降雨(二)
(六)
「上がり!」
二階への階段を上りきった所で威勢のいい声が飛んだ。
「ああ、やられたぜ」
「お前、今日はばかについてるな」
「そりゃ、厄落とししたからな!」
「あたしの方はさっぱりだわ」
男たちの声に混じって低い女の声が響いた。
「それじゃ、もう一回ね」
次いで、牌をジャラジャラ掻き回す音が始まる。
白瑞姐さんは、今晩も、また、夜を徹して麻雀をするらしい。
私は何の驚きもなく階段に面した部屋の前を通り過ぎる。
今年二十五で、そろそろ年増の域に差し掛かったこの姐さんは、お客が揃った夜にはいつもそんな風に過ごすのだ。
「なあ、白瑞」
牌のぶつかり合う音に混じって、男の忍び笑う声がこちらにも届く。
「俺が勝ったんだから、その上着、脱げよ」
「そんなこと、聞いてないわ」
姐さんのつれない声が応じる。
博徒だった父親から借金の形に売られたという話だが、姐さんが馴染みになるのは、決まって博打で身を持ち崩した男ばかりだ。
「やめて!」
後ろからの鋭い叫びと床にドシンと響く音に私は思わず振り返る。
少し離れた背後に青白い顔が浮かんでいたので更に驚いてしまう。
こいつは本当に幽霊みたいな男だ。
「てめえ、調子づくのもいい加減にしろよ」
「おい、こいつイカサマしてやがったぞ!」
次々廊下に漏れて来る柄の悪い男たちの罵声に青白い顔は凍りつく。
胸の麻袋はしっかり抱いたまま。
「何なの、その様は」
白瑞姐さんの声が冷たく響き渡る。
「あんた、二度と来るんじゃないわよ」
私は向き直って早足で歩き出す。
忍び歩く様な足音が迫って付いてきた。
今は開かずの間になった紅珠姐さんの部屋の前を通り過ぎ、二階の廊下の行き止まりに着いたら、私の部屋はある。
(七)
「お掛けになって」
琵琶を壁に凭せ掛け、灯を点しながら、私は部屋の奥の榻床を示す。
戸口に立った男は、出掛けに私が整えた榻床(客が来ようが来まいが、疲れて部屋に戻ってきた時、乱れた寝床を目にするのは何となく嫌なので、出る前には必ず整える。自分が横になった痕跡すら消す様にして。)に目を走らせると、一瞬顔をこわばらせた。
しかし、黙って忍ぶ様に歩いていくと、そっと腰を下ろした。
「鴉片は、お吸いになりますか」
私はランタンに目を注いだまま尋ねる。
腕から手首にかけての筋が痛むせいか、なかなか灯りがつかない。
「やらない!」
思いがけず強い語調に私は思わず目を上げた。
すると、男は下を向いて呟く様に答える。
「あれをやると、手が利かなくなるからさ」
語りながら、男はまるで無事かどうか確かめる様に膝の上で開いた右手の指をひらひらさせた。
こいつは一体、何の稼業をしている男なのだろう。
私は男の素性について何も知らないことに改めて気付いた。
連れの五十男の方が明らかに立場は上の様だが、かといって、下男にも見えない。
大体、商人の下男ならば、もっと人馴れしているはずだ。
「あなた、王少爺と、おっしゃいましたかしら」
使用人でなくとも、あの男と血縁のわけはない。
頭ではそう知りつつ、切り出す。
ランタンに灯りが点って、部屋はぼんやりと明るくなった。
「いや、それはあの人だ」
細い目を伏せて男は答えた。
気弱な口調だと、蘇州訛りが強くなる。
「俺の姓は、潘」
私は極力さりげない風に近づいていって男の横に腰掛ける。
つんと金臭い匂いがした。
「お名前は?」
私は努めて笑顔を作って、男の顔を覗き込む。
隣に接した男の膝が硬くなるのを感じた。
「どうお呼びすれば」
問いかけながら、自分の作り笑いがいかにも不細工に思えて私は目を落とす。
右耳で、「大哥」が微かに鳴った。
「どうって……」
男は言いかけたまま口ごもる。
(八)
口を半ば開きかけたまま、男は難題でも吹っかけられた様に、また目を伏せた。
私は舌打ちしたくなる。
姓が「潘」と分かったところでやめておけば良かった。
どうやら、二人きりになっても自分の身の上話を自慢げに語る男ではないらしい(そもそも自慢できることが何一つないのかもしれないが)。
そういう相手の気質がやっと飲み込めたものの、それはそれで困ったことになった。
というのも、これまで床で相手にした客というと、大体小金持ちで家にお妾の二、三人はいる中年でなければ、いわゆる放蕩息子だったからだ。
どの男も横になる前は自分がいかに世間で幅を利かせているかをほのめかし、床に入ればどれだけ女の扱いを心得ているかをひけらかしてきた。
でも、今、隣に腰掛けている男は一人だったらこの辺りの娼家の素見も出来そうにない。
こういう男にはどう接すればいいのだろう。
私は男の開きかけた唇に目を泳がせながら考えあぐねる。
この一年、どの客と寝る時も相手に脱がされるまま、されるがままになっていた。
そうして喜んだ振りをしていれば事足りた。
――お前くらいの年配ならおぼこな方がお客は喜ぶのだ。
仮母さんにもそう言い含められている。
だが、この男に関しては私の方から誘わなくては事に及べない様だ。
もしかすると、この男は女を買うどころか、そもそも女を知らないのではないか。
目を伏せた男の、その青みが勝った白目の縁を眺める内に、疑惑が確信に変わるのを感じた。
「潘少爺は、」
私は小首を傾げて男の目を覗き込む様にしながら笑顔を作った。
「お幾つになりますの?」
尋ねながらさりげなく私が手を置いた麻布のズボンの膝は、少し力を入れれば折れそうなほど細かった。
(九)
「二十、」
男は一瞬口ごもった。
「二十三、だ」
くぐもった声音の中で、「三」の部分が少しだけ飛び出て聞こえた。
「お若いんですのね」
「そうか?」
今度は男が訝しげに私を見やる。
「ここにいらっしゃる方はお年を召した方が多いので」
二十三と告げた男の言葉に偽りがあるとは思わないが、二十歳前だと言われればその様にも見えたし、三十近いと聞いてもそこまで違和は覚えない。
「そうか」
二十三と言えば、私より六つ上だ。
右耳でまた「大哥」が微かに揺れる音がした。
本当の大哥がどこかで生きているとすれば、この男と同じくらいだろうか。
「ちょっと、」
男が口を開いた。
「左を向いてくれないか」
「え」
「右に付けている耳飾りを見せて欲しいんだ」
私は一瞬「大哥」に手をやったが、すぐに男の言う通り左を向いた。
冷たい指先が、すっと右の耳朶をなぞる。
男が「大哥」を手にとって凝視するのを私は横顔で感じた。
「右を向いて」
また男に言われるまま、安翡翠をぶら下げた左耳を見せた。
「やっぱりそうだったのか」
男は呟いた。
「いっ……」
男の言葉の意味を問い返す間もなく、突然、左耳を引っ張られた。
思わず耳朶を押さえたが、既に耳飾はない。
「やっぱり、繋ぎ目んとこがずれちまってるんだな」
男は私など目に入らない様子で奪い取った耳飾に見入ったかと思うと、すぐさま分解し始めた。
「この型は、下手な奴がやるとこうなるんだよ」
男はまた独り言の様に呟いた。
「これは、石も、ヤワだけどな」
不揃いな緑色の石のかけらが色褪せた麻布の膝に転がって揺れる。
男はかけらの一つを左手に摘み、金具を右手に持ったところで、今度は私に目を向けた。
「灯り」
私はすぐさま立ち上がって卓上のランタンを取った。名前も知らない男に自分の持ち物を壊されたことも忘れて。
「もっと」
男はランタンを掲げた私にはやはり目もくれずに告げる。
鋭く光る眼差しの全てが、手にした安っぽい緑の石と痛んだ金具に注がれていた。
「もっと手元に」
私は恐る恐るランタンを男に近づけた。
「そこでいい」
私はその位置からランタンが揺れない様に両手で支える。
腕の筋が思い出した様に鈍く痛んだが、男が見ていないと分かっていても、なぜか顔には出せなかった。
外で降り出した雨の軒を打つ音が聞こえてくる。
(十)
私の提げ持つ灯りが照らし出す中、男はじっと目を凝らす。
小さな両の黒目に青白い燐光がパッと点った。
部屋全体が青い光に刺され、私は思わず身震いする。
揺れない様にランタンを持ち直すと、地響きに似た音が遠くからゆっくり聞こえてきた。
雷だったのだ。
頭の中で私は言ってみるが、男の目に点じた青白い炎は消えなかった。安翡翠の欠片と金具の断片が男の節高い両指によって絡み合わされ、一体となっていく。
雨が、密やかに地面を濡らす音がする。
「これで、だいぶ直った」
ランタンの灯りを受けて、一分の狂いもなく真っ直ぐな翡翠の柱が輝いた。
「でも、これは、元の石がやっぱり良くねえな」
男は作り上げたばかりの柱に冷たく澄んだ目を注いだまま呟く。
「着けてみて」
私は左耳に飾りをはめた。
「真っ直ぐ向いて」
私は正面を向いた。
白目の青い、端の切れ上がった、冷たく光る二つの目に捉えられる。
「真っ直ぐだ」
声と同時に顎を挟まれて顔を上向けられた。
両耳に飾りの鳴る音が響く。
背筋に稲妻が走った。
何て、冷たい手だろう。
当時の妓楼では、賭博はもちろん、客にアヘンを勧めることも珍しくありませんでした。妓女本人がアヘン吸引者の場合も少なくはなく、アヘン中毒は遊里のみならず、中国社会全般にわたって蔓延していました。