降雨(四)
「暗いとこには慣れてるから」
まるで、その言葉を実証するかの様に、男はランタンに背を向け、壁に向かって歩き出す。
後姿になると、萌葱色の衣がだぶだぶなだけに、痩せこけた体つきが、特に腰から下の肉付きのなさが一層目立った。
あの王とかいう主人は、自分は派手に着飾っているくせに、どうして雇い人にはこんな身なりをさせているのだろう。
「このくらいなら、まだ……」
ふと、男は正面の壁の前で足を留める。
そこには、「貂蝉拝月(貂蝉月を拝む)」の掛け軸が飾られていた。
何のことはない。去年の仮母さんの誕生祝に、金陵の郭挙人が贈ってきた四大美人画の一つだ。この人から品を受け取った時の常で、仮母さんが「お前たちで大事にお分け」と言うので、私がこれを貰い受けた。
「これは……」
男は、画中の緑衣を纏った女に目を凝らしているらしい。
何もかもがみすぼらしく貧相な姿の中で、それだけ豊かな髪を背に垂らしたまま。
「それ、いただきものなの」
私は苦笑いする。
「これでも、金陵では有名な絵師が描いたらしいわ」
名前は忘れたが、少なくとも、腕のない絵師ではなかった。贈られてきた四枚の絵の内、確かに三枚は一見して、人目を惹く華やかさがあったから。
その中から、藍玲姐さんはふくよかな美女が艶やかに頬を染めた「貴妃酔酒(貴妃酒に酔う)」を真っ先に取り、紅珠姐さんはたおやかな佳人が悲痛な面持ちで馬に跨る「昭君出塞(昭君塞を出づ)」を選んだ。
まだあどけない美少女が可憐に微笑む「西施浣紗(西施紗を浣う)」は、青瓏がどうしても欲しいと言い張った。
それで、結局、私が残った「貂蝉拝月」を引き受ける格好になった。
白瑞姐さんはというと、「ツキに見放されて死んだ女の絵なんか要らないわ」と最初から四大美人図には見向きもしなかった。
だから、私が引き取るしかなかったのだ。
毎年、九月の仮母さんの誕生日に決まって贈り物を寄越す郭挙人という男のことを、私は名前以外知らない。
しかし、年毎に届くこの人の名の付いた品を、仮母さんは自分の身辺には決して置こうとしないくせに、妓たちが拒否することはなぜか許さない。
「君か?」
念を押すように、男は今度は私を振り返る。
「え」
私は歩み寄りながら、男と掛け軸を交互に見やった。
画中の女の足許には、夜目にも明らかに「貂蝉拝月図」と墨で書かれているのに。
この人は、字が読めない。
風体や職からすれば、別段驚くべき話ではなかった。
だが、こんな風に目の当たりにしてしまうと、何か、見てはいけないものを期せずして目にした気分になる。
「同じ服を着てる」
男は手で絵の女を示したまま、こちらに目を向けた。
正確には、同じ色の服だ。絵の中の貂蝉は、もっとだぶついた袖の上に、今にもずり落ちそうな緩い肩掛けを羽織っている。
「どうして、絵だと、耳飾りを着けてないのかな」
男は今度は絵の方を向き直って呟いた。字を解さない代わりに、目は利くらしい。
「片方だけ着けていたら、おかしいからよ」
絵の中の女は、妖艶に微笑むわけでもなければ、悲痛な憂い顔を浮かべるでもなく、かといって可憐さを演じる風でもなく、煙の立ち上る線香を手にしたまま、曖昧な面持ちで月を仰いでいる。
「挙人」とは「中国の明・清代に、科挙の郷試に合格し、進士の受験資格を得た者」の意味です。
中国の人材登用試験においては進士の及第者が最高位ですから、挙人は実質的にそれに次ぐ地位を得た状態であり、地方においては挙人でも十分名士として通用しました。