人は有り余る力を自慢する事無く、淡々と目標の背中を見続けるだけだ。
――接触まで残り五秒。
あまりにも速すぎるために正確な距離は把握出来なかったけれども、特に問題はない。もはや攻城兵器から射出された矢と同程度の速度で突っ込むリーヴァを凌げる人物など、世界中を探しても片手で数えられるくらいしか存在しないのだから。
「――!」
やはりというべきか。
街道を真東に向けてひたすらに疾走する、アルストールだと思われる漆黒のローブを纏った男は、振り向くと同時に声にならない悲鳴を上げた。
フードまできっちりと被っているために表情までは窺えなかったが、おそらく色を失い蒼白へと変化している事だろう。
「ごめんなさい」
彼には彼の正義がある事を知っているからこそ、リーヴァは桜色の刀身を形成すると同時に謝罪の言葉を述べた。しかし、手は休めない。
疾風の如く駆け抜けたリーヴァは、男の背に二本の長剣を深々と突き刺す。
何度聞いても慣れる事はない、どこかの骨が砕ける音と断末魔の叫び声がリーヴァの心を容赦なく追い詰めていく。しかし、それも数秒で終わりを告げる。
通常であれば剣を突き刺せば血が飛び散る事は自然であるが、溢れ出た血は細かな粒子と姿を変えたのだ。人という存在が光へと変化する光景は、初めて見た者であれば信じられないだろう。
それを証明するかのように、アルストールと思われる人物は気でも狂ったかのように、奇声を上げながらも消え行く体を血走った眼で見つめていた。
だが、これは夢でも幻でもなく現実だ。
「国への裏切り行為。戦争を引き起こす原因を作った罪で……あなたを裁きます」
最後の慈悲のつもりでリーヴァは静かに語る。
リーゼのおかげで表情は豊かになったと思うけれど、今の自分はどんな顔をしているのだろうか。おそらく人形のように表情を消して、冷たい瞳を消え行く男へと向けているような気がする。
何の罪もない相手を傷つけてしまったのならば悲しみに表情を曇らせ、または時には涙を流す事もあると思う。しかし、相手は罪人だ。リーヴァに罪人と断定する権限がない事は知っているけれども、少しは心が軽くなった気がする。
「これで……また一歩。叶えてみせるからね、リーゼ」
むしろ主の願いに一歩近づけた事が嬉しい、と感じてしまうリーヴァは歪んでいるのだろうか。答えは分からないけれども、今は目の前の事に集中すべきだと思ったリーヴァは夜空を舞う桜色の粒子を自身の体へと溶け込ませる。
罪人の命であっても生命である事は変わらない。リーヴァという小さな器では収まりきらない力は、内側で飛び跳ねるかのように暴れ続ける。今なら神に挑んでも勝てそうだと慢心してしまう程の膨大な力を外へと逃さないために、全ての力を小さな体の隅々まで行き渡らせていく。
時間にして、十数秒。
何とか暴れる力を抑える事に成功したリーヴァは、込み上げる吐き気を堪えながらも一息つく。
ちょうどその時に。まるでリーヴァが成すべき事をやりきるのを待っていたかのように手を打ち鳴らす音が静寂の夜に響き渡った。
「お見事です。まさか空から降ってくるとは思いませんでしたよ、蘇生の魔導書――リヴァイブ」
慌てて背後を振り返ると、拍手をしたと思われる人物が背後から音もなく近寄ってきていた。目測で十歩程離れた位置にいるのは、皺一つ見当たらない礼服を見事に着こなした老齢な男。確か貴族アルストールが雇っているハウゼンという男の筈だ。
「……主が倒れたというのに冷静だね。それと私を呼ぶ時はリーヴァと呼んで」
ここまで接近された事に内心で驚きながらも、リーヴァは隙なく長剣を構える。
見るからに手練れである事は分かるが、彼の反応は主の事を一番に考えているリーヴァには到底理解出来ない。
人と魔導書では価値観が違うのかもしれないけれども、認めたくない事もある。
「なるほど。あなたは亡き主のために戦っているのでしたね。では、あなたの期待に応えるとしましょう」
会話など不可能だと思っていたが、ハウゼンは余裕を感じさせる微笑みを崩さないままに右手の親指と中指を擦って音を鳴らした。
(……何を?)
剣を抜くでも、地を蹴るのでもなく。
ただ指を鳴らしたハウゼンの行動が理解出来ないリーヴァは、整った表情を歪める。
しかし、答えは唐突に訪れた。
寒空へと響いた音を合図とするかのように、リーヴァが立っていた街道が濃紫色の輝きに照らされたのだ。追われている立場上は数多の魔導光を見てきたが、濃紫などという不気味な輝きは初めて目の当たりにする。色だけでも警戒すべきだと判断出来るが、さらに特異なのは地へと描かれた文様だ。
まるでリーヴァを包囲するかのように、円形に描かれた文様には見た事もない文字が縁に沿う様にびっしりと並べられている。おそらく配置に意味があるのだろうが、魔導書であるリーヴァにも彼が発動させた魔導に対する知識はない。
(……離れた方がいいね)
あまりに異質な魔導に対して身の危険を感じたリーヴァは、再び背に羽を形成して数回羽ばたいて飛翔。上空に逃げれば難を逃れる事が出来るのかは分からないが、これ以上この場に留まりたくなかったのだ。
しかし、リーヴァの初動はあまりにも遅すぎた。
「宙に浮いた程度で人一人の呪詛からは逃れられませんよ?」
まるで空中に逃げる事を想定していたように、ハウゼンが再び指を鳴らしたのだ。
そもそもアルストールを仕留める際に『飛べる』という事を教えてしまった時点でリーヴァは不利である。当然、先に対策をしていたハウゼンは、地面に描かれた模様に刻まれた文字を浮かび上がらせると同時に連結させ、植物の蔓のように空高くへと伸ばしてきたのだ。
(……確かに宙に浮くだけでは無意味だね)
力ある言葉を具現化させるのは、詠唱式の魔導でも頻繁に用いる手法であるために驚きはしない。しかし、飛翔するリーヴァをまるで生きているかのように執拗に追ってくるのは不気味で仕方がない。もっと言うならば、植物のようにうねる姿は生理的に不快だ。
「――貫いて!」
さらなる高みへと飛ぼうかと思ったが、根本を消し去った方が早いと判断したリーヴァは天へと背を向けると、地上で怪しく輝く文様に向けて桜色の矢を射出する。
同じ魔導の力であるならば相殺出来ると考えたのだ。が、その考えがあまりにも甘かった事を瞬時に理解する。
(弾かれた! そんな……)
信じられない事に空へと伸びる濃紫色の蔦は、弾丸さながらの速度で駆け抜けた矢の全てを弾いて突き進んできたのだ。見た目で判断するのは危険だという事は心得ているが、見るからに細く頼りない一筋の光が矢を弾き返すなど誰が想像出来るだろうか。
「……人一人の呪詛。そう、これが儀式式なんだね」
もはや言葉に出す事さえ禁忌とされている魔導の存在を思い出したリーヴァは、深呼吸をして心を落ち着かせる。乱れに乱れた心が清流の如くに澄んだ事を感じた瞬間に、桜色の刀身を有する長剣の柄を強く握り締めていた。
空中であるために距離感が掴みにくいが、おそらく接近までは二秒。今から矢を形成しても間に合わないと判断したリーヴァは、剣にてやり過ごす道を選択したのだ。
即座にリーヴァは落下する速度の助けを借りながらも、振り下ろすような一閃を放つ。
(――硬すぎる!)
しかし、信じられない事に大岩すら易々と両断せしめる剣を濃紫色の蔦は弾いて見せた。まるで鋼のような硬質な金属を切断しようと試みたかのように、文字通りに弾き飛ばされたリーヴァは忙しなく翼を羽ばたかせて高度を保つ。
幸いにもハウゼンの攻撃は脅威を感じる程に速くはないが、こうも硬くては手の出しようがない。詠唱式という手段も確かにあるが、停止する隙はないだろう。
こういう時に仲間がいればと思うが、元々リーヴァには仲間と呼べる存在は少ない。何とか自力で切り抜けるしかないだろう。今までしてきたように、そしてこれからも。
痺れる手を強く握り締めて、決意を固めた瞬間。
三方向から濃紫の輝きが迫る。それも今までの単調な攻めではない。上空斜め三十度、直進、追加で真下から意思を持った濃紫の輝きが迫ってきたのだ。
(……私が憎いんだね。でも、私は止まれないんだ)
人を殺めた事で発動した魔導であるならば、この危機を招いたのはリーヴァ自身だ。だが、今を生きているリーヴァが諦める訳にはいかない。
例え逃げ道など存在しないと冷静な自分が叫んでいたとしても、最後の最後まで抗って、抗い抜いて見せるのだ。
「――たった一つの願いのために。主がそう願うように」
本来は詠唱式を発動させるための解放序詞として紡ぐ言葉ではあるが、リーヴァはあえて心の根底にある言葉を口にする事で自身を奮い立たせる。まるで恐怖を消し去る『魔法の言葉』であるかのように、平静さを取り戻したリーヴァは上空から迫る蔦を右手に握った剣を横薙ぎに振り上げる事で弾き飛ばす。
何とか危機を脱したリーヴァではあるが、桜色の一閃と濃紫の一閃が交差した瞬間に弾き飛ばされたかのように高度を落とす事になる。もはや自身が飛んでいるのか、地面へと接触しそうなのかも分からない中で。
「なかなか抵抗してくれましたね」
耳障りにしか感じない落ち着き払った声が聞こえた。
声に惹かれて視線を向けると、濃紫色の輝きの奥に礼服を身に纏った老齢な男性が平然と立ち尽くしていた。おそらく戦いが始まってから一歩を動いてはいないように思う。どうやら上空に飛翔したリーヴァは、数撃の攻防の後に元いた場所へと叩き落とされてしまったという訳だ。
だとしても、諦める訳にはいかないリーヴァが再び羽ばたこうとした時に。
「今度は逃がしませんよ」
手足を万力で絞められたかのような痛みが走った。
どうやら再び地から伸びた蔦が手足を絡め取ったらしい。これではいくら羽ばたいたとしても空へと逃げる事は出来ないだろう。
悪趣味な戦い方をするとは思うが、同時に疑問も抱く。ここまでの力があるならば、首でも絞めて窒息死させた方が早いと思ったのだ。もしかすれば、苦しむ様を見て悦に入る人種なのかもしれないが。
「そんな下衆と一緒にしないで下さい。当然ながら私にも目的があります。一つはあなたの管理者権限を頂く事。そして、もう一つは戦いを長引かせれば……私達を追う輩が現れるという事です。商都から遠いこの場所ならば死体が少しばかり増えても問題はないでしょう?」
どうやら何を考えていたのかは筒抜けらしく、ハウゼンは淡々と目的を語ってくれた。
こうも口が軽いのは余裕があるためか、それとも別の理由のためなのか。
それは分からなかったが、リーヴァが警戒しなければならないのは管理者権限についてだ。
「私の主はリーゼだけ。他に管理者はいらない」
管理者権限を保有する主を書き換える方法など聞いた事はないが、怪しげな魔導を扱う彼であれば可能なのかもしれない。全身に言葉には出来ない嫌な汗が流れるが、この男がその程度で考えを変える事はないだろう。
「あなたは忘れているようですが……蘇生の魔導書は単なる道具です。勝手に動いて人を困らせていてはいけません。ゆえに、私が新たな主となって有効に活用してあげようというのです。ルシオール共和国の完全なる勝利のために……あなたが蓄えた生命を贄とさせていただきます」
やはりと言うべきか。
ハウゼンは再び指を鳴らして、禁忌の魔導を発動させた。
身動きが取れないリーヴァの周囲を漂う、微かな風であっても吹き飛ばされてしまいそうな儚げな粒子が体に溶け込むように内へと入り込んできたのだ。
(……なに、これ。内側から強引に書き換えられているような)
不気味な輝きが内へと溶けた瞬間に、リーヴァは体中をまさぐられるような気持ち悪さを感じた。当然に吐き気がこみ上げてくるが、何とか堪えて眼前に立つ敵を睨みつける。
「無駄ですよ。ただの魔導が儀式式に敵う訳がないのです。今でも蓄積式に固執している古い考えでは……私には追いつけません」
しかし、ハウゼンは表情一つ変えないで語った。
ここで隙でも見せてくれれば突きようもあるが、どうも相手は結果が出るまでは手を抜くつもりはないらしい。
「……リーゼ。私は叶えてあげられないの?」
もはや打つ手はなく、主の事を想う事しか出来ないリーヴァ。
何度も何度も自分は「強い子」だと言い聞かせて戦ってきた少女はそこにはいなくて、年相応に頬を濡らす少女がそこにいた。
泣いても、叫んでも、どうにもならない事は分かっている。それでも、無関係の人が意味もなく巻き込まれる戦争の手助けだけはしたくない。
何よりも内側が書き換えられていくと同時に、零れ落ちていく主の笑顔と温かさを忘れてしまう事が切なくて仕方がないのだ。どんな事があっても、どれだけ時間が経っても晴天のように爽やかに微笑む主の事は忘れないと思っていたのに。
(……嫌だよ、リーゼ。忘れたくないよ)
青い瞳から大粒の涙を流して、主の事を強く、強く思った瞬間。
「泣いたら駄目だよ。あなたは強い子なんだよね?」
どこまでも澄んだ、耳に心地良い声が届いた。
懐かしい気がするけれど、どこかで抵抗を感じる不思議な声。
数多の感情が内から溢れてくるけれども――
「……リーゼ?」
結局は心から求めている人の名を呼んでいた。
「ごめんね。私は姉さんではないんだ。でも、今回はリーヴァの味方だよ!」
だが、割って入った人物はやんわりと否定し、淡い黄金色の閃光を寒空へと煌めかせた。霞んだ視界の中で見た輝きは夜空を照らす星々のように明るくて、同時に温かくて。
絶望へと沈んでいたリーヴァの心に一筋の光を届けてくれたのだった。




