例え違う世界であっても
例え違う世界であっても
もうどれぐらいの時間がたったのかも分からない。なにより、それを確かめる方が怖くなっていた。
一人、池の畔で泣き明かしたあの日から、魂が抜け落ちた様に黙々と働いている。目的は持っているはずなのに、その為の原動力を失っている。
理由はただ一つ、現実世界はすでに俺を待っていてはくれない。
「あ、あのこれ」
メイという名の少女、俺の教育係でいつも仕事には髪飾りで髪を留めている少女。
この子と、
「おお、うまそ! 食っとけよ。働けないぞ」
サンという名の、元の世界で太陽に似ている少年。
「あんた達も飽きないわね。ていうか、あんたも返事くらいしたらどうなの?」
気が強く男勝りな所が多く見えるホムラという少女だけは、こうなってしまった俺に凝りもせず話しかけてくる。
「…………」
俺はメイが持ってきたおむすびに似た食事を一目見て、そのまま仕事へと戻ろうとした。
「こらっ、まてホタル!」
「お、押さえろホムラ!」
騒がしい二人を余所に、立ち去ろうとする俺にメイだけは心配そうな声を掛けてくる。
「ホタルさん……、きちんと食事摂っていますか?」
やっぱり俺は答えない。
いらない。
そう頭で考えられてはいる。捻くれているわけでも、嫌がらせのつもりもない。ただ出そうと思っていても、声にはならなかった。
それに俺はこの世界に来て食事が要らない物だとしている。
理由は二つ。
一つは、腹が全く減らず、喉すら乾かない。まるで俺の時間が止まってしまったように人間らしい機能が停止しているのだ。もちろん、そんなことは無いとは思っている。体力が無くなれば一日寝れば回復はするから、確かなことだ。
それでも腹は減らない。
そして、もう一つが、この世界で初めて口にしたものが原因。泥団子のような見た目の食べ物、味に関しては特に食えないというものでもなかったが、あれが俺をこのアニメの姿へと変えた事実があったからだ。これ以上この世界の食べ物を食べてしまえば元の姿へと戻ることすら、遠ざかる事を俺は恐れていた。
だから、俺はこの世界の食べ物を絶対に食べない、そう決めていた。
「あ、」
メイの悲しそうな声を後ろに、次々と声は加わっていく。
「放っておこうぜ、あいつ何考えてるのか分からねぇよ」
「まぁ、ここに居る人間変わり者が多いし、目的は皆同じ、関わってほしくないって人もいるしね」
「でも、そういう問題じゃないんじゃない?」
「俺たちは家族のようなもんだろ。何か解決できるなら、そうしてやるべきだ」
「なにそれ、元犯罪者の言う言葉?」
「う、うるせえな。あの時はどうかしてたんだよ」
「あんころもち一個盗んだんだっけか?」
「違うっ、二つだ!」
「似たようなものね」
家族という言葉にズキリと胸が痛む。母さんは大丈夫だろうか、親父には簡単に連絡取れないだろうし、一人になってしまっていないだろうか。そういえば、太陽たちはもう帰って来たのだろうか……。そんな事を想いながら、俺はこの世界の住人から遠ざかっていた。
「ホタルさん……」
俺を心配する声も届かず……。
変化のない日々を過ごしながら、仕事は慣れれば慣れるものだった。
おれのアニメ化した体は体力の底が低い。だから、体力が底をついてしまえば気絶したように一日起き上がれなくなる。だから、底をつく前に細目な休憩を取ることで一日を働き通すことができた。
そのおかげで初日よりは稼ぎが多い。それでも目標の金額は遥か先、持っていた気持ちへと返り咲くことはできないままでいる。
そんなある日、細目な休憩と、支給された作業着に着替える為に宿屋内部にある従業員専用の部屋へ入った時だった。
なにやら従業人が集まり騒いでいる。
着替え部屋には一人一人個別にロッカーのような鍵付の金庫が設けられ、貴重品やら仕事の道具を入れている。その中に俺のロッカーも用意されているのだが、人だかりの所為でロッカーに辿り着くことができない。汚れた服のままで客の前に出るのは基本禁止になっているから、減点を考えても着替えはしておきたかった。
人込みを搔き分けてまでこの騒ぎに関わるつもりもない俺は、入り口付近で壁に寄しかかりその騒ぎが落ち着くのを待つことにした。すると、騒ぎを聴きつけてか、ホムラとメイもその部屋へと入ってくる。
一応仕切りは用意されている部屋だったが、この部屋は男女兼用で従業員は誰もがこの部屋を使用する。そんな事を誰も気にしないようなので、俺も気にした記憶はない。
「あ、ホタルさん」
俺の名前が呼ばれ視線が俺に集中する。
「メイ、今は」
「あ、うん」
メイがしきりに俺を気にしたようで、ちらちら見ていたが、俺が目を逸らすことで元の騒ぎの方へと行く。
「あ、あぁ、そんな……」
すると、ホムラが道を押しのける形で進み、付いて行ったメイから嘆くような声が漏れていた。そして俺に向けられた視線が残っている事に気づき、騒ぎの中心へ向かい歩いていく。自然と開けられた道から見える惨劇を見て騒ぎの意味を知った。
自分でも顔が険しくなったのを感じる。
同時、視線の意味を知った。
メイが崩れ落ち、尻餅をついている先にいくつかのロッカーが壊され中の物が荒らされていた。言わずとも盗難の現場、そしてその視線は疑わしい者へ向かられた視線……のはずだったのだが、何かが違う……。
「メイ、髪留めは?」
ホムラの問いかけにメイが静かに首を振る。
「なっ、盗賊はっ!?」
「あ、いやまだ目撃情報を探している段階って聴いたけど……」
いつもならしている髪留めは、今日はまだされていない。従業員の働く時間は特別決められていないから、今日は俺よりも遅い出勤だったようだ。その所為で、ロッカーに入れたままだった髪留めは盗られてしまったということだった。
だが、メイが涙を堪えながら俺の方を見る。それは周りにいた従業員と似た同情の瞳。人を疑ったと言うよりも、俺の事を気にかけ、同じ被害者だという視線でもあった。
俺は慌ててメイが座り込む前の残骸を見る。俺の物なんて大したものはない。この世界に持ってきたものは全てノーシと出会った島に置いて来てしまっているし、ある物と言えば支給された衣類、そして、働いて稼いだ少ない金銭だけだった。
だが、俺は眩暈でも起こす様にふらついて、被害に遭わなかったロッカーへ体をぶつける。
「………………っ!?」
確かにあれは人よりも少ない金額。その所為で希望としていた期間内に帰ることを諦めてしまった。でも、帰ること事態は諦めたつもりはなかった。これから地道に貯めて何時かその時が来る事を願い、感情が押しつぶされてしまっても、その為だけに働いてきた俺にとっては大事なお金。それを泥棒なんて苦労の日々を壊すようなことが許されるはずが無い。
――――バンッッッ!
俺の拳がロッカーを凹まし大きな音をたてた。
部屋中が静けさに空気を重くする。
そこに、
「おい、犯人らしき人影が森にある池の方に――うわっっっ!」
犯人の情報が舞い込んできた瞬間俺は何も考えずに飛び出ししていた。
「待ちなさいっホタル!」
何も聞こえない。
久しぶりに起こる怒りの感情が自分を抑えられなくなっていた。全力で走れば数分と持たない俺の体力では、例え相手を見つけても捕まえる事はおろか、追いかけることもできない。
「――ぜってぇっゆるさねぇ!」
それでも、ただ成り行きを見守るなんてことはできなかった。宿屋を飛び出し、従業員の寝る屋敷を素通りにして森に入り込む。
予想通り、息は簡単に切れ始めた。このままでは意識を失い掛けないと、森に入った段階で俺は木を支えに息を整える。従業員の屋敷から気を失わず走り抜けた実績がある俺は、体力の限りを考え、気持ちだけでもと遠目で先を眺めてみた。うっすらと木々が少なくなったそこにあの池がある。
自然と視線が届く場所に足は前に出る。木々の隙間を縫うように前へ前へと進み、光が反射し波打つ池を視線で捉えた。
そして、池を波たてる風の他に、頭ごと突っ込み喉を潤し波立てる犯人らしき存在がそこにいた。
「ふはっー、仕事完了まで後少しだな」
それを聴いた瞬間頭が真っ白になり、怒りが支配した。
「てめぇっ!」
何も考えず俺は池がある畔へと脚を踏み入れると、その犯人が振り向き舌打ちをした。
「っち、早いな」
そいつは女だった。短い髪を髪で濡らし、顔を腕で拭うと俺を嘲笑うかのように走り出す。
「まてっ!」
そう叫んだ途端だった。
視界がぐらりと揺れ落ちた。
「(しまった……)」
気持ちだけがはやり前へと進んだ結果、体力は底つこうとしている。分かっていたはずなのに、失敗してしまった。後悔していても体は言うことを聞かず地面へと這いつくばった。
俺が倒れる音に盗賊の女は一度振り向くと、
「はっ、なんだありゃ」
鼻で笑い情けない俺の姿を確認して遠ざかっていく。
「(むかつく)」
たったそれだけが頭にこびり付き、芝を掴みながら這いつくばって前進する。気を失っていないなら、休んでいれば普通よりは早く回復はする。でもそれでは間に合わない。
出来るだけ早く、そう思い夢中で進んでいった。
――ドボンッ!
池の水しぶきが上がる。
最悪だった。盗賊の女が進んでいった方向だけに気を取られて、池に近づいていた事に体を滑らしてから気が付いた。体が動かない上に服も来ている。どんどん沈んでいき、呼吸はできない。
こんなところで……。
窒息か……、体力が尽きて気を失おうとしているのか、意識は遠のいていく。
ドクンッドクンッ―――。
心臓が供給されない酸素を求めている。
――その時はそう思った。
だが、爆発でもするように最後に心臓が跳ね上がる!
突然俺の目が見開かれた。
水中でもまだ息は苦しくなっていない。思わず両手を握ったり開いたり、何が起きているのか事態の把握だけに俺は務めていた。
そして、分かった途端池の底を蹴り水面へと飛び出した。
縁に捕まり重くなった体を持ち上げ池から這い上がる。
「はは、ははははははははははははっ!」
地面へと転がった俺は笑っていた。
混乱はしている。
だが、それ以上にその状況を喜んでいた。
「馴染んじまったよ」
率直な感想。考えても見ればこの世界の人間も、現実での人間もやってることは同じ、腹が減るから飯を食う。疲れるから睡眠を取る。だとしたら、飯も食わず、気絶した時にしか睡眠を取らない俺は、まだこの世界の環境に慣れていなかった。その全てが俺の身体に反動を与えていたのだとしたら……。
そう考えてしまえば、楽になった。
飯を食わないことが無意味だったとしても、内面だけでも戻った自分の体に喜びの方が大きい。
俺は近くの石ころを掴むと力いっぱい握りしめた。
「力も入るな」
雑巾を絞る時でさえ時間が掛かった握力は取り戻している。
そして、
「山を駆け上ったりはしてたんだ。まだまだ体力は残ってる!」
仕事で一番必要だった体力もまた取り戻した。
俺は一度盗賊が逃げて行った方向を眺め、足に力を入れると正真正銘全力疾走で走り出す。ついさっきまでの脆弱な動きが嘘のように身体はスムーズに木々を避け、風を切っていく。
池に落ちている間に盗賊との間は空いている。体力が付いたといえ足の速さは変っていないのであれば、追い付ける可能性は極めて低い。池で見つけた時とは違い目撃情報は、今度はないのだ。
そう思っていると、森の中でも一際太く大きな木の傍で誰かが蹲り何かをしているのを見つけた。
俺はたぶん、にやりと笑みを零していたと思う。
その木の根元付近にある盗まれたものを入れた大きな風呂敷、蹲りながら何かを取り出そうとしている短い髪の女。大きな風呂敷はどこかに隠していたのか、目立ちすぎる池の傍では手元に置いておけなかったのだろう。
俺は盗賊の女を見つけてから、速度を一切緩めず突撃していく。速度を保ったまま手を伸ばし、今一番取り返す物へと近づいた。
音を消すなんてことはできず、盗賊が俺に気付き何をしているのか瞬時に判断すると態勢を捻り風呂敷を掴むと後ろに飛び退いて俺の手から逃れた。
「っち、謀られたか」
何を勘違いしたのか知らないが、一々説明してやる理由もない。やるべきことは盗まれたものを取り返すことだけ、会話は一切しない。
「勝手に倒れてくれた方が楽だったんだけど、わざわざ芝居をして私を着けるなんてね」
盗賊が喋っている間に先制で風呂敷へ飛び出す。
「おっと、行儀が悪いなっ」
合図が無かろうと、盗賊に正々堂々なんてことを俺が考えるわけもない。
「ほらよ」
ところが俺はこの世界の認識というよりも、今まで現実世界でも泥棒を捕まえた事なんてなかった事で、もっとも起こりうる可能性を視野に入れていなかったことを知らされた。
「う、げはっ」
これは競技ではない。だから盗賊という犯罪者が暴力に出る可能性を考えておかなければいけなかった。俺は蹴られた横腹を抑えて地面に転がると、痛みで膝を着く。冗談でも人に蹴られた事のない人生で、暴力は太陽との喧嘩ぐらい。それも最低限の加減はお互いにしている、そんな経験しかないために起きた油断だった。
女が俺を見下ろす。
饒舌に話していた時は違い、一切の油断も優しさの無い目。それはこの世界でのアウトローの生き方だと感じる。そして、俺はその瞳に似たものを前にも一度見たことがある。相手を威嚇し、覚悟と決意を決めた強い瞳。
しかし、あの時見た瞳とは決定的に違う。
あの時の瞳は生きる為に相手を睨み付けていたもので、人を傷つけるものでは決してなかった。
「ふっ、諦めな、あんたじゃ俺は捕まえられないって」
たぶん、女が言っている事は正しい。現実だとかアニメだとかは関係なく、そもそもの生き方が違う。それは争いの中で生きた人間と、幸せな家庭で生きた人間程に差がある。それを理解した人間は決して立ち向かったりはしないし、もちろん俺もこんなところで命を掛けたりはしない。
女は俺の表情を読み取り、終わりを告げる様に風呂敷を持ち直した。そのまま、俺の存在がなかった事のように立ち去ろうとする。
女の後ろ姿が一歩また一歩と離れていき、一定の距離まで離れて俺は立ち上がった。何度も言うように俺は立ち向かわないし、命を掛けるなんて現実的じゃない方法は初めから持ち合わせていない。
だから、女のひざ裏を目がけて拾った石を思いっきり投げつけた。
「いだっ!?」
片膝を着いて女から悲鳴が上がる。
「お前っ――や、止めろ!」
俺は感情がないような無表情を作り、もう片方の膝、風呂敷を持っている手を狙って石を投げ続ける。一発で当たるわけもないので、何個もの石を拾っては投げた。
当たらなくとも、石を投げられたら恐怖は誰にでもある。だから、盗賊の女も同じ、石を投げる事を止める様に俺を罵倒する。
「それでも男かっ、恥ずかしいと思え!」
しかし、泥棒にそんな事を言われる筋合いが無い。なにより男とか女以前に石をぶつけるなんて人間としてしてはいけないと思う。それでも俺は投げる。なぜなら、犯罪者、それも人を傷つけるのを厭わない人間に近づくのは危険だからだ。そして、俺は立場上形振りを構ってはいけないと遥か前に決意している。
「ひぃっ、分かった、分かったから止めろ!」
その言葉を聞いて一旦石を投げるのを止める。
「恐ろしい奴だ。そんな卑怯な手を――」
俺は形相を作り、石を投げるフリをした。
「ひぃやっ!」
さっきまでの威勢がどこに行ったのか、可愛らしい悲鳴だった。
「くそ、返せばいいんだろ返せばっ」
女が風呂敷を下ろし、前に出したところで俺は気付かなければいけなかった。わざわざ風呂敷を女の前で解かせる必要がない。ただ、俺の方に軽く投げさせるだけでよかったのだ。
「――馬鹿がっ」
「いづっ!」
また俺は油断した。俺が石を投げた様に、女も風呂敷を解くフリをして適当な石と砂を手に隠し持ち投げつけてきた。
女が逃げて行くのを遅れて確認しながら、本気で頭にきた。さっきまでとは違い、石をぶつけた両足と手には少なからず痛みは残っているはず、俺は取り返す思考から捕まえる思考にシフトチェンジさせると走り出した。
追いかけて早々、やはり女の足は遅くなっている。俺が後ろを追いかける音に何度も振り返り、その表情には余裕がない。だが、今度こそ俺は油断しない。あれも演技の可能性があるからだ。
よって、一定の距離を保ち絶好のチャンスが来るのを待ちながら様子を窺うことにした。暫く森を走り続ける中でそれは遠くない話しだった。草木を避ける俺とは違い女はだんだん避ける動作が少なくなっていく。
痛みを我慢しながら走り続けている事で体力の消耗が激しいのだろう。同じ苦しみを味わった俺は共感を覚えながら、トドメのタイミングを見計らう。
「しまっ――」
そしてその時は来た。
森を抜け女が止まった先が崖になっており、そこで逃げ道が無くなったのだ。俺は無暗やたらに近づかない。
「終わりだな」
投降しろと言ったつもりだった。
それなのに女は崖の下を見て、不思議な表情を作る。俺がその疑問への答えに辿り着く前に女が言う。
「俺の勝ちだ」
「後ろは崖だぞ」
盗み程度の事で命を投げ捨てるとは思えない。ただの女の強がり、俺はもう油断はいない。が、油断とは別に女は俺に問いかけをしてきた。
「好きな方を選べ」
その瞬間、風呂敷を崖へ投げ捨てた。
「なっ、ふざけんなっ!」
俺は手を伸ばす。その間に女は崖へとダイブしていくのを確かに見た。どんな手段があったのか分からないが、取り逃がしてしまうことよりも最初の目的の方が俺には優先された。
俺がぎりぎり風呂敷の端を掴み、これも女が調整した具合に投げられたものだと悟る。が、そんなことよりも問題が起きた。甘く結ばれていたのか風呂敷の結び目が解けたのだ。
「マジかよっ!?」
その中で最初に目に映ったのは札だった。おそらく風呂敷の中で一番軽かったのだろう、風呂敷が徐々に開放されていく中で最初に飛び出していく。それにその枚数で俺の物だと分かった。ロッカーを与えられてからお金をそこにしまう人間は俺だけだった。他の従業員は金を使用するのを理由に、ほとんど手元に置いておくのが普通だった。
だが、使わないことを前提に俺は手元においておくより鍵付のロッカーに入れておくことを選んでいた。
それが今回の引き金になった。
風に飛んで行ってしまうお金を、少しでも多く掴むなら今手に掴んでいる風呂敷を離し、手を伸ばせばいい。元々従業員は貴重品を手元に持っている。だから誰も本気で犯人捜しをしていなかったのだろうし、手を離してもいいはずだった。
しかし、次に視界に入ったもので俺の行動が変わってしまっていた。
お札が風に乗りすでに手には届かない場所へと飛んでいくのを尻目に、それは多少の重量を持ち風呂敷から零れ落ちてしまう。
「く、そっ」
ただ手を伸ばすだけでは手が届かない。風呂敷から次々と落ちていく物の中で俺はそれだけを見つめ、気づいた時には崖の蹴飛ばし体ごと掴みに行っていた。
なんでこんなことをしてしまったのか、落ちていく中でその理由を考えていた。
「ははっ、簡単なことだな」
見放してもいい俺に気を遣い続け、教育係になっただけの少女。俺のミスを自分の所為だと思い込み謝りに来た少女。俺の為に食事をいつも用意しては跳ねのけていた少女。あの優しい少女が、ロッカーでへたり込むほど落ち込み、それでも俺の心配をし続けた少女の顔が浮かんでしまったからだった。
あの少女、メイが大切にしていた髪飾りを掴んだ。
もう後戻りはできない。飛んだ時点で崖を掴むこともできなければ、仮に掴んでも登り切り事すらできなかっただろう。崖の下は海だ、後は運に任せるしかない。
掴んだものだけを離さぬよう、海へダイブすることを俺は覚悟した。
「勝手におっちんでもらっちゃ困るんだよ」
突然足を掴まれ重力で内臓系に圧力がかかる。
「ごほっ――」
「こっちはあんたに高い金払ってるんだよ、誰がその元を払うってんだい!」
「――マザーッ!?」
確かに落ち始めていた俺を常人なら触れる事すらできない。ところが突然現れたマザーの体格をすれば、少し体を低くすればいとも簡単に俺の身体を掴むことができた。それも片手でだ。
「だいたい犯人捜しなんてものに時間を使ってないでお前さんたちは仕事しろってのを言われないと分かんないのかい?」
しかし、こんな状況でも仕事優先、利益重視なんだなと半場呆れながら、早く掴んだ足を元の陸へと戻してほしい。頭に血が上ってきた。
「だいたい捕まえてすらいないじゃないかい」
マザーの文句を聴き、もう一人崖から落ちた人間の事を思い出した。吊るされる形のままそいつの姿を探すと、盗賊の女は崖に引っかけたロープを辿り崖下の岩場へと着地している。その近くに小型船が用意されていた。そこでようやく崖に落ちる前の発言の意味を俺は知った。
そして、上を見上げた女は見るからに勝ち誇った表情で用意していた船へと乗り込んでいく。
「くそっ!」
結局、女は盗みは成功しなかったものの、俺の金は無くなり盗まれたのと変わらない。挙句に女はまんまと逃走を成功させたことが悔しかった。
そんな悔しさを噛みしめていた俺をマザーは乱暴に投げ捨てた。
「いっで!」
「あー、なんだっけ? あいつの勝ちだったかい?」
俺達をどのタイミングから見ていたっ、と問いただしかったが次に出るマザーの発言で俺は口を閉ざすしかなくなった。
「この国で私に勝てるって、はっ、笑えないね」
盗賊を取り逃がした割に余裕な態度の後、
――きゃあああああああああああああああああああああああああっっっ!!
聞き覚えのある声の悲鳴が崖下から聴こえてきた。
思わず俺は崖に走り寄り下を覗く。
そこには盗賊が乗り込んだ船だけがある。女はどこにいったのかと注意してみてみると、船底に鉄格子の天井があり、その下に何が起きたのか分からなそうにしている女盗賊が空を見上げていた。
「ほ、捕獲船?」
「ふん、この国に金も払わず船を停められるわけがないだろ。事前に見つけて代えてやったよ、がっははははははははははははは!」
上には上がいるもんだと、豪快な笑いに釣られて俺も間抜けな女盗賊の姿を見ながら笑い続けた。
宿屋へと戻る途中、マザーが突然尋ねてきた。
「なんでお前さんは自分の金よりそっちに手を伸ばした?」
「ホント、どこから見てたっ!?」
本当に突然のことで答えるよりも、さっき疑問に思ったことを俺は質問し返していた。
「質問に質問で返すんじゃないよ」
まぁいいかと思い、自分が感じたことをもう一度考え直し、言葉で説明できるよう整理する。
「俺はこの世界に……ああ、仮に俺がメイクスだとして――」
「ふんっ、すでに理解しているよ。メイクスとして話しな」
すでに俺をメイクスと認めている事に少しだけ驚いた。だが、マザーからすればどっちでもいいのだと妙に納得してから話を戻す。
「ここに来てから俺は自分の事しか考えていなかった。余裕もなかったし、この世界に関わるつもりがないならそれが正しいと思ってた。それなのにメイだけはずっと俺の事を気にかけてくれていたんだよ。もしかしたら、あの子も俺をメイクスだと信じてそうしていてくれたのかもしれない。で、死ぬかもしれないと崖から落ちた時……、最後に掴むものが金っていうのが妙に嫌になった。それよりもどこに居ても自分の事を考えてくれるメイの事が頭に浮かんだら体が自然に動いた。たぶん、体が元の状態に戻ってから、まぁ、見た目は戻ってないけど、その時考え方も少しだけ元の世界に戻れたのかもしれない」
「考え方?」
「他人のためにできることをするってことかな? それをあの子が思い出させてくれた」
それからだろう。今までこの世界を拒否し続けてきた事が無意味で、バカらしくなったのは。仮に元の世界で俺に困ったことが起きたら、母さん、太陽、月、親父さん、おふくろさん、皆が助けてくれる。逆に皆が困ったら俺も同じことをしていると思う。
「そう思ったらさ。元の世界に帰るためだとしてもここの世界の人間に助けてもらってもいいのかなって。その間だけでも俺もできることをすればいい。その一歩がメイの為に、この髪飾りを取り返すことになった……たぶん」
言い終わるとマザーは、ふんっ、と鼻を慣らし男前な表情でニヤっと微笑む。俺は恥ずかしさもあって、本当に女かよ、と口にするとでかい手で叩かれた。
そして、マザーは話し始める。
「お前さんたちは似ているのかもしれないね」
「メイと?」
分かってはいたけど、確認の為に誰かを明確にする。
「あの子はね。【死の国】と言う場所の出身なんだよ」
「物騒な名前だな」
「由来はその国に入ったものは死ぬことでしか出れないってことだったんだよ。だけどね、あの子の母親の愛が、あの子を生きたまま【死の国】から脱出させた。だが、あの子は生まれた場所に戻ることも、二度と母親に会うこともできない」
メイが脱出できた事が奇跡だとしたら、死ぬと分かっている島に戻ることはできない。それは母親の決死の覚悟を無意味なものにしてまで戻ることは、心優しいメイにはできないだろう。
「だから、その髪飾りは今となっては唯一母親を感じられるのものなんだよ」
だから、着替え部屋でメイは崩れ落ちる程ショックを受けていた。
「そして、存在している故郷へ帰れないメイと、絵本の中にしかないとされている、帰れないお前さんの故郷。だからだろうね、あの子はお前さんの気持ちを理解できたのは」
メイは、始めから俺をメイクスと認めていたのか……。
「だけど俺は帰る。どれだけ時間が掛かってもな」
まだ諦められない、可能性がある限りは――。
「それで、マザーに訊きたいことがある」
「なんだい?」
「俺を買った分の元を取るって言ってたよな」
「ああ、だからお前さんが二十五万Я溜めても、その分が稼ぎでこっちの元が戻らなかったら自由にはさせないよ」
だと、思った。
「それで提案なんだが、俺を稼げる場所へ移してくれ」
「【清掃】以外へかい?」
「ああ」
「がっははははははははははははははっ、バカかいお前さんは? 【清掃】が誰でもできる仕事だんだよ。そこで満足に働けないお前さんがどこで稼ぐって言うんだい」
身体が元に戻ったことを知らないなら、そう言うのもしょうがないだろう。
「だから、賭けに乗る気はないか?」
「賭け?」
その言葉にマザーの目が真剣なものに変わる。まるで勝負の駆け引きを見極める強い眼差し。
「まず、他の場所に行くためにもう一度【清掃】で働く。そこでマザーが判断してくれればいい。で、元金を稼ぐために客を俺が呼び寄せる」
「なるほど、メイクスだと言うことをこの世界へ広げようって魂胆かい?」
百言わなくても理解する分、説明が少なくて楽でいい。
「うまくいくかねぇ?」
「だから賭けだっていうんだよ」
そこまで言うとマザーは顎に手を当て考え始めた。
問題とされている部分は、世界中にメイクスがいるという事を信じてもらえるかどうかだ。元々絵本の中だけの存在の俺が、たかが噂程度でお客に繋がるか。
難しいかと俺が思い始めた頃、マザーが顔を上げた。
可か不可か、それでまた俺が帰る為も資金調達の時間が変わってくる。
「いいだろう」
「意外だな……」
正直十中八九無理だろう思っていたがマザーは俺の提案に乗った。しかし、あまりに運任せの方法に乗ったのか些か疑問が浮かぶ。マザーの性格上、条件もなしに飲むとは思えない、おそらく、なにかしら企みがあるのだろう。まぁ、俺がメイクスだと言うことを利用するように、マザーも利用する手立てがあるということで片づけておく。
「それで、【清掃】ではどうやって認めさせる気だい?」
それは端っから決まっている。
「リベンジッ!」
宿屋に帰ってきた俺を従業員の視線で埋め尽くされる。それに加え、どういう経緯で知ったのか客たちも不安、恐怖、興味、結果が気になり、マザーの姿が宿屋のエントランスに現れた途端静寂になる。
一つ間違えば宿屋の評判は一気に傾く。その雰囲気はそう物語っていた。
「マザー……、ホタルさん」
その中の一つにメイの姿もあった。どうにか隠したのだろうが目が腫れている。あの後泣いていたのだろう。それを見た俺は池での自分が重なるようですぐにでも髪飾りを渡しに行きたくなった。
ところが、一歩踏み出すと同時、マザーの指が俺の肩を掴み動けないようにされた。振り払おうとするがマザーの力は圧倒的に強い。動けなくなった俺は、成り行きを見守るしかなかったのだが、ふとマザーの行動が気になった。
この状況で俺がメイに髪飾りを返すのは一つの決着でもある。盗賊を捕まえ、一つではあるが盗まれたものを取り返した。しかし、それを制止てでもマザーがやろうとしている事、それこそマザーがこの賭けに乗った理由でもある。
――何かが起こる。
そう思ったのは俺だけではないはずだ。
一歩前に出たこの国の主でもあるマザーに視線が集まり誰もが息を飲む。そして、マザーの本領は発揮された。
「さて、ここに集まった者は何が起きたのか知ってるね」
始まりは客、従業員を区別しない話し方。つまり、この場にいる全てのものを平等に扱い、これから起こる全てに参加させる言い回しだと、この後知ることになった。
「客、そして従業員、それぞれ不安も抱いただろうが、この国で自由な行動はあくまでこのマザーの掌でしかにことを証明した」
それは盗賊を捕まえたという説明。しかし、それは事後の事でしかなく再発を恐れれば客足は遠のいてしまう。
「それはここにいる従業員、ホタルも協力をした」
客との駆け引きはマザーの手腕に委ねられる。
「この国で起きる全てはこのマザー、そして従業員が片づけるのが当然のことで、客には関係ない事。そのお詫びに面白いことをしようじゃないか」
客って言い方をまず直せと思うが、なるほどと俺は思う。客引きと同時に客の興味を疑われる存在に向けることでこの事件をうやむやにすれば一石二鳥で事が済む。
トンと背中を押され俺は、理解して自らの足を使ってエントランスホールの中央まで歩いていくと視線は集まった。
「このホタルという人間、皆が知っている存在メイクスその者だ!」
ここまでは、俺の計画の一部。
問題はこの後――。
紹介をされても歓声は起きなかった。むしろエントランス中がざわつき始め、疑いの声だけが連鎖して広がっていく。その中には、
「ホ……タルさん」
正体を明かしてしまっていいのかと戸惑いに満ちたメイが、
「は? メイクスってあの絵本に出てくるメイクス?」
「だ、だろうな……」
メイの横で、なぜそんなことをマザーが言うのか疑問に思い、戸惑う従業員達の姿。
と、疑心が膨らみ続ける客の中の一人が手を上げ、エントランスを見渡せる二階の通路から、見覚えのある男性客が当然出る質問を尋ねてきた。
「メイクスだと証明はできるのですか?」
俺はすぐに思い出した。やさしそうな目と付け髭のような髭が鼻と唇の間に生えている、廊下をずぶ濡れの恰好で歩いていた客だ。
その男性と目が合うとニコッと笑いウインクをしてきた。
なんだ? と思うのと同時、気味が悪い。男の俺にウインクをしてくるなよ、と表情は自然に歪んでしまった。それに気づいても尚男性客は微笑んでいる。
「いや、証明する方法はない」
男性客の問いかけに答えたマザーのおかげで不穏の空気から脱出した俺は、今度はマザーが視線を送ってきた事に気付く。しかし、マザーの視線の意味は理解した。ここに来る前リベンジと相して、【清掃】でのテスト方法を伝えていたからだ。
俺は雑巾を取りに一度、その場からはけた。
その間にもマザーの手腕が繰り広げられている。
「そもそも、メイクスの存在はオマケだからね」
と、いきなり俺の計画から外れた発言で、雑巾どころではなくなった。客引きにはパンダ(俺)が必要だ。その存在がどうでもいいと言われたら、俺はどうやって俺の存在を証明するのか考えていない。俺が思考を巡らせ戦略を組み立て直している間にも男性客の質問は続く。
「それでは?」
だが、俺の計画を継続したままマザーの金儲けが始まっていた。
「すでに客の中で知っている者もいるだろう。数日前、ホタルはたかが廊下を拭いている最中にぶっ倒れたことを」
「確かに私も話は聞きましたが……それがなにか?」
「くだらない盗賊の件など忘れてもらうために賭けをしようじゃないかと思ってね」
まさか……と俺はマザーがしようとしている事を理解した。確かにこの方法なら一石二鳥どころか一石三鳥、金儲け、客引き、事件の有耶無耶、全てができる。挙句にマザーからすればその負担を俺に背負わせる気だ。
「これからホタルがレースを行う。それに勝てるかどうかを皆には賭けてもらおう! 参加は自由、客も従業員も参加可能だよ! もし、客が勝てば賞金と共に宿泊代金はおろか、この国にいる間の資金はこちらが持とうじゃないか!」
一瞬の静寂だった。
誰かが声を漏らすのを合図に宿屋全体が歓喜に沸いた。
メイクスの存在なんてものはイベントの餌だとしても、客からすれば楽しければそれでいいのだ。楽しみ、そして帰った先でこの事を話せばメイクスの真偽を確かめに来る客、開かれるイベントを求めて来る客、全てはマザーの思い通りに動いている。
賭けは成立した。
マザーが従業員の数人を宿屋の階層ごとに振り分け、賭け金の回収と記録を付けさせに行く。
「やられた……」
リスクも背負わずやってのけたマザーに呆れるよりも、すごいと素直に感嘆の声を上げる。だが感心している場合でもない。俺は対戦相手に挑戦状を叩きつけてやらなければいけない。
「お、ホタル? お前……」
魂が抜けた状態だった俺の変貌に戸惑いながら、放った雑巾を受け取るサンに言うことは一つ。
「やられたらやり返す!」
サンは雑巾を手に持ちながらしばし考え、思い出すと幼い少年のようなあどけない笑顔を見せ、にやっと笑う。
「面白い! また気絶しても知らねぇぜ!」
過去に淀みもなく俺の態度を忘れてしまったような笑顔に俺も、挑発的に笑い返す。
「あ、」
メイが嬉しそうに顔を綻ばせていく途中、割って入る様にホムラが前に出てきた。
「はっ、あんたが勝てるわけないじゃない! アタシはサンに全財産賭けるわよ!」
どこかテンションが上がっているのはどんな理由かは知らないが、ホムラの賭け方に従業員が一人を除いてサンに賭けた。もちろんサンも自分に賭ける。その光景と俺の気絶の話を知っている客たちもこぞってサンに賭けた。
その中で一人だけ、
「そ、そんな酷すぎます! なら私はホタルさんに全財産を賭けます」
どよめきが立ち、心配そうにホムラが言う。
「あんた、そのお金捨てる気?」
う、と零れたメイの肩に俺は手を置き、
「前祝いだ、手出して」
ぽかんとするメイが手を差し出して俺はソレを返した。
「あ、ぁああっ!」
メイは髪飾りが手にあることを抱きしめ喜び、マザーが豪快に笑う。
「サン、あの時みたいにはいかないからな」
「言ってろ!」
――勝負は始まった。