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アニメの世界へようこそ

アニメの世界へようこそ


俺の身体に何が起きているのか、考えるまでもなくあの黄緑色の物体を食べたからに他ならない。その発端の原因を睨みつけた……のだが、思考までも違和感があることに睨んでいる場合でもなかった。

なんとなく、言葉が漏れているような感覚、感情が見えない何かとなって漏れ出しているような不思議な感覚だった。

「なにが起きてるんだよ」

口から出る言葉さえ元々の口調だったのか疑問が残る。まるでキャラが変わってしまったかのようだ。

そこに、

「何が起きているのか考えているところ悪いんだけど……」

ノーシが見ている事態を伝えようとしたところで、俺は先に文句を言う。

「悪いも何もお前が原因だろ!」

そこからは感情のぶつけ合いだった。

「知らないわよ。大体ね、私が意図的にやったとでも思ってるわけ? ありえない! あんたの価値はさっきまでの姿を維持していることが条件だったのよっ! 私達と変わらない姿になったらどうやってメイクスだって証明するわけ? これじゃあ、いつもと変わらない金額でしか取引できないじゃない!」

そんなこと俺の知った事じゃない。そんなことよりも、元の姿に戻る方法も考えなくてはならなくなった。いい方向どころか悪い方向に、しかも、『帰る』という部分と同等の難問になってしまっている。

「くそっ……」

増えた難問に怒りもいつまでも持たない。まだ、怒りがあった方が込み上げてくる悲しみを我慢できた。

そんな複雑な感情を感じ取ったのか、ノーシも続く怒りを抑えていた。知らなかったとはいえ原因はやはりノーシにある。しかも蛍の立場、異世界人と知っているノーシは、自分の身に置き換えて考えれば罪悪感を覚える。

「あー、悪かったわよ」

それに蛍は商品だ。その商品を売り出すにしても、本人の感情を売り手が乱し、やる気を失くさせては元も子もない。だからあまり役に立たないと知っていても慰め無いわけにもいかなかった。

「でも、蛍が元の世界に帰れたら元に戻れるかもしれないんだし、やることは変わらないじゃない、ね?」

「……確かに」

元を辿ればやることに変化はない。それにノーシの言うとおり元の世界に帰れさえすれば、この姿は存在できないと知っている。俺の世界でどんなに間違ってもアニメの人間は存在したことが無いのだ。いてもTVの中、人間が創り上げたものだけでしかそれを知らない。そう思うことで一旦の悲しみを含めたあらゆる感情を抑え込んだ。

「そうと決まれば早速目的の国へ行きましょ。っと、その前に服は着た方がいいわよ」

……はずだったのだが、ノーシに言われて俺は自分の恰好を初めて確認した。

「は? う、うわぁああああああああああああああああ、なんで裸なんだよ! っていうか気付いた時点で教えろよ!」

アニメになってしまうというそれだけで異常な変化に、いつもは当たり前に着ている服がない事に今の今まで気が付かなかった。思い出してみれば、服が脱げ落ちる音はしていた。

俺は慌てて身を出来る限り隠し、落ちている制服に手を掛けた。のだが、掴もうとした手は弾かれた。

「くそっ、なんで!?」

それは何度やっても変わらず、服を捉えきれない代わりに触れた砂の感触。元の姿ではガラス細工のような感触が、いつの間にかざらざらで手に残る細かい粒子のものに戻っていた。

それはアニメ化したことにより全てのモノが俺を受け入れた、もしくは俺自身がこの世界に合わさってしまった現象に他ならない。そして、そうなることで代償は着いてくる。それが、俺が着ていた制服に触れられない原因でもあった。

そんな俺に衣服が投げ込まれた。

「とりあえず、それ着てなさい。いつまでも見せられてもね……」

見られている方が恥ずかしいのは当然としても、見ている異性が全く羞恥を感じていないことに腹が立つが、裸体でいるよりもさっさと服を着ることを選択する。ぼろぼろとまでは言わないが、質素な造りで機能よりも身に着ける事だけを目的とした服を着込みいよいよ元の世界の名残は無くなってしまった。

「あら、案外似合うじゃない。時間も惜しいしそろそろ行きましょう。その途中で説明した原本の在りかも教えてあげる」

ノーシは獣に乗り込み俺に指示を出す。いつまでも落ち込んでもいられないし、アニメ化してしまった俺は前を進む事しか考えてはいなかった。ノーシの手を借り獣へと乗り込む。

「意外と獣の毛柔らかいんだな」

「獣って言い方止めてよね。この子は私の相棒、名前はビューイよ!」

「悪い、よろしくビューイ」

言葉が分かっているようで、ビューイはでかい図体に似合う唸り声を上げ駆け出した。風がビューイの茶色の毛並を泳がせ、ほんの少しだけ俺は、この世界に触れている事を楽しんでいた。

この後待ち受ける労働の日々を想像することすらなく……。


服も持ち物も失くしてしまってから、数時間が過ぎた。携帯もなくなったから正確な時間は分からないまでも体感時間でそう感じていた。

「はぁ、はぁ、まだ着かないのか?」

ビューイに乗っているからと言って全く体力を使わないわけじゃない。馬に乗るのと同様バランスを取ったりと休まる暇が無い。

そんな俺に向かって、嫌味が言い残された。

「だらしないわね。これから働くって言うのに体力ないなんて貴重価値除いたら、何も残らないんじゃないの?」

ところが落とされない事だけに全神経を集中していた俺には、言い返す力はない。返ってこない文句にノーシも呆れたため息一つして再び前を向いた。そして、すぐに前方に見えるそれを指さす。

「ちゃんといたわね、あれにあんたが乗るのよ」

「ふ、ふね?」

力なく体を傾け、見る先に広大な海が広がり小さな屋根付きの小舟と船主が待っていた。

「あれに乗るのか?」

「そうよ、話はつけてあるからそこで詳しい話は訊きなさい」

「あ、俺一人で行くのか? ってその前に原本の話は……?」

「蛍が訊ける状態じゃなかったじゃないの。初めは景色を楽しんでたのに途中から人の声も耳に届かなくなって」

「それはそうだけど……」

「じゃあ、これだけ覚えていなさい。原本がある国の名は【ナレッジラウ】、蛍が稼がなければいけない金額は二十万Я(ヤー)。知りたいことは誰かに訊けば簡単に尋ねれば教えてもらえるはずよ」

分からないことだらけなのに、無責任に放り出される。そう感じてしまうのは俺が元の世界の法律に守られていたからだろう。それが嬉しくも悲しい事実だった。

「ま、私も蛍で稼ぐ方法を諦めたわけでもないしね。さ、行きなさい」

言われるまま、ビューイから降りて船へと向かっていく。新たに抱える不安に俺の甘さを感じながら、ノーシがビューイと共に海へと飛び込んで行くのを見送る。

すると、

「水陸両用だな、あれが何匹もいたら俺の仕事がなくなっちまうぜ」

すると、船主がノーシを見ながら声を掛けてきた。

「こんな島で一人は見つかったんだな。さすが人売りって言ったとこか。んなことは良いとして、さっさと行くぞ。こっちは暇しながら待ってたんだからな」

船主は俺よりも少し年上と言ったところだろう。口調も態度も年相応で、若さが目立つ。

「あ、ああ、よろしく」

行先は分からないが、連れて行かれる場所は俺が働く場所だ。船主に雑に扱われながらも乗り込むと、最初に辿り着いた土地を名残惜しむ暇もなく船は出航し始めた。


船に乗ってから二回、日が暮れた。

「よし、着いたぞ」

久しぶりに口を訊いた船主の声で目覚めた。

霧がかった船着き場で見えるのは何かの建物の壁。所々入り組んでいる事から裏口のようだった。

俺は船から降りて固くなった体を柔軟運動で解し、船主に尋ねる。

「どこに行けば?」

当たり前の質問だったのだが、船主は面倒くさそうに顎で道を印す。

「んぁ、そこまで行けば案内が待ってるだろ。後は、俺が知るかよ」

むかつく対応だったが、一応礼を言っておく。小舟は動力にエンジンなんてものは積んでおらず、二日間休憩以外の時間を除けばずっと小さな帆と木でできたオールで漕ぎ続けていた。疲れからくる機嫌の悪さだったら仕方ない。あれを俺ができるかと言ったら無理だ。できたとしても、声を出す余裕すらないだろう。と、そんな事を考えている内に、船主は返事もせずに船を出していなくなっていた。

俺はもう一度教えられた道を確認し、いくつもある小さな扉の一つに目標を決める。霧で足場を踏み外さないようにその扉の前にまで行くと、チャイムもないのでノックを数回してみた。

すると、扉が開き女の子が待っていた。

「ノーシさんに売られた方ですか?」

何度聞いてもいい印象は受けない言われ方だったが、この世界ではそういう言い方なんだと自分に言い聞かせ返事を返すと、中に通された。

薄暗い通りは本来なら人が三人は通れるほど道幅がありそうなのに、脇に置かれた荷物の所為で人ひとりが通るのが精いっぱいなほど狭くなっている。中に何が入っているのか近くの木箱を覗き込もうとした途端、女の子から声を掛けられた。

「着いて来てください」

荷物からどういった場所なのか知りたかったが、大人しく女の子の後を追いかけ、その途中、奥の方から人の声が忙しそうに聴こえる。まだ朝早いと言うのに、もう働いているようだ。

「早いんだな」

「はい。ここでは常に誰かは働いています」

コンビニか何かだろうかと考えたところで、女の子が立ち止まると壁にあるボタンを押して待つ。暫くすると上の方から機械の音が近づいてくると、チンッ、とエレベーターが到着した。乗り込み一番上のボタンを女の子が押すと、来た道をエレベーターは昇って行った。

到着して降りるとすぐに扉がある。

「ノーシさんの紹介で――」

「入りな」

女の子が話し終えるのを待たず、奥にいる誰かが中に入るよう指示を出してきた。

「失礼します」

「あ、しつれいします」

女の子に遅れながら声を出して長い廊下を辿ると、部屋の主である存在は机の前でなにやら書類仕事を片づけているようだ。束になった書類で顔も見えなければ、俺たちは声も掛けられず待たされるようだ。机の横で従業員らしき人間が二人でその書類の完成を待ち、どでかい台車を傍に置き待っていた。

「これで終わりだね。さっさと持ってきな」

ようやく終わったと部屋の主が山積みの書類を全て纏めて持ち上げる。

「う、うそ……だろ」

驚いた様子でいたのは俺だけだった。訝しんだ目で俺を一度視界に入れてもすぐに興味を失ったようで台車を押す従業員たちはそのまま部屋を後にする。それを目で追っていた俺だったが、突拍子もなく俺の素性が明かされた。

「お前さんがメイクスねぇ」

別に隠すつもりもなかった。だから明かされたことに大してなんの驚きも俺には無いし、メイクスと言う言葉がまだ慣れてもいなかった。その事に、驚いているのはここまで連れてきてくれた女の子の方だ。肩を跳ね上げ俺を奇妙な目で見ている。俺は当然だろう、と思う。もし俺の世界にアニメキャラが来たらまず科学技術を疑い、仕掛けを探してしまう。それがこの世界では女の子のような反応になっただけの事。

むしろ俺が驚いたのは、目の前に現れたでかいおばさんにだ。少なく見積もっても縦も横も大幅に人のサイズを超えている。だから、俺は女の子の反応に対して特に何も言わず、初めて見るその存在を眺めた。

「なるほど、反応はそれらしいが、それだけじゃ信用できないねぇ」

パイプを加えマッチで火をつけてから煙を吐き出す。

「一つ訊いてもいいか?」

だが、この世界で起こる全ての現象は受け入れることができる。例えドラゴンが出てこようと、魔法使いが現れようと、俺の世界でそれは架空の物として存在している。だから、現在身に起きていることを認めてしまっている俺には何も珍しいことなどないのだ。

「なんだい?」

「どうして、俺がメイクスって奴だと知ってるんだ?」

「がはっはっは! それもノーシに仕込まれたのかい? とても演技には見えない程うまいじゃないか」

豪快に笑うおばさんはパイプで俺を指す。

「それじゃあ、まぁお前さんをメイクスだと仮定して話させてもらうとだね。この世界には離れた距離でも会話ができる道具があるんだよ。これを使えばね」

そう言って机から持ち上げたのは電話だった。それも旧式の黒電話に形は似ている。それだけ見れば俺の世界の技術の方が進んでいる事に、どうでもよくなった。俺の素性を調べ実験とか危険な場所に売られなければ些細なことだ。

「そんな反応をしていいのかい? どんな時もお前さんは驚いた反応をしなければメイクスだと信じてもらえないよ」

「俺からすればどっちでもいいんだ。俺がメイクスだとアンタが認めたくないのは、ノーシから俺を買い取る値段を安くするためだろ」

「ほぉ、なるほど。強ちノーシの言っていることは正しいのかもしれないね。だからと言って高く買うつもりはない――というのはお前さんに言ったところで始まらないんだったね。それに実の所、私もどっちでもいいのさ。お前さんが何者だろうが、この国はいつだって人手不足、悪人だろうが善人だろうが私は雇ってやるよ」

「それなら話は早いな。俺は金が要る」

時間は有言ではない。俺の世界では時間が経てば経つだけ問題は大きくなる。今はまだいい、夏休みという期間の数日ならばどこかへ遊びに行っているとでも現実世界では考えられるし、帰ってから旅行に行っていたとでも言えば、怒られるぐらいだ。

だが、それ以上の時が過ぎれば俺の存在があの世界で死に、俺の暮らす環境はあっという間に無くなる。そうなる前に俺は帰る方法を見つけなければならない。

この世界に来てから三日、野宿と船での移動ではなにもできなかった。だが、もう行動を起こした分だけ解決に進む。もう立ち止まっている暇はないのだ。

「やる気がある分には良い事だね。それに話は聞いているよ。二十万Яで【ナレッジラウ】に入国だったね。しかし、実際二十万じゃ足りないよ」

「どういうことだ!?」

「焦るでないよ。説明ついでにここの給与の仕組みも教えてやるさ」

正直な所二十万Яと言われてもピンときてはいなかった。円の単位なら一か月そこらじゃ溜められない。それでもお金の単位が違えばと考えていたのだ。

「まず、あんたが行きたいと言っている国は法律が特に厳しい国でね。入国で十、出国でもこれまた十。加えてお前さんの目的はあの国にある資料にある。それはモノにもよるだろうけど、安く見積もっても五は必要だろうさ」

許容範囲だ。五万増えたぐらいなら大差ない。

「安心しとるとこ悪いけど、まだあるよ」

「まだっ!?」

「私は、あの国で、と言ったんだよ」

「つまりここでもそんなに掛かるってことかよ」

「バカ言うんじゃないよ。あの国は世界の中でも高額な金額をふんだくる。ここでは自分が生きる為の金は自分で出せって言ってるんだよ。食事も風呂も入りたきゃ自分で金だしな! ただし寝るとこはこっちで用意してやるからね、そこだけは安心するんだね」

俺は頭を抱えて簡単な計算をしていた。原本がある国に必要な金が二十五万、加えて当然かかる生活費。……だが、これは心配するほど掛からない。俺は節約以上の事をしなければならないと決意していたからだ。

「がはっはっは! 色々考える事があるだろうが、一番知りたいのは給与の話だろ?」

確かに、何を考えるにも収入がいくらかによる。

「それで一日いくら稼げるんだ?」

「お前さん次第さ。金が欲しければ死ぬほど働き、金が要らないなら仕事を減らせばいい。この国にいたいなら、最低限仕事はしてもらう。それがここでの条件だよ」

歩合制……、それなら都合がいい。

「それなら早く俺に仕事をくれ! 一日でも早く金が要る!」

そう言うとおばさんはまた豪快に笑った。

「いいだろう! メイ、あんたがこいつの指導係をやりな!」

「は、はい!」

「あとはお前さんが見てできる仕事を増やせばいい。ここには仕事は山のようにあるんだ!」

話が終わればメイと呼ばれた女の子の方を振り返り、連れて行ってくれるよう頼む。

「こ、こっちです」

メイは余計な事は言わずに歩き出した。

と、そこに、

「待ちな。あんた名前は?」

「火村蛍」

「それじゃあホタル、これからは私の事はマザーと呼びな!」

「よろしく、マザー」

「はっ、しっかり働きなよ!」

言われるまでもない。

俺は歩き出し、部屋の扉から外に出る。すると、また二人の従業員がいた。相変わらず、無視するような反応だが、気にも留めず来た時とは別のエレベーターに乗り込む。

と、開きっぱなしの扉を従業員の二人が閉めようとする影から叫び訊いた。

「そうだ、ここはなんの店なんだ?」

扉が閉まり始めマザーは答える。

「忙しい人間共が来る、忙しい宿屋だよ」

扉が閉まる隙間からニヤとほほ笑むマザーが見えた。


宿屋か……。イメージできるのは仲居さんが働く姿。料理を運んだり接客が定番と言ったところだろう。それぐらいなら経験が無くても慣れが解決してくれる。問題なのは厨房になった場合だ。皿洗いならできるが料理の経験は学校での調理授業しかない。

俺は自分のできる事と出来ないことを頭で整理して、結論は『慣れ』に辿り着く。バイト経験は太陽の家の手伝いぐらいなもので、仕事の責任を背負うほど真面目にはしたことが無かった。まさかバイトをアニメの世界で初体験することになるとは思ってもみなかった俺は色々と想像力を働かせていた。すると、今まで隣で俺の様子を窺っていたメイが声を掛けてきた。

「あ、あの……」

俺はそれに声を出して返事を返したりはしない。できる事ならこの世界の人間とあまり接触を控えたいと思っていたからだ。別に俺の存在が明るみになって人体実験などの警戒からではなく、気持ちの上で帰るのを諦めてしまう口実を作りたくなかったからだ。あくまでこの世界は俺にとって暮らしづらい場所、それだけでいい。

とりあえず無視はさすがにせず、視線だけを合わせて続きを待つ。指導してくれる立場の人間相手に全く会話が成り立たないと言うのは避ける必要があったからだ。

「本当にメイクスなんですか?」

恐る恐る訊いてくるそれは、俺にとって何の価値も無い。そう思うと返事は冷たくなった。

「どっちでも」

冷たくあしらうと、あぅ、と俺の日常ではあまり耳にしない反応で返された。

「あ、あの……」

冷たくあしらった割に続けようとする会話に俺がイラつく。会話そのものでなく、メイが話すたびにおどおどした態度にだ。

「なに?」

イラつきは言葉に宿る。

「す、すみません。仕事の説明をしなくちゃいけないので、させてもらいたいんです」

俺は困惑しながらも上司……というよりは先輩に当たるメイに返答は必要だった。

「よろしく」

「はい!」

たったそれだけで明るい表情でメイは説明を始めようとした。それが俺に罪悪感のようなものを抱かせるが、俺はそれを抱いてはいけないものだと思う。これから色々な事を否定、拒否しながら帰るまでの時間を過ごさなければいけないからだ。

自分でも不器用だと思うのと同時、太陽を思い出した。あいつなら好きな世界に来られたら思う存分楽しむのと同時、帰るために行動を起こすだろう。俺もそういう順応性があればいいのにと、心のどこかで感じていた。

「では、仕事場に関して順を追って説明しますね」

説明が開始され元の世界での感情を抑えた。しばらくはこの感情は邪魔になる。忘れない事だけをしっかりと胸に残し、俺は元の世界へと帰るために働く。

「お金の流れも同時に説明したいと思います。ここの宿屋は主であるマザーを筆頭に従業員である私たちがいます。そして、職場は大きく分けて【宿屋】【宿屋外】に別れ、さらに枝分かれしていると考えてください」

「宿屋外?」

「はい。基本的に【宿屋】は建物内での仕事を指し、【宿屋外】はこの建物での仕事を指します。【宿屋外】に関しては暫く仕事を割り振られることはありませんので説明は省きますね。それで本題の【宿屋】で働く私達の職場は【清掃】になります」

言葉の通りなら問題なく働けると思うのと同時、清掃だけで歩合が成り立つのかと思っていると、メイから続きが話された。

「ここからお金の説明も絡んでくるのですが、【清掃】を含めた各職場には、役職が存在しています。その役職が付けば――」

「給料もあがる。じゃあ、役職はどうなったら付くんだ?」

「はい。役職は二つの方法で付くことになります。一つは人より仕事を早く正確に量をこなすこと、そしてすでに役職に付いている上司の方から割り振られることです」

出世のようなシステムに、ゴマスりなんてできないぞ、と小さく呟いた俺の声が聴こえてしまう。

「その必要はありません。ここではマザーが全ての権限を持っています。ですからゴマをスって役職が付いても力が足りないと判断されれば、役職を持っていた人も、ゴマをスった人も宿屋の為にならないことをすれば簡単に役職はなくなります」

つまり、実力で仕事は回ってくると言うことだ。

「ただ、どれだけの役職があるのか知らないが、やる気を維持できるものか?」

「その心配は必要ないと思います。固定の役職の方々を除いて、段階別につけられています。例えば、私なら〈見習い〉、あ、えーとヒム――」

「蛍でいい」

「は、はい! ホタルさんなら〈新人〉という形になります。それに役職以外にも、仕事をこなした量がお給料にも反映されることになります。加えて、固定の役職以外は働いた量でお給料は変動してしいます」

簡単に整理してみると、俺の世界である役職の『主任』という立場と『平社員』の間にも細かな役職があって、それは一人じゃないし、働き具合によって降格も出世も一日でする。固定役職はその基準となるポジションみたいなものだということだ。結局、大まかな歩合制の給料と考えられた。

纏まったところでエレベーターが停止する。

「あ、着きました」

扉が開いた瞬間、度肝を抜かれる。

「な……んだこれ」

想像していた宿屋の清掃は客が寝静まる頃か、早朝から静かにやるものだと思っていたのだが、目に飛び込んできたそれは漁港で行われる競りのようだった。所かマシと怒号が飛び交い、雑巾がけしていく従業員の姿。

中央が吹き抜けのように口の字が空いているこの場所は、通路でしかないにしろどうやったらこの環境で心休むのか疑問に思っていると、

「あ、いらっしゃいませ」

「ほっほっほ、忙しく働く姿を見ていると、こちらは暇に感じますなぁ」

「えー、そうですねぇー」

裕福そうに丸々と太り、隙間なく指輪をはめた客が二人通りすぎた。

「い、行きましょうホタルさん。仕事が無くなってしまいますよ」

そう言うと、メイは気合を入れるように腰まである髪を二つに分け、片方ずつ髪留めで止めた。

「は? 人手が足りないんじゃ?」

「人手は足りませんけど、仕事は競争です」

それだけで印象が変わったメイは、さっきまでオドオドしていた少女とは思えない程この状況をすんなりと受け入れ、ましてやこの中に飛び込もうとしている。

「くっ、やってやる!」

俺は瞬時に悟る。ここで暇などない。働いた分まで稼ぎになるなら俺はやってやるしかないのだ。

「ホタルさんこっちに道具があります! すでに〈監視員〉がチェック付けた場所は意味がないので、汚れている場所を見つけて清掃に入ってください」

「お、おう! って判断しにくいな!」

文句を言っている間にメイが消え、見つけると掃き掃除を始めている。出遅れてしまった俺も雑巾を手に取り汚れている場所を探すが、見た目では分からない。

俺は適当に拭き始めようと屈むと、

「そこは終わっていますよ」

通りすがりの〈監視員〉と思われるクリップボードを持ちチェックしている女性従業員に注意をされる。指示出せよ、と思っていても出されないのが普通ならば立ち止まらない。しかし、何度やっても数名の〈監視員〉に注意を繰り返された。

そして、屈んだり立ち上がったりと繰り返している内に疲労が溜めっていく。何が悲しいかってまだ何もしていないのに疲れている事だ。「くそっ」と悪態を付けば〈監視員〉に「お客様の前で悪態を吐かない」とボードで叩かれる。

このままじゃ、何も変わらないと、一度作業を止め同じ拭き掃除をしている従業員の観察をしてみることにした。

その従業員が柱を拭き終わり、雑巾を取り換える。

「(なるほど、一度使った雑巾はすぐに替えるのか)」

まだ白い部分が残っているとはいえ、汚れたものは使わないと言うことなのだろう。それは衛生を考えれば納得できる。

そして、新しい雑巾を手に取った従業員は目をきょろきょろと動かし、一本の柱を見つめると近づいていった。遠目から見ても汚れているようには見えないけれど、その従業員は目を凝らした途端柱を拭き、さらに見逃しやすい溝にも雑巾を走らせる。そしてまた雑巾を取り換えに行った。

俺は動き回る従業員を交わしながらその雑巾を見に行くことにした。籠の中に大量に積まれた雑巾の一枚からさっきの従業員の一枚に手を伸ばす。すると頭に雑巾が飛んできた。

とっさに睨んで振り返ってみても誰もいない。と、その隙に次々雑巾が飛んでくる。別にわざとぶつけられたわけでもなく、俺の位置が悪かっただけだった。飛んできた雑巾と混ざる前に慌てて一枚の雑巾を抜き取り、籠を回収しに来たおかっぱ頭の少年従業員に変な目で見られる。

「それ使用済みだろ。もう使えない」

「あ、ああ」

言われて返す前に雑巾をあちこち見渡す。すると汚れは確かにあった。最初に拭いたものが何かは分からないけど、溝を拭いたと思われる一筋の汚れがしっかりと付いていた。

確認してからおかっぱ頭に雑巾を渡すと、そのまま籠を押して何処かへと向かっていく。雑巾を持って行く場所は洗濯場ぐらいかと注意を戻し、さっきの従業員を真似て柱をメインにいくつか調べていく。

すると、客が触ったと思われる手垢が付いている一本の柱をみつけた。誰も気にしないような手垢をふき取ると〈監視員〉が俺を見ながらカリカリとペンを走らせる。

それを確認して、ようやく俺は成し遂げていたことを実感した。

「汚れは小さくとも綺麗にするってことか」

掃除に気合が燃え上がったのは生まれて初めてかもしれない。ただ結果が分かりやすく、報酬があることでこうも違う。

そして俺はさらなる汚れを探しに柱を探しまくった。その途中、客が店内で食べ歩きをして汚れた手で柱を触った。食べ歩き事態注意されてないのだからいいのだろうけど、汚れた場所はすぐに消すのが俺の仕事となっている。誰かに取られる前に俺は即座に移動を開始した。

ところが、その途中誰かに服を思いっきり掴まれて進めなくなった。

「なん――」

「いらっしゃいませっ!」

振り向いて文句を言うよりも早く道の端に引っ張られ、客に挨拶をしたその女は客がいなくなると、キッっと睨み付けてきた。

「お客様がいたらまず挨拶、そんなことも知らないわけ? あんた〈新人〉でしょ、まったく」

赤毛の髪を後ろで纏めた女は注意をする。それに俺には俺の言い分があって言い返した。

「指導係に教わってないんだよ!」

目立つのを控え大声は出さないまでの幼稚な意見。

「はぁ? 甘えんじゃないわよ。誰かに教わらなきゃ仕事ができないんじゃ、あんたなんていらないのよ。見て覚える、そんなの当たり前! 仕事をするのに誰かの仕事増やしてどうすんのよ!」

俺の世界では最初に仕事を教わる。でもそれは言い訳でしかないし、それに俺が注意された部分は知っている常識内の事だ。だから俺は言われて何も言い返せなかった。それに近くの〈監視員〉が何かチェックを入れている。まさかと思うが、採点は減点もあるらしい。

「私はホムラ〈客室〉であんたより上。あんたの名前は?」

「くっ、蛍」

ホムラの言い方に頭にきたが、名前だけは名乗る。

「そっ、同じ注意はさせないでさっさと仕事に戻んなさい!」

一々命令口調に言い返しても時間を取られるだけだ。俺は無視することで汚れた柱の汚れを拭こうとした。

が、

「ホタルあんた、なにぐずぐずしてんのよ。そこはもう別の人がやってったわよ。どんな時でもしっかり周り見ときなさいよね、ホントに」

呆れたような文句だけ残してホムラがいなくなった。いっそ後ろ姿に雑巾でも投げつけてやりたかったが、感情は抑えると決めたはずだと言い聞かせやっぱり仕事に戻るしかなかった。

それからホムラと出会ったのが不幸の始まりのように掃除する場所が再び見つからなくなった。柱はそんな早くは汚れないし、この場所は客の行き来が激しくもない。だからこその騒ぎようなのだろうが、こうなると熟練者たちに太刀打ちできなくなった。

それでも必死に廊下の床を眺め汚れが無いか探す。

とそこに、

「申し訳ありません。従業員の方ですよね?」

突然の声に振り向きその人物を見る。客……? とその風貌で従業員かどうか見極めようとしても俺では判断できない。俺以外の従業員なら男なら緑の甚平のような服装で、女なら赤を基調とした軽装化され着物のような恰好で統一されているのだが、この人はどちらでもない。固定役職の人間ならば服装も違う可能性があるから迷ったのだが、なにより気がかりなのはその男性がずぶ濡れでいる事だ。

とりあえず、間違っても挨拶はした方がいいと思い戸惑いながら口にする。

「あ? い、いらっしゃいませ」

「おやおやおやおや、ありがとうございます。それでお願いがあるのですが、外で濡れてしまいまして、申し訳ありませんが、濡れている個所を拭いてはもらえませんか? 他の方に迷惑になりますので」

確かに男性が歩いてきた道は濡れていた。客だと分かれば口調も何をすればいいのかも分かる。

「誰か人をお呼びしましょうか? そのままじゃ風邪を引きますよ」

咄嗟に敬語ってものは出てこない。帰ってから太陽の家で癖づけた方がいいなと思いながら、男性の反応を待つ。

「心遣いありがとうございます。しかし、部屋に戻ればいいだけですので、気になさらないでください」

その男性客は柔らかい物腰で、俺の言葉遣いを気にした様子もなく汚れた場所だけを気にしていた。

「はい。それは気にしないでください。俺の仕事なんで」

そういうと男性は驚いたように、おやおやおやおや、と変に笑い、

「それでは、お願いします」

それだけ言い残しエレベーターへと向かっていった。どことなく不思議な雰囲気を感じる人だったが、それよりも誰かに取られる前に掃除をしてしまわなければいけない。なぜなら汚された床は長い廊下、柱なんかよりもずっとチェックの目は厳しそうだ。

そう思い、腰を屈めてスタート地点に着いた。

そこに、

「ふっふっふ」

不敵に笑う同い年ぐらいの短髪の少年が隣に着いた。

「なんだ、あんた?」

「仕事は早いもん勝ち、どっちが多く掃除できるかな?」

カチン、と俺にスイッチが入った。ただでさえ柱しか綺麗にしていないのだ。こんなところで負ける様ではこの先の給料にも関わってくる。

俺は前を向いて、足に力を入れた。

「ドンっ!」

少年の合図で勝負は始まる。

スタートは一列、そのままペースだと優劣はつけにくい。そうなると勝負が決まるのは数か所のポイントだった。廊下は直線におおよそ一〇〇メートルの雑巾がけでは長い道のり、当然従業員と客も使う。従業員は俺たち二人の姿を見れば自然に避けるが客だとそうはいかない。だが、客がいるか確認するために前を見ながらの姿勢だと速度は落ちた。

離れそうになるのを立て直し、元の位置に着くと余裕とばかりに隣の少年から鼻で笑う声が聴こえた。こうなると意地でも負けたくはない。客を意識に入れるが、見ない。見ない代わりに下を向いていても視界に入る少年に意識を集中する。そうすることで同じように客が来たら動きを止め、立ち上がる行動を取るはず、その時俺も立ち上がればいい。だから勝負は折り返しの時に優劣の差が付く。そんなシュミュレーションを脳裏で描いていた。


そして勝負の決着がつく……前に、俺の記憶は途切れていた。


意識を取り戻した時、天井と覗き込む少年の顔がある。

口を動かし何かを言っているようだが、まだ聴力は戻っておらず動きだけが残像となって辛うじて分かる。俺は倒れたまま力が入らない体をそのままに断片的に残る記憶から経緯を思い出した。

確か、突然俺の速度が減速したのを覚えている……。


『はぁ、はぁ……はぁ』

隣の少年がズルをしたわけでもないし、不運な出来事が起きたわけでもない。むしろ運よく客の姿は現れていなかった。だから単純に一〇〇メートルも残すところ半分で俺の体力が底を尽きかけていた。

少年が俺の前を走り抜け、もう少しで折り返し地点まで辿り着く。早く追い付いて拭く範囲を増やさなければ〈監視員〉の評価も変わってくる。そう思って手にも足にも力を加えようとしたが、脳からの指示が拒否される。それでも前に進む事だけは止めようとしなかった俺の視界に、折り返し戻ってくる歪んだ少年が映しだされた。とうとう視力さえも警報を鳴らしている。

その直後、転んだように俺は寝そべった。床が冷たくそれが心地よく感じるのと同時、腹這いになったせいで呼吸がし辛い。

『お、おい……だ…………か』

誰かの声が傍で聴こえたが聞き取れなかった。

思い出せばあれは競争をしていた少年の声だった気がする。その少年に安否を気遣われて運ばれた……。


記憶を遡り、あまりの情けなさに溜息すら出ない。

「お、目ぇ覚ましたな。指導係呼んでくるから待ってろ!」

少年が部屋から出て行き、俺は重い体を起こした。見渡してみてもどこかわかない部屋だった。いくつもの布団が敷き並んでいることから従業員の仮眠室と言ったところだろう。ただ寝る為だけに造られているタコ部屋には、すでに数人が眠っているようで膨らみが上下に動いている。

俺は気遣うわけでもなく布団を剥ぎ取り立ち上がる。特にふらついたりしないことを考えれば俺の体力は回復し終えている。つまりは体力の絶対値があの程度しかなかった事を思い知らされた。二日間の船での生活を考慮に入れてもあまりに無い。船を下りたのは早朝、倒れのは朝、そして窓から見える景色はすでに夜。マザーに意気込んだのが恥ずかしくなるほど丸一日寝ていたことになる。

「はぁ」

ようやくため息が出ると、質素な窓付きの引き戸を開けて風欲しさにベランダへと出た。本当に質素な造りだ。廊下と一緒くたになった引き戸は立てつけが悪く力を入れないとスライドしてはくれなかった。

人が通ることだけを考慮して広々と作られた縁側に出ると、どたどたと誰かの走る音が聞こえる。現れたのはメイとさっきの少年、それにホムラだった。

メイは俺に近づいた途端、頭を勢いよく下げた。

「ごめんなさい! 私が指導係なのに、しっかり見ていなかったから……」

「そんな必要はなかったんだろ」

純粋な謝罪のつもりだったのだろうが、ホムラの言葉を思い出し胸がチクリと痛んだ。悪いのは俺だ、誰かの所為じゃない。

「まぁ、来たばっかりならしょうがねぇよな。それに俺も悪かった、冗談半分でからかったしな、すまん。あ、俺はサンだ、よろしくなホタル」

「ああ」

サンと名乗った少年は俺の名前を知っていた。おそらくメイかホムラに訊いたのだろう。その姿や軽いノリが太陽にどことなく似ていると思った。その所為で帰りたいという想いがまた強く思い出された。

「それにしても、〈新人〉でもここまで使えないのは珍しいわ。まぁ、でもそのうち慣れるわよ」

「気落ちしているようにでも見えたか? 慰めているつもりかよ」

湧きあがる感情を抑える為に俺は素っ気なく答えることで回避する。

「な、少し優しくしてみれば付け上がるな!」

だが、その選択で、睡眠は妨害された。

「うるせえな、騒ぐなら外行けよ!」

連鎖して次々目を覚ました従業員達が、なんだなんだと、起きてしまう。男女関係なく寝ていたようで起きた女性の一人が消灯していた部屋の電灯を点けると、大勢が俺たちに視線を集めた。

「あ、ごごめんなさい」

「メイが謝らなくてもいいのよ、悪いのはこいつなんだから」

「いや、どっちかっていうとホムラじゃね?」

「あぁ?」

「いや、すいません……」

俺達……と言えるのに、俺はその場にいないような疎外感を感じる。宿屋で働いて間もないからか、単純に俺がここの世界の住人じゃないからかは分からない。それでも回避したはずのもやもやが胸の内で再び巻き起こっていた。

そんな俺の心境を誰もが知る由もなく、俺の話題が広がっていく。

「まぁ、なんだ事情は聴いてたぜ」

「いや、盗み聞きかよ!」

「バカヤロウッ、あれだけ大声で叫んでたら分かるって! それに倒れた奴がいたって知らないわけねぇだろって」

「いちいち騒がないでよ、で、そこの〈新人〉君の問題だっけ?」

「慣れるわよねぇ?」

「きついのも最初だけね、皆そうよ」

「あ、ちょっと私が言おうとしたのに!」

「慣れちまえば、後は結構自由だしな?」

「自由すぎてマザーに怒られたばっかりだろ、お前は」

「うっせうっせ」

「あんたたち話が脱線してるのよ! それに問題解決の案はもうすでにこのホムラ様が出してるわよ!」

「あんたはいっつも美味しいとこだけ持ってくわよね。今日だって〈客室〉でさぁ」

「へっへーん、仕事は迅速に終わらせただけよー」

「なぁにー!」

「いやいや、ホムラも脱線し始めてるから」

「あぁ?」

「いや、コワッ! なんで俺が睨まれんの? おかしくないですか!?」

「み、皆夜も遅いんだし、騒がない方が……」

「そういや、どっちが仕事の量、熟したか賭けしてたよな?」

「ばーか、量じゃなく質だろ」

「うわっ、来たね、ルール変えんなよ!」

「んだぁ?」

「お、やるか?」

「ねぇ、皆訊いてる、ねぇ? ホムラちゃん、サン君」

「「え? あ、聴いてる聴いてる」」

「真似すんな」

「いやいやいや、そこまで突っ掛る?」

会話の渦中にいるにも関わらず、俺は言い合いに混ざり始めた三人の影に隠れるように一歩足を下げていた。

「あれ? ホタルさん?」

その姿をメイに見つかってしまう。

「いや……、散歩に行ってくる」

言い訳なんてしなくてもその場からいなくなればよかった。それなのに、何かを隠そうとした俺からは言い訳が自然と出てしまっていた。

「あ、じゃあ、今日働いた分のお給料渡しておきます」

メイはそんな俺には気づかず『ホタル』と書かれた給料袋を懐から取り出した。そこに、ニヤッと笑ったホムラが後ろに近づくと給料袋を取り上げた。

「あ、ちょっとホムラちゃんっ!」

「なによ、取ったりしないわよ? ただ私が、ホタルがいくら稼いだか調べるだけよ」

必死に俺の給料袋を取り返そうとしているメイだったが、ホムラは給料袋を持った腕を上げ、メイの頭に手を置いて跳ねるのを押さえつけた状態では伸ばした手は掠りもしない。

「はいはいー、邪魔しないの? お、軽いわね。まぁ、最初何て皆軽いもんよ、恒例儀式だと思ってホタルも諦めなさい」

そして、逆さまにされた給料袋から数枚の硬貨が転がってきた。

「さぁ、出た、わ……よ。二五〇Я?」

ホムラは信じられないように給料袋の中を確認している。元々期待などしていない。それよりも俺はホムラの反応から普通の従業員〈新人〉よりも初給料が少ない事を知り、同時に目標までの道のりが遠い事を知った。

落胆はした。だけど、給料が少なかったことにじゃなく。これから先、目標に届かない可能性があることに思考を掠めてしまった。どうにか考えないようにすることで、感情を抑え込もうとする。でも、一度頭を掠めたそれはどうしても消えてはくれない。

俺が感情の迷路に彷徨っている内に発表が終わり、期待が笑いへと移り変わっている。

「二五〇? ぷ、あっはははははははははははははははははははは! 250って250か? ありえないだろ! お前初給料いくらだった? 俺、5000はいったぜ」

「ひぃ、腹が捻じれるぅうう、死ぬ死ぬ。最低でも普通1000は超えるって、あひぃ、ひぃはははははははははははははははははは!」

「くくっ、250はさすがにないわ」

「あはははは、さすがにね」

「新しい伝説ができたわ、ぷっ」

俺は笑いが起こる渦の中を進み、ホムラの手から給料の二五〇Яを奪い取る。これが給料ならそれでいい、少なくてもこれが俺にとっての可能性だった。

「あはははは、怒らないでよ、これからよ、これからっ!」

誰が笑っても構わない。

恥なんていくらでも掻いてやる。

それでも、今は逃げたかった。

――元の世界に帰れない。

頭に掠めた可能性に感情が決壊しようとしている。

「お、おいホタルッ!」

「ホタルさんッ!」

メイの声も、サンの声は聞こえなかった。ただ感情から逃げる事だけを考え俺は外へ飛び出した。

相変わらず少し走っただけで息が切れる。

そして、気付けば、どこへ進んだのか分からないまま森の中にいた。そこからは宿屋が見え、さっきまでいた従業員の家はもう見えない。誰も追って来ない事を確認してから呆然と歩き進み、大きな池があった。

覗き込んだ先には情けない歪んだ自分の顔がある。俺はその姿を壊すように池へと頭を突っ込んだ。

びしょびしょになった顔を空に向けた。

見据えていた未来が何年先か、何十年先かも分からなくなる。

その瞬間、我慢していた感情は一気に決壊した。

俺は笑う。たった二五〇Яを手に持ち、大きな声で笑った。


――笑って、それよりも大きな声で泣いた。

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