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蘇生の魔導書  作者: 涼音奏
たった一つの願い事
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第三話 三

 執務机の上に置かれたランプの仄かな明りを頼りにルシオール共和国の辞典を食い入るように見つめているのは、穏やかな波を思わせる癖のついた白髪に、確かな意志を感じさせる漆黒の瞳が特徴的な壮年の男。商都フィルメリアの組合の一つを率いる貴族、フロム・フォン・アルストールである。

 おそらく現在の商都において、その名を知らない者はいない程に有名となってしまったアルストールは導かれるように読んでいた本から視線を外す。

「まだお休みになられないのですか?」

 予想したように表面上は「使用人」として雇っている男――ヴァイエル・ハウゼンが灯りの届かない暗がりから姿を現した。話せば笑われるかもしれないが、アルストールは彼がいつ執務室の中に入ったのかを知らない。

 一時間前なのか、数秒前なのか。

 戦時下において暗殺を生業としていた彼は、アルストールのような素人では気配すら感じる事が出来ない。つまりは、彼が本気を出せば如何に財を持った貴族であったとしても、ものの数秒で殺せてしまうという事だ。

 としても、彼は自身の利権のためにアルストールに仕えている。利用価値のある間は手を出してくる事はないだろう。

「ああ。私が貴殿の故郷ルシオールに移る日が近いのでな」

 ならば、いつも通りに取りとめのない会話をすればいい。そう素早く判断したアルストールは、皺一つ見当たらない礼服を身に纏った元暗殺者を見つめる。

「それは良い事です。ですが、その前に邪魔が入りそうですね。用意しておいた影武者が役に立ちそうです」

 視線を受け止めたハウゼンは整った顎鬚に手を触れて、思案顔で呟いた。

 そう長い付き合いではないが、彼は考え事に没頭すると髭に触れる癖がある。もしかすれば、頻繁にそれらしい癖を見せる事でアルストールを騙そうとしているのかもしれないのだが。

 ハウゼンという名前自体も隣国ではありふれているために、本名であるのか定かではないが、ルシオール共和国へ移るには彼に頼る他はない。いや、違う。同等の力を持った両国が頻繁に衝突するという、そんな馬鹿げた状況を終わらせるためには彼に頼るしかないのだ。

「私はまだ死ぬ訳にはいかない。ルシオールへ移り――フェーリア神国にいる貴族の切り崩しをせねばならないのだからな」

 すでに協力者たるハウゼンには胸中を語っているが、アルストールは自身の心を鋼のように強固とするためにあえて言葉として吐き出す。第三者が見れば意味のない行いに見えるのかもしれないが、アルストールは自身の心が大槌で叩かれても揺らぐ事がない程に硬質になったような気がする。

「常に戦火の中心となっている商都がルシオールへ傾けば戦にすらなりません。あなたの行いは間違ってはいませんよ。ですが、フェーリア神国から見ればあなたは最大の裏切り者でしょうね」

 だからなのだろうか。

 裏切り者という心を切り刻むような言葉が届いても、アルストールは揺らぐ事はなかった。むしろ望むところだと思う。

「裏切り者で結構だ。その程度の罵りを浴びるだけで戦争という愚行が終わるのであればな。私はここで飽きる程に見たのだ。戦いに傷つく騎士を、神父を。そして、戦う術を持たない住民が無慈悲に蹂躙される姿を! 当然、その中には私の妻と娘もいた。ただ一人生き残ってしまった私に出来る事など……我が人生と財という名の名誉を捧げる事だけだ。ルシオール共和国が大陸を統一し、ただ一人の統治者が世界を導く。それ以外に救いなどある筈がないのだ。すでに付き合いのあった貴族達には根回しを終えている。後は私がルシオールへ移れば……全てが終わる。終わるのだ」

 過去に経験した戦争が脳裏に浮かんでしまったために、全身が煮える程の熱を感じる。が、アルストールは自身の内にある想いの全てを吐き出す事が出来て、いっそ清々しいとさえ感じる。

 少々語り過ぎたかと思った瞬間に鳴り響いたのは、ささやかな拍手。

 当然ではあるが、手を打ち鳴らしているのはハウゼンだ。

「お見事です。そこまでの意志をお持ちであるならば……必ず願いは叶うでしょう。微力ながら私くしも協力させていただきます」

 薄い闇の中で表情すら変えない男は、まるで忠義を尽くす臣下のように見えた。

 しかし、実際は違う事は分かっている。彼は彼の目的があるのだから。彼が胸に秘めている目的が何であるのかをアルストールは掴み切れていない。

 だが、これでいいと思う。自身の口で語ったように、すでに人としての生は捨てた身だ。仮に彼が唐突に裏切り、この身を切り裂こうとも戦争さえなくなってくれれば構わない。

(……あともう少しだ。私は地獄へ行くが、お前達は天国で戦争のない平和な大陸を眺めておくれ)

 一生の内でただ一人愛した亡き妻と愛娘を脳裏に浮かべたアルストールは、漆黒の瞳から零れ落ちそうになる涙を必死に堪えて、闇に消えていくハウゼンの背中を見つめたのだった。


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