儚き記憶 (二) 忘れられない記憶
儚き記憶 (二) 忘れられない記憶
商都フィルメリアの中心に位置しているのは、住区と呼ばれる伝統的な家々が並び立っている区画。基本的には商都に腰を落ち着かせる者達が居を構える場所だ。
しかし、全てが住区に住まう者達の家という事はない。例を挙げれば、組合を率いる貴族の別宅であったり、数多の都市を行き来する旅人が足を休めるために購入した物であったりと、一つ一つ紹介をしていれば限がないだろう。
そんな数多ある例外の中で――
「ここが……新しい家? 前と一緒ではないの?」
アルフォンスに紹介された家を見上げたリーヴァは小首を傾げる。
周囲の家々と同化するように木造で建てられた一軒家は、以前リーゼと暮らした貸家と似ているような気がする。と言っても、前は焦げ茶の板と限りなく薄い茶色と黄色を混ぜたような色、おそらく砂色と表現した方が近い板が交互に並ぶ事で壁面を彩っていた。
だが、今回は趣が違う。別色の板が交互に並んでいる点は同じだが、深い青と空色の濃淡という一風変わった様子だ。
「二人が以前使っていた貸家は残念ながら教会に取り押さえられていますからね。ここは旅人だった知人の家です。許可なく使用するのは良心が痛みますが……彼が旅に出て五年間、何の音沙汰もありません。悪いとは思いますが、別の知人の力を借りて使用出来るように取り計らってもらいました。壁面は家を空ける事が多い事を示すために派手になっていますが、この際は我慢して下さい」
問いを受け取ったアルフォンスは、リーヴァが被っているベレー帽の上に手を置いて説明をしてくれた。訊けば包み隠さず丁寧に答えてくれる彼に感謝しつつ、リーヴァは改めて新たな住居を見据える。
リーゼとの思い出が詰まった貸家で暮らせないのは残念で仕方がないけれど、今は願いを叶える方が先決だ。蘇生の魔導書に力を蓄えて、リーゼの大切な人を蘇らせる。
そのためにずっと二人で歩いてきた。どれだけ疎まれても、辛くても。
海のように深い青色の瞳を閉ざせば、今も優しい主の笑顔と苦しみに満ちた表情が浮かんでくる。アルフォンスに気づかれないように両手を握り締めたリーヴァは、しばしの間だけ今から三年前へと旅立った。
グロッシア歴、百五十年。
リーゼから雪色のベレー帽を受け取ってから、二ヶ月程経過しただろうか。
リーゼの恋人だったランスターの名声に頼る事で、何とか騎士の助力を得る事に成功した二人は商都を中心にして罪人を裁いていた。裁く相手を罪人と決めるのは元修道女であるリーゼ。リーヴァの主でもある彼女が方針を決定して進んでいく。
幾重にも繰り返されていく過程に疑問はないリーヴァではあるのだが、主は修道女という身分で他者を裁く事に躊躇いがあるようだった。しかし、リーヴァは間違ってはいないのだと思っている。教会という組織は『全』を見過ぎていると思うからだ。
全体を見渡す事は国をまとめる組織として間違っていない。だが、視点を個へと移した瞬間に欠陥だらけだと気づく。確かに一人一人が抱えている問題にまで手を広げる事は困難だろう。それだけでなく、一人を救えば、他の者が負担を背負う事も十分に予想出来る。
そういう意味では、個へと視線を移す事で全ての者を救う事は難しいのではなくて、不可能だと断言する方が容易ではないだろうか。
それでもリーゼは異端の魔導書である『蘇生の魔導書』を持って、個を救おうとしている。リーヴァの主である彼女が間違っていて裁きの対象となるならば、個を見捨てた教会はなぜ裁きを受けないのだろうか。
「……分からないよ」
疑問に思うからこそ、リーヴァは言葉を紡ぐ。
だが、紡がれた言葉は空を切り裂くような音によって霧散する。宿がひしめき合う商都フィルメリアの南側で、教会の神父は慈悲も容赦もなく魔導の矢を放ったのだ。
当然だが、旅人や傭兵など、リーヴァ達と教会との争いには無関係の者達が大勢いる中で。
「リーヴァちゃん、全部撃ち落として! 教会の権威を守るためにも――住民に怪我を負わせる訳にはいかないわ」
各々が悲鳴を上げて、保身を優先する中でリーゼは素早く指示をくれた。
頷く事で意思を伝えたリーヴァは、自身が的となるために全力で灰色の煉瓦道を駆け抜けていく。地を蹴れば蹴る程に神父達との距離は縮まり、身の危険は増していく。だとしても、主は無関係の住民が傷つく事を極端に嫌う。
ならば、受け取った指示の通りに全てを撃ち落とすしかないだろう。
(……数は十本。少し多いけど……やりきって見せるよ、リーゼ)
一つ呼吸する間に桜色の矢を左右に四本ずつ顕現させたリーヴァは、確かな決意を心に刻んで、両の手に桜色の刀身を誇る長剣を生み出す。
リーヴァが自身の命を守る二振りの刃の柄を握り締めたのが、開戦の合図だった。
走りながらであるために正確な狙いをつける事は叶わなかったが、それでもリーヴァは迷わず顕現させた矢を射出する。地面と平行に商都を駆けた桜色の閃光は、牽制の意味合いが強い、黄金色の矢を突風さながらに吹き飛ばす。力技と言っても過言ではないリーヴァの魔導を受けた矢は形を維持する事は出来ないようで、粉雪のような微粒子へと霧散していく。
としても、こちらも腰を落ち着けて狙った訳ではない。当然ではあるが、全てを霧散させる事は出来ない。素早く青い瞳を走らせると、右と左共に三歩程開けた距離を光の矢が駆けていくのが見て取れた。
神父達の目標であるリーヴァとリーゼに当たる事はないが、このまま弾丸さながらの速度で突き進む矢を放置する訳にはいかないだろう。しかし、今から矢を形成しても間に合う訳もない。
「迷っている暇はないよね。例え狙い撃ちにされても!」
本来は迎撃用に生み出した長剣ではあるが、投擲をすれば光の矢と同等の効果はある。魔導によって生み出した矢のように射出する事は出来ないけれど、当てられる自信があれば話は別だ。
失敗など許されない中でリーヴァは極自然な動作で、左右に向けて長剣を下投げの要領で投擲。直撃する軌道に乗った事を青い瞳に収めたリーヴァは、安堵する事無く前方へと視線を向ける。
住民を守るために手にした武器を投擲したリーヴァではあるが、敵は戦いを専門にしている者達だ。いかな理由があろうとも、一度隙を見せてしまえば容赦なく突いてくる。
やはりと言うべきか、リーヴァが視線を前方に向けたと同時に神父は新しい矢を放っていた。わざわざ語るまでもないが、今度は甘い狙いではなくて、リーヴァの頭部や腹部など直撃すれば致命傷、最悪は即死する部位を狙っている。
「魔導の形は、密集陣形。リーヴァちゃん、迎撃の準備!」
一人で戦っていたのであれば、もはや手の打ちようはないけれど、リーヴァには頼れる主がいるのだ。一つ瞬きをする間には、紅く輝く矢が天から降り注いで、全てを弾き返す光の壁を形成してくれた。
(……長引かせる訳にはいかない。なら、無理をするのは私の役目だね)
密集陣形と呼ばれる魔導の形は守りだけではく、攻め手として光の矢も同時に射出する。ただの修道女が放った矢であれば様子を見ると思う。が、リーゼが放つ矢は魔導の常識を遥かに超越している。態勢を崩した所に斬り込めば、戦いを決する事は十分に可能だろう。
「リーゼ、前に出るよ」
提案すれば断られる事は分かっているリーヴァは言葉だけを届けて、地面を蹴る。
同時に、前方の壁が神父達の放つ物量に任せた攻勢によって揺らぐが、もう守りは必要ない。道は自身の両手に顕現させた剣によって切り開いて見せるから。
「リーヴァちゃん!」
言葉だけで意図を組み取った主は静止の声を掛けるが、もはや間に合わない事に気づいたのだろう。リーヴァの動きに合わせるように、次弾を放つ用意を進めてくれる。
「後でどれだけでも謝るから……許してね、リーゼ」
眼前の壁が崩壊し、数える事も馬鹿らしいと思う程の矢を視界に収めたリーヴァは、これから訪れる痛みに耐えられるように心を固くする。
心に浮かべた決意に応えるように、リーヴァを追い抜くような速さで駆け抜けたのは真紅に輝く主の矢だった。リーヴァの矢が突風であるならば、主が放つ矢はまさに暴風。
付近にある物全てを吹き飛ばす暴力的な魔導は、物量に任せた矢の尽くを霧散させて力の差を容赦なく叩きつける。だが、この程度で心が折れるような軟な相手ではない。
「行くよ。これが私とリーゼの戦いだから」
口を開けば主の事ばかりのような気がするけど、他に歩み方を知らないリーヴァは駆ける両足を速めていく。一歩、二歩と駆ける間にも、まるで一軒家を吹き飛ばすかのような魔導が左右を掠めていくが、リーヴァは宙へと浮遊する際に使用している『物理現象を緩和する』という魔導書特有の力を発動する事で耐え忍ぶ。
暴風を受けても吹き飛ばないという光景は、この世界で生きている者達にとっては信じられない事なのかもしれないが、リーヴァのように魔導書でありながら人の姿を取っている存在であれば可能な事だ。
と言っても、他に人の姿を取る魔導書は誘いの書『ナイトメア』――通称メアくらいのものなのだけど。一瞬だけ漆黒のドレスを身に纏った鮮血色の瞳をした少女の姿が浮かんだが、今は戦いに集中するべきだろう。
――一閃、二閃。
左右の剣を横薙ぎに走らせたリーヴァは、暴風に吹き飛ばされなかった矢を丁寧に切り裂いていく。当初はもう少し苦戦するかと思ったが、目標である五人の神父達との距離が五歩にまで迫った瞬間に、難なく勝利を収める事が出来ると確信する事が出来た。
「リーヴァちゃん、屋根上を警戒して!」
だが、心を掠めた勝利はリーゼの叫び声によって霧散する。
眼前の相手を注視していたリーヴァは、側面への警戒が疎かになっていたのだ。素早く視線を左右へ走らせると、主の言葉通りに屋根上に立った修道女が矢を射出する態勢に入っているのが見て取れた。
(……まだ距離はあるけど。全部避けられるの?)
屋根上から降り注ぐ矢は最悪避ければいいが、前方から放たれる矢を避ける訳にはいかない。この身が傷ついてでも、リーゼが守りたいと願った人たちを守ってみせるのだ。
数多の考えが脳裏を掠める中で、リーヴァは一息で魔導の矢を放つ準備を終える。刹那、金色の輝きが前方と左右から煌めいたが、臆せずに眼前で立ち尽くす神父達の足を狙って魔導の矢を解き放つ。
狙い通りに当てる事が出来たかどうかを確認したかったが、左右から降り注ぐ矢に対応しなければならないリーヴァは、両足を忙しなく動かす。忙しなくという表現をしたが、地に足が付いた瞬間に浮かせている訳ではない。
リーヴァへと放たれた矢が当たる刹那の直前に、前後左右へと動く事で避けているのだ。
「屋根上は私が行動不能にするわ。リーヴァちゃんは次弾をお願い!」
難なく左右からの奇襲を回避したリーヴァを目視したらしい主が次の指示をくれた。
指示を受けるまでもなく、そうするつもりだったリーヴァは鋭い眼光を前方に送る。
瞳が重なった一人の神父は驚愕と恐れが混じったような表情を浮かべていたが、それでも臆せずに臨戦態勢を崩さない。右足に桜色の輝きを放つ矢が刺さっているというのに、まだ戦いを止めない志は賞賛に値する。だとしても、商都の中で魔導を解放し続けるのはいかがなものなのだろうか。
(……勝ってやめさせないと。間違っていると伝えないといけないんだ)
言葉が通じるのかは分からない。
それでも、リーヴァは両手の剣を振るいながら、防ぎきれない矢を自身の身で受け止めながらも懸命に彼らの瞳を見続ける。相手の本音を知りたければ、相手の瞳を見て言葉を紡ぐべきだとリーゼは教えてくれたのだから。
「……私の後ろには商都の住民がいるんだ。だから、これ以上は魔導を使わないで」
元が魔導書であるためか、魔導適正の高いリーヴァは神父が放った矢が触れただけで致命傷となり得る。実際に魔導の力で貫かれた全身は引き裂かれたように痛むが、今は現状を収束させる方が先決だ。
これ以上、私達のせいで教会の立場を不利にさせる訳にはいかない。リーヴァ達の目的はあくまで『死者の蘇生』なのだから。敵対する勢力の力を削ぐ事で、不要な争いを招く事は望んではいない。
「お願い……今回は見逃して。ここは離れるから、だから」
内に浮かぶ想いを拙い言葉で伝えていく。
もっと上手く話せるなら、全てを伝える事が出来るのかもしれない。だというのに、魔導書である自分はどれだけ不器用なのだろうか。
「それは出来ない。お前達は神官が『罪人』と認めた者達だ。ここが人の住む場所であっても……退く訳にはいかない」
やはりというべきか。
言葉足らずの説得では想いの全ては伝わらなかったようで、神父は痛々しい表情を浮かべながらも魔導の力を解放した。
世界が黄金色の輝きに満たされていく中で――
「……どうして? 私は何か間違った事を言ったかな?」
罪人という言葉がリーヴァの心を強く、強く絞めつけていく。
もう何が何だか分からなくて、頭は真っ白で。もはや自身が立っているのか、寝ているのかも定かではなくなった時。
「リーヴァちゃんは間違ってないよ。この世界は本当に複雑で……正解も間違いもたくさんあるんだ。だから、迷ったら私を信じて。責任の全ては『蘇生の魔導書』の主が背負うから」
背後から求めていた声が届いた。
今のリーヴァには難しくて理解出来なかったけれど、一つだけ分かった事がある。
「信じればいいんだね。なら、簡単だよ」
いつもの通りに主を信じて、進み続ければいい。
今の今までリーヴァがしてきた事を、愚直なまでに続ければいいだけなのだ。
「でしょ? 今回は無理してもらったから休んでいてね。後はやっとくから」
答えを見つけて静かに瞳を閉ざしたリーヴァを、いつの間にか背後に移動していた主は温かな左腕で受け止めてくれた。それだけではく、まるで片手間で掃除をするかのような気楽な口調で物騒な事を述べた気もする。
(……後はお任せしよう)
いろいろと気になる事はあるけれど、言いつけどおりに休む事に徹したリーヴァは瞼を真紅の閃光が照らしても、暴風に巻き込まれて何かが浮いて落下した、耳にうるさい音が鳴り響いても瞳を開ける事はなかったのだった。
過去から現実へと戻ってきたリーヴァは、泣いていいのか、笑えばいいのか。しばし迷った末に結局は微笑む事にした。なぜ微笑んでしまったのかと言えば、リーヴァのために張り切った主が放った魔導の矢は神官を吹き飛ばすだけでは終わらずに、とある宿の扉すらも吹き飛ばしたからだ。
追われている身であるために、その場は逃げた。しかし、二日後には二人で商都へと忍び込んで、扉の修理を手伝った事を今でもはっきりと覚えている。最初は怒り心頭だった宿の主も、リーゼの屈託ない性格が功を成したようで、扉が元通りになった瞬間には笑って許してくれた。
「リーゼ……笑っていたな」
宿の主と同じように笑うリーゼは、ここ数年で見たどんな笑顔よりも輝いて見えて、今でもリーヴァは忘れる事が出来ない。忘れる事が出来ないから、この小さな胸を何度も締め付けるのだ。
「辛いでしょうが……ここまできたのです。必ず全てを取り戻しましょう。出来ますね、リーヴァ?」
どうやら過去へと旅立っていた事に気づいたのだろう。
しばらく放置していてくれたアルフォンスが声を掛けてきた。彼の励ましと、気遣いに感謝したリーヴァは一つ頷くと。
「大丈夫だよ。私は……強い子だから」
自らを奮い立たせる言葉を吐き出して、新しい住居に向けて一歩を踏み出したのだった。




