表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

降雨(一)

(一)

「あーあ、全くやんなっちゃうわ、あの大年増おおどしま!」

 車が夜道を駆け出すなり、青瓏は吐き捨てた。

「ちょっと、向こうに聞こえるわよ」

 私は隣を肘でつつく。

 だから、こいつと車に乗るのは嫌なのだ。

「いいですよ、秀華堂しゅうかどうの奴らに聞こえたって」

「後でねじ込まれたらどうするの」

 あんたの腹立ち紛れに私を巻き込むな。

 心の中で付け加えながら、私は重くなった琵琶を膝の上で持ち直す。

 指先が痺れて鈍く痛んだ。

 私たちが呼ばれたのは、案の定、他店の芸妓たちと鉢合わせた宴席だった。

 楽器を持ってきたのが私一人で、他の妓たちは代わる代わる歌や踊りを披露したがり、しまいには客まで歌いだしたので、結局終わりまでずっと弾き通しだった。

ねえさんも弾いてやることないのに」

 青瓏がお返しに突いてきた肘が琵琶に当たる。

「壊れるからやめてちょうだい」

 私は思わず古びた琵琶を庇う。

 つい三日前まで、これは紅珠こうじゅ姐さんと代わりばんこに使っていた。

 共用になる前は紅珠姐さんが一人で使っていて、更にその前は鴉片あへんを飲み下して死んだ碧琳へきりん姐さんの持ち物だった。そのまた前は誰が弾いていたか知らない。

 とにかく、今は、私だけのものだ。

「あの秀華堂の、ババア芸妓が『西厢記せいそうき』歌いたいって言った時ですよ」

 青瓏は、まるで眼前の私がその「ババア芸妓」本人であるかの様に、憎憎しげに言い放った。

「姐さんが『弾けます』なんて安請け合いするから、延々と自分ばっかり歌いやがって、あのババア!仲居どもが料理持ってくんのも遅いし、全く、もう!」

 自分だけ目立つ目論見が外れたので、宴席にいた他の女全てに腹を立てているらしい。

「あの場で『弾けません』なんて答える訳にいかないじゃないの」

 私は痺れた指先をひらひらさせながら答えた。

 痺れが取れると痛みがはっきりしてきて、腕の筋にまで伝わってくる。

「それこそ、何だ、彩宝堂さいほうどうの芸妓は『西厢記』も弾けないのか、なんてバカにされるわよ」

「西厢記」は、琵琶の続き物で最初に覚えさせられた曲だ。

 元は古い読み物で、貴族の美しい令嬢、崔鶯鶯さいおうおうが、侍女の紅娘こうじょうの助けを得て、最愛の貴公子、張君瑞ちょうくんずいと結ばれる。かいつまんで言えば、そんな筋書きだ。芝居でも人気のある演目なので、この曲をおはこにする妓女は多い。

 宴席で頼まれてよく弾くが、実のところ、私はこの曲が好きでない。

 というより、宴席で同業の女が「西厢記」のさわりだけ歌うのを聴いていると、

 段々うそ寒くなってくる。

 三十過ぎた年増芸妓でなくたって、娼妓が客の前でしなを作って歌う純愛の物語なんて、誰が本気で感じ入るのだろう。

「西厢記」の筋立て自体も、今はあまり好きになれない。

「もっと、飛ばしてよ!」

 青瓏が隣で金切り声を出す。

西棋盤街にしきばんがいには、まだ着かないの?」

「だから、この時間は混んでるんですよ」

 車夫は前を向いたまま答えると、笑って付け加えた。

「お嬢さん方に会いたいお金持ちが、上海中から詰め掛けてくるのでね」

 その通り、遊里の一日は、ここからが本番なのだ。

 行く手を見据えると、通りでは遊郭の燈籠が赤々と燃えている。

 だが、その上の夜空には星が一点も見出せない。

「一雨、来そうだわ」


(二)

「あらあ、その頃なら、わたくし、ほんの小娘こむすめでしたよ」

 店に足を踏み入れた瞬間、仮母さんの上擦うわずった声が聞こえてきた。

 上機嫌らしくて良かったと安心する一方で、その妙にはしゃいだ調子が耳を衝く。

 卓子テーブルには、仮母さんの他に、見たことのない男が二人座っていた。

 一人は、日に焼けた赤ら顔に、派手な蝦茶えびちゃの上衣を着た、五十がらみの太った男だ。

 もう一人は三十前後で、こちらは洗いざらした萌葱もえぎ色の上下に痩せ細った身を包み、青ざめた顔で湯飲みを覗き込んでいる。

「いやあ、趙緑宝ちょうりょくほうと言えば、この辺りでも高嶺の花でしたよ」

 太って年取った方の男が大きく両腕を開いて言った。

 どうやら、この男は仮母さんの昔の知り合いらしい。

 今では滅多に呼ばれなくなった仮母さんの花名げいめいを口にしている。

「その頃、私などはまだ若造で、ちょくちょくお邪魔するわけにも行きませんでしたがね」

「それは残念でしたわね」

 仮母さんは俯いて笑うと、銀の煙管キセルに唇を付けた。

「あの頃が一番いい時代でしたわ。お客様も品のある方ばかりで」

 紅を厚塗りした唇から白い煙をふっと吐き出すと、仮母さんの顔に白いもやがかかった。

「今じゃ洋人やよそ者が大勢流れ込んできて、この辺も大分、がらが悪くなっておりますの」

 言い終える頃には靄が引いて、頬の弛みカラスの足跡が刻まれた顔が浮かび上がる。

「いやいや、今だって、捨てたもんじゃありませんよ」

 男は盛んに胸の前で手を振る。

「商機があちこちに転がっとる」

 どうやらこの男は商人らしい。今一つ何の商売かは見当が付かないが、派手好みの風体からして儲かってはいるみたいだ。

 それに引き換え、隣の若い男は、随分、不景気な顔つきをしている。

 と、それまで湯飲みに目を落としていた若い男が私と青瓏の方に青白い顔を向けた。

「仮母さんのお知り合い?」

 私より先に青瓏が口を開いた。

「あら、お帰り」

 仮母さんと五十男もこちらを向く。

 その瞬間、五十男が閉じた唇をちらりと舐めるのが目に入った。

「うちのむすめたちです」

 仮母さんが紹介するのを待ち兼ねた様に、青瓏は五十男の方にしずしずと歩み寄ると、小首を傾げて笑い掛けた。

趙青瓏ちょうせいろうです」

「この方はおう老爺さまとおっしゃるのよ。」

 この界隈だけで軽く千人は親戚がいそうな名前。

「青瓏さんか」

 五十男は笑顔で頷きながら、舌の上で転がす様にゆっくりと繰り返した。

「綺麗な名前だねえ」

「これがうちの一番おちびさんですよ」

 仮母さんもにこやかに笑っている。

「いくつになるんだい?」

十五じゅうごになります」

「この子ときたら、まだ子供でどうしようもないんですよ」

「お座敷に出ると『おちびさんが来た』ってお客様にも言われるんですの」

 五十男と仮母さんとのやりとりに青瓏の張り切った声が新たに加わった。

 私は棒立ちになったまま、琵琶を抱いた手がまた鈍く痛むのを感じる。

 こういう時、客の前に進んで出て行って、自分を売り込むのが正しい処し方なのだ。

 その意味では、青瓏の方がずっと賢いし、身の程知らずの馬鹿はむしろ私だ。

 頭ではよく分かっている。

 私は妓女なのだから。

 もう、生娘でもないのだから。

 ふと視線を感じて顔を上げると、若い方の男が表情のない目でこちらを眺めていた。

 と、男は私から目を逸らして卓上の皿に手を伸ばすと、盛られた西瓜の種を摘んだ。

 ひ弱そうな顔の割に、ごつい指をしている。

「そちらのお嬢さんは何とおっしゃるのかね」

 五十男の声が急に飛んだ。

「え」

 五十男と仮母さんと青瓏の、口元だけはにこやかな三つの顔に相対して、私は答えに詰まる。

「あ、私は、趙翠玉ちょうすいぎょくと申します」

 この家にいる限り、私は仮母さんの娘で、青瓏の姉なのだ。互いに一片の血の繋がりがなくとも。


(三)

「翠玉さんか」

 五十男は言いながら、私の顔から肩、琵琶で隠れた胸の辺りを順に目でなぞる。

 私は琵琶を持ち直すフリをして胸を隠した。

 こういう目つきで眺め回されるのは慣れてはいるけれど、それでも嫌なものはやっぱり嫌だ。

 しかし、私の裙子スカートの裾から覗く、纏足した割には大きめの足まで最後に見て取ると、五十男は急に興を殺がれた顔つきになって目を逸らした。

「さすがに、お宅は綺麗どころが揃ってるんですね」

 気のない声を聞けば、本心が分かる。

「この子は十七にもなるのに、どうも人見知りするんでいけません」

 仮母さんも打って変わって困った声になった。

「翠玉姐さんはおっとりしてるんですわ」

 こいつの白々しい声だけは相変わらずだ。

「さて、ばばあはもうこの辺りで退散しますわ」

 煙管でパンと卓子を叩くと仮母さんは立ち上がった。

「後はむすめたちがお相手を致します」

「そうですか」

 五十男は待ちかねた様ににやけた笑いを浮かべると、お世辞めいた口調で付け加えた。

「緑宝姐さんは、もうお客とはお話だけなんですか?」

「ほほほ」

 仮母さんは甲高い笑い声を上げたが、先ほどのはしゃいだ調子はもうなかった。

むすめたちの前でご冗談がきついですわ」

 そう言うと、仮母さんは灯りの消えた奥に戻っていく。

 手にした煙管の口からはまだ薄い靄が尾を引いていた。

「それじゃ、お嬢さん、相手をして下さるかな」

 声に振り向くと、五十男はいつの間にか青瓏を後ろ抱きに膝に乗せて顔を覗き込んでいた。

 随分、露骨な客だ。仮母さんは客に出すお茶に必ず強壮剤を混ぜるから、それがそろそろ効き始めたのかもしれない。仮母さん曰く、効き目は男次第。

「青瓏さんのお部屋はどこだい?」

 中年男の言葉に青瓏はほんの一瞬顔を引きつらせたが、すぐに笑顔で答えた。

「この一階の、突き当りです」

「それじゃ、そこで二人きりでお話しようね」

 五十男は猫なで声で告げると、急に隣の青白い男に向かって言った。

「お前は、そっちのお嬢さんに相手にしてもらえ」

 太って二重になった、赤黒い顎で私を指し示す。

「え」

 青白い男はぎくりとした様に茶碗から目を上げる。表情に色が付くと、急に幼く見えた。三十前後かと思ったが、もっと若いのかもしれない。

「ああ……」

 青白い男は私とまともに目が合うと、言いかけたまま固まった顔つきになった。

 今度は私が先に目を逸らして俯く。きっとこいつはブスな方を押し付けられたと内心舌打ちしているに違いない。そう思うと、私もペッと唾を吐きたくなった。さっさと二階の部屋に戻って、ゆっくり眠りたかった。誰にも邪魔されずに。

「さっきも言いましたけど、」

 若い男の戸惑った声が耳に届く。

「俺は今、持ち合わせが全然……」

 これは蘇州の男だ。

 若い男のどこか甘える様な口調から私は察した。

 上海の男はもっときつい話し方をする。

「ああ、悪かった、悪かった」

 五十男の笑い声がからからと響いて、ドサリと重い音がした。

「さっき渡そうと思ってたんだが、すっかり忘れてたよ」

 卓子の上に粗末だがはち切れそうに膨らんだ麻袋が置かれている。

「なんせ、今日は色々と番狂わせがあったからね」

 五十男は青瓏を膝に乗せたまま卓上の袋を顎で示す。

 しかし、若い男は固まったまま手を出さない。

 五十男の膝の上から青瓏が袋の中の金額を推し量って目を光らせた。

 このままこの若い男がぼんやりしていると、あの子が急に手を伸ばして麻袋を取ってしまうのではないか。

 私は他人事ながら心配になる。

「くれる」と言われたのだから、さっさと受け取ればいいのに。

「一晩のお花代には十分のはずだ」

 五十男が弛んだ顎をまた私に向かって突き出す。

 ――この汚い麻袋に入った金がお前の値段だ。

 そう告げられた気がした。

「ま、今夜は存分に楽しめ」

 五十男は鷹揚に頷いて膝の上の青瓏を抱き直すと、笑い声を大きく響かせた。


(四)

「勿体ない様な別嬪べっぴんさんじゃないか、ええ? 田舎じゃ見かけんだろう」

 五十男がこちらも微妙に蘇州訛りを交えてまた顎で私を指し示すが、青白い男は卓上の麻袋に目を注いだままこちらを見ようともしない。

「このおちびさんが西施せいし*1なら、そちらは琵琶を抱いた昭君しょうくん*2といったところだな」

 空世辞を大げさに言うほど逆効果だと知らないのだろうか。

 私の思いをよそに五十男は俯いている若い男に耳打ちする(つもりかもしれないが、声はこちらまでしっかり届いた)。

「馬乗りも得意かどうか、後で聞いてみろ」

 琵琶で五十男の頭を打ち据えたくなるのを私はぐっとこらえた。

「君は、もしかして緑宝さんの実の娘なのか?」

 五十男は毛深く赤黒い片手で青瓏の頬を撫でると、人一倍大きな顔だけ私に向けて尋ねる。

 まともに視線を合わせると、五十男のぎょろついた目は少しも笑っていなかった。

「それは、実の娘も同然に育てていただきましたわ」

 青瓏は撫でられた顔を軽く顰めて答えた。

「ああ、そうなのかい」

 五十男は乾いた笑いを漏らすと、青瓏の頬に自分の頬を摺り寄せた。

 この男は顔も手も赤黒く膨れ上がっていて、触れられたらこっちにも何だか黒っぽい脂が付きそうに思えた。

 左手の中指に瑪瑙めのうの指輪を嵌めているが、瑪瑙の朱が鮮やかであればあるほど、嵌めている指は余計にどす黒く見えてくる。

「翠玉さんの方は?」

 何だか見せ付ける様に青瓏を抱きながら、五十男は私に流し目を送った。

「七つの年に、仮母さんに引き取っていただきました」

 こいつは一体、何がしたいのだ。

 私は訝りながら答える。

 青瓏を相手にすると決めたのだから、さっさと二人で部屋に行けばいいのに。


(五)

「そうか」

 五十男は私を横目で眺めたまま、何だか残念そうに口の端で笑った。

「そんな風に俯いているところなどは昔の緑宝りょくほうさんそっくりだが違うのか」

 悪い冗談は止めて下さいまし。

「それじゃ、部屋に連れて行っておくれ」

 五十男は青瓏を促して立ち上がる。やっと行ってくれるらしい。

 だが、二人が数歩歩き出したところで私は急に肩を叩かれた。

「翠玉さん。こいつに持たせた分で足りなきゃね、」

 五十男は、こちらに背を見せて座っている若い男を顎で指した。

「後で私のところに来て、正直に言ってくれればいいんですよ」

 瑪瑙の指輪を嵌めた左手を私の肩から背筋に這わせながら、五十男のぎょろついた目が見透かす様に光った。

「これじゃ、物足りないってね」

 右手の親指が若い男の背を指している。

 私は返事をしなかった。

 それぞれ勝手に固まっている私と若い男を残して、五十男と青瓏は遠ざかっていく。

「お嬢ちゃん、本当にちっちゃいあんよだねえ」

「仮母さんが纏足してくださいましたもの」

「可愛いお嬢さんが、わしみたいな爺さん相手で嫌じゃないかね」

おう老爺さまくらいの方が、お父様みたいで好きですわ」

 二人の声が消えると、辺りはシンとした。

 卓上のランタンが、チラチラと落ち着かない点き方をしている。

 そろそろ油が切れるらしい。

 若い男は相変わらず私に背を向けたままだ。

 背中に垂れた辮髪べんぱつは微動だにしない。

 黒々とした髪だけは豊かな男らしく、骨張った背に垂れた辮髪は常人の倍ほど太く、そして長かった。

 私は右の腕に琵琶を抱え直して、卓子テーブルに近づくと、左手でランタンを取った。

 男は座ったまま私を見上げた。青白い顔がランタンの揺れる灯に照らし出されている。

 細く横に長い、黒目の小さな、目尻の切れ上がった目。先尖って細く小さな鼻。同じ様に尖った顎。目に下賤な感じがないのだけが救いで、実に貧相な男だ。

 この顔色の悪さは、もしかして、肺病病みでは、と思った瞬間、男は赤みのない唇を開いた。

「どこへ……」

 言い掛けて男は目を伏せる。

「行くの?」

 卓子の上で引き寄せられた麻袋が乾いた音を立てた。

 この袋の金があれば、ここを出てただの宿屋に泊まるのも、別の店で新たに女を探すのも自由だ。

 急にそう思い当たると、私は何だかおかしくなって声を立てずに笑った。

 この男が今まで押し黙っていたのは、この金でどこへ行くか思い巡らしていたからかもしれない。

「私の部屋は、二階です」

 一緒に行きましょう、とは言わずに歩き出す。

 男は、黙ってついてきた。

*1西施せいし……春秋戦国時代の越の美女。中国四大美女の一人。拙作「二人の傾城」のヒロインでもあります。

*2昭君しょうくん……王昭君のこと。漢代の美女。皇帝の宮女だったが、匈奴に嫁がされた。こちらも中国四大美女の一人。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ