番外編:緑宝《りょくほう》の鏡
結局、損を引き受けるのはいつもあたしなのだ。
いっそ唇を引き裂きたい思いで、緑宝は思い切り紅を引く。
うち一番の売れっ子だったのに、紅珠も全く馬鹿なことをしてくれた。
八つの年にあの子を引き取ったから、彼これ十一年も世話した勘定になる。
紅が濃くなりすぎた、と緑宝は指で拭う。
鏡の向こうには、乾いた肌を白粉で塗り潰し、烏の足跡ごと目尻を吊り上げた中年の女がまるで敵の様にこちらを睨んでいた。
あの子の為に纏足もしてやったし、服や髪飾りも買い揃えてやった。
それが一晩でお陀仏になってしまった。われとわが首をくくってしまったのだ。
お役人とはいえ貧乏官吏の息子一人の為にだ。
本人は男に勝手に入れ揚げた果てに死んだのだからさぞかし気楽だっただろうが、あたしはあの子に貸した分を永久に取り返せないまま、首吊り死体のお清めまでし、葬式の世話までしなくてはならないのだ。
全く、妓楼の女将になどなるものではない。手塩にかけて育てた娘たちからはことごとく五月蝿がられ、酷い場合は憎まれ、裏切られた挙句、不始末の尻拭いをさせられるのだから。
緑宝は指で乱暴に拭ったため唇の線から微妙にはみ出した紅を袖口で軽く押さえた。
いや、あたしだって、やりたくてこんな稼業をしてるわけじゃないんだ。
抱え芸妓だった頃は、特別お金持ちでなくてもいいから、せめて人並みな男の後妻か、お妾の一人にでもなって、静かに地道な堅気暮らしをしたいと思ってた。その位にはなれるだろう、とも。
でも、半玉の時分には姐さんたちに抑えられ、芸妓になってからは朋輩たちに出し抜かれ、そして年増と呼ばれる頃には妹分たちに先を越されて、あたしはとうとう売れ残ってしまった。
そして、四十近くなった今でも、上海は西棋盤街の廓に寝起きしている。昔なら、婆さんと思っていた年齢だ。
抱え芸妓だった頃、と緑宝は目尻に白粉を新たに塗り込みながら思い出す。
抱え主の女将が若い情夫の来る前に必死で白粉を叩く姿を見て、仮母さんはあんな年でまだ女でいたいのか、と呆れるより薄気味悪くなったものだった。
情夫と言っても、仮母さんより一回り若いというだけで、さして男振りも良くない、飲んだくれのつまらない男だった。
そんな男の言葉に一喜一憂し、ちょいと口喧嘩した後などは仮母さんはよくあたしに当たり散らした。
「緑宝、何をぼやぼやしてるの!」
「お座敷なんだから、さっさと支度しな、このグズ!」
「このアホは、何度言ったら解るんだい!」
ぶら下がるヒモ情夫こそいないが、今のあたしはあの時の女将と同じくらいの年配だ。
そこまで考えたところで、緑宝は急に廊下をのそのそ行く足音を聞いた。
緑宝は白粉の手を止めた。
「翠玉、どこに行くんだい!」
「あたしの喪服、肩のところに染みが付いてるから洗おうと思って……」
廊下からの答えを最後まで聞かずに、緑宝は怒鳴った。
「今から洗ってどうすんだい! 濡れ雑巾着て葬式に出る気か、このどアホ!」