第三話 四
商都フィルメリアの住区。
すでに日にちも変わり皆が皆寝静まっている時間帯であるにも関わらず、硬質な岩が敷き詰められた煉瓦道を蹴りつけるようにして疾走している少女がいた。
神都フィルメリアの修道女にして、淡い黄金色の髪が目印のフィリアである。
常に冷静沈着であるべきなのは心得ているが、今は一秒でも早く目的地へ辿り着きたい。今さら語る必要はないのかもしれないけれど、向かうべきは救いたいと願う少女のもとだ。
結局は二日もかけてしまったが、ようやくフィリア達は姉の知人であるダリルを通して手がかりを得る事が出来た。それだけでなく、別の調査をしてくれていたラスティは、リーヴァ達が身を寄せている貸家の住所を見つけてくれたのだ。
では、なぜ走るのか。理由は単純で、手がかりを得たフィリア達は一歩出遅れてしまったからだ。すでに貸家は蛻の殻で、リーヴァ達は自身の目的のために動き出してしまったという訳だ。
しかし、それだけであったのならば良かったのだと思う。
「落ち着いてよ、お姉ちゃん! アルストール卿が商都を出たという情報は確定情報ではないんだから」
最悪な事に測ったような時機でアルストールまでもが動き出してしまったのだ。いや、違う。正確に言えば、アルストールが動いたからこそ、リーヴァ達は動かざるを得なかったのだろう。
相手にも思惑があるために断定は出来ない。だが、騎士アルフォンスは神官による国の利権を考慮した審判を否定し、自身が悪と認める相手を見逃す事をつもりはないだろう。体裁のために述べたとも考えられるが、柔和な笑顔を浮かべた騎士の瞳は真剣そのもので、嘘を言っているようには見えなかった。己の信念のためなら、フィリアと同じように茨の道でも進んで行くだろう。
「分かってる。でも、もし本当にアルストール卿が商都を出ていたら後悔する。それに私はリーヴァに追いつかないといけない。そのためにずっと歩んできたんだから!」
「ラスティ……すまないが、罠だとしても俺は行く。ようやく奴に会えるんだからな」
だからこそ、フィリアは前だけを見つめて商都を東へと抜けていく。
即座に反対の声が上がるかと思ったが、さすがは相棒と言うべきか。目的が同じアーネストは止まる気はさらさらないようだ。先ほどまでは左隣を並走していたが、気を抜けば追い抜いてしまいそうな勢いである。
「あー、もう。本当に勝手なんだから! ルシオール共和国側へ出るためには許可がいるんだよ。知ってるの!」
だとしても、最後尾を走るラスティは最後まで反対の様子だ。
しかし、二人にとって必要な情報をくれる辺りが如何にも彼らしい。
「ラスティ。お願い……あなたの権力を一度だけ使わせて。大丈夫……私は冷静だよ。商都には神官長がいるんだよね? なら、仮に商都を出たのがアルストール卿の影武者であっても対応できると思う」
ならば、彼の好意に甘えるのが正解だと信じたフィリアは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
そうこうしている間に見えてきたのは、商都を囲うようにそびえ立つ高さ十メートルを誇る黄土色の壁と、迫る者を拒む様な鉄製の門だった。戦時下においては隣国ルシオールの兵を足止めする堅牢な門であるためか、近づけば近づく程に足が竦みそうになる。
しかし、現在は別の理由のために、より一層近づきにくい。
なぜかといえば、門に背を合わせる形で二人の衛兵が瞳を閉じていたからだ。おそらくリーヴァ達が気絶させたのだろうが、代わりに配置された兵は血走った眼でこちらを睨んでいるように見えるのは気のせいではないだろう。
もはやネズミ一匹すら通すつもりはないように見える、彼ら。
だが、国を裏切って逃亡する貴族を追うために、修道女と傭兵が国外へ出る必要があると『正規の神官』が述べたならば、堅牢な門でさえも開くだろう。
――一秒、二秒。
秒の刻みが無限にも思える程にゆっくりと感じられる中で。
「止まれ!」
「神官、ラスティ・ラズベットだ。僕達三人を門の外へ出して!」
門の左右に立つ衛兵が槍を交差させて静止を呼び掛けた瞬間に、少年神官はフィリアが望むように動いてくれた。ラスティは半ば自棄になっているような気もするけれど、賢い彼の事だ。フィリアが語った内容を瞬時に精査して、有効だと判断したのだろう。
「神官殿ですか。すでに連絡は受けています」
実際のところをラスティへと確認したかったが、神官の顔を暗がりの中で目視したのだろうか。衛兵が交差させた槍を下ろして、門の閉会を担当する者に片手を上げて合図を送っていた。
(……大丈夫。私は冷静だから)
大きさが大きさだけはあって、確かな重量を誇る門が開くには数十秒の暇が存在する。その僅かな時間を用いて、フィリアは心中で同じ言葉を繰り返し続ける。そうでもしなければ全身を燃やすような熱と震え上がるような緊張によって、頭がおかしくなりそうだったからだ。
「行くよ、お姉ちゃん。僕達もいるから……一人で背負わないで」
無理をしている事が伝わったのか、真後ろに立ったラスティは門が開くと同時に背を押してくれた。押し出される力と鋭い一歩を刻む力が相まって、フィリアは今までの静止が嘘であるかのように街道を疾走していく。
しかし、迷いのない走りは行く手を阻む様な障害物によって時折減速する。
ノリアス平原という名が与えられた平原地帯を走る街道。ただの街道ならいざ知らず、富に満ちた都市の近くにある道で何の障害物があるのか。
それは一言で説明するならば、戦争の名残だ。
幾度も両国が衝突する事があるためか、街道のあちこちに長剣やら権杖やらが地に突き刺さっているのだ。
まるで裁縫をする際の針山のように一面を戦うための刃が散在しているという光景は、片付けても再び増えてしまうからなのか、それとも戦争という愚行を知らしめるためなのか。
おそらく後者の意味合いが強いのだろうが、一秒を争う者にとっては邪魔で仕方がない。
「すまないが……先に行かせてもらう」
足元を気にしながら、両脇を短い草が覆い尽くす街道を疾走する事二十分。
突然、隣を並走していたアーネストが口を開いた。今の今まで無口であったのに、どうしたのかと訝しんだフィリアではあったが、視線を相棒から前方に向けた瞬間に全てを理解する。
澄んだ湖の水を思わせる青い瞳に映ったのは、温かみを感じさせる茶色の瞳を有した長身の人物。一度見たら忘れる事は出来ない、柔らかな笑みを浮かべる騎士アルフォンスが静かに佇んでいたのである。
以前は甲冑姿であったが、今回は正体を隠すためなのか。肌に合った灰色のインナーに漆黒のズボンという私服姿をしていた。だが、その上には彼を表現する色だと思われる真っ白なロングコートを羽織っているのは、何かこだわりがあるのだろうか。
差し出された手を見つめてから、どうも気になってしまうが、今は余計な事を考えている暇はない。
「……騎士アルフォンス。目的は足止めですか?」
歩む足を止める事無く、フィリアは必要な事項を確認する。
あくまでも彼らの目的は罪人の命をリーヴァが蓄える事だ。ならば、障害となるフィリア達を足止めする事は必要な事だろう。
しかし、彼は鞘から長剣を引き抜くと共にフィリアを否定した。
「足止めではありません。申し訳ありませんが……ここで斬らせていただきます」
どうやらアルフォンスは、この時、この場所で全てを終わらせるつもりらしい。
自身の障害となる相手を斬る事は間違っている事を彼は知っているのだろうが、警告を無視した相手に対して容赦はしないようだ。むしろ一度見逃してくれた事を思えば、随分と良心的な方だろう。
先に進みたいのであれば激突は避けられない中で。
「やってみな。悪いが俺は……あんたにだけは負けるつもりはない」
先行したアーネストが左腰に吊っている鞘から長剣を抜き放つと同時に、左から右へと薙ぎ払うような一閃を放っていた。
「アーネストですか。しばらく見ない内に――腕を上げましたね!」
応じるように鋭い一声を上げたアルフォンスは、手にした長剣を煌めかせた。
夜空を照らす星々の輝きに照らされる両者の剣。どこか遠回しに表現する事になってしまったのは、フィリアが彼らの剣を視認する事が出来なかったからだ。
あの中に入るのかと思うと全身に言いようのない寒気が走るが、どうやら危機を察知したのはフィリアだけではないようで。
「すごい。両者とも目では見えていない筈なのに……防げるなんて」
フィリアよりも魔導の適性が高い天才神官の声は震えていた。
もはや常人が入り込める空間ではなく、無計画に近寄ったならば一閃の元に切り裂かれるのは目に見えている。だとしても、フィリアには進まなければならない理由があるのだ。
「援護するから行って! 僕はここに残るよ。どうやらアーネスト一人では苦戦しそうだからさ」
どんな困難があっても進むと分かっているのか、ラスティは裁きの書を開くと同時に鮮血色の瞳を閉ざした。
皆が皆天才と呼ぶラスティの魔導。
身内贔屓を引いても信じるに値する力を身近で感じたフィリアは、鋭く地面を蹴りつける。
――刹那。
駆けだした背中を照らしたのは鮮血色の輝き。
祈りの書の上位互換だとされる『裁きの書』が、主であるラスティの意思に応えて鮮血色の矢を顕現せしめたのだろう。
「アーネスト! しっかり避けてよ!」
やはりというべきか。
ラスティは前方で戦う傭兵に指示を送ると共に、銃弾さながらの速度で矢を射出してみせた。リーヴァが放つ矢も速いとは感じたが、ラスティが放つ矢は速いだけではない。
まるで強風さながらに、この地にある物全てを吹き飛ばすような鋭さがあるように思う。その力を証明するかのように、地へと刺さっていた剣は紙切れのように宙を舞い、自由を得た瞬間に雨のように降り注ぐ。
「前にいる奴の事も考えろって!」
魔導の矢は体に触れた瞬間に霧散できる神に見放された男も、さすがに降り注ぐ剣には目を見開いて、即座に悪態を吐いた。
としても、小銃を空へと放つ事で触れる可能性がある剣を吹き飛ばし、尚且つ防ぎきれない物は身に纏うコートですら傷つかずに避ける事が出来てしまうのは、相棒と呼んでしまう事も躊躇してしまう程だ。
「無茶をしますね。ですが、一人として通しません」
アーネストと同等以上の剣技を有する騎士は落ち着いた口調で語り、穏やかさを感じさせる茶色の瞳を細めた。降り注ぐ剣を視界に収めていないように見える騎士は、当然のように突破を狙うフィリアへと殺気を含んだ視線を向けてくる。
(……大丈夫。二人を信じよう)
ただ走り抜けるだけであるのに、心臓は耳元にあるかのようにうるさく鳴り響いて、喉は砂漠を歩いているかのように干上がっていく。それでもフィリアは二人を信じて、両足を前へ、前へと進めていく。
アーネストの右側を迂回するように走り、彼らへと五歩程度の距離に迫った時に。
「一日一回のとっておきを使わせてもらうよ。お姉ちゃんはそのまま駆け抜けて!」
最後列に位置し、司令塔の役目を果たしているラスティが鋭い一声を放った。
裁きの書の『とっておき』が何なのかは知らないが、降り注いだ剣によって足止めは無事に成功している。ならば、駆け抜ける事は十分に可能だ。
ならば、迷う必要性を感じないフィリアは、一度相棒の灰色の瞳に視線を合わせる。
「お前はお前の戦いをしろ」
すると、いつものように視線を逸らした彼は隙なく剣を構えて、アルフォンスの動きを封じるように威嚇してくれた。
と同時に、唯一の敵である騎士の上空に鎖状の輝きが走った。あまりの細さに一瞬だけ目を疑ったが、今の今まで平静を保っていた騎士が両腕を鎖で縛られた瞬間に、苦渋の表情を浮かべたところを見ると確かな効果があるらしい。
「裁きの書は祈りの書の上位互換というだけではないよ。名前の由来は……罪人を鎖で縛り、苦痛という名の裁きを与える事から名付けられているんだ」
疑問は時に前進する足を鈍らせる事を理解しているのか、ラスティは静かな口調で語ってくれた。内心で納得したフィリアは不要なものは全て視界から外して、刃が入り乱れる平原のみを見つめて走る。
無事に突破を果たしたフィリアの背に届いたのは、鋭いアルフォンスの一声と、鎖が引き千切られる荒々しい金属音だった。




